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古書店には返却期限がない

観測余録 返却欄に書かれないもの


 貸出台帳には、本を借りた日と、返した日が記されます。


 けれど、その本が店を離れていたあいだに、誰がどの頁を好きになったのか、何度同じ物語を読み返したのか、眠れない夜に誰のために声を出して読んだのか。そうしたことまで書き留める欄はありません。


 本は、貸し出されたときと同じ姿で戻ってくるとは限りません。


 角が擦れ、背が縫い直され、余白には文字が増え、ときには小さな指の跡まで残ります。それらを傷と呼ぶこともできますし、長く読まれた時間と呼ぶこともできるのでしょう。


 その日、《アスト古書堂》へ一冊の本が戻ってきました。


 貸し出されたのは、三十四年前。


 貸出台帳へ新しく書き加えられたのは、たった一つの日付でした。


 けれど、本の中には、その空白よりずっと長い時間が残っていました。


 ――ナミ=エル

 午後から降り始めた雨が、《アスト古書堂》の窓硝子を細い指で絶えず叩いていた。


 通りを走る馬車の車輪も、高架線を通過する列車の響きも、厚い扉を一枚隔てるだけで遠くなる。店内には天井まで届く書棚が並び、革表紙の写本や古地図を収めた筒、封蝋の残る古い契約書が、長い年月を吸い込むように静かに収められていた。


 煤で薄く曇った窓辺には小さな真鍮灯が置かれ、その柔らかな灯りの下で、リュシアン=アストは古地図の綴じ糸を交換していた。


 ヴェルム=クロウへ鉄道が敷かれるより前の地図である。現在では工房街になっている場所に、今は使われていないエルフ語の地名が薄く残っていた。


 針を紙へ通したところで、入口の鈴が鳴った。


 扉は、人ひとりが通れるだけの幅まで、ゆっくりと開いた。


 十二歳ほどのエルフ族の少年が、その隙間から店内を覗いている。濡れた外套の肩から雨粒が落ち、淡い茶色の髪が額へ貼りついていた。胸元には、古びた一冊の本を両腕で抱えている。


「雨は人より、本の方へ長く残ります。中へどうぞ」


 リュシアンが声を掛けると、少年は腕の中を見下ろし、慌てて店内へ入った。


 扉を閉めても、すぐには作業台まで来なかった。棚に並ぶ古書と、壁に掛かった《アスト古書堂》の店名板を、確かめるように何度か見比べている。


「本を買いに来ましたか?」


 リュシアンは針を置いた。


「返しに来ました」


「当店の本を?」


「たぶん」


 少年は胸に抱えた本を、ほんの少しだけ持ち上げる。


「ここが、昔から《アスト古書堂》なら」


「看板を架け替えたことはありますが、店名は変えていません」


「店の人も?」


「私のことでしたら、三十四年前にもここにいました」


 少年は驚いたようにリュシアンを見た。


 次に、長い耳へ視線をやる。


 エルフ族の年齢について何か言いかけたようだったが、結局その言葉は飲み込んだ。


「見せていただけますか」


 リュシアンが手を差し出す。


 少年は、すぐには本を渡さなかった。


 抱えた本の上へ両腕を重ね、少し迷ってから尋ねる。


「延滞金が、たくさん掛かりますか?」


「まず、本を確認しなければ分かりません」


「これだけしかありません」


 少年は外套の内側から小さな布袋を取り出し、作業台へ置いた。


 硬貨が、控えめな音を立てる。


「足りなかったら、残りは働いて返します。運ぶ仕事ならできます。本は重くても持てます」


「先に、本を見せてください」


 リュシアンは同じ言葉を、先ほどより少しだけゆっくり繰り返した。


 少年はしばらく迷っていたが、やがて本を差し出した。


 深緑色の布装丁だった。


 背表紙は長いあいだ日に晒され、ほとんど灰色になっている。角は別の布で補修されており、縫い直された糸も左右で色が違う。


 表紙には、かつて金箔で押された題名が、わずかに残っていた。


 《森を渡る七つの灯》


 古い神話を子ども向けにまとめた物語集だった。


「懐かしい本です」


 リュシアンが呟く。


「知っているんですか?」


「この店から貸し出した本ですから」


 見返しを開く。


 紙の端に、楕円形の印が残っていた。


 《アスト古書堂貸出用》


 今使っている店印より文字が細く、中央には小さな葉の意匠がある。


 その下に記された日付は、三十四年前。


 印も、日付も、本物だった。


「母の本です」


 少年が言った。


「正確には、母が借りた本です。遺品を片づけていたら、衣装箱の底から出てきました」


 リュシアンは本から顔を上げた。


「お母さまは?」


「先月、亡くなりました。病気で」


 少年は一度息を詰まらせ、そのまま言葉を急いだ。


「でも、盗んだんじゃないと思います。返すのを忘れただけで。それに、ずっと持っていたのも、途中から借りた本だと分からなくなっていたからかもしれなくて――」


「お名前を教えていただけますか?」


 少年はそこで言葉を止めた。


「エリオ=セインです」


「お母さまは?」


「セリア=セイン」


 リュシアンは静かに本を閉じた。


「少しお待ちください」


     ◇


 店の奥には、現在の商品台帳とは別に、古い記録ばかりを収めた棚があった。


 もう使われていない仕入れ帳。


 破損本の修復記録。


 家系譜を預かったときの古い札。


 そして、かつて入口近くに設けていた子ども向け貸出棚の台帳。


 リュシアンは革表紙の一冊を取り出し、作業台へ戻った。


 三十四年前の頁を開く。


 貸出記録は月ごとにまとめられ、子どもたちの名前と書名が、細かな文字で並んでいた。


 指先で一行ずつ追う。


 やがて止まる。


 セリア=セイン。


 《森を渡る七つの灯》。


 貸出日は、見返しの日付と一致している。


 その横にある返却欄だけが空白だった。


「ありました」


 リュシアンが言うと、エリオの肩が少し強張った。


「やっぱり……返していなかったんですね」


「そのようです」


「延滞金は?」


「ありません」


 エリオは、すぐには意味を理解できなかったらしい。


「三十四年分ですよ」


「三十四年分でもありません」


 リュシアンは台帳を少年の方へ向けた。


「ご覧ください。返却期限も、延滞金も、この台帳には欄そのものがありません」


「古書店には、返却期限がないんですか?」


「この店にあった貸出棚には、ありませんでした」


「どうして?」


 リュシアンは少し考えた。


「本を読むのに必要な時間は、本を貸す側より、借りた人の方がよく知っていると思っていたからです」


 エリオは台帳とリュシアンを見比べた。


「でも、三十四年は……」


「少し長いですね」


 リュシアンが答えると、少年の口元がほんの少し緩んだ。


 それも長くは続かなかった。


 すぐに本の傷んだ角へ目を落とす。


「母が、本に書き込みをしています。それも弁償しないと」


「まず、何が書かれているのか確認しましょう」


 リュシアンは手を洗い、乾いた布で指先の水分を丁寧に拭った。


 作業台の中央へ本を置く。


 すぐに頁を開くことはせず、まず表紙から状態を見た。


 補修布は少なくとも二種類使われている。背の上部には古い糊。下部には家庭で縫い直した跡。紙には、長く暮らしの中に置かれていた本に特有の、薬草と石鹸が混ざった匂いが染みついている。


 大きな水濡れもない。


 地下室へ放置されたような湿気もない。


 補修は不格好でも、本を長く残そうとして行われたものだった。


「丁寧に扱われています」


 リュシアンが言った。


「こんなに傷んでいるのに?」


「長く使われたことと、粗末に扱われたことは同じではありません」


 最初の物語を開く。


 月を追いかけ、森から帰れなくなった白い鹿の話だった。


 挿絵の余白に、薄い鉛筆の文字が残っている。


 《この鳥は、ほんとうは名前をおぼえていると思う》


 大きな文字で、語尾だけが少し右へ跳ねていた。


「母の字ですか?」


 エリオが覗き込む。


「おそらく、子どものころの筆跡でしょう」


「そんなことも分かるんですか?」


「貸出日と、鉛筆の退色に大きな差がありません。消し跡の上へ付いた汚れも、周囲とほぼ同じです」


 リュシアンは頁を光へ傾けた。


「貸し出されたころに書かれたものと考えてよいでしょう」


 挿絵の小鳥には、小さな冠まで描き足されていた。


 エリオは困った顔になった。


「消した方がいいですか?」


「いけません」


 リュシアンの声が、わずかに強くなった。


 少年の肩が揺れる。


「失礼。あなたを叱ったわけではありません」


 リュシアンは声を柔らかく戻した。


「古い本へ、いま新しい落書きを加えることと、三十四年間そこにあった書き込みを消すことは、同じではありません。消せば紙も傷めます。それに――」


 文字へ触れないよう、少し離れたところを指す。


「これは、お母さまにも子どもだった時間があったことを伝える記録です」


「でも、店の本に書いたものです」


「そうですね。三十四年前の私なら、きっと注意したでしょう」


「今は?」


「もう三十四年、そこに残っています」


 頁を進める。


 今度は、薄い青色のインクで、物語とは何の関係もない言葉が書かれていた。


 《石鹸》


 《糸、灰色二巻》


 さらに何頁か先には、


 《エリオの靴紐》


 という文字がある。


 エリオの指が、その名前の手前で止まった。


「僕です」


「ええ」


「僕が生まれたあとも、この本を持っていたんですね」


「持っていただけではなさそうです」


 リュシアンは頁の下端を示した。


 同じ場所だけ紙が柔らかく丸まり、何度も指を掛けてめくった跡がある。


 本は、衣装箱の底へしまわれたまま三十四年を過ごしたのではなかった。


 その途中でも、何度も開かれていた。


     ◇


 入口の鈴が鳴り、湿った外気とともにレオン=クラウスが入ってきた。


 外套の肩を雨で濡らし、細長い書類筒を抱えている。


「旧墓苑移管規程の改訂前版を探している」


「昨日お持ちになったのは、埋葬許可規則でしたね」


「必要なのは移管規程だ」


「左から三番目。灰色の革表紙です」


 レオンは棚へ向かいかけ、作業台に開かれた本へ一度だけ視線を落とした。


 薄い鉛筆の書き込み。


 青いインク。


「二人分の筆跡か」


「一人分です」


「年代が違う」


「人が長く生きれば、筆跡も一つの形ではいられません」


 レオンはそこでエリオを見る。


 少年は、先ほどまでよりさらに緊張した顔をしていた。


 だがレオンは、本の持ち主について何も尋ねなかった。


 指定された棚から目的の本を抜き、書名を確認する。


「余白の書き込みは、貸出台帳には残らない」


「だから、本が残したのでしょう」


 リュシアンが答える。


 レオンは代金を置き、短く会釈して店を出た。


 入口の鈴が鳴りやむと、古書堂にはまた雨音だけが残った。


     ◇


 リュシアンは、さらに頁を進めた。


 冬の森で、七つの灯を頼りに家へ帰る旅人の話。


 頁の上には、さらに新しい時代のインクで、


 《朝鐘のあと》


 《就寝前》


 と書かれていた。


「薬の時間です」


 エリオが言った。


 今までより少し小さな声だった。


「母は薬を忘れることが多かったので、いろんな紙に時間を書いてました」


 その近くには、もう二つ、短い文章が残っている。


 《ここでエリオが笑う》


 《狼の頁は飛ばす》


 少年は長いあいだ、その二行を見ていた。


 やがて、自分で狼の挿絵がある頁までめくる。


「小さいころ、怖かったんです」


「狼が?」


「牙が大きかったから。母はここだけ、二頁まとめてめくってました」


 エリオは懐かしそうに少し笑った。


「でも、飛ばされたって分かると、僕が戻して読ませたんです」


 本の角には、小さな指の跡があった。


 インクでも、鉛筆でもない。


 幼い子どもが甘い菓子でも触ったあとに頁をめくったのだろう。紙が小さく丸く変色している。


 その横には、意味の分からない短い線も残っていた。


「それ、たぶん僕です」


 エリオが言う。


「書いた覚えはありませんけど」


「幼いころの書き込みは、ときどき書いた本人より長く、そのころのことを覚えています」


 リュシアンは、本を閉じなかった。


 開かれた二頁の上に、同じ一人のいくつもの時間が並んでいる。


 物語の登場人物へ言葉を書き足した少女。


 買い物を忘れないよう余白へ品名を書いた女性。


 薬を飲みながら、幼い息子へ同じ物語を読んでいた母親。


 筆跡は同じ形ではなかった。


 けれど文字の終わりを少し右へ跳ね上げる癖だけは、長い年月を越えて残っていた。


 エリオも、それに気づいたらしい。


「本当に、同じ字ですね」


「ええ」


 リュシアンは静かに頷いた。


     ◇


 雨脚が少し弱くなったころ、《森を渡る七つの灯》の確認が終わった。


 頁の欠落はない。


 虫食いも軽微。


 背表紙の糸は弱っているが、すぐに崩れる状態ではない。家庭で施された補修には不格好な部分もあるものの、強すぎる糊や、紙を傷める薬品は使われていなかった。


 リュシアンは、古い貸出台帳を再び開いた。


 セリア=セイン。


 《森を渡る七つの灯》。


 三十四年前の貸出日。


 その横に、長いあいだ何も書かれなかった返却欄がある。


 ペン先へインクを含ませた。


 そして、今日の日付をゆっくり書き入れる。


「返却は済みました」


 その言葉を聞くと、エリオは長く息を吐いた。


「お金は?」


「必要ありません」


「でも、書き込みもあるし、角も直してあって――」


「それは、返却の処理とは別のことです」


 リュシアンは貸出台帳とは違う、小さな蔵書札を取り出した。


 《森を渡る七つの灯》


 分類番号。


 貸出用蔵書。


 その末尾へ、


 《除籍》


 と記した。


「何を書いたんですか?」


「この本を、店の蔵書から外しました」


「どうして?」


「返却を受けたからです」


 インクが乾くのを待ち、蔵書札を台帳の横へ置く。


「ですから、ここからは店主として、あなたへ渡せます」


 リュシアンは本を薄い布で包み、紐を掛けた。


 そして少年へ差し出す。


 ところがエリオは受け取らなかった。


 本と、リュシアンの顔を何度も見比べている。


「でも……返したんですよね」


「ええ」


「なら、どうして僕に返すんですか?」


「同じ本が、店の棚へ戻る必要はありません」


「同じ本です」


「物としては」


 リュシアンは包みへ目を落とした。


「三十四年前、この店が貸し出したのは、児童向けの神話集でした」


 そっと、少年の方へ押す。


「今日戻ってきた本には、あなたのお母さまが子どもだったこと、大人になったこと、母親になったこと、そしてあなたへ物語を読んでいたことが残っています」


 エリオは何も言わなかった。


「ですから、借りたときと、同じ本ではありません」


「でも、この印は、この店のものです」


「印は、貸し出した本がどこに属していたのかを示します」


 リュシアンは静かに答えた。


「余白へ残された時間が誰のものかまでは、決めません」


「じゃあ、これは誰の本なんですか?」


「それを決めるのは、貸出台帳ではないでしょう」


「僕が決めてもいいんですか?」


「決める前に、まず守ってください」


 そう言って、今度こそ本を少年の手へ持たせた。


「湿気の少ない場所へ置くこと。濡れた布で表紙を拭かない。虫を見つけても、薬を直接本へ振りかけない」


 エリオは本を抱え直した。


 来たときと同じように胸元へ抱いている。


「背表紙が外れたら?」


「自分で糊を塗らず、ここへ持ってきてください」


「そのときは、修理代を払います」


「そのとき決めましょう」


「働いてもいいです」


 リュシアンは天井近くまで伸びる書棚を見上げた。


「本棚の上段へ届くようになってからにしてください」


 エリオも、同じ棚を見上げた。


 自分の背丈と見比べる。


「それまで、壊れないようにします」


「その方が助かります」


 少年は、小銭の入った布袋を外套の内側へ戻した。


 そして扉まで行ったところで、足を止める。


「母は」


 振り返った。


「返すつもりだったと思いますか?」


 リュシアンは、すぐには答えなかった。


 古い貸出印。


 何度も縫い直された角。


 買い物の覚え書き。


 読み聞かせの印。


 三十四年間、捨てられず、何度も開かれてきた物語。


 そこから読み取れることと、読み取れないことを分ける。


「返すことを忘れていたかもしれません」


 リュシアンは言った。


「借りた本だったこと自体を、いつか忘れていたのかもしれない」


 エリオの表情が少し曇った。


「ですが、この本を粗末にしていた人の扱いではありません」


 その言葉に、少年が顔を上げる。


「お母さまは、この本を返さなかったのではなく、長く読んでいた。私に分かるのは、そこまでです」


 少しのあいだ、エリオは本を抱いたまま立っていた。


 やがて頷く。


 今度は来たときと同じように、扉を大きく開かなかった。


 自分が通れるだけの隙間を作り、雨の弱くなった通りへ出ていく。


 入口の鈴が、小さく鳴った。


 深緑色の本は、少年の腕の中で雨から守られていた。


     ◇


 リュシアンは作業台へ戻った。


 古い貸出台帳が、まだ開かれている。


 三十四年前の貸出日。


 そして、今日の返却日。


 そのあいだには、何も書かれていない。


 蔵書札に残ったのも、《除籍》という一語だけだった。


 借受人が亡くなったことも、その息子へ本を渡したことも、余白に三つの時代の筆跡があったことも、そこには記されない。


 それでよかった。


 貸出台帳の役目は、本が貸し出され、そして返されたことを記録するところまでだからだ。


 店を離れていた時間に、本が何を見て、誰の手に触れられ、どの声で読まれたのか。


 そのすべてを帳簿へ写し取る必要はない。


 本の方に、すでに残っている。


 リュシアンは台帳を閉じ、元の棚へ戻した。


 蔵書札も、所定の記録箱へ納める。


 窓の外では、雨がほとんどやんでいた。


 遠く、高架線を走る列車の音が一度だけ響く。


 リュシアンは再び古地図の前へ座った。


 現在の地図からはもう消えてしまった地名へ、切れていた糸を通していく。

観測余録 空白だった時間


 貸出台帳には、三十四年前の貸出日と、その日新しく記された返却日が並びました。


 蔵書札には、《除籍》という一語だけが残りました。


 その間の三十四年について、帳簿は何も語りません。


 一人の少女が大人になったことも、買い忘れないよう余白へ石鹸や糸の名を書いたことも、薬を飲む時間を物語の上へ残したことも知りません。


 幼い息子が狼の頁を怖がったことや、どこで笑うのかを母親が覚えていたことも、記録されませんでした。


 けれど、一冊の本は覚えていました。


 子どものころに描かれた小さな冠。


 大人になってからの買い物の文字。


 頁の隅に残った幼い指の跡。


 同じ人の筆跡が、少しずつ変わりながら三十四年を渡っていったことまで、静かに残していました。


 古書店へ返されたのは、たしかに一冊の本です。


 けれど、その本は昔の棚へは戻りませんでした。


 長い時間を抱えたまま、今度は少年の腕の中へ戻っていきました。


 ですから、あの日、本当に元の場所へ返されたものがあるとすれば。


 それは本そのものではなく、三十四年間ずっと空白だった、貸出台帳の小さな一欄だったのかもしれません。


 空白だった場所へ、今日の日付が一つ。


 それだけで、返却はきちんと終わりました。


 そのあいだにあった暮らしまで、帳簿へ返してしまう必要はなかったのでしょう。


 ――ナミ=エル

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