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第9節 ― 教授の埋葬論

 その夜。


 霧燈通り十三番地、黒鴉館二階。


 レオン=クラウス記録調査事務所の机には、二百十四名の死者が積まれていた。


 正確には。


 二百十四名の名前を記した、シラス=モーンの照合表の複製だった。


 原本は市警へ提出され。


 受領時刻と総頁数を確認されたうえで、封印されている。


 エマとレオンとミラベルが持っているのは、市警の受領印と、原本との照合証明が付された複製だけだった。


 その複製から、作業用の一覧を作るため。


 ミラベルは午後から一度も席を立っていない。


 右手にはペン。


 左手で、自分用の複製を押さえ。


 埋葬区画、許可証番号、札番号、移転記録の有無を、一行ずつ新しい紙へ写していく。


 窓の外では、高架鉄道の汽笛が霧を震わせた。


 煤鳩亭から運ばれてきた珈琲は、すでに冷めている。


「三回目です」


 ミラベルは顔を上げずに言った。


「何がだ」


「同じ頁をめくるのが」


 机の反対側で、レオンは一枚の文書を読んでいた。


「頁をめくった回数まで記録しているのか」


「あなたが私の複製作業を邪魔した回数です」


「邪魔していない」


「さっきから、その紙と名簿を行き来しています」


「照合している」


「何を?」


 レオンは答えなかった。


 ミラベルはペンを置いた。


「聞こえなかったふりですか」


「質問の形をしているだけで、返事を待っていないと思った」


「待っています」


「では、これを読め」


 レオンは文書を、彼女の方へ滑らせた。


 墓苑から押収された原本をもとに、市警が作成した証拠写しだった。


 各頁には原本との照合印があり。


 表紙には、証拠番号と総頁数が記されている。


 原本そのものは、市警の証拠保管所から動いていない。


 灰色の厚紙を表紙にした、墓苑内部の覚書。


 《灰環大墓苑・無縁墓所処理覚書 第三版》


 作成者の欄には。


 埋葬記録主任、マレク=ドーン。


 十六年前の日付が記されている。


 墓地不足が深刻化し、市が無縁墓所の整理を認めた時期と一致していた。


「マレクさんが作った文書」


「ああ」


 覚書には、無縁化の条件。


 親族への通知。


 新聞公告。


 墓碑の移転表示。


 遺骨と札の移送。


 区画再利用の手順が並んでいる。


 だが。


 レオンが何度も見ていたのは、手順ではなかった。


 区画再利用の法的根拠として、枠で囲まれた二行。


 法が保全するのは、死体そのものではない。


 死者の名と、埋葬された場所との関係である。


「今日、マレクさんが話していたことと同じです」


 ミラベルが言った。


 花を置くことは記録ではない。


 台帳へ名を記すことだけが、関係を証明する。


 死者の身体ではなく。


 名と区画の関係を、制度が守る。


「引用元は?」


「覚書には書かれていない」


「出典なし?」


「ああ」


 レオンは、ミラベルの前にある監査資料の複製から一枚を抜いた。


 無縁化された墓の数。


 再利用された区画。


 地下へ移された遺骨の数。


 墓苑が得た収入。


 その欄外に。


 マレクの覚書と同じ二行が、角張った字で転記されていた。


 《無縁墓所処理覚書・第三版より》


 さらに、その下。


 《出典記載なし。原文確認要》


 小さな疑問符。


「シラスさんは、覚書から写した」


「そして、引用元を探していた」


「マレクさんの制度論が、どこから来たのか確かめるために?」


「それだけじゃない」


 レオンは覚書の引用部分を指した。


「シラスは、この文章が本当に区画再利用を認めているのか疑った」


「だから、原文を読もうとした」


「そうだ」


 ミラベルは、覚書の証拠写しと監査資料の複製を並べた。


 文章は同じだった。


 改変されていない。


 引用そのものは正しい。


 だが。


 出典も。


 前後の文脈もない。


「引用元に心当たりがあるんですか」


「法記録学の文章だ」


「それは読めば分かります。誰の?」


「確かめに行く」


 レオンは立ち上がり、外套を取った。


「どこへ」


「本がある場所だ」


「この街には、本がある場所がいくつあると思っているんですか」


「探している本がある場所は一つだ」


 ミラベルは机の上の複製と、レオンの外套を交互に見た。


「私は?」


「残ってもいい」


 ミラベルはペンを置き、立ち上がった。


「その言い方で、残ると思っています?」


「複製が終わらない」


「あなたが三回も邪魔をしたからです」


「数えていたのは、お前だ」


     ◇


 アスト古書堂は、旧市街の奥にある。


 霧燈通りから契約官庁街を外れ。


 表通りのガス灯が届かなくなる細い路地を、何度も曲がった先。


 煤で黒ずんだ看板に、かろうじて店名が残っている。


 扉の脇には古いランプが吊るされていた。


 火は灯っている。


 だが。


 営業中とも、閉店とも記されていない。


「こんな時間でも開いているんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「店主がいる時間が営業時間だ」


「客に不親切ですね」


「探せない客へ売る本はないらしい」


 レオンが扉を押した。


 上部の小さな鐘が鳴る。


 古書堂へ足を踏み入れた瞬間、都市の音が遠ざかった。


 鉄道の振動も。


 蒸気乗合車の警笛も。


 路地の向こうを歩く靴音も。


 厚い本棚と、紙と、革表紙の匂いに吸い込まれる。


 店内は狭い。


 だが、奥行きだけが妙に深かった。


 天井まで届く本棚。


 古地図を収めた筒。


 封蝋の残る契約書。


 文字の消えた革表紙。


 何語かも分からない題名を刻んだ写本。


 店の奥。


 緑色の笠を付けた卓上灯の下で、リュシアン=アストが本を修復していた。


 灰金色の髪を後ろで緩く束ね。


 銀縁眼鏡を掛け。


 細い刷毛で、破れた頁の端へ糊を置いている。


「閉店です」


 本から顔を上げずに言った。


「入口に書いていない」


「読めないものも、世の中にはあります」


「なら、読む必要はない」


「相変わらず、客として最悪ですね」


 リュシアンは刷毛を置いた。


 深緑色の目が、眼鏡越しにレオンを見る。


 次に、ミラベル。


「ワトリアさんまで連れてくるとは。今日は記事の相談でしょうか」


「記事は、まだ書きません」


「まだ、ですか」


「その言い方、みんな同じですね」


「書く人間を前にすれば、紙を持つ者は慎重になります」


 リュシアンは修復中の本へ薄紙を挟み、静かに閉じた。


「それで。今日は何を探しているのです」


 レオンが、覚書の証拠写しから転記した引用文を卓上へ置く。


「この文章だ」


 リュシアンは紙を手に取らなかった。


 眼鏡の位置を直し。


 二行を読んだ。


 穏やかだった目元から、わずかに温度が消える。


「どこで?」


「灰環大墓苑の無縁墓所処理覚書」


「誰が作成した文書です」


「記録主任、マレク=ドーン」


「監査官は?」


「覚書から監査資料へ転記していた。引用元を確認するつもりだったらしい」


 リュシアンの視線が、文章の下に記された覚書名へ移る。


「なるほど」


「誰の文章だ」


「お待ちください」


 リュシアンは卓上灯の火芯を少し落とした。


 それから立ち上がり、腰の鍵束を取る。


「探している本は、たいてい探されることを嫌います」


「いつもの話はいい」


「だから、あなたは本に嫌われるのです」


「読めれば問題ない」


「乱暴な愛情ですね」


 リュシアンは店の奥へ歩いていく。


 レオンとミラベルも続いた。


 通路は一人分の幅しかない。


 両側から本棚が迫り、長い衣服の裾が背表紙へ触れそうになる。


 リュシアンは三つ目の角を曲がり、鉄格子の付いた棚の前で止まった。


 鍵を差し込む。


 棚の中には、一般の古書より薄い冊子が並んでいる。


 大学紀要。


 法記録学会報。


 廃止された制度の審議録。


 古い講義録。


「法は、施行されている間だけ読まれるものではありません」


 リュシアンは背表紙を指で辿った。


「廃止されたあと、誰がどの文章を利用するか分からない。だから捨てにくい」


「捨てない理由を増やしているだけでは?」


 ミラベルが言った。


「本を売る者には必要な才能です」


 指が、一冊の薄い黒革表紙で止まる。


 リュシアンは、それを抜いた。


 背には銀色の文字。


 《埋葬記録における人格と区画の分離》


 著者。


 ノクス=モリアン。


 ミラベルの表情が固まった。


「教授……」


「元教授だ」


 レオンが言う。


「肩書きがなくなっても、書いたものは消えません」


 リュシアンは冊子の埃を、布で静かに払った。


「ヴァルテリア記録大学にいたころの論文です。彼が犯罪設計者として名を知られるより、ずっと前に発表されています」


「危険な論文なんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「文章は人を刺しません」


 リュシアンは閲覧台へ冊子を運ぶ。


「読む者が、刺すための形へ折ることはありますが」


 革表紙を開く。


 紙は黄ばんでいる。


 活字は細く。


 余白は広い。


 大学紀要として印刷された初版本だった。


 レオンが頁番号を追う。


 目次。


 埋葬制度の成立。


 墓所権と遺体所有権。


 遺族による祭祀継続。


 区画再利用の法的限界。


「ここです」


 リュシアンが頁を止めた。


 中央に。


 マレクの覚書と同じ文章があった。


 法が保全するのは、死体そのものではない。


 死者の名と、埋葬された場所との関係である。


「同じです」


 ミラベルが言った。


「句読点まで」


「引用元は、この論文で間違いない」


 レオンは紙面へ顔を寄せた。


 印刷年代。


 活字。


 綴じ。


 頁の差し替え跡。


 どれも自然だった。


「覚書には、論文名も著者名もありませんでした」


 ミラベルが言う。


「前半だけが、区画再利用の根拠として置かれていた」


「マレク=ドーンが原論文を直接読んだかどうかは、それだけでは分かりません」


 リュシアンが答えた。


「別の法務資料から引用した可能性もあります。講義録や要約を読んだ可能性も」


「だが、マレクが作成した覚書に、この文章が使われていた」


 レオンが言う。


「シラスは、その出典と意味を疑った」


「だから原文を追っていた」


 ミラベルは、開かれた頁を見た。


「論文の意味も、マレクさんの使い方と同じなんですか」


「いいえ」


 リュシアンは頁の下へ指を置いた。


「文章は、ここで終わっていません」


 引用された二行のすぐあと。


 段落は続いている。


 したがって、名と場所の関係を切断した者は、


 死体を盗んだのではない。


 死者が存在した場所を盗んだのである。


 ミラベルは、声に出さずに二度読んだ。


 最初の二行と。


 続く三行。


 同じ頁にある。


 改頁も。


 章の区切りもない。


 一つの論理として続いていた。


「逆です」


 彼女が言った。


「何がだ」


「マレクさんの覚書での使い方と」


 ミラベルは、最初の二行へ指を置いた。


「前半だけなら、法が守るのは名と場所の関係だから、遺骨そのものを動かしても埋葬は続いているように読めます」


 指を下へ移す。


「でも教授は、その関係を切った者が、死者の場所を盗んだと言っている」


「遺骨の移転を正当化する文章ではない」


 レオンが言った。


「遺骨と墓碑を切り離す行為が、死者から何を奪うかを書いている」


「では、マレクさんは意味を取り違えた?」


「誤読したのか。結論を知ったうえで、都合のよい前半だけを残したのか。それはまだ分からない」


「結果として」


 リュシアンが、頁を押さえた。


「本物の文章が、原文とは逆の目的へ使われた」


「偽造ではないんですね」


「ええ」


 リュシアンは最初の二行を読む。


「法が保全するのは、死体そのものではない。死者の名と、埋葬された場所との関係である」


 静かな声だった。


「これは、確かに教授が書いた文章です。書き換えられていない。偽物でもない」


「でも、続きがなければ」


「真実の一部だけが、別の結論を作ります」


 ミラベルは、墓苑の管理棟で聞いたマレクの言葉を思い出した。


 花を置くことは記録ではありません。


 台帳へ名を記すことだけが、関係を証明するのです。


 正しい記録。


 正しい引用。


 正しい制度。


 それらを並べ。


 死者の身体だけを、名前から切り離す。


「シラスさんは、続きまで見つけていたんでしょうか」


「監査資料には記されていない」


 レオンは、覚書の証拠写しと初版本を並べた。


「出典を調べている途中で殺された可能性がある」


「予定票では、報告前夜にマレクさんと会うはずだった」


「ああ」


「この引用についても確認するつもりだった?」


「監査資料を見れば、質問した可能性は高い。だが、実際に何を話したかは分からない」


 レオンは、それ以上の可能性を並べなかった。


 確認できた事実は、四つだった。


 マレクが作成した覚書に、論文の前半だけが使われている。


 シラスは、その文章を監査資料へ転記していた。


 原論文は、遺骨と墓所の切断を正当化していない。


 ノクス=モリアンが、覚書の作成や墓苑の不正へ関与した証拠はない。


「では、教授は今回の事件と無関係なんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「直接命じた証拠はない」


 レオンが答える。


「マレクと会った記録も、この引用の使い方を知っていた証拠もない」


「無関係だという証拠もない、と言うつもりですね」


「証拠がない場所へ、関係があるとも、ないとも書くな」


 リュシアンが、かすかに苦笑した。


「教授を疑うときだけ、慎重さが増しますね」


「相手がノクスだからだ」


「偏見と呼ぶ人もいます」


「呼びたい者に呼ばせろ」


「本人なら喜ぶでしょう」


「喜ばせるために追っているんじゃない」


 レオンは頁をめくろうとした。


 そのとき。


 余白に細い文字があることに気づいた。


「待て」


 リュシアンの手を止める。


 印刷された本文ではない。


 頁の外側。


 製本時から広く取られた余白へ。


 黒いインクで、二行が書き加えられている。


 年月によって色は褪せていた。


 だが。


 線は細く。


 整っている。


 一文字ごとの間隔まで、異様なほど美しい。


 レオンは鑑定レンズを出した。


「この書き込みは、購入後のものか」


「ええ」


 リュシアンの声から、わずかに柔らかさが消えた。


「印刷と同時ではありません」


「誰の筆跡だ」


 リュシアンは答えなかった。


 銀縁眼鏡を外し。


 布で硝子を拭く。


 その動作は丁寧だったが、時間を稼いでいるようにも見えた。


「リュシアン」


「分かっています」


 眼鏡を掛け直す。


「ノクス=モリアン本人の筆跡です」


 ミラベルが、余白へ目を近づけた。


 墓を訪れる者が残っているなら、


 誰が、その死者を無縁と決めるのか。


 声に出さなくても。


 その問いは、今日見た公告記録へ向けられているようだった。


 白紙街の住民。


 読み書きのできない家族。


 毎年花を届けた工房仲間。


 墓碑を磨いた老夫婦。


 台帳へ名を残せなかった者たち。


「いつ書かれたものですか」


「正確には分かりません」


 リュシアンが答える。


「論文の発表後。筆跡とインクから言えるのは、そこまでです」


「この本は、どこで手に入れた」


 レオンが尋ねた。


「古書の入手経路には、売り手との約束があります」


「事件との接点が出れば話せ」


「その条件なら」


 リュシアンは短く答えた。


 それ以上。


 レオンも追わなかった。


 誰から本を買ったかだけで。


 現在の殺人事件とノクスを結ぶことはできない。


「教授は、無縁化制度がこう使われると予測していたんでしょうか」


 ミラベルが尋ねる。


「分かりません」


 リュシアンは余白を見た。


「特定の墓苑を念頭に置いた問いかもしれない。制度一般への疑問かもしれない。講義用の覚え書きかもしれません」


「マレクさんの利用法を知っていた可能性は」


「いまの資料からは判断できません」


 ミラベルはうなずいた。


 可能性を重ねても。


 証拠のない空白は埋まらない。


 だが。


 マレクの覚書へ前半だけが引用されていたこと。


 ノクス本人が、その同じ頁へ無縁化を問う言葉を残していたこと。


 その二つは消えなかった。


「教授は、人間が制度をどう悪用するかをよく知っていました」


 リュシアンが言った。


「自分が教えていたからか」


 レオンが返す。


「教えなくても、人は都合のよい文章を見つけます」


「見つけやすい形で置いたのは、教授だ」


「論文は、切り取られることを前提には書かれていません」


「ノクスが、そんなに無防備に文章を書くと思うか」


 リュシアンの目に、暗い影が差した。


「思いません」


 短い返事だった。


 前半だけを読めば、遺骨の移転を正当化できる。


 続きまで読めば、死者の場所を奪う行為への警告になる。


 余白には、無縁と決める者への問い。


 一冊の中に。


 刃と。


 鞘と。


 その両方が置かれていた。


「教授は刃物を作った」


 リュシアンは言った。


「ですが、刃へ何を切らせるかは、使う者が決めます」


 ノクスを擁護する声ではなかった。


 同じエルフの学者だった者へ向けた、諦めにも似た言葉だった。


 ミラベルはレオンを見る。


 探偵は。


 マレクの覚書。


 印刷された論文。


 余白の筆跡。


 三つを順に見ていた。


「刃を置いた者も、使った者も見る」


 レオンは返した。


「マレクさんが使ったと、決めたんですか」


「覚書に文章を置いたのはマレクだ」


「犯罪のために使ったかは」


「これから証明する」


「教授も?」


「この文章が墓苑へ入った経路は調べる。だが、証拠が出るまでは、ノクスを今回の犯罪へ所属させない」


 リュシアンが、初版本を閉じようとした。


 レオンが表紙へ手を置く。


「借りる」


「明日の午前十時までです。受領書へ署名を」


「分かった」


 あまりに早く話が終わり。


 ミラベルは二人を交互に見た。


「今日は交渉しないんですね」


「相手が急いでいるときほど、条件は少なくした方が守られます」


 リュシアンが答えた。


「勉強になります」


「こいつから学ぶな」


 レオンは受領書へ署名し、初版本を外套の内側へ収めた。


 店を出る前。


 ミラベルは、もう一度だけ頁を開いた。


 墓を訪れる者が残っているなら、


 誰が、その死者を無縁と決めるのか。


 ノクス=モリアンの問い。


 それが。


 訪れる者を救うために書かれたのか。


 制度の矛盾を楽しむために書かれたのか。


 いつか誰かが悪用することまで見越して置かれたのか。


 文字だけでは分からない。


 ただ。


 灰環大墓苑には。


 その問いに答えることなく、無縁と記された死者がいた。


 そして。


 問いの前に置かれた文章だけを使い。


 死者から場所を奪う制度を支えた文書がある。


 古書堂の扉を開くと。


 ヴェルム=クロウの汽笛と歯車音が、一度に戻ってきた。


 霧は先ほどより濃くなっている。


 ミラベルは外套の襟を立て、レオンの持つ黒い冊子を見た。


「教授は、今回の事件に関わっていると思いますか」


「思うかどうかは証拠にならない」


「あなた自身の考えを聞いています」


 レオンは霧の向こうを見た。


「誰かが、自分の言葉を武器にする可能性を、ノクスが考えなかったとは思わない」


「では、知っていたと?」


「だから、確かめる」


 二人は路地を歩き始めた。


 背後で。


 アスト古書堂の扉が静かに閉じる。


 その奥では。


 論文の置かれていた棚に、細長い空白が残っていた。


 正しい本が。


 一時的に。


 本来の場所から持ち出された跡だった。

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