第8節 ― 無縁と記された者
灰環大墓苑の公告記録は、管理棟の二階に保管されていた。
階段を上がった先。
執務室と記録庫を隔てる廊下の奥に、普段は閉ざされた小部屋がある。
窓は細く、磨り硝子へ雨筋が残っていた。
壁際には背の高い書架が並び、灰色の紙束が年代ごとに麻紐で結ばれている。
表紙に記されているのは、埋葬された者の名前ではなかった。
公告年。
公告番号。
無縁化予定区画。
通知結果。
死者たちは、ここでは名前より先に、処理の順番で並べられていた。
「窓を開けるな」
グレアムが巡査へ言った。
「紙が飛ぶ」
「湿気が籠もります」
管理棟の書記が答えた。
「今日一日で腐りはせん。事件が終わるまでは、空気より証拠を優先しろ」
巡査が扉の前へ立つ。
グレアムは狭い部屋を見回し、鼻を鳴らした。
「死人を土から出したと思ったら、今度は紙から掘り出すのか」
「墓苑では、こちらの方が本体に近いらしい」
レオンは書架の金属札を読んでいた。
「言い方を選べ、クラウス」
「選んだ結果だ」
ミラベルは二人の横を抜け、中央の閲覧卓へシラス=モーンの照合表を置いた。
二百十四名。
そのすべてが、同じ異常を示しているわけではない。
墓碑と遺骨の不一致。
移転記録の欠落。
埋葬札の再打刻。
不自然な無縁化。
シラスが複数の記録を照合し、調査が必要だと判断した死者たちだった。
ミラベルは、名簿の中から無縁化を示す二本斜線のある頁だけを選び出した。
「三十七名」
数え終えて言う。
「この中で、無縁化の手続きに不自然な点があると記されているのは三十七名です」
「不正が確定した人数ではない」
レオンが訂正する。
「分かっています」
「返事が速くなったな」
「同じことを何度も言われていますから」
「覚えたなら意味はあった」
「言い方に問題はありますけどね」
ミラベルは、分類した記録の中から三枚を抜き出した。
「似た事例を全部読み上げても、同じ説明が続きます」
「代表例を選んだのか」
レオンが尋ねる。
「三種類に分けました。住所が記録されない人。書類を書けない人。そして、関係があっても親族とは認められない人」
グレアムが椅子を引いた。
「順番に見ろ」
最初の死者は、白紙街に住む男だった。
死亡記録あり。
第三環へ埋葬。
十二年後に無縁化。
登録された家族への通知は、住所不明として返送されている。
「住所は、白紙街です」
ミラベルが言った。
その言葉で、部屋の空気がわずかに変わった。
白紙街。
ヴェルム=クロウの下層にある、都市の記録からこぼれた者たちの街。
人は暮らしている。
家も。
店も。
路地もある。
だが、正式な区画番号を持たず、郵便制度が住所として認めない場所が多い。
「住所が分からなかったのではありませんね」
ミラベルは返送票を見た。
「住んでいる場所を、都市が住所として扱わなかった」
「通知を届ける側にとっては、同じことじゃないのか」
グレアムが言う。
「結果は同じでも、理由が違う」
答えたのはレオンだった。
「居場所が不明なのと、居場所を制度が読めないのは別だ」
「その違いで、手紙が届くようになるか」
「ならない。だが、誰の責任で届かなかったかは変わる」
エマ=グリスが、書架から該当年の公告綴りを運んできた。
シラスの補佐をしていた彼女は、事情聴取と資料照合のため、墓苑へ残されている。
「この時期は、無縁化の件数が増えています」
「なぜです?」
ミラベルが尋ねる。
「墓地不足が深刻だったからです」
その問いへ答えたのは、部屋へ入ってきたマレク=ドーンだった。
黒い礼服は、朝から変わらず整っている。
長時間の聴取と記録確認を受けているはずなのに、襟元にも袖にも乱れがなかった。
「十六年前、市から新規埋葬区画を確保するよう、繰り返し要請を受けました」
「それで、古い墓を空けた」
グレアムが言う。
「無条件にではありません」
マレクは穏やかに答えた。
「登録された関係者へ通知し、返答がなければ新聞と墓苑掲示板へ公告する。定められた期間内に異議が提出されなければ、無縁墓所として認定します」
「認定後は」
レオンが尋ねる。
「遺骨と埋葬札を地下納骨環へ移します。墓碑には移転表示を加え、区画台帳へ移転日と移転先を記録する」
「本来なら、だな」
グレアムが低く言った。
「ノア=フェルの墓には、六年前の鉛筆印しかなかった。正式な移転記録も、墓碑の表示もない」
「ノア=フェルの件が、正式な手続きを完了していないことは認めます」
「意図的な不正ではなく、記録漏れだと?」
「その可能性も、まだ排除できません」
「便利な言葉だな」
「事実を断定しないことは、クラウス氏も重視なさっています」
マレクの視線がレオンへ向く。
声に皮肉はなかった。
だからこそ。
同じ言葉を使いながら、二人がまったく違う場所へ立っていることが分かった。
「俺は、証拠が不足していると言っている」
レオンが答えた。
「あなたは、形式が残っている限り、死者の所在より手続きを先に見ている」
「手続きは、死者の所在を守るためにございます」
「守れなかったとき、どちらを間違いとして扱う」
マレクは一拍置いた。
「両方です」
レオンはそれ以上追わず、公告綴りへ視線を戻した。
二枚目の記録。
読み書きのできない老夫婦の息子。
両親は、埋葬後も墓苑へ何度も来ていた。
墓碑を布で拭き。
長時間、墓前へ座り。
花を供えている。
墓苑職員の日報にも、その姿は複数回記録されていた。
だが、墓所更新の申請書には署名がない。
代筆者の登録もない。
書面による更新意思が確認できないとして。
無縁化された。
「墓へ来ていたことは、職員も知っていたんですね」
ミラベルが尋ねる。
「日報には、そう記されています」
エマが答えた。
「この二人が両親だと、当時の職員は知らなかったんですか」
「名前までは残されていません。葬儀記録の年齢と居住区から、同一人物である可能性が高いと監査官は考えていました」
ミラベルはマレクを見る。
「それでも、訪問者なしとして処理された」
「墓参りと、墓所権の更新は別の手続きです」
「本人たちは、墓へ来ていた」
「更新申請は提出されておりません」
「文字を書けなかったんです」
「代筆制度があります」
「その制度を知っていた証拠は?」
マレクは答えず、公告綴りを一枚めくった。
「申請方法は、墓苑入口と市政窓口へ掲示されております」
「読めない人へ、紙で知らせたんですか」
「新聞公告も行っています」
「新聞も文字です」
「口頭の申し出だけで墓所権を認めれば、後に別の親族が現れた際、権利関係を証明できません」
「なら、職員が話を聞き、代わりに記録すればよかった」
「職員が、存在するか確認できない関係を台帳へ作ることはできません」
「関係を作るんじゃありません」
ミラベルの声が硬くなる。
「そこに来ていた人と、死者の関係を確かめて書くんです」
「誤っていた場合、誰が責任を負いますか」
「何もしなかった結果、墓を失わせた責任は誰が負うんですか」
グレアムは止めなかった。
レオンも。
怒りはある。
だが。
目の前の記録から外れた言葉ではなかった。
三枚目。
没落したエルフの男性。
埋葬申請者は、同じ工房で働いていたエルフ女性だった。
埋葬費用の一部を払い。
長年、同じ住居で暮らし。
工房の仲間たちと、毎年花を供えていた。
しかし、関係欄は「知人」。
正式な親族ではない。
住居契約も残っていない。
親族登録なし。
通知先なし。
新聞公告への異議なし。
無縁化。
「この女性は、埋葬費を払っています」
エマが受領記録を示した。
「支払者と親族は同じではありません」
マレクが答える。
「同居していた」
「正式な住居記録はございません」
「工房の人たちが、毎年花を置いている」
「供花は、墓所権を証明するものではありません」
「家族でなければ、忘れなかったことにも意味はないんですか」
「忘れているかどうかを判断する制度ではございません」
マレクの答えは、あまりにも整っていた。
三つの事例は違っていた。
住所を持てなかった者。
文字を書けなかった者。
家族同然に暮らしても、親族として記録されなかった者。
それでも。
同じ結果へ運ばれている。
通知不能。
更新なし。
異議なし。
無縁化。
「条件は、全員に同じです」
マレクが言った。
「身分や種族によって、書式も期限も変えておりません。誰に対しても同じ手続きを求めることで、恣意的な運用を避けています」
「同じ条件を課すことと」
ミラベルが彼を見た。
「全員が、同じようにその条件を満たせることは別です」
「満たせない者だけ、条件を免除すれば公平ではなくなります」
「文字を書ける人と、書けない人へ同じ書類を渡すことが公平なんですか」
「代筆を頼むことはできます」
「頼める人がいない者は?」
「市政窓口へ相談できます」
「その窓口へ行ける住所や身分証を持たない人は?」
マレクの口が止まる。
「制度は、全員へ同じ扉を置いたつもりだった」
レオンが言った。
「だが、その扉まで来られない者がいる。文字を読めず、住所を認められず、親族として記録されない者だ」
「それでも、基準は必要です」
マレクは答えた。
「市内には、埋葬を必要とする死者が増え続けています。土地には限りがあります。誰の墓所を維持し、誰の遺骨を地下へ移すか。感情だけでは決められません」
「感情だけで決めろとは言っていません」
ミラベルが返す。
「人が来ていることを、なぜ記録にしなかったのかと聞いています」
「訪問者が親族とは限りません」
「親族でなくても、その人を覚えている」
「墓所の継続権は、記憶だけでは成立しません」
マレクは閲覧卓の上へ手を置いた。
革手袋に包まれた指先が、公告記録の端へ揃う。
「花を置くことは記録ではありません。台帳へ名を記すことだけが、関係を証明するのです」
部屋の中が。
静かになった。
雨が磨り硝子を流れる。
紙の匂い。
防虫香。
古い革。
死者と生者の関係を、書式で切り分けてきた部屋の中で。
ミラベルは、マレクを見た。
「花を置くことは記録ではない」
一度。
彼の言葉を繰り返す。
「名前が分からなくても、毎年同じ墓へ花を持ってきた人がいる。文字を書けなくても、墓碑の苔を落とした人がいる。住所がなくても、死者を忘れなかった人がいる」
「その事実を否定しているわけではありません」
「でも、関係とは認めなかった」
「制度上の証明がありません」
「書けなかった人は、悲しんでいなかったことになるんですか」
マレクは答えなかった。
視線を逸らしたわけではない。
怒りも。
動揺も見せない。
ただ。
彼が説明してきた制度のどこにも。
その問いへ答える欄がなかった。
ミラベルは、沈黙を待った。
相手が言葉を探しているなら。
急かすべきではない。
けれど。
マレクの口は開かなかった。
「ミラベル」
レオンが呼んだ。
「何ですか」
「いまの問いは、制度の欠陥を示す。だが、殺人の証拠ではない」
冷たい言葉に聞こえた。
ミラベルは眉を寄せる。
「分かっています」
「なら、次を分けて考えろ」
レオンは、無縁化された墓の台帳を並べた。
「制度が、記録へ残りにくい人間を切り捨てやすかったこと」
一つ目。
「その制度を利用し、正式な手続きを完了しないまま、遺骨を移した者がいる可能性」
二つ目。
「そして、シラスを殺した者」
三つ目。
「同じ人物が関わっている可能性はある。だが、いまはまだ同じ事実ではない」
ミラベルは息を整えた。
怒りを消すためではない。
怒りと証拠を、混ぜないために。
「無縁化の制度が、遺骨を動かす機会を作った」
「そうだ」
「社会的に弱い人の墓ほど、その対象になりやすかった」
「記録からは、そう読める」
「ノアさんは毎月、姉が来ていた。それでも、六年前に地下移管の印が付けられた」
「正式な無縁化記録はない。だから、通常の手続きによるものとは決められない」
「でも、無縁として扱おうとした者がいた」
「その可能性は高い」
レオンは、鉛筆印のある頁を別に並べた。
先に管理棟で確認した三頁。
そして今回、無縁化記録の中から新たに見つかった同型の印。
いずれの頁にも。
記入者として。
または、主任確認者として。
マレク=ドーンの署名がある。
「また、マレクさんの名前があります」
エマが言った。
「同じ印がある頁は、現時点で確認した範囲では、すべてマレクの記入か主任確認を受けている」
レオンが答える。
グレアムの目が、マレクへ向く。
「偶然か」
「私は記録主任です」
マレクは静かに言った。
「多くの台帳頁を確認しております。私の署名があること自体は、異常ではございません」
「印を書いたのは?」
「分かりません」
「自分ではないと言わんのか」
「使用したことはございます。ですが、このすべてを私が書いたとは断定できません」
レオンは、頁を閉じなかった。
「署名の偏りは、調査すべき事実だ。だが、主任である以上、関与頁が多いことだけでは不正の証明にならない」
「殺人の証拠でもない」
ミラベルが言う。
「ああ」
「でも、ノア一人の記録だけに残った印ではない」
「それも確かだ」
グレアムがマレクへ向き直る。
「十六年前から現在までの無縁化手続きを担当した職員一覧を出せ。鉛筆印のある頁は、記入者と確認者をすべて拾え」
「退職した者もおります」
「所在を調べる」
「死亡している者も」
「死亡記録と墓を両方確かめた方がよさそうだな、この墓苑では」
グレアムの声には、露骨な怒りが混じっていた。
マレクは黙って一礼した。
エマが、新しい書類箱を探すため書架へ向かう。
ミラベルは、読み書きのできなかった老夫婦の記録を手元へ残した。
無縁化認定。
異議申し立てなし。
親族登録なし。
書面だけを読めば、その死者を訪れる者は誰もいない。
だが。
職員日報の隅には。
同じ墓碑の前で長く座る二人の姿が記されていた。
名前はない。
関係欄もない。
ただ。
雨天にも来訪。
墓碑を布で清掃。
とだけ残されている。
ミラベルは、その二行を記録帳へ写した。
「それも記事にするのか」
レオンが尋ねる。
「まだ記事にはしません」
「では、なぜ」
「台帳に名前を残せなかった人が、ここにいたからです」
「職員の観察が正しければな」
「そうやって、すぐに余白を付ける」
「事実だからだ」
「分かっています」
ミラベルはペンを止めなかった。
「だから、そのまま書きます。名前は不明。親族関係も未確認。ただし、雨の日にも墓を訪れ、墓碑を清掃した者がいた」
レオンは答えなかった。
否定もしなかった。
記録庫の書架には。
無縁と認定された死者たちの公告が並んでいる。
その紙には、申し出がなかったと記されていた。
異議を唱える者はいなかったと。
関係を証明する者はいなかったと。
けれど。
申し出るための住所を持たなかった者がいた。
公告を読むことができなかった者がいた。
署名を書くことができなかった者がいた。
親族ではないという理由で、関係を書けなかった者がいた。
毎月、花を置くことしかできなかった者がいた。
彼らに縁がなかったのではない。
縁を。
都市が読める形で記すことができなかった。
ただ、それだけだった。




