第7節 ― 二百十四人の死者
ノア=フェルの墓から掘り出された遺骨は、灰色の搬送布に包まれた。
結び目へ市警の封印を掛けられ。
検分記録とともに、墓苑の正門へ運ばれていく。
棺は空になった。
だが、墓碑は残された。
ノア=フェル。
享年十七。
濡れた石に刻まれた名前だけは、開封前と何も変わっていなかった。
リディアは、管理棟の一室で正式な聴取を受けている。
グレアムは検視官とともに、遺骨を検死院へ送る手続きを進めていた。
レオンは、地下納骨環から回収された油の試料と、シラス=モーンの靴底から採取した赤土の照合を巡査へ指示している。
ミラベルは一人、管理棟の裏へ出た。
頭を冷やしたかった。
記録帳には、開かれた墓についての事実が並んでいる。
ノアの墓碑。
ノアの区画台帳。
六年前に残された、正式記録ではない地下移管の印。
ローデン家の石棺で発見された、再打刻の痕跡を持つノアの埋葬札。
そして。
ノアの棺に納められていた、名前の分からない老年のドワーフ女性。
一行ずつ読めば、どれも簡潔だった。
簡潔であるほど。
リディアが墓碑へ手を置いた姿が、その余白から浮かび上がってくる。
ミラベルは記録帳を閉じた。
管理棟の裏手には、使われなくなった葬儀馬車の待機所があった。
屋根の下へ空の荷車が二台並び、車輪の下には雨水が溜まっている。
遠くで鉄門が閉じる音がした。
墓苑の封鎖は続いていた。
「ワトリアさん」
背後から呼ばれた。
女の声だった。
小さく。
誰かに聞かれることを恐れるような声。
ミラベルが振り返る。
管理棟の角に、一人の若い女性が立っていた。
黒に近い灰色の外套。
市政記録局の職員が使う革鞄。
年齢はミラベルと大きく変わらない。
帽子の下から覗く髪は、きつくまとめられていた。顔色は悪く、指先には何度洗っても落ちなかったらしい青黒いインクが染みついている。
「私をご存じなんですか」
「新聞で、お名前を」
女は管理棟の窓を振り返った。
硝子の向こうに人影はない。
それでも彼女は、屋根の下へ入ろうとはしなかった。
「少しだけ、お話しできますか」
「ここで?」
「中では話せません」
ミラベルは、相手の革鞄を見る。
留め金は閉じられていた。
だが、女性は両手で鞄を抱え込んでいる。
中身を守っているのか。
持ってきたことを後悔しているのか。
判断はつかなかった。
「お名前を聞いても?」
「エマ=グリスです。市政記録局で、モーン監査官の補佐をしていました」
シラス=モーン。
ローデン家霊廟の石棺から見つかった男。
「シラスさんの?」
「はい」
エマの声が詰まる。
彼が死んでいるという事実を、職務上の呼称で押し留めているようだった。
「警察には、もうお話を?」
「今朝、事情聴取を受けました」
「では、これは警察へ話せないことですか」
「話せないのではありません」
エマは鞄の持ち手を握り直した。
「話す前に、なくなるかもしれないことです」
ミラベルの表情が変わる。
「何がです」
エマは答えず、馬車待機所の奥へ目を向けた。
古い荷車の陰。
管理棟の窓からは見えにくい場所だった。
二人はそこへ移動した。
屋根を叩く雨垂れの音が、言葉を外へ漏らさない薄い幕となる。
エマは鞄を荷車の台へ置いた。
留め金へ指を掛ける。
だが、開く直前で止まった。
「あなたの記事を読みました」
「どの記事でしょう」
「死亡記録の事件です」
ミラベルは黙った。
「記録をすべて公表したわけではありませんでした」
エマが続ける。
「人を危険にさらす方法は書かなかった。でも、記録局と機械の責任は隠さなかった」
「なぜ、それを?」
「これを渡す相手を決めるためです」
留め金が外れた。
鞄の中から、分厚い紙束が現れる。
正式な帳簿ではない。
大きさの異なる記録紙。
区画台帳の写し。
埋葬許可証の番号。
墓地更新料。
遺族の住所。
職業。
財産状況。
墓前供花の受領記録。
鉛筆で書かれた補足。
細い紐で、幾つかの束へ分けられている。
ミラベルは、表題より先に、その欄を見た。
死者の名前とともに。
遺族がどこへ住み。
どれほどの金を持ち。
墓を維持するために何を払い。
誰が、いつ墓へ来たのか。
それらが一枚へ並べられている。
死者を調べるための帳面というより。
生きている者の弱みを集めた一覧にも見えた。
「これは」
ミラベルは紙へ触れずに言った。
「使い方によっては、恐喝の資料になります」
エマの指が、鞄の縁を強く掴んだ。
「そう見えることは分かっています」
一番上の紙には、整った角張った字で表題が記されていた。
《灰環大墓苑・埋葬記録不整合照合表》
「シラスさんが作ったんですね」
「はい」
「警察へ渡した資料とは別ですか」
「警察には、机に残っていた書類を渡しました」
「これは、どこに?」
「私が持ち出しました」
エマの目が伏せられる。
「監査官が亡くなったと聞いたあと、記録局の上役が執務室を封鎖すると言いました。警察が来る前に、内部監査資料を回収すると」
「記録局の所有物だから?」
「はい」
「あなたは、その前に持ち出した」
「はい」
「犯罪になるかもしれません」
「分かっています」
返事は早かった。
覚悟があるというより、何度も自分へ言い聞かせてきた答えだった。
「けれど、あの部屋へ残せば、分類し直されます」
「分類?」
「未確認資料。監査途中。証拠能力なし。外部閲覧不可」
エマは一つずつ言った。
「どれも、嘘ではありません。正しい分類です」
正しい言葉だった。
だからこそ。
その分類を重ねれば、資料は事件が終わるまで誰の目にも触れなくなる。
「モーン監査官は、完成してから報告するつもりでした」
「なぜ途中で報告しなかったんです」
「一つの記録だけでは、墓苑側に説明されて終わるからです」
エマは紙束を見た。
「札番号の書き間違い。移転許可証の綴じ忘れ。墓碑の施工ミス。台帳の転記漏れ。どれも一件だけなら、過失で説明できます」
「だから、同じ種類の不一致を集めた」
「はい」
「何人分ですか」
エマは、紙束の上へ手を置いた。
「二百十四名です」
雨垂れの音だけが続いた。
ミラベルは、聞き間違えたのかと思った。
「全員、遺骨が入れ替わっているんですか」
「違います」
エマは、すぐに否定した。
「監査官が調査対象として挙げた名前です。全員の不一致が確定したわけではありません」
ミラベルは紙束を受け取った。
想像していたより重かった。
紙の重さではない。
表紙の下に並ぶ名前の数を知ったから、そう感じただけかもしれなかった。
一枚目をめくる。
氏名。
種族。
死亡日。
埋葬区画。
埋葬許可証番号。
埋葬札番号。
移転の有無。
親族への通知記録。
欄外には、四種類の記号が付けられている。
「この二重の丸は?」
「墓碑に記された人物と、過去の改葬検分で確認された遺骨の情報が合わないものです」
「墓碑と遺骨の不一致」
「はい。ただし、古い検分記録の年齢や種族表記が誤っている可能性もあります」
エマの指が、別の記号へ移る。
「横線は、区画台帳へ移転を示す印があるのに、正式な移転許可証か移転先記録が見つからないもの」
ノアの記録と同じだった。
地下移管の印。
だが、移管を正式に成立させる記録はない。
「この四角は?」
「埋葬札に、再打刻の疑いがあるものです。数字の重なりや、札の型式と埋葬年代が合わないもの。ただし、札の現物をまだ確認できていない名前も含まれています」
「最後の斜線は」
「不自然な無縁化です」
「親族がいないと判断された墓?」
「正確には、一定期間、親族から書面による更新がなかった墓です」
「何が不自然なんです」
「別の記録には、親族らしい人物の住所が残っている。墓前供花の受領記録がある。葬儀費用を継続して納めた人物もいる。それなのに、墓苑の処理記録では訪問者なしとなっている」
ミラベルの脳裏に。
ノアの墓碑へ手を置くリディアが浮かんだ。
毎月、花を替え。
苔を落とし。
十七年間、弟へ話しかけていた姉。
彼女がいても。
書面に記されなければ、記録の上では訪れる者がいないことにできる。
「この一覧を、シラスさんはどこまで確認していたんですか」
「名前によって違います」
エマは資料の束を分けた。
「これは、台帳や索引の不整合だけを見つけたもの」
次の束。
「こちらは、埋葬許可証と移転記録まで照合したもの」
さらに薄い束。
「これが、遺族や墓苑職員への聞き取りへ進んだものです」
ノア=フェルの名は、その中にあった。
欄外には、シラスの筆跡で短く記されている。
《姉、継続訪問。墓碑清掃。移管通知なし》
その下。
《埋葬札、所在照合要》
「シラスさんは、リディアさんが毎月来ていたと知っていた」
「はい」
「それでも、あんな言い方をした」
「人への伝え方が、上手な人ではありませんでした」
エマの口元が、わずかに歪む。
悲しみと。
困った上司を思い出す苦笑が、同じ場所に現れた。
「数字を見つけると、相手にも同じ速さで理解できると思ってしまう人でした」
「墓苑では嫌われていたと聞きました」
「嫌われる努力をしているような人でしたから」
「あなたも?」
「何度も腹が立ちました」
エマは即答した。
それから、紙束へ目を落とす。
「でも、帳簿の数字しか見ていなかったわけではありません」
「この名簿を、何のために作っていたんですか」
「遺骨を戻すためです」
雨垂れの向こうで、風が鳴った。
「正しい墓へ?」
「できる限り」
エマは、簡単なことではないと知っている声で答えた。
「移転先が残っている者は照合する。札が打ち直されているなら、元の番号を読む。遺骨の年齢、種族、古傷、埋葬時の衣服。遺族の記憶も集める」
「この全員を?」
「監査官は、そのつもりでした」
「一人で?」
「私も手伝っていました」
初めて。
エマの声に、わずかな誇りが混じった。
「まだ戻せると考えていたんです。記録が完全に失われていなければ」
ミラベルは名簿をもう一度見た。
最初に抱いた印象は、消えていない。
氏名。
住所。
墓地更新料。
財産状況。
訪問記録。
悪意を持つ者が使えば、遺族の弱みを選り分けられる。
裕福な遺族だけを狙い、記録の修正と引き換えに金を要求することも。
墓苑へ、資料を公表しない対価を求めることもできる。
「恐喝資料に見える理由は、情報が足りないからではありませんね」
ミラベルが言った。
「必要以上に、揃っているからです」
「はい」
「住所は、通知するため」
「財産状況は、更新料を払えなかった家族を探すためです。訪問記録は、本当に無縁だったのかを確かめるため」
ミラベルは一枚の紙を抜き出した。
名の下に。
細い字で、家族の証言が記されている。
母は文字を書けず。
墓苑への更新申請を隣人へ頼んだ。
その隣人は死亡。
書類は提出されなかった可能性。
別の名前には。
息子は白紙街へ移住。
正式住所なし。
供花は毎年あり。
送り主欄は空白。
さらに別の名前。
墓地更新料、葬儀商へ納付済。
墓苑への入金記録なし。
数字だけではなかった。
その数字の後ろへ。
シラスは、記録から落ちた人間を探そうとしていた。
「監査官は、いつ報告する予定だったんです」
ミラベルが尋ねた。
「明日の朝でした」
エマは、資料の中から小さな予定票を抜き出した。
昨日の日付。
角張ったシラスの字で、二つの予定が書かれている。
午後六時半。
《灰環大墓苑・マレク=ドーン主任――最終確認》
その下。
翌朝九時。
《局長報告。不整合照合表提出》
「マレクさんと、会う予定だった」
「はい」
「何を確認するか、聞きましたか」
「監査官は、墓苑側へ最後に説明の機会を与えると言っていました」
「どこで会うかは?」
「墓苑としか聞いていません」
「実際に会ったことは」
「分かりません」
予定があることと。
二人が実際に会ったことは、同じではない。
けれど。
シラスが報告前夜に、マレクとの最終確認を予定していた。
それは、捜査へ渡すべき情報だった。
「この予定票も、名簿と一緒に?」
「はい」
「どうして私に渡すんです」
ミラベルが尋ねる。
「警部へ直接渡すべきです」
「渡します」
「では――」
「ただし、複製を残したい」
エマはミラベルの目を見た。
「市警が信用できないという意味ではありません。グレアム警部は、隠す人ではないと思います」
「けれど、市警も組織です」
「記録局も。墓苑も。裁判所も」
エマの声が小さくなる。
「これが事実なら、一つの部署の不祥事では済みません」
「だから新聞に?」
「すぐに掲載してほしいとは言っていません」
「では、何を?」
「存在していたことを、誰かの手元へ残してください」
エマの指が、名簿の表紙へ触れた。
「監査官が、この資料を作ったこと。これだけの名前を調べていたこと。それだけでも」
「記録局が資料を封じても」
「なかったことにはできないように」
ミラベルは名簿を胸元へ抱えた。
紙の角が外套へ当たる。
「分かりました」
返事は、考えるより先に出ていた。
「新聞社へ持っていきます」
「ミラベル」
荷車の陰から、低い声がした。
二人が振り向く。
レオンが、待機所の入口に立っていた。
外套の肩へ細かな雨粒を載せている。
いつから聞いていたのか。
表情からは分からない。
エマの顔が強張った。
「盗み聞きですか」
ミラベルが言った。
「隠れて話す声は、隠れて聞かれる」
「正当化になっていません」
「その資料を見せろ」
「エマさんが私へ渡したものです」
「事件資料だ」
「だから新聞へ残します」
レオンは返事をせず、手を差し出した。
ミラベルは渡さなかった。
二人の間で。
雨垂れが一定の間隔で落ちている。
「ワトリアさん」
エマが不安そうに呼ぶ。
「大丈夫です」
ミラベルは名簿を抱えたまま答えた。
「この人は、何でも取り上げるほど無礼ではありません」
「相手による」
「いま否定するところです」
「資料を見せろ。持っていくとは言っていない」
ミラベルはしばらく迷った。
やがて、最初の束だけを差し出す。
レオンは受け取ると、表紙ではなく綴じ目を見た。
紐の摩耗。
頁の順序。
紙の種類。
インク。
鉛筆の筆圧。
幾つかの名前を、指で追う。
「シラスの筆跡か」
レオンがエマへ尋ねた。
「大半は。青い補足は私です」
「写しの出典は」
「区画台帳、移転索引、墓苑公告、市政記録局の死亡原簿。各頁に番号があります」
「遺骨の不一致が確認された者は」
「ノア=フェルを除けば、まだ確定していません」
「札の再打刻も、現物を確認していないものがある」
「記録写真や打刻簿だけの判断も含みます」
「無縁化も、制度上は適正だった墓が混ざる可能性がある」
「はい」
ミラベルの眉が寄る。
「そんな言い方をしたら、全部が根拠のない疑いに聞こえます」
「根拠はある」
レオンは名簿から目を上げない。
「だから調べる価値がある。だが、この名簿は不正を確定した一覧ではない」
「分かっています」
「新聞社へ持ち込み、名前が漏れれば、読者はそう受け取らない」
「記事には、調査対象だと書きます」
「見出しもか」
ミラベルが黙る。
「新聞は、本文だけで読まれない」
「だから黙っていろと?」
「未確認の名前を公表するなと言っている」
「その間に、資料が封じられたら?」
「複製を残す」
「シラスさんは、完成するまで待って殺されました」
「この資料が動機だとは、まだ確定していない」
「でも、その可能性はある」
「ある」
「なら、隠して調べること自体が危険です」
「公表すれば、安全になるとは限らない」
レオンは紙束を閉じた。
「名簿が出れば、遺族は墓苑へ押しかける。自分で墓を開ける者も出る」
「警察が止めればいい」
「墓苑には何千の墓がある。すべてを見張れない。掘り返された墓では、札も衣服も遺骨の配置も失われる」
ミラベルは言葉を止めた。
「知らせなければ、家族は何も知らないままです」
「知るべきだ」
レオンは、そこで初めて彼女を見た。
「ただし、確認した事実としてだ」
「確認に何年かかるんです」
「分からない」
「その間に、市が何もなかったことにしたら?」
「そのときは書け」
「そのときでは遅いかもしれない」
「だから、いま資料を残す」
レオンは、名簿の表紙へ指を置いた。
「原本は市警へ渡す。受領時刻、束の数、総頁数を別の記録へ残す。エマとお前と俺が、それぞれ全文の写しを持つ」
「新聞社には?」
「現段階では、個人名を渡さない」
「不正の存在まで隠された場合は?」
「書け」
「資料の存在を否定された場合も」
「書け」
「調査が止められた場合も?」
「止めた部署と、止めた日付を確認して書け」
ミラベルはレオンを見た。
「確認された不一致は?」
「遺族へ先に知らせる。名前を公表するなら、その意思も聞け」
「すべてを遺族の判断へ任せるわけではありません」
「分かっている」
「公共性があると私が判断すれば、書きます」
「判断の根拠を残せ」
「あなたは、私の記事の校閲者ですか」
「誤った記録が増えるのを嫌っているだけだ」
言い争いは、そこで一度止まった。
ミラベルは、紙面へ並ぶ名前を見た。
疑いには根拠がある。
だが、全員の墓に不正があったとは確定していない。
その段階で名前を掲載すれば。
疑惑そのものを、死者と家族へ所属させることになる。
けれど。
未確認という分類だけを理由に、存在まで消してよいわけでもない。
「個人名は、いまは出しません」
ミラベルが言った。
「ただし、不正の存在まで封じられるなら、記事にします」
「ああ」
「調査対象の人数も?」
「個人を特定できない形なら、状況を見て判断しろ」
「ずいぶん曖昧ですね」
「確認前の事実は、普通そういうものだ」
「自信満々に言わないでください」
「お前が急ぎすぎるからだ」
「あなたが遅すぎるんです」
「二人とも」
エマの声が、細く割って入った。
「私は……公表してほしくて、お渡ししたわけではありません」
ミラベルが彼女を見る。
「消されないように、残してほしかったんです」
「でも、残すだけでは」
「分かっています」
エマは唇を噛んだ。
「監査官も、完成させることにこだわりすぎました。もっと早く誰かへ相談していれば、死なずに済んだかもしれない」
「それは分からない」
レオンが言った。
先ほどまでより、少しだけ柔らいだ声だった。
「シラスが何をしたから殺されたのかは、まだ確定していない。自分へ責任を所属させるな」
エマは俯いた。
ミラベルは、その言葉を聞きながら。
名簿を抱える腕の力を少し緩めた。
レオンの慎重さがすべて正しく。
自分の焦りがすべて誤りだと、認めたわけではない。
ただ。
いま個人名を出さないという選択にも。
守ろうとしているものがあることだけは、理解した。
「複製は、私が一部作ります」
ミラベルが言った。
「エマさんも一部。レオンも一部」
「全部で何頁あると思っている」
「記者の仕事は、書くことです」
「朝までかかるぞ」
「なら、朝まで書きます」
「誤写するな」
「手伝うという発想は?」
「俺も一部作ると言った」
「あなたの字では、照合に余計な時間がかかります」
「なら、お前が二部書け」
「いま、誤写するなと言ったのは誰です?」
いつもの調子には戻らない。
それでも。
言葉の硬さは、少しだけ薄れていた。
◇
三人は、エマとともに管理棟へ戻った。
グレアムは、遺骨の搬送記録へ署名しているところだった。
「何だ、その紙の山は」
「シラス=モーンが作成していた、墓苑全体の不整合照合表です」
レオンが答えた。
「調査対象は、二百十四名」
グレアムのペンが止まる。
「確定した被害者か」
「違う」
レオンは即座に答えた。
「墓碑と遺骨、移転記録、埋葬札、無縁化処理のいずれかに、不一致の可能性がある者の一覧だ」
「誰が持っていた」
「私です」
エマが前へ出た。
「モーン監査官の執務室から、警察が封鎖する前に持ち出しました」
「それも記録するぞ」
「はい」
「理由も」
「はい」
グレアムはエマをしばらく見た。
それから、机の上を空ける。
「置け」
エマは紙束を、両手で机へ置いた。
その瞬間から。
資料は、彼女が秘密に持ち出した紙ではなく。
市警が正式に受領する事件資料となる。
巡査が新しい受領簿を開いた。
紙束を一つずつ数える。
綴じられた頁を確認する。
予定票。
索引。
照合表。
補足記録。
欠落の有無。
受領した時刻。
総頁数。
束の数。
すべてが、別の記録へ書き込まれた。
提出者――エマ=グリス。
受領者――グレアム警部。
立会人――レオン=クラウス。
立会人――ミラベル=ワトリア。
四人が、同じ頁へ署名する。
「複製は三部作ります」
ミラベルが言った。
「一部はエマさん。一部は私。一部はレオン」
「原本は市警で封印する」
グレアムが言う。
「複写は、この管理棟で、警官の立会いのもと行え。写しにも、原本の受領時刻と頁数を付けろ」
「市政記録局へは」
エマが尋ねる。
「捜査に必要な時点で照会する。それまでは、原本の所在を勝手に広めん」
「隠すんですか」
ミラベルが問う。
「証拠を守る」
グレアムは彼女を見る。
「不正の存在まで隠すつもりはない。だが、まだ疑いだけの名前を街へ撒く気もない」
ミラベルは一度だけ、レオンを見た。
それから、うなずいた。
「市警が資料の存在を否定したら、受領簿ごと記事にします」
「好きにしろ」
「調査が止められても」
「止めた奴の名前を大きく書け」
「警部の名前も?」
「俺が止めたならな」
グレアムは葉巻を咥え直した。
火は点けなかった。
「ただし、未確認の死者を犯人や被害者に仕立てるな」
「分かっています」
「本当に分かっとる顔か、それは」
「警部よりは、新聞の見出しを分かっています」
「それが心配なんだ」
ミラベルは反論せず。
写しを作るため、最初の紙束を開いた。
その脇で、エマが小さく呼びかける。
「ワトリアさん」
「はい」
「監査官のことを、冷たい人だと書かないでください」
ミラベルは彼女を見る。
「冷たいところは、ありました」
「ありました」
エマは、かすかに笑った。
「でも、数字の向こうに人がいると気づくまで、少し時間がかかる人だっただけです」
「それは、冷たい人とは違うんですか」
「違うと、私は思いたいです」
ミラベルは記録帳を開いた。
シラス=モーン。
無愛想。
融通が利かない。
遺族へ配慮のない言葉を使う。
墓苑職員から嫌われていた。
報告前夜。
マレク=ドーン主任との最終確認を予定。
その下へ。
新しい一行を書き加える。
――二百十四名について、埋葬記録と実際の所在を一件ずつ確かめようとしていた。
ペン先を上げる。
そこまでが、いま記せる事実だった。
記事にするには早い。
忘れるには、遅すぎる。
管理棟の窓の外には、無数の墓碑が並んでいる。
その一つ一つに名前があり。
その下には、誰かの骨がある。
正しい名の骨かどうかは、まだ分からない。
机の上で。
二百十四人の死者は。
自分の墓が正しいかどうかも確かめられないまま、紙の上に並んでいた。




