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第6節 ― 空になった墓

 裁判所からの開封許可が届いたのは、午後を過ぎてからだった。


 灰環大墓苑を覆っていた朝の霧は薄くなっていたが、空は依然として鉛色だった。墓碑の間を渡る風には、雨に濡れた土と、切りたての花の匂いが混じっている。


 第三環――共同墓地区、E三一八。


 ノア=フェルの墓の周囲には、低い縄が四角く張られていた。


 縄の内側にいるのは、グレアム警部、二人の巡査、裁判所から派遣された立会書記、墓苑の石工たち、市警の検視官。


 そして。


 レオンとミラベル。


 墓碑の脇には、リディア=フェルが立っていた。


 作業外套の前を固く閉じ、両手を身体の前で重ねている。


 弟が彫った鳥の石片は、墓碑の根元から動かされていない。


 白と淡紫の花束も、そのまま残されていた。


 ただ。


 墓の土へ最初の鋤が入る前に、花束だけは濡れた布で覆われている。


 土がかからないようにしたのは、ミラベルだった。


 リディアは礼を言わなかった。


 だが、止めもしなかった。


「許可内容を読み上げます」


 立会書記が紙を広げた。


 風に煽られた端を、片手で押さえる。


「灰環大墓苑、第三環・共同墓地区、区画E三一八。被葬者記録、ノア=フェル。埋葬札の所在不明、および区画台帳への未完了移管記号を根拠として、埋葬内容の確認を許可する」


 書記は顔を上げた。


「開封目的は、被葬者の身元照合。棺および遺骨の移動は、検分に必要な最小限とする。検分後の再埋葬については、市警および墓苑管理部の協議により決定する」


「異議は」


 グレアムが周囲を見た。


 石工たちは黙っている。


 マレク=ドーンは縄の外側に立ち、帽子を胸元へ抱えていた。


「墓苑管理部として、手続きに異議はございません」


 いつもの穏やかな声だった。


「遺族は」


 グレアムの目がリディアへ向く。


 彼女は墓碑から視線を離さなかった。


「開けてください」


 短い言葉だった。


 今朝までなら。


 弟がここにいると確かめるための言葉だった。


 いまは。


 何を確かめることになるのか、本人にも分かっていないように聞こえた。


 グレアムが石工の親方へうなずく。


「始めろ」


 親方は帽子を取り、墓碑へ一礼した。


 ほかの石工たちも続く。


 それから、鋤が土へ入った。


     ◇


 墓を開く音は、墓地には不釣り合いなほど生活の音に似ていた。


 鋤が土を切る音。


 土を籠へ移す音。


 石が擦れる音。


 短い指示。


 荒い息。


 工事現場で聞けば、誰も気に留めない音だった。


 だが。


 掘り返されているのが、十七年間閉じられていた墓だと思えば、一つ一つが死者の眠りを剥がしていく音に聞こえた。


 ミラベルは記録帳を開いていた。


 けれど、しばらく何も書けなかった。


 リディアは一度も墓から目を逸らさない。


 鋤が入るたび。


 運び出される土が増えるたび。


 彼女の両手は強く重なっていった。


 爪が、手袋の布へ沈んでいる。


「無理に立ち会う必要はない」


 グレアムが言った。


「別室で待つこともできる」


「ここにいます」


「気分が悪くなったら言え」


「平気です」


 平気な声ではなかった。


 グレアムはそれ以上、言わなかった。


 レオンは掘り出された土を見ていた。


 新しい土と古い土。


 石片。


 木の根。


 湿り方。


 だが、鋤を止めるような異物は出てこない。


 ミラベルが小声で尋ねる。


「掘り返された跡を見ているんですか」


「見ている」


「分かります?」


「大きく掘り返したなら、土の層が乱れる。だが、十七年の間には墓の補修も沈下もある。今日の土だけで、いつ開けられたかを決めるのは難しい」


「では、まだ何も」


「近年の開封時期を示す明白な痕跡は、いまのところない」


「開けられなかった証明にはならない」


「覚えがいいな」


「あなたが何度も言うので」


 ミラベルは、ようやく一行を書いた。


 ――地表の土から、近年の開封時期を確定できる痕跡は見つからない。


 言葉を書いた途端。


 土の下から、鈍い音が返った。


 鋤の先が、木へ触れた音だった。


「棺です」


 石工が言った。


 親方が手を上げる。


 鋤が止まり、残りの土は小さな道具と手で取り除かれていく。


 やがて。


 黒ずんだ木の表面が姿を現した。


 豪華な棺ではない。


 共同墓地で多く使われる、細身の木棺。


 板は湿気を吸い、表面の塗料はほとんど失われている。


 それでも、輪郭は保たれていた。


 棺の上には、石板も追加の封印もない。


 釘の頭が、一列に並んでいる。


「外側に埋葬札は」


 グレアムが尋ねた。


 石工たちが土を払い、棺の側面を確かめる。


「ありません」


 レオンも、見える範囲を確認した。


 埋葬札を吊るす金具。


 鎖が触れ続けた腐食痕。


 真鍮札が残すはずの緑青。


 いずれも見当たらない。


「内部にある可能性は?」


 ミラベルが尋ねる。


「ある」


 レオンが立ち上がった。


「持ち上げるぞ」


 グレアムが命じる。


 棺の下へ布帯が通される。


 四人の石工が、合図に合わせて棺を持ち上げた。


 木が低く軋む。


 底が崩れないよう、下から板を差し込む。


 墓穴の脇に用意された検分台へ、棺はゆっくりと置かれた。


 リディアが一歩動いた。


 近づこうとしたのか。


 下がろうとしたのか。


 自分でも決められなかったように、足が途中で止まる。


「ここから先は、開封記録を取る」


 グレアムが言った。


「棺の外観。釘の状態。蓋の損傷。全部、先に確認しろ」


 立会書記が記録を始める。


 検視官は手袋を替えた。


 釘は錆びていた。


 木の蓋には、虫食いと腐食がある。


 だが、一部だけ新しい釘へ替えられた形跡はない。


 蓋を割って閉じ直した大きな補修跡も見つからなかった。


「少なくとも、最近開けて新しい蓋へ替えたようには見えん」


 グレアムが言う。


「外観上はな」


 レオンが付け加える。


「十七年間、一度も開けられていないとは決められない。釘を同じ穴へ戻せば、腐食したあとでは見分けが難しい」


「お前は、何なら断定するんだ」


「見たものだ」


「見ても疑うだろうが」


「だから誤らない」


 グレアムは鼻を鳴らした。


「親方。開けろ」


 錆びた釘を一本ずつ抜く。


 木が欠けるたび、書記が位置を記録した。


 最後の釘が外される。


 親方と検視官が、棺の蓋へ手を掛ける。


「上げます」


 木の蓋が、ゆっくりと持ち上がった。


 湿気を含んだ古い空気が流れ出す。


 湿気と土で変色した、古びた衣服の残片。


 朽ちた布。


 乾いた土。


 時間そのものが腐ったような匂いだった。


 リディアの息が止まる。


 棺の中には。


 遺骨があった。


 頭骨。


 胸郭。


 腕。


 脚。


 衣服の残片とともに、人の形を保つように並んでいる。


「……いた」


 リディアの唇が動いた。


 声になるかならないかの、小さな言葉だった。


 彼女の肩から、ほんのわずかに力が抜ける。


 ミラベルは、その安堵を見た。


 棺が空ではなかった。


 土の下には、確かに誰かが眠っていた。


 けれど。


 レオンは、遺骨を見た瞬間に表情を変えていた。


 驚きではない。


 確認しなければならない違和感を見つけた顔だった。


「触るな」


 彼が言った。


 検視官の手が止まる。


「まだ触っていない」


「頭骨と肩幅を見ろ」


 グレアムが棺を覗く。


「何だ」


「小さい」


 ミラベルも、縄の外側から目を凝らした。


 共同墓地の細身の棺。


 そのため、最初は棺が小さいのだと思った。


 だが、違う。


 内部の遺骨そのものが、小柄だった。


 脚の骨は短い。


 腕の骨も、十七歳のエルフ少年として想像する細さとは異なる。


 骨格全体が、低く詰まって見えた。


「ドワーフか」


 グレアムの声が低くなる。


「その可能性はある」


 レオンが答えた。


「だが、現場で見ただけでは決められない」


 検視官はうなずき、棺の脇へ膝をついた。


 遺骨の配置を記録する。


 最初に頭骨。


 次に骨盤。


 腕と脚の長骨。


 残った歯。


 関節の摩耗。


 すべて、動かす前に位置が測られた。


 リディアは黙って見ている。


 先ほど浮かんだ安堵は、すでに消えていた。


「ノアは、背が高くはありませんでした」


 誰に問われるでもなく、彼女が言った。


「病気がちで、痩せていました。だから……小さく見えるだけかもしれません」


 ミラベルが彼女を見る。


「まだ、検分の途中です」


 慰めではなかった。


 確かめる前に、可能性を閉じないための言葉だった。


 レオンは何も言わない。


 検視官が頭骨の周囲の土を取り除き、顎を確かめる。


 次に骨盤へ移った。


 携帯灯の角度を変える。


「警部」


 その声で。


 リディアの指が震えた。


「何が分かった」


 グレアムが尋ねる。


「骨盤は、男性のものとは考えにくい形です」


 検視官は慎重に言った。


「女性型と見られます」


 リディアの顔から、血の気が引く。


「骨盤だけで決めるな」


 レオンが言う。


「ほかも確認します」


 検視官は、脚と腕の長さを測った。


 骨の太さ。


 関節面。


 頭骨の形。


 歯の摩耗。


 背骨の変形。


 一つずつ。


 沈黙の中で確かめていく。


 周囲では、紙へペンを走らせる音だけが続いていた。


 やがて、検視官が立ち上がる。


 手袋へ付いた土を落とさないよう、両手を胸の前へ上げていた。


「現場での予備検分です。詳細は検死院で行う必要があります」


「分かっとる。いま言える範囲を言え」


「小柄な老年のドワーフ女性である可能性が、極めて高いと見ます」


 言葉が。


 墓碑と棺の間へ落ちた。


「年齢は」


 グレアムが続ける。


「関節の摩耗、歯の状態、頭骨の縫合から見て、若年ではありません。老年に達していた可能性があります」


「少なくとも」


 レオンが遺骨を見た。


「十七歳のエルフ男性ではない」


「はい」


 断定できるのは、そこだった。


 ノア=フェルではない。


 名前までは分からない。


 いつ、この棺へ入れられたのかも分からない。


 ノアの葬儀の日から入っていたのか。


 後に入れ替えられたのか。


 六年前に残された非公式な移管印と、実際の移動が同じ時期なのか。


 誰が行ったのか。


 何のためか。


 そのどれも、遺骨だけでは答えられない。


 ただ。


 墓碑に刻まれた名と。


 土の下にある骨が。


 別人を示していることだけは、否定できなかった。


「違います」


 リディアが言った。


 全員の目が彼女へ向く。


「何か、間違っています」


 声は強くなかった。


「墓が違うか。記録が違うか。この骨を調べた人が……」


 続く言葉が出てこない。


 検視官は反論しなかった。


 レオンも。


 グレアムも。


 誰も彼女へ、現実を受け入れろとは言わなかった。


 ミラベルが、ゆっくりと近づく。


 縄の手前で止まった。


「リディアさん」


 呼びかけても。


 リディアは答えなかった。


「埋葬札を探せ」


 グレアムが低く命じる。


 検視官と石工たちは、遺骨の位置を崩さないよう、棺の内外を慎重に調べた。


 衣服の残片。


 骨の下。


 棺の隅。


 腐った敷布。


 札を吊るした鎖や金具。


 真鍮札が長く接触していれば残る緑青。


 だが。


 身元を示すものは、何一つ見つからなかった。


「埋葬札はありません」


 検視官が言った。


 グレアムは目を閉じ、短く息を吐く。


「ノアの札は、ローデン家の石棺で見つかった」


 ミラベルが言う。


「では、この人の札は、どこにあるんですか」


「分からない」


 レオンが答えた。


「この遺骨が誰なのかもな」


「別の墓にある可能性は?」


「ある」


「地下の骨箱に?」


「それもある」


「札そのものが失われた可能性も」


「ああ」


「では、ノアさんは」


 ミラベルは最後まで言えなかった。


 レオンが棺を見たまま答える。


「ここにはいない」


 その言葉は。


 数日前にシラス=モーンがリディアへ告げたものと、同じだった。


 リディアの身体が小さく揺れた。


 墓碑へ手を伸ばす。


 誰かに支えを求めるのではなく。


 そこに石があることを、もう一度確かめるように。


 指先が。


 ノア=フェルと刻まれた名へ触れた。


 十七年間。


 毎月、花を替えた。


 苔を落とした。


 仕事のことを話した。


 腹が立ったことも。


 嬉しかったことも。


 返事のない弟へ話しかけた。


 けれど。


 その石の下にいたのは、名前も知らないドワーフの老女だった。


「弟は……」


 声が途切れた。


 リディアの口は、もう一度動いた。


 だが、言葉は出てこなかった。


 弟はここにいる。


 あれほど迷わず言い切っていた言葉を。


 いまは、自分の耳へ届く形にすることができなかった。


 ミラベルは記録帳へ目を落とした。


 書かなければならない。


 だが。


 遺族が言葉を失ったことを、どのように記せばいいのか。


 泣いた、ではない。


 叫んだ、でもない。


 崩れ落ちたわけでもなかった。


 リディアは立っている。


 弟の名を刻んだ墓碑へ掌を置き。


 その下に弟がいないと知っても。


 手だけは離さずに立っている。


 ミラベルはペンを動かした。


 ――リディア=フェルは、ノア=フェルと刻まれた墓碑へ手を置いた。


 それ以上は書かなかった。


 彼女の沈黙へ、勝手な意味を与えたくなかった。


 レオンが、開かれた棺を見下ろす。


「確認できた事実を整理する」


 グレアムが顔を上げる。


「ノア=フェルの墓には、遺骨があった」


 レオンは一つずつ言った。


「だが、現場での予備検分では、小柄な老年のドワーフ女性である可能性が極めて高い。少なくとも、十七歳のエルフ男性ではない」


「身元を示す埋葬札はない」


 グレアムが続けた。


「墓碑と区画台帳は、ノア=フェルを示している」


 ミラベルが言う。


「ノアの埋葬札だけは、ローデン家の石棺から見つかった」


「つまり、四つの記録が分かれた」


 レオンの視線が。


 墓碑。


 棺。


 管理棟のある方角。


 そして、第一環のローデン家霊廟へ移る。


「墓碑と区画台帳は、ノアがここにいると示している」


「遺骨は別人だ」


「札は、別の墓にあった」


 グレアムの口元が硬くなる。


「誰かが、死者を入れ替えた」


「その可能性が高い」


「まだ断定せんのか」


「最初の埋葬時から、別人の遺骨が納められていた可能性は残る。後から入れ替えられた可能性もある。六年前の移管印が、実際の作業時期を示すとも限らない」


「だが、偶然で全部起きたとは思えん」


「思うことと、証明することは別だ」


 レオンは棺の中の老女を見た。


「まず、この遺骨の身元を調べる。地下納骨環の記録と照合する。ノアの札番号と同じ番号を持つ札が、ほかにないかも探す」


「シラスが調べていたことも」


 ミラベルが言った。


「この不一致だったんでしょうか」


「少なくとも、彼はノアがここにいないと知っていた」


「どうやって知ったのか」


「それを残していればいいがな」


 風が吹いた。


 濡れた布が花束から外れかけ、ミラベルが押さえる。


 白と淡紫の花は。


 土を浴びることなく、弟の墓前に残っていた。


 グレアムが巡査へ振り返る。


「棺を封鎖しろ。遺骨は検死院へ運び、種族、性別、年齢、死因の痕跡、埋葬された年代を調べる」


 続いて、管理棟の方角を指す。


「墓苑内の移転記録は、ノアが埋葬された日から全部洗え。六年前の記録だけに絞るな」


「全部ですか」


「全部だ」


 巡査が走り去る。


 マレクが、縄の外から静かに尋ねた。


「ほかの墓所も、開封なさるおつもりですか」


 グレアムは答える前に、レオンを見た。


 探偵は、ノアの墓だけを見てはいなかった。


 周囲には、無数の墓碑が並んでいる。


 正しく刻まれた名前。


 供えられた花。


 区画台帳へ記された番号。


 一つ一つの下に。


 本当に同じ名の死者が眠っているのか。


 それを保証するはずだった四つの記録は。


 いま、一つの墓で分かれてしまった。


「まだ、ほかの墓が同じだとは断定できない」


 レオンは言った。


「だが」


 その視線が、墓碑の列を辿る。


「ローデン家の石棺だけの問題ではなくなった」


 グレアムも周囲を見た。


 共同墓地。


 個人墓地。


 名家霊廟。


 そして、地下納骨環。


 墓苑全体が。


 これまでとは違う姿で、彼らの前に広がっていた。


 墓碑が名前を示していても。


 台帳に区画が記されていても。


 札が本物でも。


 その下に眠る者が、同じ名前だとは限らない。


 ノア=フェルの墓は。


 空ではなかった。


 だが。


 弟を探す姉にとって。


 そこはもう、空になった墓だった。

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