第5節 ― 死者を運んだ機械
地下第一納骨環へ通じる扉は、管理棟の裏手にあった。
地上から見れば、小さな石造りの倉庫にしか見えない。
壁には蔦が這い、屋根の排気筒から白い蒸気が細く漏れている。扉の中央には、骨箱を運び込むための幅広い引き戸。その脇に、人一人が通れる鉄扉が設けられていた。
扉の前で待っていたのは、一人の老ドワーフだった。
背はグレアムより少し低い。
肩幅は広く、油と煤の染みた革の作業着を着ている。灰色の髭は短く刈られていたが、眉は長く、両目の上へ庇のように垂れていた。
腰には工具袋。
右手には鍵束。
左手には、真鍮枠の携帯蒸気灯。
「ゴルム=ホルツ」
グレアムが名を呼ぶ。
老人は制帽へ触れる代わりに、太い指で額を掻いた。
「墓苑設備管理人です」
「何年ここにいる」
「三十六年」
「地下設備については」
「わしより知っとる奴がおるなら、そいつに案内を頼め」
「口は元気だな」
「墓の下で働くには必要だ。黙っていたら、いつの間にか棚へ入れられる」
ゴルムはそう言ったが、笑わなかった。
視線はグレアムとレオンの間を行き来し、最後にミラベルへ止まる。
「そっちの若い娘も降りるのか」
「降ります」
ミラベルは即答した。
「観光坑道じゃないぞ」
「観光で墓苑を封鎖する警察はいません」
「足元を見ろ。転んでも、わしは拾わん」
「記録には残しておきます」
ゴルムの眉が少しだけ上がった。
「クラウス。お前の助手は、お前より口が回るな」
「俺の助手ではない」
「まだ、そこを訂正しているんですか」
ミラベルが言う。
「事実だからな」
「では、相棒で」
「それも訂正が必要だ」
「地下へ入る前に、二人とも置いていくぞ」
グレアムが唸った。
ゴルムは鍵束から一本を選び、鉄扉の錠へ差し込んだ。
鍵が回る。
内部から、低い金属音が返った。
扉を開けた瞬間、冷たい空気が地上へ流れ出した。
湿った石。
錆。
古い油。
長く日の光へ触れていない場所の匂いだった。
狭い階段が、闇の中へ下りている。
「地下第一納骨環までは、蒸気灯が生きている」
ゴルムが携帯灯を掲げた。
「第二へ入れば、壁灯は当てにするな。配管も古い。触る場所を間違えれば、蒸気で皮が剥ける」
「十五年前に閉鎖されたんじゃないのか」
グレアムが尋ねる。
「閉鎖と、設備が消えることは違う」
ゴルムは階段を下り始めた。
「墓苑の記録では、撤去済みになっとる」
「記録を書く奴は、鉄管一本外したことがない」
「便利な言い分だな」
「便利だから役人は使う」
グレアムは顔をしかめたが、それ以上は言わなかった。
レオンがゴルムの後へ続く。
ミラベル。
最後にグレアム。
鉄扉が閉まり、地上の灰色の光が細い線となって消えた。
◇
階段は、墓苑の深さを測るように長く続いていた。
壁には太い蒸気配管が走っている。
何度も塗り直された黒い防錆塗料。
接合部を締める真鍮環。
古い圧力計の針は零を指し、硝子の内側へ曇りが張りついていた。
数段ごとに、壁の奥から低い振動が伝わってくる。
地上を走る蒸気乗合車か。
それとも、灰霧運河沿いの工場機械か。
判別できないほど遠い音だった。
「この配管は何に使っていたんですか」
ミラベルが尋ねる。
「灯り。排水ポンプ。棺の昇降設備。古い時代は、骨箱を乾かす温風にも使った」
ゴルムは振り返らずに答えた。
「今は?」
「第一納骨環の灯りと排水だけだ」
「第二へ続く管も、まだつながっています」
レオンが壁を見ながら言った。
配管の分岐には、閉鎖を示す赤い封印塗料が塗られている。
だが、管そのものは切断されていない。
「弁を閉じてある」
「開けば蒸気が通る?」
「配管が破裂しなければな」
「つまり、使えないのではなく、使っていない」
ゴルムが足を止めた。
携帯灯の明かりが、横顔の深い皺を照らす。
「同じことだ」
「機械にとっては違う」
「お前は機械に聞いたのか」
「機械は記録より素直だ」
グレアムが後ろから言った。
「そいつの前で機械を褒めるな。ますます調子に乗る」
「警部が現場を褒めるのと同じだ」
「現場は余計な口を利かん」
「見る側が読み違える」
「それを防ぐために、お前を呼んどる」
グレアムは不機嫌そうに答えた。
だが、レオンを急かしはしなかった。
階段の終わりに、鉄格子の扉があった。
ゴルムが二つ目の鍵を使う。
扉の向こうへ、地下第一納骨環が広がった。
石造りの長い回廊。
天井は低く、鉄骨のアーチで支えられている。
両側の壁際には、骨箱を納めた棚が果ての見えないところまで並んでいた。
一つ一つの箱に、真鍮札。
番号。
氏名。
移転元の区画。
蒸気灯の青白い光が、札だけを順番に浮かび上がらせている。
死者たちは墓碑を失っても、ここでは番号を持っていた。
回廊の中央には、幅の狭い軌条が敷かれている。
「骨箱を運ぶ台車の線路ですか」
ミラベルが尋ねる。
「骨箱も、小棺も運んだ」
ゴルムが答えた。
「地上から搬入口へ下ろしたあと、この軌道で各区画の下まで運ぶ。古い名家霊廟には、それぞれ専用の縦坑があった」
「一つの昇降機から、複数の霊廟へ枝分かれするわけではない?」
「違う。地下の軌道は横へ走る。棺を載せた台車を運び、目的の霊廟の下にある縦坑へ入れる。縦に上げる機械は、霊廟ごとに別だ」
レオンは軌条を見た。
「なら、ローデン家の下にも専用の縦坑が残っている可能性がある」
「古い霊廟ならな」
ゴルムの返答は短かった。
レオンは軌条の脇へ膝をつく。
石床の窪みに、赤褐色の泥が溜まっていた。
「よく似た色ですね」
ミラベルも足元を見る。
ローデン家の石棺に横たわっていたシラス=モーン。
その靴底へ付着していた赤土。
乾いたあとも強く色を残す、粘りのある土だった。
「似ている」
レオンは断定を避けた。
「霊廟で採取した試料と照合するまでは、同じ土とは言えない」
「この赤土は、どこから?」
グレアムがゴルムへ尋ねる。
「地下水が壁の鉄分を運ぶ。排水溝の泥と混ざれば、ああなる」
ゴルムが灯りを床へ向ける。
軌条と並んで、細い排水溝が走っていた。
溝の底には濁った水が流れ、その縁に赤い泥がこびりついている。
「第一納骨環全体にあるのか」
「奥へ行くほど多い。第二はもっとひどい」
「シラスの靴が、この地下へ触れた可能性は高くなった」
レオンが言った。
「歩いてか」
グレアムが聞く。
「それはまだ分からない」
ミラベルが先に答えた。
レオンが彼女を見る。
「前に聞きました」
「記憶していたか」
「記録者ですから」
ミラベルは小さく胸を張った。
「靴がこの土へ触れたことは分かる。でも、本人が歩いたのか、死後に運ばれたのか、靴だけを汚されたのかまでは分からない」
「最後の可能性は、ここへ来なくても作れる」
レオンは立ち上がった。
「だが、石棺の底部が縫い直されていたことと合わせれば、地下経路を調べる理由にはなる」
「理由にはなる。答えではない」
「そうだ」
グレアムが二人を見た。
「弟子が育っとるな、クラウス」
「誰の弟子でもありません」
今度はミラベルが訂正した。
「面倒なところだけ似たな」
グレアムは溜息をついた。
◇
地下第二納骨環との境には、厚い防火扉があった。
扉の表面へ、十五年前の日付を刻んだ金属板が打ちつけられている。
《設備廃止につき閉鎖》
その下には、市政記録局と墓苑管理部の印。
ゴルムは三本目の鍵を出した。
鍵穴へ差し込む前に、グレアムが手を伸ばす。
「待て」
「何だ」
「閉鎖されてから、この扉を開けたことは」
「点検で何度か」
「最後はいつだ」
「去年の冬だ。排水が詰まった」
「記録は」
「管理棟にある」
「本当にあるんだろうな」
「記録主任に聞け」
ゴルムは苛立ったように鍵を鳴らした。
「わしの仕事は水を流し、灯りを点け、棚を腐らせんことだ。紙を増やすことじゃない」
「その紙が、お前がいつここへ入ったかを証明する」
「わしは毎日ここにいる。証明してどうする」
「昨夜もか」
ゴルムの手が止まった。
ほんの一拍だった。
「昨夜は来とらん」
「誰かに鍵を貸したか」
「貸してない」
「複製は」
「ない」
「なくしたことは」
「ない」
グレアムは老人の顔を見つめた。
ゴルムも目を逸らさない。
「開けろ」
鍵が回った。
防火扉は、底を石床へ擦りながら内側へ開いた。
冷たい空気が流れ出す。
第一納骨環より、さらに温度が低い。
湿気を含んでいるのに、肌から熱だけを奪うような風だった。
ゴルムの灯りが、壁の上部へ向けられる。
太い銅管が、天井近くを横切っていた。
管の表面には緑青が浮き、いくつもの細い吹出口が並んでいる。
「これは?」
ミラベルが尋ねた。
「旧冷却通風管だ」
ゴルムが答える。
「夏場に骨箱と棺を傷ませんよう、外気を地下へ引き込んでいた。蒸気式の送風機は外されとる」
「風が出ています」
ミラベルの髪が、わずかに揺れた。
「地上と地下の温度差で、自然に空気が流れる。送風機がなくても、完全には止まらん」
レオンは吹出口の下へ立った。
冷気が外套の襟へ入り込む。
管の接合部から落ちた水滴が、壁を細く濡らしていた。
「緑青も落ちるな」
彼は、管の真下にある床を見た。
青緑色の粉が、赤い泥の上へわずかに散っている。
ミラベルは、シラスの左袖へ付着していた汚れを思い出した。
「似ていますね」
「色はな」
レオンが答えた。
「採取した袖の汚れと照合するまでは、それ以上は言えない」
「外套の内側の湿気も、この空気なら」
「説明できる可能性はある」
「身体が冷えていたことも?」
「可能性を三つ並べても、まだ事実にはならない」
「分かっています」
ミラベルは記録帳へ、通風管の位置と状態だけを書いた。
旧冷却通風管。
自然通風あり。
緑青と結露。
誰の死体へ、いつ影響したかは未確認。
三人の携帯灯だけが、地下の闇を押し退けていく。
古い排水路が床を横切り、ところどころ鉄格子の蓋を失っていた。
壁面には、使われなくなった蒸気配管が蜘蛛の巣のように走っている。
外された弁。
切断された細管。
金具だけが残る支持台。
骨箱の棚よりも、機械の残骸が多い。
かつて死者を運び。
墓を整え。
地下水を排出していた設備。
役目を終えたあとも撤去されず、地上の記録からだけ消された機械たちだった。
「市の台帳では、ここの設備は撤去済みになっている」
グレアムが壁を見回した。
「主要部品は外した」
ゴルムが言う。
「主要部品の定義が、ずいぶん狭いな」
「蒸気機関を外せば機械は動かん。配管と台座まで持っていく金が、市にあると思うか」
「動力は完全に切られているのか」
レオンが尋ねる。
「蒸気動力は切られとる」
「手動機構は?」
ゴルムは答えなかった。
レオンが携帯灯を上げる。
光の先に、太い鉄柱が二本立っていた。
柱の間には鎖と歯車。
床へ沈む方形の台。
壁際には大きな巻上げ輪があり、その軸が縦坑の上方へ伸びている。
水平軌道は、その昇降台の手前で途切れていた。
棺を台車ごと運び。
ここで縦へ持ち上げる。
一つの霊廟に一つ設けられた、旧式の棺昇降機だった。
「これは、どこの霊廟へ通じている」
グレアムが尋ねる。
「停止位置札を見ろ」
ゴルムは、鉄柱の側面へ灯りを向けた。
錆びた真鍮板へ、家名が刻まれている。
《ローデン》
「ローデン家専用の縦坑か」
「そうだ」
「十五年間、動かしていない?」
「正式には廃止されとる」
「聞いたのは、いつ動かしたかだ」
「点検以外では動かしとらん」
「最後の点検は」
「覚えとらん」
レオンは二人の応酬を聞きながら、昇降機の周囲を歩いた。
床の泥。
鎖。
巻上げ輪。
歯車箱。
切り離された蒸気管の接合部。
機械全体は、確かに長く放置されたように見える。
鉄柱には赤錆。
台の隅には埃。
鎖の表面も黒く乾いている。
だが。
歯車箱の一部だけが、灯りを鈍く返していた。
「灯りを、こちらへ」
ミラベルが携帯灯を寄せる。
「もう少し低く」
「紙ではありませんから、焦げませんよ」
「油の状態が変わる」
「本当に注文が多い」
文句を言いながら、ミラベルは灯りを歯車へ合わせた。
錆びた歯の谷に、黒褐色の油が残っている。
乾ききっていない。
周囲を覆う埃の膜も、そこだけ途切れていた。
「新しい油ですか」
グレアムが尋ねる。
レオンは、別の歯車へ固着した古い油と見比べた。
古い油は黒い蝋のように固まり、粉塵を抱き込んでいる。
問題の歯車へ塗られたものは粘りを保ち、濡れたように光っていた。
「少なくとも、十五年前のものではない」
ゴルムの顔が強張る。
「点検用だ」
「閉鎖された機械へ?」
「使わん機械でも、錆びつかせんために油を差すことはある」
「いつ差した」
「何度かだ」
「最近は?」
「覚えとらん」
レオンは返事をせず、巻上げ輪の脇へ移った。
歯車を固定するための太い鉄棒が、壁の受け金へ掛けられている。
先端には、固定軸へ差し込む丸い穴。
全体は黒く錆びている。
だが、中央から握り部分にかけてだけ、周囲より埃が薄かった。
「これも点検したのか」
レオンが尋ねる。
ゴルムが鉄棒を見る。
「固定棒だ。台を途中で止めるときに使う」
「表面が妙にきれいだ」
「手で持つ場所だからだろう」
「十五年間、使っていない機械の部品を?」
「点検で触る」
グレアムが巡査へ目を向けた。
「動かすな。表面も拭くな。あとで検分する」
「固定棒までか」
ゴルムが言う。
「触られて困る理由があるのか」
「機械をばらばらにされれば、点検ができん」
「殺人現場かもしれん場所で、普段どおり点検される方が困る」
ゴルムは黙った。
レオンは、固定棒の下の床へ視線を落とした。
巻上げ輪と昇降台の間。
人一人が横たわれるほどの範囲だけ、石床の色がわずかに違っている。
周囲には、煤と錆と石灰片を含んだ古い埃が積もっていた。
その部分にも埃はある。
だが、厚みが均一すぎる。
天井から落ちた白い石灰の欠片も、ほとんど混じっていなかった。
「ここを掃除したか」
レオンが尋ねる。
「排水が溢れれば床も洗う」
ゴルムが答える。
「いつ」
「去年の冬か、それより前だ」
「その上から、埃を撒いたように見える」
ミラベルがしゃがみ込み、触れずに床を見た。
「周りの埃には白い欠片があります。ここには少ない」
「掃除した時期が違えば、積もり方も違う」
ゴルムの声には、わずかな苛立ちが戻っていた。
「その可能性はある」
レオンが認める。
「だが、調べる価値もある」
グレアムが床へ印を置かせる。
「この区画の埃と排水溝の泥を採取しろ。採るまでは誰も踏むな」
巡査が縄を張る。
ゴルムは、その作業を横目で見ていた。
新しい潤滑油。
埃の薄い固定棒。
周囲と状態の違う床。
どれも、それだけでは昨夜の使用を証明しない。
だが。
十五年間、完全に放置された場所の姿とも一致していなかった。
「動くか確かめる」
グレアムが言った。
「待て」
ゴルムが巻上げ輪の前へ立つ。
「上にはローデン家の石棺がある。台を上げすぎれば、底を壊す」
「だから、少しだけ動かす」
「鎖が腐っていれば切れる」
「お前が点検していたんだろう」
「点検と安全保証は違う」
「便利な言葉だな」
グレアムが言い返す。
レオンは縦坑の内壁を見上げた。
高さを示す目盛り。
停止位置。
巻上げ輪と安全爪。
「台が浮くところまででいい。昇降機が動作することを確認したら、一度止める」
「上へ到達するかは?」
ミラベルが尋ねる。
「地上側と連絡を取り、接触する直前から一目盛りずつ上げる」
「底を開くんですか」
「今日は開かない」
レオンが答えた。
「この縦坑が、石棺の直下へ達しているかを確かめるだけだ」
地上のローデン家霊廟へ、巡査が走らされた。
シラスの遺体はすでに検視のため搬出され、石棺は警察の管理下にある。
内張りにも。
底部にも。
許可なく触れないよう命じられていた。
地下と地上を結ぶ古い伝声管が試される。
雑音の向こうから、霊廟側の巡査の声が返った。
『こちら、ローデン家霊廟。石棺周辺、準備できています』
ゴルムが巻上げ輪へ短い鉄棒を差し込んだ。
安全爪を外す。
「一人で回せるのか」
グレアムが尋ねる。
「空の台ならな」
老人が力を込める。
巻上げ輪は、すぐには動かなかった。
鉄棒が軋み。
ゴルムの靴が赤い泥を滑る。
グレアムが反対側から手を貸した。
二人のドワーフが、同時に鉄棒を押す。
がちり。
歯車が一枚、噛み合った。
続いて。
がちり。
鎖が張る。
床と同じ高さへ沈んでいた昇降台が、指一本分だけ浮き上がった。
錆の粉が落ちる。
歯車の谷に残る新しい油が、ゆっくりと広がる。
「動いた」
ミラベルが呟く。
「手動ではな」
ゴルムが荒い息の間から言った。
「荷を載せれば、もっと重い」
「成人男性一人を載せられる幅はある」
レオンは昇降台を見た。
骨箱だけを運ぶには大きい。
小棺を載せるための台。
その上へ。
人間一人を横たえることもできる。
「上げるぞ」
グレアムが言った。
「一目盛りずつだ」
レオンが縦坑を見上げる。
歯車が回る。
鎖が巻き取られる。
昇降台が、暗い縦坑の中へ入っていく。
一目盛り。
停止。
『異常なし』
二目盛り。
停止。
『まだ音はありません』
三目盛り。
金属の擦れる音が、縦坑の中を昇る。
ゴルムの肩が上下する。
グレアムの靴が床を滑る。
「次は半目盛りだ」
レオンが言った。
鉄棒が、わずかに押される。
上方から。
鈍い音が落ちてきた。
木と鉄の間へ、重いものが触れた音。
「止めろ」
グレアムとゴルムが、同時に手を止めた。
安全爪が掛かる。
歯車が震え。
やがて静まった。
数秒後。
伝声管から、巡査の声が届いた。
『石棺の底で音がしました』
「変化は」
レオンが伝声管へ尋ねる。
『底部の内張りが、ごくわずかに持ち上がりました。側面の布は動いていません』
ミラベルが顔を上げた。
「内張りだけが?」
『いえ。布の下にある板と一緒に動いたように見えます。まだ隙間は開いていません』
レオンは暗い縦坑を見上げる。
光は見えない。
底板も開いていない。
だが。
地下から押された力に合わせて。
内張りと、その下の木板が一体で動いた。
「霊廟で見た縫い線は」
ミラベルが言った。
「石棺の側面へ布を戻した跡ではなかった?」
「底板の輪郭に沿っていた」
レオンが答える。
「古い内張りを、可動する板の上面へ固定し直した可能性がある」
「板が動けば、布も一緒に動く」
「ああ」
「死体を入れたあと、棺の中から縫い直さなくてもいい」
「最初から、動く底を普通の布張りに見せておけばな」
グレアムが縦坑を見上げた。
「板を留めるものは」
ゴルムが、灯りを上へ向ける。
「古い型なら、底面側に留め金がある。縦坑から解除して、戻すこともできる」
「上から触る必要はない?」
「構造が残っとるならな」
レオンが短く言った。
「下げろ」
「底面の留め具まで確かめなくていいのか」
グレアムが尋ねる。
「今日は、板が動く可能性まで確認した。これ以上動かせば、底部の固定状態や擦過痕を変える」
「完全に開くのは」
「構造を記録し、関係者を立ち会わせてからだ」
「慎重だな」
「証拠を壊してから、開いたと言っても遅い」
ゴルムとグレアムが鉄棒を逆へ回す。
昇降台がゆっくりと下りてくる。
地上から、巡査の声が届いた。
『底板は元の位置へ戻りました。内張りも、見た目には先ほどと変わりません』
床と同じ高さまで台が下がると、ゴルムが安全爪を掛け、固定棒へ視線を向けた。
だが。
グレアムが先に、その前へ立った。
「触るな」
「固定しなければ危ない」
「巡査にさせる。お前は手を出すな」
ゴルムの顔に、苛立ちが浮かんだ。
「わしの機械だ」
「墓苑の機械だ」
「記録上は、もう存在せん」
「なら、誰の物でもない機械へ、ずいぶん執着するんだな」
ゴルムは口を閉じた。
レオンが、外された配管と歯車軸を見た。
取り外し方が揃っていない。
一方は継手から外され。
別の管は途中で切られ。
小歯車の軸には、工具が滑った跡が残っている。
「市が撤去した部品ばかりじゃない」
レオンが言った。
「何を根拠に」
「正式な工事なら、同じ規格で処理する。ここは外し方も、工具の跡も違う。作業者と時期が一つではない」
グレアムがゴルムを見る。
「売ったな」
老人は黙った。
「墓苑の備品を持ち出して、売った」
「使わんものだ」
「誰が決めた」
「市は撤去済みと記録した!」
ゴルムの声が、地下へ響いた。
骨箱の棚の奥で、何度も反響する。
「記録の上では、ここに機械はない! 部品もない! 保守費も出ん! なのに排水が止まれば、骨箱が水に浸かる。灯りが消えれば、わしが責められる!」
老人の胸が大きく上下した。
「予備の弁。小歯車。使わん真鍮管。いくつか持ち出して、石工や古物商へ売った。その金で、生きとる排水ポンプの部品を買った」
「横領を修理費へ回したと?」
グレアムの声は冷たかった。
「好きに記録しろ」
「記録はする」
「殺人犯とも書くか」
「それは証拠が出ればな」
ゴルムがグレアムを睨む。
「わしは、こいつを昨夜動かしていない」
「誰かが動かしたことを知っているか」
「知らん」
「第二納骨環の鍵は、お前が管理している」
「そうだ」
「複製はないと言った」
「ない」
「では、誰が入れた」
「知らん!」
再び声が響く。
ミラベルは、怒りの下にあるものを見た。
部品の横流しを隠していた恐れ。
閉鎖設備が事件へ使われたかもしれないと知った動揺。
そして。
自分が最も疑われることへの焦り。
どれも、殺人を証明しない。
だが、彼がすべてを話している証明にもならなかった。
「昨夜は、どこにいたんですか」
ミラベルが尋ねた。
ゴルムの目が彼女へ向く。
「設備小屋だ」
「一人で?」
「一人だ」
「何時から?」
「日が落ちる前から寝とった」
「それを証明できる人は」
「墓地の機械屋が、寝るところまで立会人を呼ぶと思うか」
「では、アリバイはない」
「そうなるな」
ゴルムは吐き捨てた。
レオンが昇降機から目を離し、老人を見る。
「お前が部品を売ったことと、昨夜この機械が使われたことは別だ」
「なら、警部にも言ってやれ」
「だが、お前が嘘をついた理由が部品の横流しだけかどうかは確かめる」
ゴルムは答えなかった。
「この昇降機の操作方法を知る者は」
「昔の職員なら何人か」
「現在も墓苑にいる者は」
「わしだけだ」
「図面を読めば動かせるか」
「機械を知る奴なら」
「鍵を使わず、第二納骨環へ入る経路は」
「ない」
レオンは、暗い回廊の奥へ視線を移した。
旧排水路。
閉鎖された棺搬入口。
途中で切られた配管。
ゴルムが知らないと言えば、それだけで存在しないことになるのか。
地下の構造は、地上の区画台帳ほど整然としていなかった。
「ないことは、これから確かめる」
レオンが言った。
グレアムは巡査へ命じた。
「昇降機と縦坑を封鎖。歯車の油、床の埃、排水溝の泥を採取しろ。固定棒も、そのまま保全する。誰にも拭かせるな」
「仕事ができん」
「殺人現場かもしれん場所で、普段どおり仕事をされる方が困る」
「かもしれん、だろう」
「そうだ」
グレアムは認めた。
「ここが殺害現場とも、死体を運んだ場所とも、まだ断定はせん」
彼は昇降台と、その上に続く縦坑を見た。
「だが、記録上は撤去された機械が残り、手動で動く。ローデン家石棺の底まで通じている。それは確認した」
レオンは、三つのものを順に見た。
新しい潤滑油。
表面だけ埃の薄い固定棒。
周囲と積もり方の異なる床。
どれも。
それだけでは、昨夜の出来事を語らない。
だが。
十五年間、何も行われなかった場所だとも語っていなかった。
「ミラベル」
「はい」
「書いておけ」
彼女は記録帳を開く。
「旧棺昇降機は、十五年前に廃止され、撤去されたと記録されている」
ペンが走る。
「実際には残っている。手動で動作する。歯車には比較的新しい潤滑油がある」
次に。
冷却用通風管。
固定棒。
床。
「機械の周囲には、最近人の手が触れた可能性のある箇所が複数ある。ただし、いつ、何のために触れたかは未確認」
「そして」
ミラベルは、縦坑を見上げた。
「昇降台は、ローデン家霊廟の石棺底部へ接触した。底部の板と内張りは一体で、わずかに動いた」
「完全には開いていない」
「はい」
「地下側の留め具が、実際に解除できるかも未確認だ」
「それも書きます」
彼女は最後の一文を書いた。
――封印された石棺の下には、記録から消された機械と、動く可能性のある底が残っている。
頭上では。
地上の巡査たちが、石棺の底を検めているのだろう。
伝声管の奥から。
足音と。
低い話し声が、途切れながら落ちてくる。
昇降台は、もう動いていない。
それでも。
冷たい風だけが。
名のない地下道から、ローデン家の墓へ向かって流れ続けていた。




