第4節 ― 弟はあの墓にいる
第三環――共同墓地区へ近づくにつれ、墓碑は低くなっていった。
第一環に並んでいた名家の霊廟は、死者一人のために小さな屋敷ほどの石を使っていた。
ここにあるのは、人の背丈にも満たない石柱と、雨に削られた薄い墓石だった。一つの墓碑へ、三人、四人の名が刻まれている区画もある。土の間隔も狭く、墓参りに訪れた者同士がすれ違うには、どちらかが墓石へ身を寄せなければならなかった。
封鎖を告げる警笛が、霧の向こうから聞こえてくる。
墓苑内にいた参拝者たちは、すでに管理棟へ移されていた。
花だけが取り残されている。
雨に濡れた白い花。
倒れた花瓶。
墓石の前で燃え尽きた香。
生者を追い出された墓地は、本来の静けさよりも、ひどく不自然に静かだった。
「第三環のE三一八は、この先です」
マレク=ドーンが先頭を歩いていた。
彼は区画札を確かめることもなく、枝分かれする墓道を迷わず進む。
レオンはその背中ではなく、両側の墓を見ていた。
墓碑の名前。
区画番号。
供えられた花。
土の沈み。
補修された縁石。
ミラベルは、彼の視線の動きを追いかけるのを途中で諦めた。
「全部見るつもりですか」
「全部は見ていない」
「では、何を」
「手入れされている墓と、されていない墓の違いだ」
ミラベルは周囲を見回した。
磨かれた石。
苔に覆われた石。
花のある墓。
何もない墓。
刻まれた名が読めなくなったものもある。
「ノアさんの墓が手入れされているか、確かめるためですか」
「それもある」
「ほかには?」
「まだ言葉にするほど見ていない」
「便利ですね、その答え」
「見ていないものを見たと言うよりはいい」
少し前を歩いていたグレアムが振り返った。
「墓場で夫婦喧嘩みたいな真似をするな」
「していません」
ミラベルは即座に否定した。
レオンは何も言わなかった。
「お前も否定せんか」
「警部の誤認を一つずつ訂正していたら日が暮れる」
「まだ朝だ」
「だから余計に長い」
グレアムは低く唸り、前を向いた。
その先で、マレクが足を止める。
黒い鉄柱に、白い文字で区画番号が記されていた。
E三一八。
「こちらです」
その墓は、二本の細い樹木の間にあった。
灰色の墓碑。
豪華な彫刻も、家紋もない。
上部は緩やかな丸みを帯び、正面へ一人分の名前が刻まれている。
ノア=フェル。
生年。
没年。
享年十七。
文字の溝には、雨水が細く溜まっていた。
だが、刻まれた名前は明瞭に読める。
墓碑の表面に、苔はほとんどない。
土の上には新しい花が供えられていた。
白と淡紫の小さな花を、細い紐で束ねたものだった。
「放置された墓には見えませんね」
ミラベルが言った。
「実際、放置はされておりません」
マレクが答える。
「花守が定期的に清掃しております」
「墓苑の仕事として?」
「それもございます」
マレクは墓碑の脇へ視線を移した。
「ただし、この墓については、本人に聞かれた方がよろしいでしょう」
墓道の奥から、箒が石を擦る音が聞こえてきた。
一人の女性が歩いてくる。
深緑色の作業外套。
腰には剪定鋏と布袋。
片手に、濡れた枝箒を持っている。
年齢は三十代後半ほどに見えた。
細身の顔。
雨に濡れた暗褐色の髪の間から、エルフ族特有の長い耳が覗いている。
彼女は警官たちを見た。
次にレオン。
ミラベル。
そして最後に、マレクへ視線を止めた。
「墓苑を閉じたと聞きました」
「そのとおりです、リディア」
「では、なぜこの人たちは弟の墓にいるんです」
声は静かだった。
静かすぎて、その奥にある警戒がよく分かった。
グレアムが一歩前へ出る。
「市警のグレアムだ」
「知っています」
「なら話が早い。ローデン家の霊廟で死体が見つかった」
リディアの指が、箒の柄を強く握った。
だが、驚きの言葉は出なかった。
「誰の」
「シラス=モーン」
枝箒の先から、雨水が一滴落ちた。
石畳へ当たり、小さく弾ける。
リディアの顔から、わずかに色が失われた。
「そうですか」
それだけだった。
グレアムの目が細くなる。
「知っていたな」
「墓苑へ何度も来ていた人です」
「そういう意味じゃない」
グレアムの声が硬くなった。
ミラベルは二人の間へ割って入るように、半歩前へ出た。
「リディア=フェルさんですね」
女性の視線が、ミラベルへ移る。
「あなたは?」
「ミラベル=ワトリアです。記者ですが、いまはレオン=クラウスさんの調査を手伝っています」
「新聞にするんですか」
「まだ何を書くかは決めていません」
「書かないとは言わないんですね」
「決める前に、話を聞きたいんです」
リディアはしばらく、ミラベルの顔を見ていた。
取り繕った同情がないかを確かめるような目だった。
やがて、箒を墓道の端へ立てかける。
「何を聞きたいんです」
「ノア=フェルさんについて」
リディアの表情が変わった。
警戒が薄れたわけではない。
ただ、その向きがミラベルから、墓前に立つ者たち全員へ広がった。
「なぜ弟のことを?」
グレアムが答えようとした。
ミラベルは小さく手を上げ、それを止めた。
警部は不満そうな顔をしたが、黙った。
「シラスさんの胸元から、真鍮の埋葬札が見つかりました」
ミラベルは言葉を選びながら続けた。
「そこに、ノア=フェルさんの名前が刻まれていました」
リディアは動かなかった。
風が作業外套の裾を揺らす。
視線だけが、弟の墓碑へ向いた。
「間違いです」
「札の名前は確認されています」
「そういう意味ではありません」
声が低くなる。
「弟の札が、そんな男のところにあるはずがない」
「本来は、弟さんの棺か遺骨とともにあるものです」
「本来も何もありません」
リディアは墓碑の前へ歩いた。
濡れた土を踏み、花束の脇へ膝をつく。
素手で墓碑の表面を撫でた。
指先が、ノアという名の溝をなぞる。
「弟の墓は、ここです」
レオンが墓碑を見た。
「台帳にも、同じ区画が記されている」
「なら、何を調べているんです」
「札が別の場所から見つかった理由だ」
「誰かが盗んだのでしょう」
「可能性はある」
「ほかに何があるんです」
「札だけではなく、遺骨も移された可能性がある」
リディアが振り向いた。
その眼差しは、刃物のように鋭かった。
「弟を掘り返したと言うんですか」
「言っていない」
「いま言ったでしょう」
「可能性だと言った」
レオンの声は変わらない。
それがかえって、リディアの怒りを刺激した。
「言葉を分ければ、聞いた方が傷つかないとでも?」
「傷つくかどうかで、起きたことは変わらない」
「レオン」
ミラベルが名を呼んだ。
責める響きは強くなかった。
それでもレオンは、それ以上続けなかった。
ミラベルはリディアの隣へ膝をついた。
土が外套の裾へ付いたが、気にしなかった。
「この花は、リディアさんが?」
「ええ」
リディアは墓碑へ向き直った。
「月に一度、替えています。雨が多い月は、もっと早く」
「苔も?」
「私が落としています」
指先で墓碑の角を擦る。
古い石には小さな欠けがあったが、名前を覆う苔はない。
「仕事としてではなく?」
「弟の墓です」
答えは短かった。
当然のことを聞くなという声音だった。
ミラベルは土の上に置かれた花を見た。
茎の切り口はまだ白い。
雨に打たれてはいるが、萎れていない。
「ここへ来ると、何を話すんですか」
グレアムが眉を動かした。
事件の聞き取りとしては遠回りに思えたのだろう。
だが、リディアは答えた。
「その月にあったことを」
「仕事のことも?」
「仕事のことも。腹が立ったことも。嬉しかったことも」
リディアの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「弟は、聞くのが上手でしたから」
「返事はないのに?」
尋ねたあと、ミラベルは自分の言葉が不用意だったと気づいた。
「すみません」
「いいんです」
リディアは笑みを消した。
「返事がないことには、十七年前に慣れました」
墓碑の下部。
花束の陰に、小さな石片が置かれている。
ミラベルは、それに気づいた。
「これは?」
手を伸ばさずに尋ねる。
石片は、手のひらに収まるほどの大きさだった。
表面に、一羽の鳥が彫られている。
翼は左右で少し形が違い、嘴もわずかに曲がっていた。
上手な彫刻とは言えない。
それでも、硬い石から鳥を出そうとした手の跡が残っていた。
「ノアが彫りました」
リディアの声が、初めて柔らかくなった。
「石工見習いだったころのものです。名前を彫る練習ばかりでは飽きるからと、余った石に鳥を彫っていました」
「弟さんが最後に彫ったものですか」
「ええ」
リディアは石片を拾い上げなかった。
そこに置かれた状態のまま、指先で鳥の輪郭を示す。
「翼の片方を直すと言っていました。結局、そのままです」
レオンが少し離れた位置から石片を見た。
「埋葬したときに置いたのか」
「葬儀の翌日に」
「それからずっと?」
「ええ」
「一度もなくなっていない?」
リディアの目に、また警戒が戻る。
「何が言いたいんです」
「事実を確かめている」
「十七年間、ここにあります」
「墓石の修理や区画整理で動かされたことは」
「ありません」
「誰かが触った形跡は」
「私以外の人が花を置くことはあります。けれど、その石を持ち去った人はいません」
レオンはうなずいた。
「鳥の石片が墓の上に残っている。それは確認できる」
「弟がここにいることも確認できるでしょう」
「それは別の事実だ」
リディアの目が吊り上がる。
「また言葉を分けるんですね」
「墓碑がある。名前もある。あなたが毎月ここを訪れ、花を替え、苔を落としてきた。鳥の石片も残っている」
レオンは一つずつ言った。
「この場所が、ノア=フェルの墓として十七年間扱われてきたことは確認できる」
「なら――」
「だが、土の下に誰がいるかは別の事実だ」
リディアは立ち上がった。
「証明」
その言葉を、吐き捨てるように繰り返す。
「墓碑も、名前も、埋葬記録もある。私は毎月来ている。弟が彫ったものも置いてある。それでも足りないんですか」
誰も答えなかった。
リディアは墓碑へ掌を当てた。
冷たい石へ、自分の体温を移すように。
「弟は、ここにいます」
声は震えていなかった。
「ここにいなければ、私は十七年間、誰に話しかけていたんですか」
霧が墓道を横切った。
青白い墓地灯は消えている。
それでも墓碑の濡れた文字だけが、薄い朝の光を返していた。
ノア=フェル。
石は、その名を示している。
だが。
ミラベルには、リディアの問いへ答える言葉がなかった。
弟の遺骨がここにあるかどうかと。
姉が十七年間、ここで弟へ語りかけてきたこと。
二つは同じではない。
けれど、簡単に切り離せるものでもなかった。
「シラス=モーンも、同じことを言ったんですか」
ミラベルが静かに尋ねた。
リディアの肩が動いた。
「……何のことです」
「シラスさんは、亡くなる前にこの墓を調べていたんですね」
グレアムが一歩進む。
「墓苑職員から聞いた。数日前、お前とシラスがこの辺りで言い争っていたそうだ」
リディアは墓碑から手を離した。
「言い争いではありません」
「では何だ」
「一方的に、あの男が弟を侮辱しただけです」
「何と言った」
グレアムの問いに、リディアは答えなかった。
枝から落ちた水滴が、墓碑の上で砕ける。
「リディアさん」
ミラベルが呼びかける。
「シラスさんは、この墓で何をしていたんですか」
「墓碑を測っていました」
「測っていた?」
「区画番号を確認して、土を見て、何かを帳面へ書いていた」
「墓を開けましたか」
「いいえ。開けてはいません」
「掘った跡は?」
「ありません」
レオンが墓の土を見る。
雨で表面は濡れている。
だが、近年大きく掘り返されたかどうかを、この場だけで断定することはできない。
「シラスは一人だったか」
「最初は」
「途中から誰か来た?」
「私が来ました」
リディアは短く答えた。
「花を替える日だったので」
「シラスに、何を調べているのか聞いた」
グレアムが言う。
「ええ」
「何と答えた」
リディアの唇が固く結ばれた。
ミラベルは急かさなかった。
事件を解くために必要な証言でも、言葉にする者にとっては、もう一度その場へ戻ることになる。
沈黙もまた、時間を必要とする。
やがて。
リディアが墓碑を見たまま言った。
「最初は、何も答えませんでした」
声が低い。
「記録を確認しているだけだと。あなたには関係がないと」
「それで?」
「関係がないはずがないでしょう。弟の墓です」
リディアの指が、作業外套の布を掴む。
「私は、弟の墓に何か問題があるのか聞きました。移すつもりなのか。撤去するつもりなのか。何度も聞きました」
「シラスは?」
「墓碑を見ていました」
リディアは目を閉じた。
数日前の光景を、霧の向こうから引き戻すように。
「それから、私を見て言ったんです」
雨の音が、遠ざかったように感じられた。
「ここには、あなたの弟はいない」
ミラベルの指が、記録帳の上で止まった。
グレアムの顔から、わずかな苛立ちが消える。
代わりに、刑事の目が現れた。
「その言葉どおりか」
「忘れるはずがありません」
「理由は説明したか」
「しませんでした」
「何か証拠を見せたか」
「いいえ」
「台帳や札の話は?」
「何も」
「ただ、弟はいないと言った」
「ええ」
リディアは顔を上げた。
怒りが戻っていた。
「まるで、私が十七年間、空の土に花を置いていたみたいに」
「それで、どうした」
グレアムが尋ねた。
リディアは答えなかった。
だが、右手が無意識に握られた。
ミラベルは、その動きを見た。
「シラスさんを殴ったんですね」
リディアの視線が、ゆっくりとミラベルへ向く。
否定はなかった。
「一度です」
「どこを」
「顔を」
「右手で?」
「ええ」
グレアムが彼女の右手を見る。
指の関節に、目立つ傷はない。
口論から数日が経っている。
それだけでは、何も決められない。
「シラスは倒れたか」
「よろめいただけです」
「怪我は」
「口の端が切れていました」
「ほかには」
リディアの指が、再び作業外套を握る。
「言いました」
「何を」
彼女は、すぐには答えなかった。
弟の墓碑を見たまま、低い声で言う。
「弟の墓を開けるなら、あなたも同じ場所へ入れてやる、と」
霧の中で。
誰かが、小さく息を呑んだ。
「殺すと脅したんだな」
グレアムの声が、さらに低くなる。
「本当に殺すつもりで言ったんじゃありません」
「脅したことは認める」
「弟を掘り返されると思ったんです」
「それでも、言った言葉は消えん」
「分かっています」
リディアは視線を逸らさなかった。
「殴って。脅して。それでも、あの男は怒りませんでした」
「怒らなかった?」
「ええ」
その答えに、グレアムが眉を寄せる。
「血を拭いて……私に謝りました」
「謝った?」
ミラベルが尋ねた。
「言い方が悪かった、と」
「弟さんがいないという言葉を取り消したんですか」
「いいえ」
リディアは墓碑の名前を見つめた。
「取り消しませんでした」
「ほかに何か言ったか」
「まだ確かめることがある、とだけ」
「それが最後に話した言葉か」
「ええ」
グレアムは、口元を歪めた。
「数日前に被害者を殴り、同じ墓へ入れてやると脅したことを、なぜ最初に言わなかった」
「聞かれませんでした」
「死体の名前を聞いたときに言えた」
「私が殴ったから死んだとでも?」
「それを調べるのが俺の仕事だ」
「一度、顔を殴っただけです」
「シラスの致命傷は後頭部だ」
グレアムの言葉に、リディアの目が見開かれた。
「後頭部?」
「お前が殴った場所とは違う。だが、それで何も聞かずに済ませるわけにはいかん」
リディアは反論しかけ、やめた。
怒りの勢いだけでは、警部の言葉を押し返せないと悟ったのだろう。
「私は殺していません」
「その言葉は記録する」
「信じないんですね」
「信じるかどうかと、確かめるかどうかは別だ」
グレアムの言い方は、レオンより荒い。
だが、意味はよく似ていた。
リディアは再び墓碑へ手を置いた。
「弟を侮辱されたから殴りました」
「その理由も記録する」
「私を連れていくんですか」
「今すぐ逮捕はせん。だが、墓苑の外へは出るな。正式な聴取は受けてもらう」
「花の手入れが――」
「今日は墓苑全体が封鎖中だ」
リディアは唇を噛んだ。
ミラベルは、墓前の花へ目を落とす。
「シラスさんが言ったことを、信じていますか」
リディアが彼女を見る。
「弟がここにいないという言葉です」
「信じません」
「少しも?」
「信じる理由がありません」
「埋葬札が、別の場所から見つかっても?」
問いを口にしたミラベル自身が、その残酷さを感じていた。
リディアはすぐには答えなかった。
墓碑。
花。
鳥の石片。
十七年間続いた訪問。
それらを順番に目で確かめる。
「札が、どうしてそこにあったのかは分かりません」
やがて彼女は言った。
「でも、弟はここにいます」
同じ言葉だった。
今度は、先ほどより小さかった。
強く言い切ることで、自分自身へ確かめているようにも聞こえた。
レオンは墓碑の側面を見ていた。
名前は削られていない。
移転を示す表示もない。
周囲の土に、目立つ陥没はない。
花は新しい。
苔は落とされている。
鳥の石片も、十七年前からここにあるという。
「この墓が忘れられていたわけではないことは分かった」
レオンが言った。
リディアが振り向く。
「それだけですか」
「今、地上から確認できるのはそれだけだ」
「では、弟がいることを、どうすれば信じるんです」
レオンは答えなかった。
彼の視線が、墓碑から、その下の土へ落ちる。
死者の名を刻んだ石。
毎月替えられた花。
姉の手で落とされた苔。
弟が彫った鳥。
地上に残されたものはすべて、ノア=フェルという一人の少年を指していた。
ただし。
土の下だけは見えない。
グレアムも同じ場所を見ていた。
「開けるしかないか」
誰へ言うでもなく、低く呟く。
リディアの顔が強張った。
「墓を?」
「許可なしには開けん」
「許可が出たら開けるんですか」
「札が別の場所から出た。台帳には、正式な記録のない地下移管の印がある。被害者は、弟がこの墓にいないと言った」
グレアムは一つずつ、事実だけを置いた。
「お前には、シラスを殴り、脅した理由がある」
リディアの顔から血の気が引く。
「土の下を確かめずに終わらせるには、材料が揃いすぎとる」
「警部」
ミラベルが止めようとしたが、リディアが首を振った。
「いいんです」
彼女は鳥の石片へ指を触れた。
拾い上げず。
動かさず。
そこにあることだけを確かめる。
「開けてください」
先ほどまでの怒りは消えていた。
「弟がここにいると、確かめてください」
霧の中で、墓碑の文字が濡れていた。
ノア=フェル。
名は、正しい場所に刻まれている。
花も。
姉の記憶も。
少年の彫った鳥も、そこにある。
それでも。
その墓の下に眠る者の名前だけは。
まだ、誰にも読むことができなかった。




