第3節 ― 灰環大墓苑の記録
灰環大墓苑の管理棟は、死者の数に比べて小さすぎる建物だった。
第一環と第二環の境に建つ、二階建ての灰煉瓦造り。
正面には半円形の窓が三つ並び、その内側を鉄格子が覆っている。屋根から伸びた細い煙突は、墓苑の霧より濃い蒸気を吐いていた。
入口の真鍮板には、
《灰環大墓苑管理棟》
と刻まれている。
文字の下には、長年ここを訪れた手袋や指先に磨かれた跡があった。
中へ入ると、雨と土の匂いが途切れた。
代わりに鼻へ届いたのは、乾いた紙、革表紙、保存油、古い金属、そして防虫香の匂いだった。
壁一面を帳簿棚が占めている。
棚には年代と区画を示す真鍮札が取り付けられ、床には移動式の書架を動かすための細い軌条が敷かれていた。
死者は土の下へ埋められる。
その名前は、この建物の棚へ埋められていた。
「入口を閉めろ」
グレアムの命令で、巡査が扉を閉じた。
錠の落ちる音が、静かな室内へ重く響く。
「記録庫と執務室には、警官を一人ずつ置け。許可なしに帳簿を動かすな。抜き取るな。書き足すな。消すな」
「はい、警部」
巡査が持ち場へ向かう。
マレク=ドーンは、その様子を止めようとはしなかった。
黒い礼服の袖を整え、管理棟中央の閲覧卓へ歩いていく。
「必要な記録をお申し付けください。墓苑としても、捜査へ全面的に協力いたします」
「最初から、そう言えばいい」
グレアムが答えた。
マレクの声は変わらなかった。
穏やかで。
丁寧で。
墓前で遺族へ頭を下げるときと、同じ調子に聞こえた。
彼は閲覧卓の上へ、四つの品を並べた。
一枚の書類。
小さな真鍮札。
分厚い革表紙の台帳。
そして、墓碑の縮図が記された区画図。
「一つの墓へ、どうして四種類もの記録が必要なんです?」
ミラベルが尋ねた。
すでに記録帳を開いている。
マレクは、最初の書類へ手を添えた。
「一つが失われても、残る記録から死者を照合できるようにするためです。第一に、埋葬許可証」
紙の上部には、市政記録局の印章があった。
「市が認定した死亡記録をもとに発行されます。氏名、死亡日、埋葬予定日、墓苑、区画番号が記される」
「埋めてもよいという許可ですね」
「はい。ただし、実際に埋葬を終えた証明ではありません」
レオンが書類を見たまま言った。
「予定された死者と、予定された場所を結ぶ記録だ」
マレクは小さくうなずき、真鍮札を持ち上げた。
霊廟で発見されたものではない。
制度説明用に保管されている、文字の打たれていない見本だった。
「第二に、埋葬札です。遺体を棺へ納める際、または遺骨を骨箱へ移す際に取り付けます」
「紙が失われても、死者を見分けるため?」
「湿気、火災、虫害。地下では、紙が長く残らないこともございます」
マレクは札を指先で裏返した。
「ですから、名前と埋葬番号を金属へ打刻する。この札は、死者とともにあることを前提とします」
札が卓上へ戻される。
わずかな金属音だった。
だが、ミラベルには、ローデン家の石棺で見た札の重さが蘇った。
ノア=フェル。
第三環・共同墓地区E三一八。
享年十七。
その札は、ノアとともにはなかった。
シラス=モーンの胸に置かれていた。
「三つ目が、この台帳ですか」
ミラベルが革表紙へ目を向ける。
「墓苑区画台帳です」
マレクが帳簿を開いた。
厚い紙面へ規則正しい罫線が引かれ、一行ごとに氏名、種族、埋葬日、区画番号、許可証番号、埋葬札番号が記されている。
「どの区画へ、誰を、いつ埋葬したか。この管理棟で保管する正式記録です」
「書き間違えた場合は?」
「二本線で訂正し、訂正者の署名と日付を加えます。元の文字を削ることも、塗り潰すことも認められません」
「頁の差し替えは」
レオンが尋ねた。
「綴じ糸と頁印で確認できます。綴じ直しには、管理主任と市政記録局員を含む二名以上の立会いが必要です」
「制度は、守られることを前提に作られている」
レオンが言った。
「当然です」
「犯罪も、その前提を利用する」
マレクの指先が止まった。
ほんの一瞬。
それから、最後の区画図へ手を移す。
「第四に、墓碑です。遺族が提出した記名内容を、埋葬許可証と区画台帳へ照合したうえで刻みます」
「石工が自由に名前を刻むわけではない」
「はい」
ミラベルは、卓上の四つを順に見た。
「埋葬許可証が、誰をどこへ埋める予定かを示す。埋葬札が、その棺や骨箱の中身を示す。区画台帳が、実際に誰をどこへ埋葬したかを残す。そして墓碑が、墓を訪れる人へ名前を示す」
「その四つが一致することで、一人の死者と一つの墓所が結ばれます」
マレクは言った。
「死者にできる最後の礼儀は、名前を間違えないことです。そのための仕組みでもあります」
「では」
ミラベルは、真鍮札へ視線を戻した。
「四つが別の死者を示した場合は?」
マレクの指が、台帳の端で止まる。
「通常、そのようなことは起こりません」
「起きた」
レオンが言った。
「許可証と台帳と墓碑は、ノア=フェルが第三環へ埋葬されたと示している。だが、本人とともにあるはずの札は、ローデン家の石棺から出た」
「現時点で確認できているのは、札が別の場所にあったという事実だけです」
マレクは慎重に答えた。
「ノア=フェルの遺骨が、墓にないと確定したわけではありません」
「そのとおりだ」
レオンは即座に認めた。
「札だけが動かされた可能性は残っている」
「シラスさん自身が持っていた可能性も?」
ミラベルが尋ねる。
「ああ。誰が、いつ、何のために札を持ち出したのかは分からない」
「いま確かなのは」
「札が、本来あるべき場所にないことだけだ」
ミラベルは、その言葉を記録した。
――本来あるべき場所にない。
今朝から、その一文ばかりが増えていく。
死体。
埋葬札。
石棺の内張り。
靴に付いた赤土。
どれも存在している。
ただ、正しい場所にない。
「ノア=フェルの台帳を」
レオンが言った。
マレクは振り返り、棚に並ぶ真鍮札を目で追った。
迷わなかった。
「第三環。十七年前の埋葬記録ですね」
彼は移動書架の取っ手を回した。
低い歯車音とともに、二列の書架が左右へ開く。
奥から一冊の台帳を取り出し、両手で閲覧卓へ運んだ。
「よく覚えているな」
グレアムが言う。
「ここへ記された方々は、すべて私どもがお預かりした死者です」
マレクは台帳を開いた。
「名前を忘れては、この仕事は務まりません」
頁を繰る指が、ある箇所で止まる。
ノア=フェル。
エルフ族。
享年十七。
埋葬許可証番号。
埋葬札番号。
第三環・共同墓地区E三一八。
埋葬日は、十七年前の日付だった。
「許可証も見せてください」
ミラベルが言った。
マレクは別の棚から、薄い書類箱を取り出す。
番号順に綴られた許可証の中から、ノアの一枚を選んだ。
市政記録局の印章。
記録番号。
ノア=フェルという氏名。
死亡日。
埋葬予定日。
灰環大墓苑。
第三環・共同墓地区E三一八。
レオンは手袋を替えた。
書類を灯りへ透かし、紙の繊維を見る。
印章の周囲。
インクの沈み方。
番号の筆圧。
裏面。
ミラベルは、彼の目が文字を読むのではなく、文書そのものを解剖していくのを見ていた。
「改変の痕跡はない」
レオンが言った。
「ノア=フェルは十七年前に死亡し、正式な許可を受け、この区画へ埋葬された。そこまでは、記録がつながっている」
「墓碑の記録も?」
マレクが区画図を広げる。
第三環。
E列。
三一八番。
小さな長方形の区画に、ノア=フェルの名が記されている。
「墓が撤去されていれば、どうなります?」
ミラベルが尋ねた。
「区画へ斜線を入れ、移転日と移転先を併記します。墓碑にも移転表示を加えます」
「どちらもない」
「ございません」
ノアは死亡した。
灰環大墓苑へ運ばれた。
第三環・共同墓地区E三一八へ埋葬された。
許可証も。
台帳も。
区画図も。
墓碑の記録も、その事実を示している。
それなのに。
本人とともにあるはずの真鍮札が、別の死体の胸に置かれていた。
「何かが動いたなら」
ミラベルが言った。
「その記録も残るはずなんですね」
「正式な手続きで動かしたなら」
レオンの視線が、台帳へ戻る。
「どこかに残る」
彼はノアの記載欄へ顔を近づけた。
氏名。
種族。
埋葬日。
区画番号。
許可証番号。
札番号。
黒いインクで記された一行の右端。
罫線と革綴じの影へ紛れるように、小さな鉛筆の跡があった。
「灯りを」
ミラベルが携帯灯を寄せる。
「近すぎる」
「まだ近づけていません」
「そのままでいい」
「注文を出す前に見てください」
斜めから光を受け、薄い鉛筆線が浮かび上がる。
文字ではなかった。
短い横線と、それを囲むような半円。
横には、小さな数字が添えられている。
六年前を示す年号だった。
正式な記載に使われたインクとは、明らかに異なる。
「これは何だ」
グレアムが尋ねた。
マレクは台帳を覗き込んだ。
「地下移管を示す、事務上の印です」
「正式な記号ですか」
ミラベルが問う。
「いいえ」
マレクは答えた。
「墓苑の記号規程にはございません。移管候補を整理するとき、担当者が鉛筆で付ける補助印です」
「正式記号ではない」
レオンが確かめる。
「はい。これだけでは、移管が行われたことにはなりません」
「正式に地下へ移す場合は?」
「移転許可証を作成し、台帳へ移転日と移転先をインクで追記します。墓碑にも表示を加え、埋葬札は遺骨とともに移します」
「そのどれも、ここにはない」
ミラベルが言った。
マレクは否定しなかった。
「この印を付けるのは誰だ」
グレアムが尋ねる。
「記録担当者です」
「お前も使うのか」
「使用したことはございます。ほかの担当者も使います」
「記号表にもない印を、全員が同じ形で?」
「業務の中で、自然に共有されたものです」
「誰が始めた」
「記録には残っておりません」
グレアムが鼻から息を吐いた。
「記録主任の口から聞くと、よくできた冗談だな」
マレクは表情を変えなかった。
レオンはノアの頁を開いたまま、前後の台帳を調べ始めた。
同じ記号は、すぐには見つからなかった。
十頁。
二十頁。
別の年度の台帳。
やがて、似た鉛筆印が一つ現れた。
さらに二つ。
いずれも正式な移転記録が追記されていない墓だった。
「この三頁を見ろ」
レオンが言った。
グレアムとミラベルが、台帳を覗き込む。
頁の下部には、記入者と確認者の署名欄があった。
一頁は、マレクが記入している。
残る二頁には別の書記の署名があるが、主任確認欄にはマレクの名があった。
「同じ印は、マレクさんが関わった頁にある」
ミラベルが言った。
「いま見た範囲ではな」
レオンは釘を刺した。
「主任なら、多くの頁を確認する。署名があることだけで、この印を書いた者までは決められない」
「偏りがあることは?」
「調べる価値はある」
レオンは三つの頁番号を記録させた。
「同じ年代の全台帳から、この印を拾う。記入者、確認者、移転記録の有無を照合しろ」
グレアムが巡査へ命じる。
「印のある頁は勝手に閉じるな。順番に写しを取れ」
「はい」
マレクは作業を見守っていた。
「それで、ノアの移転許可証は」
グレアムが言った。
「六年前の書類を確認いたします」
マレクが移転書類の箱を取り出す。
封緘と管理番号を巡査に確認させ、一枚ずつ卓上へ並べていく。
古い個人墓。
共同墓。
親族の申し出による改葬。
区画整理に伴う地下納骨。
別の墓苑への移送。
紙をめくる音だけが、管理棟へ続いた。
窓の外では、風が墓苑の樹木を揺らしている。
枝先から落ちた雨粒が、窓硝子へ細かく当たった。
最後の許可証が、箱の反対側へ置かれる。
ノア=フェルの名はなかった。
前後の年度。
氏名索引。
埋葬番号。
区画番号。
四つの索引から照合しても、移転記録は見つからない。
「正式な移転許可証はない」
グレアムが言った。
「移転先の記録もない」
ミラベルが続ける。
「墓碑にも、移転表示はない」
レオンは鉛筆の印を見た。
「確認できたのは三つだ」
指先で、ノアの正式記載を示す。
「ノアは十七年前に死亡し、第三環・E三一八へ埋葬された」
次に、鉛筆の印。
「六年前、誰かがこの墓を地下移管の対象として扱った」
最後に、空白の移転欄。
「だが、その後の正式な記録はない」
「実際に遺骨が移されたかは」
ミラベルが尋ねる。
「まだ分からない」
「この印を書いたのが誰かも」
「分からない」
「マレクさんの関わった頁に多いことは」
「調査すべき偏りだ。犯人の証明ではない」
レオンは台帳を閉じなかった。
「墓を見れば、もう少し分かる」
「すぐ開けるのか」
グレアムが尋ねる。
「いや。まず、地上に残っているものを見る」
「墓碑と区画?」
「管理状態もだ。移された墓なら、長く使われていない痕跡があるかもしれない」
ミラベルは区画図のE三一八へ目を向けた。
「誰かが、いまも訪れている可能性もありますね」
その問いに。
マレクの目が、ほんのわずかに動いた。
「ノア=フェルの墓は、花守が清掃しております」
「花守だけですか」
「姉が訪れています」
「リディア=フェル」
レオンが言った。
「ご存じでしたか」
「札の照会記録に、親族名があった」
「どのくらいの頻度で?」
ミラベルが尋ねる。
「毎月です」
答えは、あまりにも早かった。
三十年以上、墓苑にいる男。
訪れる者の顔と、故人の名を覚えている記録主任。
彼なら知っていても、不自然ではない。
それでも。
ミラベルは、ノアの記録へ残された鉛筆の印を見た。
正式な移転記録はない。
墓碑は残っている。
姉は毎月、その墓を訪れている。
「無縁の墓ではないんですね」
ミラベルが言った。
マレクは、わずかに間を置いた。
「現在、区画台帳上は通常墓所として扱われています」
答えは正確だった。
だが。
ミラベルが尋ねたことへの答えではなかった。
レオンが革手袋を直す。
「案内してもらおう」
「ノア=フェルの墓へ、ですか」
「墓と、そこを訪れる者へだ」
管理棟の扉が開かれた。
冷たい霧が、乾いた記録庫の床へ薄く流れ込む。
棚の中には、何千人もの死者が、区画と番号を与えられて並んでいた。
ノア=フェルの記録も、その一つだった。
死亡記録は正規だった。
埋葬日も合っていた。
墓の場所も、墓碑の名も残っていた。
ただし。
六年前。
誰かが、その名前の脇へ。
正式な記録を残さないまま。
ノアの遺骨を地下へ移したものとして扱おうとした印を、残していた。




