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第2節 ― 墓碑には別人の名がある

 灰環大墓苑の正門は、閉ざされていた。


 黒い鉄柵の向こうに、雨を吸った墓碑が並んでいる。石の列は灰色の霧へ沈み、遠くなるほど輪郭を失っていた。


 門前には、墓参りを断られた者たちが集まっている。


 花籠を抱えた老婦人。


 黒布を腕へ巻いた親子。


 雨に濡れた香草を胸元へ抱きしめ、警官へ詰め寄る若い男。


 何が起きたのか、警官たちは答えなかった。


 答えられないのではない。


 グレアム警部から、まだ何も話すなと命じられているのだ。


「墓地を封鎖すると、死者より生者の方が騒ぎますね」


 ミラベルは正門脇で足を止めた。


 片手には革表紙の記録帳。もう一方の手で、風に煽られる帽子を押さえている。


 隣を歩くレオンは、集まった人々ではなく、門の蝶番へ目を向けていた。


「墓は、死者が使う場所じゃない」


「では、誰が使うんです?」


「生き残った者だ」


 レオンはそれだけ言い、市警の巡査へグレアムから届いた呼出状を渡した。


 巡査は紙面を確認すると、二人を通すため、鉄門を人一人が通れる幅だけ開いた。


「第一環、ローデン家霊廟です。警部がお待ちです」


「待っている顔ではなさそうですね」


 ミラベルが、霧の奥を見た。


 墓碑の間を、濃紺の外套を着た小柄な影がこちらへ歩いてくる。


 グレアム警部だった。


 雨で濡れた制帽を深く被り、口元には火の点いていない葉巻を咥えている。


「遅いぞ、クラウス」


「呼出状には、死体が逃げるとは書いていなかった」


「逃げんから困っとるんだ」


 グレアムはレオンを睨み、続いてミラベルへ視線を移した。


「嬢ちゃんまで連れてきたのか」


「私は自分で来ました」


「この男の隣にいると、墓地へ来る回数まで増えるぞ」


「警部が呼ばなければ、減ります」


 グレアムは何も言い返さず、葉巻を口の端へ移した。


「……二人とも来い。死体はまだ動かしていない」


 三人は墓碑の列を抜けた。


 第一環へ近づくにつれ、墓は大きくなる。


 一人分の石碑ではない。


 門と屋根を持ち、壁には家紋を刻み、死者のためだけに小さな礼拝堂を建てたような霊廟が並んでいる。


 その奥に、ローデン家霊廟はあった。


 入口の石段には縄が張られ、二人の巡査が立っている。周囲の泥地には板が敷かれていた。捜査員たちが不用意に足跡を増やさないためだ。


「夜間の侵入痕は」


 レオンが歩きながら尋ねた。


「今のところない。霊廟の扉は施錠されていた。鍵は墓苑管理棟とローデン家が一本ずつ保管している」


「使われた形跡は?」


「鍵穴に新しい傷はない。扉の内側にも異常なしだ」


「窓は」


「ない」


「換気口」


「人間が通れる大きさじゃない」


「墓苑の外周は?」


「雨のあとだ。塀を越えたなら泥に跡が残る。だが、それらしいものは見つかっとらん」


 レオンは答えず、霊廟の入口を見上げた。


「何だ」


「よく調べたと思っている」


「口から褒め言葉を出すと死ぬ病気か、お前は」


「まだ病名は記録されていない」


 ミラベルは二人の後ろで、小さく息を吐いた。


 いつものやり取りだった。


 だが、霊廟の中へ足を踏み入れた瞬間、二人とも口を閉じた。


 湿った石の冷気が、衣服の内側まで入り込んでくる。


 中央には、開かれた石棺。


 吊具に支えられた石蓋が、その上で宙に浮いていた。


 携帯蒸気灯の青白い光が、棺の中へ落ちている。


 死体は仰向けに横たわっていた。


 黒い外套。


 胸の上に重ねられた手。


 血の気を失った顔。


 二十九年前に閉じられた棺には、あまりにも新しすぎる死だった。


 ミラベルの足が、石棺の手前で止まった。


 何度事件現場へ立っても、死体をただの物として見ることはできない。


 その感覚を失わないことが、自分の役目だと思っている。


 石壁の近くには、セシリア=ローデンが立っていた。


 先ほどまで叔父の遺骨が石棺にあると信じていた女性は、黒い手袋を組み合わせ、警官たちの検分を見守っている。


 死体の下にアーネスト=ローデンの遺骨が残されているのか。


 それとも、すでに失われているのか。


 まだ誰にも分からなかった。


「シラス=モーン」


 グレアムが言った。


「四十七歳。市政記録局の埋葬記録監査官。墓苑の記録主任が顔を確認した。記録局にも照会中だ」


「死亡時刻は」


「検視官の仮見立てでは、一日以内。ただし、少し妙なところがある」


「何が」


 グレアムが、霊廟の隅にいた検視官を呼ぶ。


 検視官は手袋をはめたまま、棺の外から死体を示した。


「体表温度だけを見れば、死亡からそれほど長く経過していないような印象を受けます」


「それだけなら、妙ではないでしょう」


 ミラベルが言った。


「硬直の進み方が、その印象と一致していないんです」


 検視官は、シラスの顎と肘の位置を順に示した。


「関節の硬直は、体表温度から受ける印象より先へ進んでいる。現場の環境条件も分かっていません。体表温度だけで死亡時刻を確定することはできません」


「正確な時刻は」


 レオンが尋ねた。


「遺体を運び出し、ほかの所見と合わせて詳しく調べる必要があります」


「死因は」


 グレアムが答える。


「後頭部に損傷があるらしい。棺から出して検分するまでは、それ以上は言えん」


 レオンは石棺の縁へ近づいた。


 封印には目を向けない。


 家封も、市封印も、石蓋の接合部も、すでにグレアムたちが詳細に確認している。


 彼が最初に見たのは、死体の靴だった。


「灯りを下へ」


 巡査が携帯灯を持ち替え、靴底へ光を当てる。


 黒い革靴。


 踵の縁と靴底の溝に、乾ききっていない泥が残っていた。


 その泥は、灰色ではなかった。


 赤い。


 血の色ではない。


 鉄分を含んだ、粘りの強い赤褐色の土だった。


 レオンは鑑定レンズを取り出し、靴へ触れない位置から覗き込んだ。


「親方」


 霊廟の壁際に控えていた石工の親方が顔を上げる。


「はい」


「この床の石は、どこから切り出した」


「北西の灰岩です」


「外の敷石は」


「同じ採石場です。周囲の土は、灰砂と砕石を混ぜてあります」


「赤土は使ったか」


「いいえ。この区画にはありません」


 レオンはレンズを下ろした。


「墓苑内には?」


 今度は、入口近くに立っていたマレク=ドーンが答えた。


「少なくとも、地上の第一環にはございません」


 穏やかで、よく通る声だった。


 黒い礼服を整えた灰環大墓苑の記録主任は、死体から少し距離を置いて立っている。


「第一環に限った答えか」


 レオンが尋ねた。


「ご質問が、この霊廟周辺の土についてだと解釈しました」


「正しい解釈だ」


 レオンは再び靴底を見る。


「この男の靴は、赤土のある場所へ触れている」


 ミラベルが記録帳へ書きながら尋ねた。


「自分で歩いたとは限らないんですか」


「靴が土へ触れたことまでは分かる。本人が歩いたのか、死体となったあと運ばれたのか、それ以外の方法で付けられたのかは、今は選べない」


 レオンの視線が、靴から死体の上半身へ移る。


 顔。


 首筋。


 外套の襟。


 手の甲。


「死体へ近づいていい範囲は」


「棺には触るな。死体も動かすな」


「十分だ」


 レオンは石棺の側面へ回った。


 青白い灯りの角度が変わり、シラスの首から左頬の下へ続く皮膚が照らされる。


 暗い色が、身体の左側へ偏っていた。


 仰向けに寝かされている現在の姿勢とは合わない。


「死斑は」


「左側へ強く出ている」


 検視官が答えた。


「死後しばらくは、左側を下にしていたと考えられます」


「硬直とは別の話ですね」


 ミラベルが確かめる。


「ええ。身体の向きを示すのは死斑です。硬直から分かるのは、死亡後の経過と、体表温度から受ける印象が一致していないことです」


 ミラベルは記録帳へ、二つを分けて記した。


 ――死斑は身体の左側へ偏る。発見時の仰向けの姿勢とは一致しない。


 ――死後硬直の進行と、体表温度から受ける印象が一致しない。体表温度だけでは、死亡時刻を確定できない。


「つまり、ここへ仰向けに収められる前、一定時間は左側を下にして置かれていた」


 レオンが言った。


「この棺へ横向きに入れ、あとから姿勢を直した可能性は?」


「ある。棺へ入れられる以前に横向きだった可能性もある」


 レオンはそこで言葉を切り、外套の襟へ目を向けた。


 外側には、雨へ打たれたような濡れ跡はない。


 だが、襟をわずかに押し開く位置から、裏地だけが湿気を帯びているのが見えた。


「外套の外側は濡れていない」


 ミラベルも気づいた。


「内側だけが湿っています」


「汗でしょうか」


「死後に汗はかかない」


「生きているうちのものなら?」


「それだけで判断はできない」


 レオンは、死体の左袖へ灯りを寄せさせた。


 肘の少し下。


 黒い布の表面に、緑を帯びた青い汚れが薄く付着している。


 泥ではない。


 藻でもない。


 古い真鍮や銅へ浮く緑青に似た色だった。


「この汚れも採取しろ」


 グレアムが検視官へ言った。


「湿気と関係があるかもしれん」


「何へ触れた汚れでしょう」


 ミラベルが尋ねる。


 レオンは答えず、石棺の内側へ視線を移した。


 古い布が、石の内面を覆っている。


 濃い灰色へ変色し、ところどころ繊維が擦り切れていた。


 頭側。


 側面。


 石蓋と接する上縁。


 どれも長い年月を経た布に見える。


 だが。


 底部だけが違った。


「この内張りは、二十九年前のものか」


 親方が棺を覗き込む。


「布そのものは古いと思います。ですが……」


「縫い糸は新しい」


 ミラベルが先に気づいた。


 底部の端に沿って、布が縫い直されている。


 糸は灰色に染められていたが、周囲の布ほど煤けていない。


 針目も、古い部分より細かく均一だった。


「よく見たな」


 レオンが言った。


「記者は、綴じ直された紙を見る機会が多いので」


「布と紙は違う」


「縫い目が新しいことまで違いません」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「嬢ちゃんの方が、素直に認められとるな」


「誰と比べている」


「墓場でまで言わせるな」


 レオンは返事をせず、底部の縫い目を目で追った。


 内張りは、石棺の底を覆うように張られている。側面の布と一体に見えるよう、底部の縁に沿って縫い目が置かれていた。だが、底の布だけが一度外され、再び取り付けられたようにも見えた。


「石棺の補修記録は」


「今日の工事が最初です」


 マレクが答えた。


「封棺後、内部へ手を入れる修復は行われておりません」


「記録上は?」


「記録上も、実際にもです」


 レオンの目が、わずかに細くなる。


「実際にも、と断定できる根拠は」


「封印が残っております」


「それは、上蓋を開けていない証拠だ」


 マレクは黙った。


 霊廟の中で、吊具の鎖が微かに鳴る。


 外から吹き込んだ風が、石蓋の下を抜けていた。


 グレアムが腕を組んだ。


「お前は、底が開いたと言いたいのか」


「まだ言っていない」


「顔には書いてある」


「俺の顔を証拠にするな」


 レオンは石棺の周囲を一周した。


 床と棺本体の接合部。


 台座の彫刻。


 石床へ積もった埃。


 外から見える範囲に、明瞭な開閉機構はない。


 だが、底部の布だけが縫い直されている。


 死体の靴には、この霊廟にない赤土が付着している。


 発見時は仰向けだが、死斑は左側へ偏っている。


 三つの事実は、まだ一つの方法を証明しない。


 しかし。


 封印された上蓋だけを見ていては、いずれも説明できなかった。


 グレアムが低く尋ねる。


「どう見る」


 レオンは、宙に吊られた石蓋を見上げた。


 家封。


 市封印。


 切られていない接合部。


 すべて本物だった。


 すべてが、石棺を開けていないと証言している。


「問題は、誰が石棺を開けたかじゃない」


 レオンは言った。


「誰も開けていないことだ」


 ミラベルがペンを止めた。


「誰も開けていないのに、死体が中へ入った?」


「上蓋を開けていない。それと、石棺の内部へ入れないことは、同じ意味じゃない」


「底から入れたと?」


 レオンは台座へ視線を落とした。


「なら、入口だと思っている場所が違う」


「ほかの入口がある?」


「今見えている範囲にはない。構造を調べる必要がある」


「石棺を動かしますか」


「先に記録を見る。下に何があるかもな」


 グレアムが眉間へ皺を寄せる。


「下だと?」


「霊廟に地下室はあるか」


 その問いに、マレクではなく石工の親方が首を振った。


「ローデン家の現行図面にはありません」


「現行図面」


 ミラベルが、その言葉を繰り返した。


「古い図面には、あるかもしれない?」


 親方は困ったようにマレクを見る。


 マレクは、穏やかな表情を崩さなかった。


「この墓苑には、増築と改修を繰り返した霊廟が多くございます。古い構造記録との照合は必要でしょう」


「なら、管理棟の図面と補修記録を封鎖対象へ加えろ」


 グレアムが巡査へ命じた。


「地下施設の記録も全部だ」


「はい」


 巡査が霊廟を出ていく。


 レオンは再び死体を見下ろした。


 その胸元で、真鍮札が青白い光を返している。


 ミラベルは、さきほどから何度もその札へ目を向けていた。


「警部」


「何だ、嬢ちゃん」


「その札を、もう一度見せてください」


 グレアムが検視官へ合図する。


 札には触れず、携帯灯だけが近づけられた。


 煤けた真鍮の表面へ、三行の文字が浮かぶ。


 ノア=フェル。


 第三環・共同墓地区E三一八。


 享年十七。


「シラスさんの名前ではありません」


「見れば分かる」


「名前だけではなく、打刻もおかしいです」


 ミラベルが、札へ顔を近づける。


「享年の十七。この七だけ、少し傾いていませんか」


 レオンが鑑定レンズを札へ向けた。


 享年欄の「七」は、ほかの数字よりわずかに右へ傾いている。


 上端の角には、ごく小さな欠けがあった。


「七の金型に癖がある」


 レオンが言った。


「最初から?」


「この札を打った金型を見つけなければ分からない。だが、ほかの数字とは形が違う」


 レオンはレンズの位置を、区画番号へ移した。


「もう一つある」


 E三一八。


 区画番号の数字には、古い輪郭へ新しい線を重ねたような浅いずれが残っている。


「区画番号の方は、元の数字へ重ねて打った跡だ」


「再打刻ですか」


「その可能性が高い。少なくとも、最初の打刻だけでできた線ではない」


「享年の七とは、別の異常なんですね」


「ああ。区画番号には重ね打ち。享年の七には傾きと欠けがある」


「どこで打ち直したかは?」


「区画番号を重ねた金型と、享年欄の七を打った金型。その両方を調べる必要がある」


 グレアムが検視官へ目を向けた。


「札も証拠として回収だ。重ね打ちの線と、七の欠けを写し取っておけ」


「はい」


 ミラベルは記録帳を閉じ、マレクを見た。


「この札に書かれたノア=フェルは、誰ですか」


 マレクは一度、札へ視線を落とした。


「十七年前に埋葬された、エルフ族の少年です」


「この墓苑に?」


「はい」


「区画は、第三環・共同墓地区E三一八?」


「そのとおりです」


「墓は、まだあるんですか」


 短い沈黙があった。


 問いそのものは難しくない。


 記録主任なら、台帳を確認してから答えるべき内容だった。


 しかしマレクは、確認しなかった。


「ございます」


 静かな声だった。


「ノア=フェルの墓碑は、現在も第三環の共同墓地区にあります」


 ミラベルは石棺の死体を見た。


 四十七歳の監査官。


 その胸に置かれた、十七歳の少年の名。


「移葬された記録は?」


「ありません」


「では、この札は本来――」


「ノア=フェルの棺、または遺骨に付けられているべきものです」


 ミラベルの指が、閉じた記録帳の表紙を強く押した。


「墓碑があって」


「はい」


「埋葬記録も残っていて」


「残っております」


「それなのに、埋葬札だけが、別の霊廟にある」


 マレクは否定しなかった。


 石棺に横たわるシラス=モーン。


 胸元に置かれたノア=フェルの埋葬札。


 そして墓苑のどこかには、今もノアの名を刻んだ墓碑が立っている。


 ミラベルは、霊廟の外へ目を向けた。


 雨に濡れた墓碑が、霧の中に並んでいる。


 それぞれの石に、死者の名が刻まれている。


 その下に、本当に同じ者が眠っているのか。


 昨日までなら、問う必要すらないことだった。


 検視官と巡査たちが、シラスの身体を石棺から運び出した。


 死体の下に隠れていた内張りが、青白い光の下へ露出する。


 棺内を調べた検視官が。


 やがて、グレアムへ首を振った。


「ほかの遺骨はありません」


 セシリアが、組んでいた黒い手袋へ力を込める。


「叔父は?」


「シラス=モーンの遺体を搬出したあとの検分でも、石棺内からアーネスト=ローデンの遺骨は見つかりませんでした」


 グレアムが答えた。


「移された時期も、移転先も、今は分からん」


 セシリアは目を閉じた。


 声は上げなかった。


 叔父がいないという事実だけを。


 姿勢を崩さず、受け止めていた。


「ノア=フェルの墓を確認しましょう」


 ミラベルが言った。


 レオンはすぐには同意しなかった。


 鑑定レンズをしまい、観察したものを一つずつ言葉へ戻す。


「いま分かったのは五つだ」


 彼は死体が横たわっていた場所から、靴の泥の記録を示した。


「シラスの靴は、第一環にはない赤土へ触れている」


 次に、身体の左側へ偏っていた死斑。


「死斑は、発見時の姿勢と一致しない」


 外套の襟と袖。


「外套の外側に雨へ濡れた跡はない。内側には湿気があり、左袖には緑青に似た汚れがある。死後硬直の進行と、体表温度から受ける印象も一致していない」


 石棺の底。


「内張りの底部だけが、最近縫い直されている」


 最後に、真鍮札。


「ノアの札は、区画番号へ元の数字を重ねて打った可能性が高い。享年欄の七には、傾きと欠けがある」


 ミラベルが尋ねた。


「そこから分かることは?」


「死体は、発見された姿勢のまま、ずっとこの棺にいたわけではない。上蓋とは別の経路がある可能性がある。そして、ノアの札は、正しい状態のままここへ来たとは限らない」


「誰がしたかは」


「まだ分からない」


 レオンはマレクへ向き直った。


「そのために、台帳を見る」


「もちろんです」


「原本を」


 マレクの微笑が、ほんのわずかに薄くなった。


「警察の正式な要請があれば」


「もう出しとる」


 グレアムが言った。


「墓苑を閉じた時点で、関連記録は全部、捜査対象だ」


「承知いたしました」


 マレクは一礼した。


 その礼は、葬儀の場にふさわしいほど整っていた。


 三人が霊廟を出ようとしたとき、レオンだけが一度振り返った。


 石棺は開いている。


 だが。


 それを開けた者はいない。


 墓碑は残っている。


 だが。


 そこに眠るはずの死者を示す札は、別人の胸に置かれていた。


 封印も。


 名前も。


 記録も。


 それぞれは、まだ嘘をついていなかった。


 ただ。


 正しい場所にない。

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