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第1節 ― 封じられた棺の新しい死体

 夜半の雨は、夜明けを過ぎても灰環大墓苑に残っていた。


 濡れた墓碑の列。その間を、薄い霧が膝の高さで流れている。


 青白い墓地灯は、朝になっても消されていなかった。蒸気管の奥で火が小さく鳴り、石造りの霊廟を死者の街のように浮かび上がらせている。


 第一環――名家霊廟区。


 その最奥に建つローデン家霊廟の前で、グレアム警部は葉巻を咥えたまま、濡れた石段を見下ろしていた。


 火は点けていない。


 墓苑では吸わない。


 死者への礼儀というより、火と煙で現場の匂いを壊さないためだった。


「最初に気づいたのは誰だ」


 低い声に、石工の親方が帽子を脱いだ。


 雨粒の残る禿頭を、冷たい風が撫でる。


「うちの若い者です。石棺の側面を調べていたときに」


「何を調べていた」


「亀裂と沈みです。石棺そのものが少し傾いていると、墓苑から修復を頼まれまして」


 親方は霊廟の中へ視線を向けた。


「石蓋の合わせ目へ顔を近づけたら、妙な臭いがしたと」


「どんな臭いだ」


「濡れた布と、鉄を水に浸したような臭いです。古い石棺から出るものとは思えませんでした」


「死体だと判断したわけじゃないんだな」


「はい。だから、何も触らず人を呼びました」


「それでいい」


 霊廟の入口脇に立っていた男が、静かに一歩前へ出た。


 黒い礼服。


 灰色の髪を整え、雨具の襟にも乱れがない。


 灰環大墓苑の埋葬記録主任、マレク=ドーンだった。


「少なくとも、石や接合剤の臭いではありません。長く閉ざされた棺から出る湿気とも異なります」


 グレアムが片眉を上げる。


「墓場の記録主任は、棺の臭いにも詳しいのか」


「三十年以上、ここで働いておりますので」


 マレクは不快そうな顔をしなかった。


 声も穏やかなままだった。


「棺を開ける前に警察へ連絡した判断は褒めてやる」


「勝手に封印を破れば、墓所侵害になります」


「そっちを先に心配したか」


「死者にできる最後の礼儀は、名前を間違えないことです。埋葬された場所を、理由もなく乱すべきではありません」


 グレアムは葉巻を口の端から外した。


「理由はある。妙な臭いだ」


「ですから、警部をお呼びしました」


 互いに視線を外さない。


「警部」


 石段の下から、女の声がした。


 黒い喪服の裾を雨から守るように持ち上げ、一人の女性が立っている。年齢は六十に近い。銀の混じった髪を隙なく結い、黒い手袋をはめていた。


 ローデン家当主、セシリア=ローデン。


 二十九年前、この石棺へ埋葬されたアーネスト=ローデンの姪だった。


「修復の立会いだけと聞いておりました。警察が霊廟を取り囲む理由を、説明していただけますか」


「石棺の中から、説明のつかん臭いがする」


「叔父の棺です」


「だから、あんたの立会いも待った」


 セシリアは霊廟の奥を見た。


「開封が必要なのですか」


「必要かどうか確かめるために、ここまで来た」


「叔父は二十九年間、あの中で眠っています。ローデン家は、墓苑から提示された記録と封印を信じてきました」


 彼女の視線が、マレクへ移る。


 マレクは小さく頭を下げた。


「封棺記録に異常はございません」


「ならば、開封の手続きも正式に行ってください」


 セシリアはグレアムへ向き直った。


「そして、結果が明らかになるまで、この件を外部へ公表しないでいただきたい」


「まだ開けてもいない」


「だから申し上げています。名家の霊廟で異常があったという噂だけでも、家名は傷つきます」


「中で何が起きていてもか」


「何があるか分からないうちから、家の名だけを新聞へ売る必要はないでしょう」


 グレアムの眉間に皺が寄った。


「警察が公表する内容は、警察が決める」


「捜査を妨げるつもりはありません。ですが、霊廟はローデン家の所有です」


「中に事件があれば、所有権より捜査が先だ」


 セシリアの口元が硬くなる。


 それでも声は荒げなかった。


「叔父の遺骨を乱さないでください」


「そこに叔父さんの遺骨があるかどうかも、これから確かめる」


 グレアムが石段を上った。


 セシリアも、石工と市の立会書記に続いて霊廟へ入る。


 この時点で。


 彼女はまだ、叔父の遺骨が失われているとは知らなかった。


 ただ、正式な記録どおり。


 アーネスト=ローデンが、石棺の中で眠っていると信じていた。


 霊廟の内部は冷えていた。


 壁沿いに並ぶ石棚。古びた葬送灯。水滴をまとったローデン家の紋章。


 中央に、灰白色の石棺が置かれている。


 棺の側面には、蔓草と鳥を組み合わせた彫刻が施されていた。その輪郭には二十九年分の埃が沈み、石そのものが霊廟の床から生えたように見える。


 市の立会書記が、記録板を胸に抱えて待っていた。


「確認を始めろ」


 グレアムの言葉に、書記が紙をめくる。


「ローデン家霊廟、第一石棺。被葬者、アーネスト=ローデン。封棺は二十九年前です」


「封印は」


「三か所です。家封、市封印、石蓋接合部」


 石工が携帯灯を掲げた。


 最初に照らされたのは、棺の頭側に残る暗赤色の封蝋だった。


 ローデン家の家紋が、わずかに摩耗しながらも形を保っている。


 グレアムは手袋をはめ、封蝋の縁へ拡大鏡を寄せた。


 古い亀裂はある。


 だが、割れたものを溶かし直した跡はない。


 印章の輪郭にも、押し直した歪みは見当たらなかった。


「家封、破損なし」


 セシリアが無言でうなずく。


 書記のペンが紙を擦った。


 次は、市の管理番号を打刻した金属封印。


 黒ずんだ細い線が、石蓋と棺本体をつないでいる。


 グレアムは封印線へ指を触れず、上下から灯りを当てさせた。


 切断痕はない。


 新しい金属へ交換した色の差もない。


「市封印も異常なし」


 最後に石蓋の接合部。


 灰色の接合剤が、棺を一周している。


 雨漏りによって変色した部分はあったが、一度削り取って埋め直した形跡はなかった。


 石工の親方が鑿の柄で接合部を示す。


「ここから、臭いが漏れています」


 グレアムは顔を近づけなかった。


 手で空気をゆっくりと手前へ送る。


 湿った石。


 古い布。


 そして、その奥にある、生温かい鉄に似た臭い。


 長く埋葬された遺骨から出るものではない。


「確認したな」


 グレアムは立会人たちを見回した。


「開ける前の状態を、全員が見た。封印三か所に、明らかな開封の跡はない」


 書記がうなずく。


 石工たちも、硬い表情で同意した。


「異議は」


 誰も答えなかった。


「なら開けろ。ただし、蓋以外には触るな。棺の中へ道具を落とすな。何か見えても、手を入れるな」


 石工たちが鉄の吊具を運び込む。


 石蓋の四隅へ金具を掛け、鎖をつなぐ。


 親方が一つずつ固定を確かめた。


「巻き上げます」


 手動輪が回された。


 鎖が張る。


 滑車の軸が、錆びた声で軋んだ。


 石蓋はすぐには動かなかった。


 二十九年の重みが、接合剤とともに棺へ固着している。


 石工が薄い楔を差し込み、木槌で慎重に叩く。


 一度。


 二度。


 三度。


 乾いた音が霊廟に響く。


 やがて。


 石と石の間に、髪の毛ほどの黒い線が走った。


「上げろ」


 鎖がさらに張る。


 石蓋が、ゆっくりと持ち上がった。


 隙間から淀んだ空気が吐き出される。


 書記が口元を押さえた。


 石工の一人が顔を背ける。


 だが。


 棺の中から流れた臭いは、二十九年閉ざされた腐敗の臭いではなかった。


 湿った布と。


 冷えた鉄と。


 まだ古い骨にはなっていない、人間の身体の臭いだった。


 石蓋が、人の頭ほどの高さまで上がる。


 携帯灯の光が、棺の内側へ差し込んだ。


 最初に見えたのは、黒い革靴だった。


 革はまだ形を保っている。


 泥も乾ききっていない。


 その上に、暗色のズボン。


 雨に濡れた跡のない外套。


 だが、胸元から襟の内側にかけて、布だけが湿気を帯びている。


 胸の前へ置かれた両手。


 そして。


 土気色に変わり始めた、一人の男の顔。


「止めろ」


 グレアムの声が飛んだ。


 手動輪が止まり、鎖が激しく震える。


「誰も近づくな」


 親方が反射的に棺へ伸ばしかけた手を引いた。


 書記の記録板が、指先から滑り落ちる。


 石床へ当たり、板の角が高い音を立てた。


「……人が」


 若い石工が呟いた。


 グレアムは振り返らなかった。


「見れば分かる」


「ですが、ここには――」


「二十九年前の遺骨が入っているはずだった。そいつも分かっている」


 セシリアは、石棺の縁へ一歩近づいた。


「叔父は」


「止まれ」


 グレアムの声に、彼女の足が止まる。


「叔父の遺骨は、どこにあるのです」


「まだ棺の中へ手を入れていない。下にあるのか、別の場所にあるのか、現時点では何も言えん」


 セシリアの視線が、横たわる男から棺の奥へ動いた。


 だが、死体の下まで見通すことはできない。


 彼女にも。


 まだ、アーネストの遺骨が失われたとは断定できなかった。


「このことは、外へ漏らさないでください」


 声は先ほどより低かった。


「ローデン家の霊廟から、身元不明の死体が出たなどと――」


「身元不明かどうかは、これからだ」


 グレアムは棺に横たわる男を見た。


 白骨ではない。


 乾燥した遺体でもない。


 昨夜まで街を歩いていても不思議ではない服装の男だった。


 グレアムは石棺の縁へ近づいた。


 触れない。


 身を乗り出しもしない。


 灯りの位置だけを変えさせ、死体の顔を照らす。


 マレクが息を呑んだ。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに普段の静かな表情へ戻ったが、グレアムは見逃さなかった。


「知っている顔か」


 マレクは答える前に、死体をもう一度見た。


「シラス=モーン監査官です」


「確かか」


「市政記録局の埋葬記録監査官です。何度も、この墓苑の記録監査に来ています」


 セシリアがマレクを見る。


「なぜ監査官が、叔父の石棺にいるのです」


「私にも分かりません」


 マレクの返答は穏やかだった。


 グレアムは、棺の中の男を見下ろした。


 頬は冷たく色を失っている。


 だが、皮膚はまだ崩れていない。


 髪も、衣服も、二十九年の時間を受けてはいなかった。


 間もなく到着した市警の検視官が、棺の外から身体の状態を確かめる。


 瞼。


 顎。


 露出した手の皮膚。


 衣服の上から分かる硬直。


「まだ腐敗は始まっていません」


 検視官は手袋を外さずに言った。


「正確な死亡時刻は運び出してから調べます。ただ、一日以上経過した遺体とは考えにくい」


「断定できるのは、そこまでか」


「現場では、そこまでです」


「十分だ」


 二十九年間閉じられていた石棺の中に。


 一日も経っていない死体がある。


 グレアムは、その事実だけを頭の中へ置いた。


 どうやって入ったのか。


 誰が入れたのか。


 いつ殺されたのか。


 いまは、どれも答えではない。


 答えにするための証拠が、まだ足りない。


「警部」


 検視官が棺の胸元を示した。


 死体の両手の間に、小さな金属片が置かれている。


 長方形の真鍮札。


 角に穴が開けられ、切れた細い鎖が残っていた。


 グレアムは札を動かさず、携帯灯を近づけさせる。


 煤けた表面に、打刻された文字が浮かんだ。


 ノア=フェル。


 第三環・共同墓地区E三一八。


 享年十七。


 区画番号の一部だけ、刻印の輪郭がわずかに重なっている。


 一度打たれた数字へ、もう一度同じ形を合わせようとしたような、ごく浅いずれだった。


 それが古い製造時の傷なのか。


 後から打ち直された痕跡なのか。


 灯りを当てただけでは、まだ分からない。


「シラス=モーンの札ではないな」


「違います」


 マレクが低く答えた。


「埋葬札に刻まれるのは、棺へ納められた死者の名です」


 グレアムは死体の顔と、胸元の札を交互に見た。


 男は四十代に見える。


 札に記された死者は、十七歳。


 名前も違う。


 所属する墓所も、ここではない。


「この札の記録を出せ」


「ただちに」


「原本を動かすな。写しを作らせろ。誰がいつ台帳に触れたかも残せ」


 マレクがわずかに目を細めた。


「墓苑全体をお調べになるおつもりですか」


「二十九年前の棺から、昨日の死体と、別人の埋葬札が出た」


 グレアムは葉巻を握った手で、開いた石棺を示した。


「この霊廟だけで済むと思う方がどうかしとる」


「待ってください」


 セシリアが言った。


「墓苑全体の捜査となれば、ローデン家の名も公になる」


「まだ家の名の話をするのか」


「叔父の遺骨が無事かどうかも分からないのです。確認されていない憶測が新聞へ載れば、家だけでなく、故人の名誉まで傷つきます」


「なら、記者より先に証拠を確保する」


 グレアムは入口に控えていた巡査を呼んだ。


「正門と通用門を閉めろ。墓参りに来た者は外へ出せ。職員、石工、立会人は全員ここへ残す」


「墓苑全体を封鎖するんですか」


「今そう言った」


「ですが、すでに中にいる遺族が――」


「事情を説明して、管理棟で待ってもらえ。墓へ近づけるな。誰にも土を掘らせるな。石を動かさせるな。帳簿一枚、真鍮札一枚、外へ持ち出させるな」


 巡査が姿勢を正す。


「はい、警部」


「ローデン家への説明は」


 セシリアが問う。


「事実が分かれば伝える」


「非公開の要請は」


「聞いた。受け入れたとは言っていない」


 セシリアはそれ以上、口を開かなかった。


 だが。


 開いた石棺ではなく、立会人と巡査の顔を順に確かめている。


 誰が、この場で見たものを外へ話すのか。


 すでに見定めようとしていた。


「それから、もう一人」


 グレアムは開いた棺を見た。


 破られていない封印。


 二十九年前の石棺。


 昨日まで生きていた男。


 その胸に置かれた、別人の名。


「霧燈通り十三番地へ行け」


 巡査の顔に、わずかな理解が浮かんだ。


「クラウスですか」


「レオン=クラウスを呼べ。すぐにだ」


「断られた場合は」


 グレアムは咥えていた葉巻を胸ポケットへ戻した。


「封印された棺から、新しい死体が出たと言え」


 青白い墓地灯が、霧の向こうで一つずつ消えていく。


 夜が終わっても。


 ローデン家霊廟の石棺だけは、口を開いたままだった。

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