第12節 ― 署名なき死体
中央記録院ヴェルム=クロウ支局の契約照合室には、窓がなかった。
昼も夜も、二本の蒸気灯が同じ白さで机を照らす。
外の煤霧も。
雨も。
高架線を走る列車の震動も。
厚い石壁の外へ追いやられている。
この部屋で時間を持つのは、人間ではなく紙だった。
発行時刻。
署名時刻。
受付時刻。
発送時刻。
誰かが部屋へ入った事実さえ、壁際の記録帯へ数字として刻まれる。
今朝。
その照合室に、事件の関係者が集められていた。
レオン=クラウス。
ミラベル=ワトリア。
バルトラム=グレアム警部。
シェリル=ヴェイン。
リュシアン=アスト。
エドモンド=ブラスウェル。
アデラ=ローム。
そして、中央記録院監察部の監察官。
扉の両側には、市警の制服警官が立っている。
まだ、誰かを逮捕するためではない。
少なくとも、名目の上では。
照合室の中央には、以前、老工房主が土地使用契約へ署名したのと同じ机が据えられていた。
机の左側には、
《生存確認・土地権利再審申立書》。
右側には、
《土地権利放棄・旧移転追認契約書》。
二つとも再現用の見本だが、同じ書類番号が打たれている。
東倉―四八一七二。
数字の七だけが、わずかに二重になっていた。
机の中央には、一枚の割符式署名票。
その奥には、警察の証拠箱が置かれている。
箱の中には、アデラの携帯照合圧印器が収められていた。
彼女は、それを見なかった。
少なくとも、見たと分かるほどには。
エドモンドは椅子に座っている。
白手袋も。
銀の時計鎖もない。
両手を膝の上で組み、右の親指で左の爪を一定の間隔で撫でていた。
シェリルは、リュシアンの隣に立っていた。
兄から預かった控え割符は、警察の保護硝子に挟まれている。
彼女は、その上へ両手を置いていた。
紙には触れられない。
それでも、兄の名を誰かの手から守っているように見えた。
「始めろ」
グレアムが言った。
記録院監察官が顔を上げる。
「確認しますが、これは正式な審問ではありません」
「分かっている」
「警察による証拠提示と、契約手続の再現です。関係者の発言を強制することは認められません」
「それも分かっている」
「警部が手続を理解していることを、記録へ残します」
「好きにしろ」
監察官の隣で、記録官が一行を書いた。
ミラベルが横から覗く。
「『グレアム警部、手続を理解』と」
「読むな」
「珍しい記録なので」
「お前の手帳へは書くな」
「もう書きました」
グレアムは彼女を睨んだが、それ以上は言わなかった。
*
レオンは、二つの契約書を机の左右へ広げた。
「最初に、割符式署名票の仕組みを再現します」
監察官へ向き直る。
「提出署名片には、契約名が書かれていない」
「はい」
監察官が答えた。
「書類番号、署名欄、立会欄、透かし識別部のみです」
「契約名が記載されるのは」
「署名者が保管する控え割符と、契約本文です」
「提出署名片が、どの契約へ属するかは」
「番号、透かし、切断面、接合圧印によって証明されます」
「同じ番号の契約本文が、一つしか存在しないことを前提として」
監察官は短く沈黙した。
「そのとおりです」
「その前提が破られた場合は?」
「現行制度では、同一番号を二度発行できません」
「旧式番号機なら?」
「中央機械台帳へ接続されていません」
「同じ番号を二度打てる」
「理論上は」
「可能ですね」
レオンが確かめる。
監察官は、ゆっくり頷いた。
「可能です」
照合室が静かになった。
レオンは署名票を、グレアムの前へ置いた。
「警部。署名を」
「なぜ俺だ」
「読まずに署名しない方が適任です」
「お前が用意した紙へ名前を書く趣味はない」
「ご自分の署名が、どこへ移されるか不安ですか」
グレアムの眉間に深い皺が刻まれた。
「今、それを俺に言うのか」
ミラベルがペンを差し出す。
「警部が一番よいと思います」
「お前まで何だ」
「疑い深く、細かい文字まで読む人ですから」
「褒めているのか」
「半分ほど」
「残りは」
「署名を拒んで、時間を使うところです」
グレアムは、ペンを奪うように受け取った。
「読めばいいんだな」
「すべて」
「分かっている」
彼は《生存確認・土地権利再審申立書》を引き寄せた。
表題。
当事者。
申立内容。
死亡記録の再確認。
本人確認審査の開始。
土地権利移転処理の一時停止。
細かな条文まで、一行ずつ目で追う。
誰も急かさなかった。
署名とは、本来そうして行われるものだった。
何へ同意するのかを読み。
その紙へ自分の名を置く意味を確かめ。
それから、手を動かす。
「内容に相違は」
レオンが尋ねる。
「ない」
「割符票の契約名と番号は」
「申立書と一致している」
「では、提出署名片へ」
グレアムは右側の署名欄へペンを置いた。
太い指から、整った文字が生まれる。
バルトラム=グレアム。
黒いインクが紙へ沈んだ。
ミラベルが身を乗り出す。
「字がきれいですね」
「見るな」
「もっと角張った字を書くのかと」
「ドワーフだからか」
「性格がです」
「あとで、その手帳を押収する」
レオンは署名を乾かし、監察官立会いのもとで見本用の確認印を押した。
それから、割符票の不規則な切断線へ指をかける。
「署名票を分けます」
乾いた音がした。
一枚だった紙が、左右へ離れる。
左側には、契約名。
《生存確認・土地権利再審申立書》。
右側には、グレアム本人の署名。
だが、契約名はない。
レオンは左の控え割符をグレアムへ渡した。
「署名者が持ち帰るのは、こちらです」
「何へ署名したかが残る」
「ええ」
「右側は」
「手続担当者が保管します」
レオンは、グレアムの提出署名片を机の中央へ置いた。
次に。
彼が読んだ《生存確認・土地権利再審申立書》を、机から外した。
代わりに。
同じ番号を持つ《土地権利放棄・旧移転追認契約書》を、白い照合灯の上へ載せる。
「続けます」
レオンは提出署名片を、土地放棄契約の最終頁へ置いた。
番号が隣り合う。
東倉―四八一七二。
東倉―四八一七二。
同じだった。
見本用の留め具を下ろす。
かちり。
グレアムの真正な署名が、土地放棄契約の一部になった。
「俺は、これへ署名していないぞ」
グレアムが言った。
「署名は、あなたのものです」
「字の話ではない」
「筆跡鑑定をすれば、真正と判定されるでしょう」
「分かっている。俺が言っているのは――」
「何へ署名したのか、ですね」
ミラベルが言った。
グレアムの持つ控え割符と、別の契約へ移された提出署名片を見比べる。
「警部が読んだのは、生存再審申立書です」
彼女は言った。
「署名すると決めたのも、その申立書。名を書いた瞬間も、署名票は申立書と同じ番号を持っていた」
次に、土地放棄契約を見る。
「でも、契約名のない提出署名片だけを切り離せば、同じ番号を持つ別の本文へ取りつけられる」
「署名そのものは、一画も変わりません」
レオンが言う。
「筆跡も。筆圧も。インクも。書いた人間も」
「それでも、意味だけが変わる」
ミラベルは、シェリルへ顔を向けた。
シェリルは兄の控え割符を見つめている。
四年前に死者とされた兄が、自分の名を取り戻すために書いた署名。
その名は、彼の土地を永久に手放す契約へ移されていた。
「偽造されたのは、署名ではありません」
ミラベルの声が、白い照合室へ響いた。
「署名が、どの文書に属していたのかです」
監察官は否定しなかった。
否定できなかった。
レオンは、再現用の二枚を離した。
「アルヴィン=ヴェインは、《生存確認・土地権利再審申立書》へ署名しました」
アデラへ視線を向ける。
「その提出署名片は、同じ番号を持つ《土地権利放棄・旧移転追認契約書》へ移された」
「私が行ったという証明はありません」
アデラが答えた。
「その話は、あとでします」
彼女の表情は変わらない。
レオンは、次にエドモンドを見た。
*
「ブラスウェルさん」
「はい」
「あなたは、アルヴィンの署名手続へ立ち会った」
「記録上死亡している人物を、本人とは認定していません」
「その言葉は、もう必要ありません」
レオンは透明な証拠袋を置いた。
エドモンドが任意提出した白手袋。
「掌側から、ヴェイン家の青インクが検出されています。署名票を机へ押さえた位置です」
「インクがついたことは、殺人の証拠ではない」
「ええ」
レオンは、すぐに認めた。
「血液も付着していません。これは、あなたが署名へ立ち会ったことを示す証拠です。アルヴィンを殴った証拠ではない」
エドモンドが、初めて顔を上げた。
「そして殺害時刻」
グレアムが会議記録を置いた。
「午後九時十五分から九時三十六分。あんたは商会本館の会議室にいた」
複数の出席者。
会議中の発言。
各頁へ残された本人の署名。
機械による入退室記録。
「アリバイは真正です」
レオンが言った。
「アルヴィンが殺された午後九時二十四分頃、あなたは東倉庫にいなかった」
「なら」
「あなたは、殺人の実行者ではない」
エドモンドの肩から、わずかに力が抜ける。
「ただし」
グレアムが続けた。
「死体を運んだ証拠は、別だ」
机へ並べられたのは、数枚の写真と鑑定書だけだった。
商会の小型馬車と一致した、高架下の車輪痕。
荷台と運搬布に残された、アルヴィン由来と判断された毛髪。
東倉庫地区の赤土。
高架下で見つかった、エドモンドの測量杖の真鍮片。
「会議後、あなたの個人鍵印で商会馬車が使用された」
レオンが言う。
「その馬車で、アルヴィンの死体を高架下へ運んだ」
「誰かが、私の鍵を」
「測量杖も一緒に借りた?」
グレアムが問う。
「……」
「高架下で、その杖の一部を落とした?」
「……」
「死体を載せた馬車に、被害者の毛髪と東倉庫の土を残した?」
エドモンドは答えない。
レオンは次の写真を置いた。
蒸気排水弁。
商会規格の工具による傷。
「あなたは蒸気弁を開き、死後の身体へ火傷をつけた」
「推測です」
「火傷が死後のものだという事実は、検死で確定しています」
グレアムが言った。
「火傷を負わせた時刻も、排水記録と一致する」
最後に。
レオンは、署名欄だけが焼けた契約書の写真を置いた。
「死体の懐にあった契約書には、最初から署名がなかった」
「焼けているから、分からない」
「筆圧も、紙の繊維へ沈んだインクもありません。残されていた青は、吸取砂だけでした」
レオンの指が、黒く焼けた空白を指す。
「あなたは未署名の契約書を死体へ入れた」
「証拠は」
「土地番号と当事者が同じ、似た内容の未署名書類を死体へ残せば、記録院に届いた土地放棄契約と一続きのものに見える」
「それだけでは」
「空白の署名欄を焼いた」
レオンは、保守通路で採取された灯具油と硝子片の記録を横へ置いた。
「青色吸取砂を残し、アルヴィンが自分の署名を消そうとしたように見せた」
「私がしたと断定できるものではない」
「では、誰が行ったのです」
ミラベルが尋ねた。
「死体を運んだのは?」
「……」
「蒸気弁を開いたのは?」
「……」
「空白を焼いたのは?」
「……」
「署名があったように青い砂を残したのは?」
「黙れ」
エドモンドの声が崩れた。
礼儀正しい商会代理人の声ではない。
追い詰められた人間の、乾いた声だった。
「あなたは、アルヴィンさんを殺していません」
ミラベルは退かなかった。
「だから、それだけは言いたいはずです。でも、殺していないと説明するには、殺されたあと何をしたかを話さなければならない」
「記者に何が分かる」
「会議が終わり、東倉庫へ戻った」
エドモンドの親指が、爪を撫でる動きを止めた。
「そこで、何を見たんです」
誰も急かさなかった。
グレアムも、まだ手錠を出さない。
沈黙が、エドモンド自身の言葉によって破れるのを待った。
「私は」
彼の喉が動く。
「私は、殺していない」
「分かっています」
レオンが答えた。
「では、何をした」
グレアムが問う。
エドモンドは、膝の上で震える両手を見た。
「戻ったときには、すでに死んでいた」
シェリルの肩が揺れた。
リュシアンが、彼女の前へ半歩出る。
「誰から緊急符号を受けた」
「東倉庫の契約室からです」
「戻ったとき、誰がいた」
エドモンドは、アデラを見なかった。
「ローム照合官が」
「アルヴィンは」
「床に倒れていた」
「生きていたか」
「脈を確認しました」
「結果は」
「……死んでいた」
シェリルの手が、保護硝子の上で強く握られる。
「警察へ通報しなかった理由は」
レオンが尋ねた。
「契約が露見すれば、四年前の土地移転まで調べ直されると言われた」
「誰に」
「ローム照合官に」
エドモンドは自分の膝を見たまま続けた。
「商会の取得権が失われる。工事は止まる。債券は破綻する。何千人もの雇用へ影響する。私も署名手続に立ち会っていた。何も知らなかったでは済まないと」
「だから、殺人を隠した」
「一人の死で、都市全体を止めるわけにはいかなかった」
「その一人は、すでに死んでいたから?」
ミラベルが尋ねた。
エドモンドは目を閉じた。
「……私が運びました」
「高架下へ?」
「はい」
「蒸気弁を開いた」
「はい」
「未署名の契約書を、死体の懐へ入れた」
「はい」
「空白の署名欄を焼いた」
「……はい」
「青色吸取砂を残した」
「はい」
「どういう事故に見せるつもりだった」
レオンが問う。
「アルヴィンが契約書を焼こうとしたとき、蒸気弁の事故へ巻き込まれた。転倒して、頭を打った」
「頭部傷の形が、事故と一致しないことは」
「暗くて、そこまでは」
「確認しなかった?」
エドモンドの声が、ほとんど吐息になる。
「確認したくなかった」
グレアムが警官へ目を向けた。
「エドモンド=ブラスウェル」
警部の声が、正式な響きを持つ。
「死体遺棄、証拠隠滅、契約文書偽装の容疑で拘束する」
警官が両側へ立つ。
「殺人ではない」
エドモンドが顔を上げた。
「私は、殺していない」
「その事実も記録へ残す」
グレアムは答えた。
「やっていない罪で送るつもりはない。だが、やったことからは逃がさん」
手錠が閉じる。
エドモンドは抵抗しなかった。
*
レオンは、証拠箱に収められた圧印器を机の中央へ移した。
「ローム照合官」
「はい」
アデラの声は、まだ整っていた。
「エドモンドの証言だけでは、あなたがアルヴィンを殺した証明にはならない」
「そのとおりです」
「自分の罪を軽くするため、あなたへ殺人を押しつけたとも考えられる」
「理解しているようですね」
「ですから、人間の証言ではなく、物証を調べました」
グレアムが、証拠箱の封印番号を読み上げる。
頭部傷の写真。
圧印器底面の型。
鑑識報告。
それらが監察官の前へ置かれた。
「底面には、七本の細い突起がある」
レオンが言った。
「一本が欠けている」
「経年摩耗です」
「アルヴィンの後頭部には、同じ幅と間隔で六本の圧痕が残り、同じ位置に一本分の空白がある」
「同型の器具は、ほかにも存在します」
「外側の幅。線幅。間隔。欠損位置。そして、欠けた突起の両端に残る短い圧痕まで一致しました」
「形状の一致は、使用者を証明しません」
「ええ」
レオンは認めた。
「器具が使われたことと、あなたが持ったことは別です」
「なら」
「圧印器は事件後に洗浄されていました」
「日常清掃です」
「表面だけが」
アデラの瞳が、わずかに動いた。
「可動部の奥には、東倉庫地区の赤土が残っていた」
顕微鏡写真。
赤粘土。
廃煉瓦。
鉄滓。
「さらに、血の付着した毛髪」
別の鑑定写真。
「保存されたアルヴィンの頭髪標本と、色、太さ、髄質が一致し、付着状況から被害者由来と判断されています」
「誰かが、この器具を使用したのでしょう」
「誰が?」
「分かりません」
「貸出記録はない」
「記入漏れです」
「器具は、あなたの個人保管棚へ戻されていた」
「使った者が戻したのでしょう」
レオンは、次の証拠を置いた。
気送管の発送操作帯。
「午後十時十七分」
アルヴィンの死亡後。
偽の土地放棄契約が、東倉庫から記録院へ発送された時刻。
「操作へ使われたのは、あなたの個人照合鍵です」
「鍵を借りた者が」
「貸出記録はない」
「記入漏れです」
「鍵は、あなたの鍵束へ戻されていた」
「誰かが戻したのでしょう」
「誰ですか」
アデラは答えない。
レオンは、同じ番号が打たれた二つの契約を示した。
「旧式番号機は、あなたが保全責任者だった機材庫から消えている」
「保管台帳の不備です」
「昨夜、その旧式機で二種類の契約へ同じ番号が打たれた」
「誰が使用したかは分かりません」
「アルヴィンの提出署名片を保管したのは」
「契約確認官である私です」
「午後九時八分。署名片がまだ生存再審申立書から切り離されたままの時点で、偽の土地放棄契約へ正式受付印が押された」
「例外処理です」
「例外記録はない」
「記入漏れでしょう」
グレアムが、低く息を吐いた。
「すべて、それで済ませるつもりか」
「記録上の不備は、殺人の証明ではありません」
「一つなら」
レオンが言った。
「一つの器具なら、誰かが使ったと言える。一つの鍵なら、誰かへ貸したと言える。一つの空欄なら、記入漏れと言える」
机の上へ、証拠を一列に並べる。
圧印器。
血のついた毛髪。
東倉庫の赤土。
個人照合鍵。
死後の発送記録。
二重番号。
自己記入のアリバイ。
四年前の死亡記録。
「ですが、すべてが同じ夜、同じ場所、同じ契約へ集まっている」
「状況証拠です」
「では、違う部分を訂正してください」
レオンの声は静かだった。
「午後八時五十五分。あなたはアルヴィンへ、《生存確認・土地権利再審申立書》を提示した」
アデラは答えない。
「午後九時二分。アルヴィンは、ヴェイン家の青いインクで署名した。エドモンドが署名票を押さえ、あなたが立会確認を行った」
「……」
「午後九時四分。割符票を分けた。控えはアルヴィンへ渡され、提出署名片はあなたが保管した」
「契約手続としてです」
「午後九時八分。アルヴィンが部屋を出ている間に、同じ番号を持つ土地放棄契約へ正式受付印を押した」
「私が押したという証明は」
「夜間の正式受付担当者は、あなた一人です」
「別の者が印を使った可能性は」
「午後九時九分。アルヴィンは東倉庫裏でシェリルと会い、控え割符を預けた」
シェリルが、兄の紙へ目を落とす。
「朝までに戻らなければ、黒鴉館の私へ渡すよう告げた」
レオンは続けた。
「午後九時十三分。アルヴィンは契約室へ戻った」
エドモンドの顔が強張る。
「午後九時十四分。あなたはエドモンドを本館会議へ向かわせた。部屋には、あなたとアルヴィンが残った」
「エドモンド氏の証言です」
「会議室への入室記録とも一致します」
「だからといって」
「午後九時十八分。あなたはアルヴィンへ受領証を渡した」
アデラの指が、わずかに動いた。
「その受領証には、生存再審ではなく、土地権利放棄追認を示す略号が印字されていた」
「受領証は発見されていません」
「ええ」
レオンは、そこで一度言葉を止めた。
「ここからは、証拠による再構成です」
ミラベルが彼を見る。
確定した事実と、そこから導かれる仮説を、レオンは混ぜなかった。
「午後九時二十分。アルヴィンは、略号の違いに気づいた」
アデラは黙っている。
「自分の署名片を返すよう求めた」
「……」
「あなたは、すでに正式処理へ入ったと拒んだ」
「……」
「アルヴィンは、警察、新聞社、記録院監察部へ告発すると告げた」
監察官の目が、アデラへ向く。
「告発されれば、昨夜の契約だけでは済まない」
レオンは、四年前の死亡記録を持ち上げた。
七の数字が、同じ癖で二重に打たれている。
「四年前。あなたが下級照合官として処理した、アルヴィンの死亡記録も開かれる」
「私は、必要な書類を確認しただけです」
「不自然さに気づいていた」
「記録は成立していました」
「生きている本人が戻ってきても?」
「本人であるとは、まだ確認されていませんでした」
「だから、死者のまま処理できると考えた」
「一度閉じられた記録を、一人の主張によって開き直すことはできません」
「彼は、主張ではありません」
シェリルが立ち上がった。
声が震えている。
「兄は生きていました。自分の足でここへ来て、自分の手で署名した」
「本人確認前です」
「目の前にいた人間より、四年前の紙を信じたんですか」
「信じるという問題ではありません」
「では、何です」
「記録の連続性です」
アデラは、初めてシェリルを正面から見た。
「彼一人を生者へ戻せば、四年間に積み上げられた処理が崩れます」
「間違った処理です」
ミラベルが言った。
「土地移転だけではありません。線路。倉庫。工場。融資。雇用。そこへ結びついた契約まで、正当性を問われる」
「だから、一人を殺した?」
「私は、社会全体を守ろうとしたのです」
初めて。
アデラの声に感情が混じった。
怒りではない。
自分の判断だけは正しいと信じ続ける、硬い確信だった。
「記録は、社会を維持するためにあります」
レオンは、しばらく彼女を見ていた。
四年前の死亡記録。
生存再審申立書。
土地放棄契約。
どれも紙としては整っている。
移された署名さえ、鑑定すれば本物だった。
「あなたは、記録を守ったのではありません」
レオンが言った。
「あなたが書いた記録に合うよう、現実の人間を殺した」
アデラの唇が、わずかに開いた。
「彼は、すでに死者でした」
「紙の上では」
「社会の上でもです。相続は終わり、土地は移転し、工事は始まり、契約は積み重ねられた」
「アルヴィンは生きていた」
「それは、記録との矛盾です」
「人間です」
レオンの答えは短かった。
「あなたにとって、彼は閉鎖済み記録へ現れた矛盾だった。だから、現実のほうを消した」
「私は」
「携帯照合圧印器を持ち上げ、後頭部を殴った」
「……」
「一撃目で倒れた」
「……」
「それでも止めず、二撃目で殺した」
アデラの顔から、最後の色が失われていく。
「器具の内部には、彼の血と髪が残っています」
「……」
「午後九時二十九分。あなたは会議中のエドモンドへ緊急符号を送った」
エドモンドは否定しない。
「午後九時四十一分。戻った彼へ、殺人が発覚すれば商会の土地取得も、四年前の不正も、彼自身の関与もすべて露見すると告げた」
「……」
「エドモンドに死体を運ばせた」
「……」
「彼が高架下を離れたあと、午後十時十二分。アルヴィンの提出署名片を、土地放棄契約へ取りつけた」
「……」
「午後十時十七分。あなたの個人鍵で、偽契約を記録院へ発送した」
アデラの手が、机の縁へ触れた。
逃げるためではない。
立ち続けるためだった。
「違うなら」
ミラベルが言った。
「どこが違うのか、話してください」
アデラは答えなかった。
「誰かに命じられたのですか」
グレアムが尋ねた。
その問いに。
アデラは、初めてすぐに答えた。
「いいえ」
白い照合室へ、彼女の声が落ちる。
「殺害を命じられたのではありません。判断したのは、私です」
シェリルが息を呑んだ。
監察官の手から、記録紙がわずかに滑った。
アデラは机の上の死亡記録を見ていた。
「彼を生者として認めれば、すべてが崩れる」
「だから殺した」
レオンが言った。
「……はい」
それは、小さな返事だった。
だが。
どの公印よりも。
どの照合番号よりも。
明確だった。
*
グレアムが前へ出た。
「アデラ=ローム」
警部の手には、拘束令状がある。
「アルヴィン=ヴェイン殺害、契約文書偽造、証拠隠滅、記録機材不正使用の容疑で逮捕する」
警官がアデラの両側へ立つ。
彼女は抵抗しなかった。
手錠をかけられる直前。
机に並んだ紙を見た。
四年前の死亡記録。
生存再審申立書。
土地放棄契約。
同じ名を持ちながら、異なる意味を与えられた文書。
「記録が開かれれば」
アデラは呟いた。
「どこまで崩れるか、あなたたちは理解していない」
「崩れるべきものまで守るのが、記録院の仕事ですか」
ミラベルが尋ねた。
アデラは答えなかった。
手錠が閉じた。
記録院監察官は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、隣の記録官へ告げる。
「アルヴィン=ヴェインに関する死亡、相続、土地権利、契約処理を、監察保留としてください」
シェリルが顔を上げた。
「死亡記録は」
「今すぐ訂正されるわけではありません」
監察官が答えた。
「ですが、閉鎖記録ではなくなります」
生者へ戻ったという宣言ではない。
四年前の不正が、すべて認められたわけでもない。
ただ。
もう一度、調べることを許された。
四年間閉じられていた記録の蓋が、わずかに開いた。
シェリルは兄の控え割符へ目を落とした。
涙は流さなかった。
流せば、青い文字が滲むと思っているように。
警官が、エドモンドとアデラを扉へ連れていく。
「待ってください」
レオンが言った。
グレアムが振り返る。
「何だ」
レオンは、二人ではなく。
四年前の死亡記録を見ていた。
同じ旧式番号機による、二重の七。
「昨夜の事件は分かりました」
記録を持ち上げる。
「ですが、この機械は四年前にも使われている」
アデラの足が止まった。
エドモンドも、顔を上げる。
「当時、あなたは下級照合官。エドモンドは若手契約代理人でした」
レオンは二人を見た。
「不自然な死亡記録だと知りながら、処理を進め、土地移転へ利用した」
「何が言いたい」
エドモンドの声は弱い。
「四年前、生きていたアルヴィンを、記録上の死者へした」
「……」
「医師の証明。親族確認。埋葬許可。死亡番号。相続処理。土地移転」
レオンは、一枚の記録へ並んだ項目を指した。
「多くの部署と人間を通る仕組みです」
監察官の顔が強張る。
「当時のあなたたち二人だけでは、設計できない」
アデラは、初めて明確に視線を逸らした。
「四年前の死を設計したのは、誰です」
答えはなかった。
エドモンドは床を見る。
アデラは白い壁を見る。
二人とも、何も言わない。
その沈黙だけが。
今朝、この部屋に残された、もっとも不完全な記録だった。
「連れていけ」
グレアムが命じた。
扉が開く。
エドモンドとアデラの足音が、白い廊下を遠ざかっていった。
*
机の上には、二つの契約が残されていた。
《生存確認・土地権利再審申立書》。
《土地権利放棄・旧移転追認契約書》。
同じ番号。
異なる意味。
再現に使ったグレアムの署名片は取り外され、証拠袋へ戻されている。
そのため。
今、二つの文書のどちらにも、署名はなかった。
ただ一つ。
認証複写の上に、アルヴィン=ヴェインの青い名だけが残っている。
生きていることを証明するために書かれ。
土地を手放す意思へ移され。
本人の死によって、異議を唱えられないようにされた名。
ミラベルは手帳を開いた。
新しい頁の最初へ。
ゆっくりと、その名を書く。
アルヴィン=ヴェイン。
今度は、どの契約にも属させなかった。
ただ。
その人間が、確かにいたことを記すために。




