第13節 ― 教授の影
ヴェルム=クロウ市警察本部の取調室には、朝の光が入らない。
煤を吸った灰色の石壁。
床へ固定された机と椅子。
天井近くの蒸気灯だけが、人間の顔から影を剥がすように白い光を落としている。
エドモンド=ブラスウェルは、昨日までと同じ背広を着て、机の向こうへ座っていた。
襟は乱れていない。
髪も整えられている。
だが、白手袋を失った両手だけが、その秩序から取り残されていた。
手首には拘束具。
指先には、爪を何度も擦った赤い跡が残っている。
「契約の入れ替えは、いつから計画していた」
グレアム警部が尋ねた。
「すでにお話ししました」
エドモンドは机を見たまま答えた。
「ローム照合官が用意した書類に従いました」
「署名へ立ち会った。死体を運んだ。高架下を事故現場に見せかけた」
「認めています」
「四年前の死亡記録が不正だと、知っていたな」
エドモンドの指が止まった。
レオン=クラウスは、グレアムの隣で壁へ背を預けていた。
机へ身を乗り出さない。
エドモンドの目を正面から射抜こうともしない。
ただ、沈黙が何を避けているのかを見ていた。
「アルヴィンが本人だと分かったあとも」
レオンが言った。
「あなたは死亡記録を訂正しようとしなかった」
「私に記録を訂正する権限はありません」
「署名片を別の契約へ移す権限もなかった」
返事はない。
「それでも、商会を守るために協力した」
「混乱を防ぐ必要がありました」
エドモンドは顔を上げた。
目の下には、深い影がある。
「アルヴィン=ヴェインが生きていたと認めれば、四年間に成立した契約を問い直さなければならない。土地移転だけではありません。線路使用権、倉庫建設、地下水路、工場債券、雇用契約――すべてが連鎖している」
「不正な契約なら、問い直すべきです」
部屋の隅から、ミラベル=ワトリアが言った。
グレアムが振り返る。
「なぜ、まだいる」
「事件記録を取っています」
「警察の記録官ではないだろう」
「この事件の記録者です」
「勝手に肩書を作るな」
「静かにしています」
「もう喋った」
エドモンドは二人のやり取りを聞いていなかった。
「記録は、終わらせるためにある」
彼は呟いた。
「相続も、権利争いも、事故も、死亡も。いつまでも開いたままでは、社会は前へ進めない」
「だから、アルヴィンを死者のままにした」
レオンが言った。
「一度閉じた記録を、開き直してはならない」
その言葉だけが、エドモンド自身のものではないように響いた。
整いすぎている。
何度も聞き。
何度も自分へ言い聞かせ。
やがて、自分の判断として使えるまで馴染ませた言葉。
レオンは壁から背を離した。
「誰に教えられたのです」
エドモンドの瞳が揺れる。
「何の話です」
「現実と矛盾しても、一度閉じた記録を開き直すべきではない。その考えを、誰から聞いた」
「商会で働いていれば、誰でも分かることです」
「なら、答えられるでしょう」
「私自身の判断です」
「今の言葉も?」
エドモンドは答えなかった。
グレアムが、机の端へ革表紙の手帳を置いた。
拘束時に押収された私物だった。
「中を改めた」
「業務上の機密が含まれています」
「殺人事件より重い機密か」
グレアムは頁を開いた。
会議予定。
契約番号。
東倉庫の利用時刻。
四年前の土地処理を示す参照符号。
几帳面な文字の余白に、同じ印が何度も描かれている。
横向きの羽根筆。
その下を走る、二本の細い線。
記録院の正式印ではない。
バルグレム商会の部署印でもない。
事件当日の予定欄。
《東倉庫契約室》の下には、その印とともに、短い文字が書かれていた。
《教授》。
「これは誰だ」
グレアムが尋ねた。
「知りません」
「自分で書いた文字だぞ」
「何かの略記でしょう」
「何の」
「覚えていません」
「昨日まで、一分単位の会議内容を覚えていた男がか」
「取引先の呼称かもしれません」
「だから誰だ」
「忘れました」
レオンは、保護布の上から手帳を受け取った。
横向きの羽根筆。
二重線。
何らかの所属を示すようでありながら、公式な記録体系のどこにも属さない印だった。
「この印を使う人物が、《教授》と呼ばれている?」
「知りません」
「四年前の土地処理について助言を受けた?」
「知りません」
「昨夜の契約書式については」
「知りません」
「閉鎖済みの記録を守るべきだと教えられた?」
「……知りません」
同じ言葉を繰り返すたび、否定は弱くなっていった。
レオンは手帳を閉じる。
「現時点では、この印が犯罪の指示を意味する証拠はありません」
グレアムが彼を見る。
「教授とやらは無関係だと?」
「それも分かりません」
「なら、これは何だ」
「エドモンドが、何者かを恐れ、その者に関係する印と呼称を隠している。その事実だけです」
「さっきの理屈は」
グレアムが問う。
「自分一人で考えた言葉には聞こえません」
レオンはエドモンドを見た。
「ですが、誰から受け取ったかは、まだ証明できない」
エドモンドの顔が強張った。
「連れていけ」
グレアムが警官へ命じた。
エドモンドが立たされる。
扉の前で、彼は一度だけ振り返った。
見たのは手帳ではない。
レオンだった。
「記録を開けば、真実が出てくると思っているのですか」
「いいえ」
レオンは答えた。
「隠した者が出てきます」
エドモンドは何も言わず、廊下へ連れ出された。
*
取調室に隣接する証拠閲覧室には、アデラ=ロームの私物が並べられていた。
記録院章。
個人照合鍵。
黒い筆記具。
夜間当番用の手帳。
そして、一冊の薄い講義覚書。
表紙には、簡素な題名だけがある。
《契約記録における署名所属論》。
講師名は記されていない。
「これが、教授の講義か」
グレアムが尋ねた。
「匿名です」
レオンは冊子を受け取った。
本文に記されているのは、正当な法記録学だった。
署名そのものの真正性。
署名者の本人確認。
契約本文との対応。
複数頁へまたがる契約の所属証明。
分割・複製・移管された文書の法的効力。
「犯罪の方法は書かれていません」
レオンが言った。
「通常の講義です」
「では、関係ない?」
ミラベルが尋ねる。
「本文だけを見れば」
レオンは頁をめくった。
整然と印刷された講義文の余白へ、細かな手書き文字が加えられている。
同一番号の再発行。
閉鎖記録の維持。
署名片の所属変更。
短い語句。
矢印。
同じ番号を二つへ分ける図。
契約本文から署名片を切り離し、別の本文へ移す線。
「これは講義の一部ですか」
ミラベルが尋ねた。
「違います」
「誰の筆跡です」
「アデラの手帳と似ています。正式な鑑定は必要ですが」
「講師が、署名の入れ替えを教えたわけではない?」
「少なくとも、本文には書かれていません」
レオンは、講義文と余白の文字を見比べた。
「講義が説明しているのは、署名の法的効力が、どの契約へ属しているかによって決まるという原則です」
「アデラは、その原則を逆に使った」
ミラベルが言う。
「所属先を変えれば、本物の署名へ別の意味を持たせられると考えた」
「この覚書を見る限りは」
「旧式番号機で同一番号を作ることも?」
「具体的な実行方法は、講義本文にはありません」
「アデラが考えた?」
「そう読むのが自然です」
レオンは言葉を区切った。
「ですが、現段階では見立てです。余白の筆者と、どの時点で何を発想したかを確かめる必要があります」
グレアムが冊子を覗き込む。
「エドモンドの理屈と、同じ方向を向いている」
「記録の連続性を、目の前の現実より優先する」
ミラベルが言った。
「似ています」
「教授とやらが、この講義をした?」
「講師名はありません。エドモンドの手帳の《教授》と、この匿名講義を直接結ぶ証拠もない」
「だが、偶然にしては出来すぎている」
「偶然ではない可能性があります」
「回りくどいな」
「結びつける証拠が足りません」
グレアムは冊子を閉じかけ、また開いた。
「本人に聞く」
*
アデラは、別の取調室で背筋を伸ばしていた。
銀の記録院章を外された胸元だけが、奇妙に空いて見える。
グレアムは、匿名講義の覚書を机へ置いた。
「教授とやらが、アルヴィンを殺せと命じたのか」
「いいえ」
アデラは迷わず答えた。
「署名片を入れ替えろとは」
「いいえ」
「昨夜の偽装契約を作れと指示した?」
「いいえ」
「殺害は、自分で決めた」
「はい」
声には、誰かへ責任を移そうとする揺らぎがなかった。
自らの論理によって選び。
自らの判断によって実行した。
その事実を、アデラは否定しない。
「四年前、アルヴィンを死者へするよう命じられた?」
グレアムが尋ねる。
「その質問には答えません」
「講義をした人物は誰です」
ミラベルが問う。
「匿名の講義です」
「名前を知らないのですか」
「答える必要を認めません」
「余白の書き込みは、あなたのもの?」
アデラの視線が冊子へ落ちる。
「学説の応用を検討した覚書です」
「検討では終わらなかった」
「行為とは別の問題です」
「別ではありません」
「知識と行為は別です」
「なら、その行為を選んだのは」
「私です」
ミラベルは口を閉じた。
その答えに、言い逃れはなかった。
アデラは、教授を庇うために殺人を引き受けているようには見えない。
殺人は自分の判断であり、自分の責任であると、本気で考えている。
「殺人を命じたのではない」
レオンが静かに言った。
アデラの目が彼へ向く。
「少なくとも、あなたの証言と、今ある資料では」
「そのとおりです」
「署名片の入れ替えも、殺害も、あなたが選んだ」
「はい」
レオンは、匿名講義の表紙へ指を置いた。
「私の現在の見立てでは、この講義をした人物は、犯罪の命令を与えたのではありません」
グレアムが腕を組む。
「では、何を与えた」
「現実と記録が矛盾したとき、記録の連続性を優先するという理屈です」
「講義の本文は、記録制度を正しく運用するためのものです」
アデラが言った。
「ええ」
「なら、講師に責任はありません」
「法的には、今のところ犯罪への関与を示す証拠はない」
「ほかに何があるのです」
「人間は、与えられた理屈を、自分に都合のよいところまで進めます」
「それは、受け取った者の責任です」
「そのとおりです」
レオンは否定しなかった。
「あなたがアルヴィンを殺した責任は、あなたにある」
アデラは黙っている。
「ですが、あなたが《閉鎖済み記録へ生じた矛盾》としてアルヴィンを扱った背景に、この学説があるのではないか」
「あなたの推測です」
「ええ」
レオンは認めた。
「現時点では、私の見立てにすぎません」
ミラベルが、レオンを見る。
彼は教授の罪を語っているのではない。
まだ名も分からない人物の思想が、二人の犯罪者の言葉と、どのように似ているかを見ている。
「火をつけずに」
グレアムが呟いた。
「油と松明だけを置いていく男か」
「その比喩が正しいかも、まだ分かりません」
「慎重すぎるぞ」
「火をつけると知って置いたのか。使い方だけを教えたのか。それとも、受講者が勝手に油だと思ったのか」
レオンは匿名の講義録を見た。
「今の証拠では区別できません」
「だから逮捕できん」
「誰を逮捕するのかさえ、分かっていません」
グレアムが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「お前の《まだ》と《今は》は嫌いだ」
「将来の誤りを減らす言葉です」
「便利に使うな」
アデラは、二人の会話を聞きながら表情を変えなかった。
「四年前の死亡記録について」
レオンは話を戻した。
「あなたとエドモンドは、すでに作られていた仕組みを利用した」
「……」
「医師の死亡証明。親族確認。埋葬許可。相続処理。土地移転。同じ旧式番号機」
「……」
「複数の部署を通る偽装です。下級照合官と若手契約代理人だけで、一から設計するのは難しい」
アデラの視線が、机の木目へ落ちる。
「教授が設計したのですか」
返事はない。
「匿名講義の人物と、四年前の設計者は同じですか」
沈黙。
「横向きの羽根筆と、その下の二重線を知っていますか」
アデラの指先が、ほんのわずかに動いた。
だが、口は開かなかった。
その反応は、証明ではない。
知っていると断定するには足りない。
ただ、無関係な記号を見た者の反応にも見えなかった。
「これ以上は出ないな」
グレアムが警官を呼んだ。
アデラが立たされる。
扉へ向かう背中へ、レオンが言った。
「二度目にアルヴィンを殺した者は捕まった」
アデラの足が、敷居の手前で止まる。
「だが、一度目の死を設計した者は、まだ紙の向こうにいる」
彼女は振り返らなかった。
警官とともに廊下へ消える。
扉が閉じた。
*
机の上には、二つの資料が残った。
エドモンドの手帳。
アデラの講義覚書。
横向きの羽根筆。
その下の二重線。
《教授》。
それだけでは、誰の名も逮捕状へ書けない。
匿名講義の人物が、エドモンドのいう教授と同一人物なのか。
その者が、四年前の偽装死亡を設計したのか。
犯罪へ利用されると知って、思想や技術を伝えたのか。
いずれも証明されていない。
今あるのは。
エドモンドが、その呼称を隠していること。
アデラが、匿名講義の理論を犯罪へ応用したこと。
二人が、現実より記録の連続性を優先する、よく似た理屈を口にしたこと。
そして。
同じ印を前に、沈黙したことだけだった。
ミラベルは手帳を開いたが、すぐには書かなかった。
「事件は、解決したんですよね」
「アルヴィンを殺した者は分かりました」
レオンが答える。
「署名の入れ替えも」
「解明しました」
「では、今見つかったものは」
「答えではありません」
レオンは、横向きの羽根筆へ目を落とした。
「次の問いです」
ミラベルは新しい頁へ、まだ名を持たない印を写し取った。
横向きの羽根筆。
その下の二重線。
さらに、
《教授》
と書く。
取調室の外では、朝の交代を告げる鐘が鳴っていた。
一つの事件が終わり。
紙の向こうで。
別の影が、初めて輪郭を持った。




