怪盗の似顔絵は誰にも似ていない
観測余録 顔を覚えるということ
人の顔を残す方法はいくつもあります。
名前を書き、目や鼻の形を言葉にし、似顔絵を描き、写真板へ焼きつける。ひとりの証言だけでは曖昧でも、同じ人を見た者が増えれば、それぞれの記憶を重ねることで、少しずつ本当の顔へ近づいていけるように思えます。
けれど、人が覚えているのは、見たものだけではありません。
暗い場所で見えなかった部分を、あとから聞いた話で補うことがあります。新聞に載った絵を見て、自分も同じ色を見たように思うことがあります。何度も語った出来事が、いつの間にか最初の記憶より鮮明になることさえあります。
だから、一人が男を見たと言い、別の一人が女だったと言ったとしても、そのどちらかが嘘をついているとは限りません。
二人は、本当に違うものを見たのかもしれませんし、同じものを違う言葉で覚えたのかもしれません。
あるいは、ひとつの名前の下に、あとからいくつもの姿が集まってしまったのかもしれません。
その日、市警には怪盗を見たという人々が次々と訪れました。
けれど証言が増えるほど、その男――あるいは女の顔は、少しずつ見えなくなっていったのです。
――ナミ=エル
「それで、どれがルヴェールなんですか?」
ミラベル=ワトリアに訊かれ、グレアム警部は机の上へ並べられた紙を見渡した。
ヴェルム=クロウ市警の聞き取り室には、三枚の似顔絵が置かれていた。
一枚目は、頬の細い若い男。二枚目には、角張った顎と豊かな口髭を持つ壮年男性。三枚目は、長い耳と鋭い目を持ったエルフ族だった。
どう見ても別人である。
それなのに、三枚とも同じ人物――怪盗紳士ルヴェールの似顔絵として作成されていた。
「今のところ、全部だ」
グレアムが答えると、ミラベルは三枚を順に眺めた。
「怪盗というのは、ずいぶん忙しいんですね。一晩でこれだけ顔を変えたんですか?」
「種族を二度、年齢を三度ほど変えとる。次の証人次第じゃ、身長も半尺くらい増減するだろうな」
聞き取り室の外には、昨夜ルヴェールを見たという市民が列を作っていた。
王冠事件から一夜。
怪盗ルヴェールがヴェルム=クロウ市立古美術館へ侵入し、七葉銀冠を盗み出したという話は、朝刊が街へ出回るより早く広がっていた。
白い外套。
銀色の仮面。
旧王家の冠を狙う予告状。
夜霧へ消えた怪盗紳士。
ミラベルの記事では、彼を《白鴉》と呼んだ。
ルヴェール本人が名乗ったわけではない。
黒鴉館の探偵に対する白い鴉。見出しへ収まりがよく、読者にも覚えやすい。それだけの理由から付けた呼び名だった。
ところが、その名前は一晩のうちに新聞を離れ、街の言葉になっていた。
聞き取り室の扉が開く。
大きな画板を脇へ抱えたドワーフ族の女性が入ってきた。
五十代ほどで、短く切った灰色の髪を持ち、指先には長年使い続けた黒鉛が薄く染みついている。
市警の似顔絵師、イーダ=ベルクだった。
「四枚目だよ」
イーダは新しい絵を机へ置いた。
今度のルヴェールは、小柄な老人だった。
深い皺に、垂れた瞼、薄い唇。頭には古い夜会帽らしきものまで載っている。
グレアムは額へ手を当てた。
「今度は一晩で三十年ほど老けたか」
「証人がそう言った」
「その証人は、本当に怪盗を見たんだろうな」
「それを調べるのは、あんたの仕事だよ」
イーダは椅子へ腰を下ろし、次に使う黒鉛棒を小刀で削り始めた。
「私は、見たと言われた顔を描くだけだ。同じ人物を見た証人なのか、別の誰かを見たのか、それとも何も見ていないのかまでは絵にできない」
ミラベルは四枚を見比べた。
「何か、共通するところはないんですか?」
「目が二つある」
「それ以外で」
「鼻が一つ」
「イーダさん」
冗談だと思ったミラベルへ、イーダは真顔を向けた。
「冗談じゃないよ。鼻は細いと言う奴がいる。顎は四角い。頬は丸い。耳は長い。額は狭い。髪は多いが頭頂部は薄い――全部を一枚に入れてみな。怪盗じゃなくて化け物になる」
そう言って四枚の似顔絵を順番に指先で叩く。
グレアムはしばらく眺めたあと、廊下へ向かって声を張った。
「次を入れろ」
◇
最初に入ってきたのは、美術館の老警備員だった。
昨夜、展示室へ続く階段で、ルヴェールと短時間向き合ったという。
「若い男です」
椅子へ腰を下ろすなり、警備員は断言した。
「二十五……いや、三十前後でしょう。背が高く、顔は細かった。声も男でした」
イーダは新しい紙を画板へ留めながら訊いた。
「目は大きかったかい。それとも細かった?」
「鋭い目でした」
「鋭いかどうかじゃなく、大きいか細いかを訊いてる」
「それは……」
老人は少し考えた。
「仮面があったので、よくは」
「目尻は上がっていた?」
「仮面で見えません」
「眉は」
「それも」
「鼻筋は?」
「仮面の下から、少しだけ」
「まっすぐだった?」
「おそらく」
「《おそらく》は描けないよ」
質問が進むほど、警備員の声から少しずつ確信が失われていった。
イーダは手を止めない。
「背が高かったと言ったね」
「はい。私よりずっと」
「同じ床に立っていた?」
その問いで、警備員は黙った。
「……階段でした」
「どちらが上だった?」
「怪盗です」
イーダはそこで黒鉛棒を置いた。
「なら、実際にどれだけ身長差があったかは分からないね」
グレアムが記録係を見る。
「《証人より高身長》は消せ。《証人より階段上段に立ち、見下ろしていた》としろ」
記録係が一瞬ためらった。
「しかし警部、新聞では長身と――」
「その新聞を書いた記者が、今そこにおる」
グレアムは親指でミラベルを指した。
「本人の前で新聞記事を目撃証言の根拠にする気か?」
ミラベルは何となく姿勢を正した。
イーダはさらに問いを続けた。
「声は低かった?」
「若い男の声でした」
「それが本人の声だと、どうして分かる?」
「喋ったからですよ」
「劇場には、老人を演じる若者もいれば、男役をする女もいる。あんたが聞いたのは声だ。声の持ち主の身体まで、声だけでは見えないよ」
「でも、男の服を着ていました」
「それは服の証言だね」
警備員は困ったようにグレアムを見た。
「私は、間違ったことを言っているんでしょうか」
「いや」
グレアムは首を振った。
「あんたは見たことを話しとる。ただ、見たことと、そこから考えたことを分けとるだけだ」
「では、確かなのは何です?」
老人はしばらく昨夜を思い返すように目を伏せた。
やがて、ゆっくり言った。
「白い手袋です。手摺へ手を置いたとき、近くで見た。あれだけは間違いありません」
「外套は?」
「白です」
「照明は」
「展示灯と、窓からの月明かりでした」
グレアムが続ける。
「今朝、新聞を読む前から白だったと覚えていたか?」
警備員の口が止まった。
「……灰色だったような気もします」
ミラベルは手元の取材帳へ目を落とした。
朝刊の挿絵では、ルヴェールの外套は真っ白に描かれている。
記事にも、《白い外套を翻し》と書いた。
市警の初期発表と、二人の目撃証言をもとに選んだ表現だった。
嘘を書いたつもりはない。
けれど、その二人も、同じ照明の下で同じ外套を見たわけではなかった。
新聞の上で一度白く塗られた外套が、今度は目撃者の記憶まで白く染めている。
「白い手袋」
グレアムが記録係へ告げる。
「それだけは確定へ入れろ。外套は《明色。白または灰色》」
警備員が退室すると、イーダは証言から確実に拾えた目元と、仮面の下から見えた口元だけを紙へ描いた。
顔の中央には大きな空白が残っている。
「これでは、顔になりませんね」
ミラベルが言うと、イーダは当然のことのように答えた。
「顔を見てないんだから、顔にならない方が正しいさ」
◇
二人目の証人は、美術館裏を通りかかった馬車御者だった。
屋根から通りへ降りてきた人物を見たという。
「女でした」
御者は座るなり言った。
「間違いありません」
グレアムは手元の記録用紙へ目を落としたまま訊いた。
「顔を見たのか?」
「暗くて、顔までは」
「なら、なぜ女だと分かった」
「走り方ですよ。軽かった。男なら、もっと肩が揺れます」
「すべての男が同じ走り方をするのか」
「そういう意味ではありません。ただ、女みたいに見えたんです」
グレアムは記録係へ視線を向ける。
「《女性》とは書くな。《走行姿勢を、証人が女性的と解釈》」
記録係が少し困った顔をした。
「長いですね」
「短くして意味を変えるな」
黒髪に見えたものは、帽子の下にできた影だった可能性があった。
杖だと思ったものも、御者が確かに見たのは細長い何かだけである。傘かもしれない。工具かもしれない。折り畳んだ棒かもしれない。
質問を受け続けるうちに、御者もまた不安そうな顔になった。
「私は、役に立たないんでしょうか」
「そんなことはない」
グレアムはすぐに否定した。
「暗い場所で、顔の見えない人物が軽い走り方をして、細長い物を持っていた。そこまでは役に立つ」
「それだけですか?」
「それ以上を足したら、あんたの証言じゃなくなる」
イーダは、その証言だけを使って中性的な輪郭を描いた。
当然、老警備員の証言から作った絵とは目元も顎も一致しない。
さらに、それまでに集められた証言者ごとの似顔絵を机へ並べると、イーダは上から薄い透写紙を重ねていった。
若い男の輪郭。
老人の皺。
エルフの耳。
女のように見えた口元。
一つずつ写し取り、重ねる。
けれど、線は一本にはならなかった。
目は何か所にもずれ、顎は細くも四角くもなり、耳の長さも紙を重ねるたび違って見える。
「これを全部、一枚へまとめることはできますか?」
ミラベルが訊いた。
「できるよ」
イーダは重ねた透写紙を持ち上げた。
「まとめれば、誰の証言にも少しずつ似る」
透けた何本もの線の向こうに、人の顔らしいものが浮かんでいる。
けれど、それは誰か一人の顔には見えなかった。
「その代わり、誰にも似なくなる」
イーダは透写紙を一枚ずつ離し、元の似顔絵へ戻した。
「別の人間を見た可能性があるなら、別々に残す。それが一番正確だ」
◇
三人目の証人は、十歳ほどの少年だった。
胸に白い紙羽根を留め、銀紙を切り抜いて作った仮面を頭へ載せている。
「ぼくは全部見ました」
椅子へ座ると、少年は誇らしげに胸を張った。
「怪盗は美術館の屋根に立ってたんです。真っ白な外套で、銀色の仮面をつけて、長い杖を持ってました」
「顔は?」
グレアムが訊く。
「仮面の下は、すごくきれいな男の顔でした」
「見えたのか」
「少しだけ」
「どこから見た?」
「美術館前の広場です」
「何時ごろだ」
少年の勢いが少し鈍った。
「夜です」
「夜の、いつだ」
「鐘が……十回くらい」
グレアムは机の上に置いていた別の聞き取り票へ視線を落とした。
「昨日の夜、君はどこにいた?」
少年は答えない。
「母親の話では、西環区の叔母の家で夕食を食べていたそうだな。そこから美術館までは、子どもの足なら一時間はかかる」
少年の肩が縮んだ。
「でも、見たんです」
「新聞でか?」
「違います」
「なら、誰から聞いた」
「友達が見たって。それから……朝刊にも絵が」
そこで少年は黙った。
ミラベルは、彼が語った怪盗の姿を頭の中で並べてみた。
白い外套。
銀色の仮面。
長い杖。
屋根の上。
舞い散る白い羽根。
すべて朝刊の挿絵にある。
「それから、夜霧へ消えたんです」
少年が言った。
ミラベルの指が、取材帳の上で止まった。
《怪盗は白い外套を翻し、夜霧へ消えた》
自分が書いた一文だった。
「怪盗ごっこをしたの?」
ミラベルは、少年を責めないよう声を少し柔らかくした。
少年は警戒するように彼女を見てから、小さく頷いた。
「ぼくがルヴェール役でした」
「何回くらい?」
「五回。……七回くらい」
「毎回、屋根から飛び降りた?」
「荷車の上からです」
「白い羽根も投げたの?」
「みんなで作りました」
少年は胸につけていた紙羽根を外した。
新聞の広告欄を切って作られたものだった。
裏面には石炭店の値引き案内が印刷されている。
「何度も演じているうちに、本当に見たような気がしたのね」
「嘘じゃありません」
少年は強く言った。
目には、少し涙が浮かんでいた。
「そうね」
ミラベルは頷いた。
「あなたは、嘘をつこうとしたわけじゃないと思う」
グレアムが記録係へ告げた。
「《本人による直接目撃なし。新聞挿絵および伝聞をもとにした再構成》」
「再構成、ですか」
ミラベルが聞き返す。
「《虚偽証言》と書けば、この子が悪いことになる」
グレアムは少年へ一度だけ目を向けた。
「だが、《目撃》とも書けん」
少年が退室すると、聞き取り室にはしばらく沈黙が残った。
ミラベルは、机の隅に置かれた朝刊を見る。
少年の記憶の中にいた怪盗。
その姿を作った言葉の一部は、自分が書いたものだった。
「警部」
「何だ」
「新聞に書かれたことは、証言には使えないんですか?」
「使える」
グレアムは答えた。
「《新聞を読んだ》という証言にはな」
◇
午後の《ヴェルム=クロウ日報》編集室には、怪盗ルヴェールに関する投書が山積みになっていた。
怪盗の正体を予想する手紙。
ルヴェールを称賛する詩。
自称目撃者が書いた長大な証言。
予告状を真似た、脅迫とも冗談ともつかない文章。
白い紙羽根も十数枚届いていた。
新聞紙。
菓子の包装紙。
子どもの宿題用紙。
本物のルヴェールが残したものとは、どれも似ていない。
それでも投書には、
《白鴉の羽根を拾いました》
と書かれている。
「ワトリア、ちょうどいいところへ来た」
広告担当が一枚の原稿を差し出した。
《銀仮面、本日入荷》
《白鴉外套、子ども用あり》
劇場用品店から届いた広告だった。
「明日の朝刊へ載せたいそうだ」
「白鴉外套?」
「白くて長ければ何でも白鴉外套になるらしい」
窓の外から、子どもたちの声が聞こえてきた。
一人は白い寝具布を肩から巻き、別の一人は木の枝を警棒に見立てて追いかけている。
「待て、白鴉!」
「捕まえられるものなら、捕まえてみたまえ!」
怪盗役の子どもが荷箱の上へ飛び乗った。
台詞も身振りも、朝刊の挿絵に描かれた怪盗によく似ていた。
ミラベルは、朝刊の挿絵を描いた絵師を探した。
彼はすでに次の紙面用の図版を版木へ彫っている。
「この怪盗の顔は、誰の証言から描いたんですか?」
ミラベルが朝刊を広げる。
紙面のルヴェールは、白い外套を翻し、銀色の仮面をつけて屋根の上へ立っている。
絵師は手を止めなかった。
「顔は、ほとんど描いてないだろ。仮面と影だけだ」
「でも、街ではこれがルヴェールの姿になっています」
「絵が悪いのか?」
「そういう意味ではありません」
「記事に《白い外套》《銀の仮面》と書いてあった。《夜霧へ消えた》ともな。だから、そのとおり一枚の絵にした。それ以外の姿を勝手に描けばよかったのか?」
ミラベルは答えられなかった。
挿絵師が一人で怪盗の姿を作ったわけではない。
彼は、記事の中に散らばっていた言葉を、一枚の画面へまとめただけだった。
「《白鴉》の記事は評判がいいぞ」
背後からオルセン編集長が言った。
「明日も見出しへ使う。短いし、目立つ」
「本人は、その名前を名乗っていません」
「街中がそう呼んでいるなら、もう呼び名として成立している」
「私たちが広めたんです」
「最初に書いたのは、うちかもしれん。だが今朝だけで他紙が五社使っている」
オルセンは窓の外を示した。
白い布をまとった子どもたち。
銀色の仮面を並べる露店。
紙羽根を帽子へ差した新聞売り。
「もう新聞だけの言葉じゃない」
ミラベルは紙面の《白鴉》という大きな文字を見る。
「定着したなら、正しいことになるんですか?」
「正しいかどうかと、定着したかどうかは別だ」
オルセンは、それだけ言って次の紙面へ視線を戻した。
ミラベルはしばらく窓辺に立っていた。
一度紙面へ置かれた名前と顔が、新聞を離れて街を歩き始めている。
それを見た人が、次の日には目撃者として市警へ並ぶ。
記録が証言から作られ、その記録が、今度は新しい証言を作っていた。
◇
夕方、ミラベルが市警を再び訪れると、聞き取り室の机には十枚近い似顔絵が並んでいた。
細い青年。
老紳士。
仮面の女。
長い耳を持つエルフ。
髭のないドワーフ。
どの絵にも少なくとも一人の証言者がいて、その証言だけを見れば、どれも誠実に描かれていた。
だからこそ、並べるほど同一人物には見えない。
イーダは、新しい紙へごく薄い輪郭だけを描いていた。
「それが最新ですか?」
ミラベルが訊く。
「確実に分かってるところだけ描いてる」
紙には、顔の外周と仮面の位置だけがある。
目も鼻も口もない。
「顔がありませんね」
「見えてないからね」
イーダはしばらくその紙を眺めた。
「仮面の形も証言が違う。丸い。細い。片目だけ。両目。銀。白。黒」
そして、消し布を取り、描いたばかりの仮面を消した。
「輪郭も衣装で変えられる」
今度は外周線を消す。
最後には、ほとんど白紙だけが残った。
「これが一番正確だよ」
イーダは、その白紙をグレアムへ渡した。
グレアムは怪盗記録を開く。
顔貌欄。
《顔貌、特定不能》
そう記した。
次に性別欄を見る。
そこには《男性》と書かれていた。
王冠事件より前の犯行記録から何度も転記され、そのたび誰も疑わなかった一語だった。
グレアムは一本の線を引き、その上から訂正印を押した。
《未確認》
年齢。
《未確認》
種族。
《未確認》
身長。
《衣装・履物・立ち位置等による偽装の可能性あり》
「何も分かっていないのと同じですね」
ミラベルが言うと、グレアムはペンを置いた。
「違う」
「何がです?」
「分かっていないことが分かった」
ミラベルはイーダの白紙を見る。
「新聞には、《顔のない怪盗》とは書けません。見出しには名前が必要だし、挿絵には輪郭が要ります」
「なら、分からん輪郭まで勝手に作るな」
グレアムの声に、責める響きはほとんどなかった。
むしろ机へ積まれた似顔絵と、市警自身が長く使ってきた記録の方へ向けられた言葉に聞こえた。
「でも、顔が分からないなら、どうやって探すんです?」
入口に立っていた若い警官が訊いた。
手には、壁へ貼るための新しい手配書を持っている。
顔貌欄だけが空白だった。
グレアムは、その紙へ目を向けた。
「顔以外を見ろ」
「顔以外?」
「あいつは予告した時刻を守った。王冠そのものだけじゃなく、王冠の所有を証明する記録へ手を出した」
グレアムは十枚近い似顔絵をまとめ、一番上の紙を裏返した。
「顔は変えられる。服も声も、背丈さえある程度は変えられるだろう」
机を指先で一度叩く。
「だが、何を盗むかは、その人間が選ぶ」
若い警官はしばらく考えたあと、顔貌欄の空いた手配書を壁へ貼った。
そこには似顔絵の代わりに、ルヴェールの行動特徴が並んでいる。
ミラベルはその紙を眺め、それから自分の取材帳を開いた。
翌朝の記事の見出しを書く。
《白鴉の正体に迫る》
数秒見つめる。
線を引いて消した。
代わりに書いた。
《十人が見た怪盗に、同じ顔はなかった》
挿絵欄には、
《似顔絵掲載せず》
と記す。
さらに、《白鴉》という呼称の横へ注記を加えた。
《新聞各紙が使用する呼称。怪盗本人の自称ではない》
窓の外から、子どもたちの声が届いてくる。
明日も白い外套は街を歩くだろう。
銀色の仮面も売られる。
紙羽根も増える。
そして、新しい目撃者も市警へやって来るかもしれない。
すでに広がった怪盗の姿を、新聞がすべて街から消すことはできない。
それでも。
誰も見ていない新しい顔を、明日の新聞が一つ増やすことだけはなかった。
観測余録 描かなかったもの
その日の市警記録には、怪盗ルヴェールについて作られた似顔絵が何枚も残されました。
若い男に見えた顔。
老いた男に見えた顔。
エルフのように見えた者。
女だったのではないかと思われた者。
どの絵にも、それを描く理由になった証言があります。
けれど、その証言のすべてが、同じ種類の記憶から生まれたわけではありませんでした。
実際に目の前で見たものもあれば、暗闇の中でそう見えたものもあります。友人から聞いた話や新聞の挿絵が、自分の記憶と重なったものもありました。
だから市警は、たくさんの顔を一枚へまとめることをやめました。
最後に記録へ残したのは、似顔絵ではありません。
《顔貌、特定不能》
それだけでした。
分からない、と書くことは、ときどき何も書かないことと同じに見えます。
けれど、分からない部分を誰かの想像で埋めてしまえば、その想像もいつか記録として読まれ、その記録を見た次の人の記憶へ入っていきます。
そして、いつの間にか。
誰も最初には見ていなかった顔を、大勢の人が覚えていることもあるのでしょう。
新聞は、一度街へ送り出した白い外套も、《白鴉》という名前も取り戻せませんでした。
それでも翌朝、一枚の新しい似顔絵を載せないことはできました。
何かを正しく記録するために必要なのは、見つけたことをすべて書くことだけではないのかもしれません。
見えなかったものを、見えなかったまま残すこと。
まだ分からないことへ、きれいな顔を与えないこと。
その空白を守ることも、ときには記録する仕事の一つなのでしょう。
――ナミ=エル




