観測余録 ― 仮登録
深夜。
閉鎖されたヴェルム=クロウ市立古美術館に、見張りの靴音はなかった。
七葉銀冠も。
灰炉譲渡証書も。
王冠の内布から取り出された証人別紙も。
すでに、市警の証拠保管庫へ移されている。
蒼硝子円蓋室の中央には。
空になった展示ケースだけが残されていた。
封印を失った硝子扉。
王冠の重さを失った展示台。
動きを止めた重量記録機。
蒸気灯は、夜間保存用の弱い炎へ絞られ。
青い円蓋へ、細長い影を映している。
その影の間を。
小柄な紳士が歩いていた。
黒いシルクハット。
黒い車掌礼装。
磨かれた革靴。
石床を静かに測る、細身の杖。
エル=ネフリドは。
誰にも扉を開けられることなく、無人の円蓋室を横切った。
彼は、空の展示ケースの前で足を止める。
王冠のあった場所へ目を落とし。
次に。
展示台の下を見た。
白い紙羽根が一枚。
石床へ落ちている。
彼は杖を片手へ預け。
白手袋の指で、羽根を拾った。
折り目を一つ。
また一つ。
丁寧に開いていく。
古い文書の余白から作られた紙だった。
罫線の切れ端も。
印章の縁も残っている。
だが。
内側には、文字がない。
署名も。
予告も。
問いも記されていなかった。
エル=ネフリドは。
空白の紙を、蒼硝子へかざした。
夜の円蓋に。
黒いシルクハットと。
端正な横顔が映る。
その背後。
一瞬だけ。
白い外套の怪盗が立っていた。
銀の仮面。
長身の輪郭。
帽子の鍔へ添えられた、白い手袋。
エル=ネフリドが振り返る。
誰もいない。
夜間蒸気灯が揺れ。
空の展示ケースだけが、淡い光を返していた。
彼は、もう一度硝子を見る。
白い怪盗の姿は消えている。
残っているのは。
黒い車掌礼装をまとった、自分自身の像だけだった。
エル=ネフリドは。
空白の紙羽根を折り直す。
胸元の内ポケットへ収め。
展示ケースへ向き直った。
「王冠。返還」
杖の先が。
石床を一度打つ。
澄んだ音が。
無人の円蓋室を渡った。
「所有者。未確定」
二度目。
蒼硝子の高みで。
何かが応えるように軋んだ。
「怪盗名。仮登録」
三度目。
停止していた重量記録機が動き出した。
内部の歯車が。
一枚ずつ噛み合う。
誰も触れていない鍵盤が沈み。
白い記録紙が、ゆっくりと吐き出される。
> 七葉銀冠
> 重量――零
> 展示上の保管者――不在
> 所有者――未記入
印字機は、そこで止まった。
それは。
市警の証拠保管庫にある王冠ではなく。
空になった展示ケースの現在を記したものだった。
王冠は、市警へ返された。
だが。
誰の王冠として返されたのかは、まだ記録されていない。
怪盗は、ルヴェールと呼ばれた。
だが。
その名が、誰へ所属するのかも確定していない。
エル=ネフリドは。
印字された一行を読み。
ほんの少しだけ笑った。
「観測。継続」
蒸気灯の炎が揺れる。
円蓋室を満たした影が。
一度だけ、すべて同じ方向へ傾いた。
次に光が安定したとき。
展示室には、誰もいなかった。
空になった展示ケースと。
所有者の記されていない記録だけが。
蒼硝子の下へ残されていた。




