↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
119/228

観測余録 ― 仮登録

 深夜。


 閉鎖されたヴェルム=クロウ市立古美術館に、見張りの靴音はなかった。


 七葉銀冠も。


 灰炉譲渡証書も。


 王冠の内布から取り出された証人別紙も。


 すでに、市警の証拠保管庫へ移されている。


 蒼硝子円蓋室の中央には。


 空になった展示ケースだけが残されていた。


 封印を失った硝子扉。


 王冠の重さを失った展示台。


 動きを止めた重量記録機。


 蒸気灯は、夜間保存用の弱い炎へ絞られ。


 青い円蓋へ、細長い影を映している。


 その影の間を。


 小柄な紳士が歩いていた。


 黒いシルクハット。


 黒い車掌礼装。


 磨かれた革靴。


 石床を静かに測る、細身の杖。


 エル=ネフリドは。


 誰にも扉を開けられることなく、無人の円蓋室を横切った。


 彼は、空の展示ケースの前で足を止める。


 王冠のあった場所へ目を落とし。


 次に。


 展示台の下を見た。


 白い紙羽根が一枚。


 石床へ落ちている。


 彼は杖を片手へ預け。


 白手袋の指で、羽根を拾った。


 折り目を一つ。


 また一つ。


 丁寧に開いていく。


 古い文書の余白から作られた紙だった。


 罫線の切れ端も。


 印章の縁も残っている。


 だが。


 内側には、文字がない。


 署名も。


 予告も。


 問いも記されていなかった。


 エル=ネフリドは。


 空白の紙を、蒼硝子へかざした。


 夜の円蓋に。


 黒いシルクハットと。


 端正な横顔が映る。


 その背後。


 一瞬だけ。


 白い外套の怪盗が立っていた。


 銀の仮面。


 長身の輪郭。


 帽子の鍔へ添えられた、白い手袋。


 エル=ネフリドが振り返る。


 誰もいない。


 夜間蒸気灯が揺れ。


 空の展示ケースだけが、淡い光を返していた。


 彼は、もう一度硝子を見る。


 白い怪盗の姿は消えている。


 残っているのは。


 黒い車掌礼装をまとった、自分自身の像だけだった。


 エル=ネフリドは。


 空白の紙羽根を折り直す。


 胸元の内ポケットへ収め。


 展示ケースへ向き直った。


「王冠。返還」


 杖の先が。


 石床を一度打つ。


 澄んだ音が。


 無人の円蓋室を渡った。


「所有者。未確定」


 二度目。


 蒼硝子の高みで。


 何かが応えるように軋んだ。


「怪盗名。仮登録」


 三度目。


 停止していた重量記録機が動き出した。


 内部の歯車が。


 一枚ずつ噛み合う。


 誰も触れていない鍵盤が沈み。


 白い記録紙が、ゆっくりと吐き出される。


> 七葉銀冠

> 重量――零

> 展示上の保管者――不在

> 所有者――未記入


 印字機は、そこで止まった。


 それは。


 市警の証拠保管庫にある王冠ではなく。


 空になった展示ケースの現在を記したものだった。


 王冠は、市警へ返された。


 だが。


 誰の王冠として返されたのかは、まだ記録されていない。


 怪盗は、ルヴェールと呼ばれた。


 だが。


 その名が、誰へ所属するのかも確定していない。


 エル=ネフリドは。


 印字された一行を読み。


 ほんの少しだけ笑った。


「観測。継続」


 蒸気灯の炎が揺れる。


 円蓋室を満たした影が。


 一度だけ、すべて同じ方向へ傾いた。


 次に光が安定したとき。


 展示室には、誰もいなかった。


 空になった展示ケースと。


 所有者の記されていない記録だけが。


 蒼硝子の下へ残されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。