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第10節 ― 百二十七年間の一文

 地下保存区画の時計が、午前一時を回っていた。


 止められた送風輪は、もう動いていない。


 それでも機関室には。


 つい先ほどまで回転していた歯車の熱と。


 追加濾過器から漏れた、湿った薬品臭が残っていた。


 開封された濾過器。


 試験札の上で、植物性インクだけが薄くなった線。


 保存管から採取された銀粉と織布繊維。


 熱を受けて変形した樹脂。


 証拠袋へ収められた極細銀糸。


 王冠と同じ重量の銀板。


 二つの仕掛けは。


 同じ午前零時に。


 同じ保存装置を利用しながら。


 異なる結果を求めていた。


 一方は、王冠を移動させる。


 もう一方は。


 王冠の内側にあるかもしれない文字を、読めなくする。


「ここでは話しにくい」


 グレアムが言った。


「保存記録室を使う。証拠品は動かすな。濾過器の前に二人残れ」


 警官たちへ指示を出し、地下区画の奥にある小部屋へ移る。


 保存記録室は狭かった。


 壁一面に、設備台帳と修復記録が詰め込まれている。


 中央には。


 四人で囲めばいっぱいになる、鉄製の卓。


 蒸気灯は一基だけ。


 白い光の下で。


 全員の顔へ、深い影が落ちていた。


 セルマ=アストレイ。


 オスカー=ベルム館長。


 マリウス=フェイン。


 レオン。


 ミラベル。


 そして。


 入口を塞ぐように、グレアムが立つ。


 セルマは、自分の内部報告書を卓上へ置いた。


 十日前に作成された、数枚の紙。


 王冠内布の略図。


 古エルフ語の抜粋。


 旧王権の契約慣習を記した参考資料。


 回覧を確認する四つの印。


 これまで確認したのは。


 その報告書が存在することと。


 正式に読んだ者が四人だったことまでだった。


 報告書が、どのような事実を結びつけ。


 何を調べるよう求めていたのか。


 ここで初めて。


 最初から確認する。


「誰が何を見つけ、誰へ報告し、誰が止めたのか」


 グレアムが椅子を引いた。


「推測ではなく、自分がしたことだけを話せ」


 セルマは頷いた。


 王冠の内側を描いた図へ、指を置く。


「七葉銀冠が搬入された二日後です。展示前の状態確認を行いました」


「ヴァラン=コートを名乗る修復師もいた?」


「同じ修復室にはいました。ただ、そのときは別の銀葉を確認していました」


「あなたが見つけたのは」


「内布の縫い目です」


 セルマは、図の一部を示した。


 七枚の銀葉をつなぐ、古い茶褐色の織布。


 その中央から、少し外れた位置。


 周囲とは縫い方の異なる、細長い区画がある。


「補修痕ではないのか」


 グレアムが尋ねる。


「その可能性は考えました。王冠は何度も修理されています。ですが、この部分だけは、破れた布をつなぎ直すための縫い方とは異なっていました」


「何のための縫い方です?」


 ミラベルが聞く。


「内側へ何かを収め、開口部を閉じる縫い方に近いものです」


「触った?」


「外側から、形と厚みを確認しただけです。織布が脆く、糸を解けば布そのものが崩れる危険がありました」


「中に紙がある感触は」


「断定できませんでした」


 セルマは、はっきりと言った。


「厚みはありました。ただ、それが折り畳まれた紙なのか。古い補強布なのか。縫い代が重なっただけなのか。開かなければ分かりません」


 レオンが報告書へ目を落とす。


「だから、縫い目だけでは、別紙があると判断しなかった」


「はい」


「灰炉譲渡証書と結びつけた理由は」


 セルマは、次の頁を開いた。


 古エルフ語の原文。


 百二十七年前の共通語訳。


 現在の市記録院による現代語訳。


 問題となった一語には、細い線が引かれている。


「原文の語は、完全な所有権譲渡とも。期限を明記しない管理の委託とも読めます」


「現代語訳では」


 ミラベルが言った。


「全所有権を永久に譲渡する、と意味が強められている」


「ええ。ですが、それだけなら、翻訳と後世の法解釈の問題です」


「そこへ、王冠の縫い目が加わった」


「旧王権の契約慣習では」


 セルマの指が、参考資料欄へ移る。


「王領や統治権を他者へ預ける場合、公開文書とは別に、証人の意思を記した細い文書を作る例がありました」


「証人別紙」


 グレアムが言う。


「はい」


「何を書く」


「返還の条件。契約が効力を失う場合。公には記せない証人の名。王が脅迫を受けて署名した場合に、公開契約を否定するための文言」


「なぜ、王冠へ隠す」


「公開された文書は、奪われることがあります。書き換えられ。翻訳され。勝者の記録庫へ収められる」


 セルマの声は静かだった。


「王冠や印璽は、契約を結んだ王権そのものの象徴です。その内側へ別紙を置けば、公開文書だけを手に入れても、契約の意味を完全には確定できません」


「灰炉譲渡証書にも、その形式が使われたという記録は?」


「ありません」


「なら、報告書へ書いたのは」


「可能性です」


 セルマは答えた。


「曖昧な契約文。王冠の不自然な縫い目。旧王権の慣習。この三つをまとめ、内布を精密調査する必要があると報告しました」


「別紙があると断定はしていない」


「していません」


「別紙に何が書かれているかも」


「分かりません」


 グレアムは、記録係へ目を向けた。


 巡査が、一つずつ書き留める。


 別紙の存在は未確認。


 内容も未確認。


 確認できるのは。


 セルマが調査を求めるだけの根拠を報告していたこと。


 その報告書を、正式に四人が読んだこと。


 そして。


 調査が行われなかったことだった。


「正式な閲覧者を確認する」


 グレアムが言った。


「作成者のセルマ=アストレイ」


「はい」


「オスカー=ベルム館長」


「受領しました」


「保存部門主任」


 入口近くにいた主任が頷く。


「それから」


 グレアムの視線が、マリウスへ向く。


「土地記録局上級認定官、マリウス=フェイン」


「所有権認定に影響する可能性があったためです」


 マリウスは答えた。


「正式な複写記録はない」


「ありません」


 セルマが言う。


「口頭で、ほかの者へ話した記録もない」


「記録はありません」


「王冠へ触れた者が、縫い目を自分で見つけた可能性は」


「あります」


 ヴァラン=コートを名乗った人物は。


 正式な回覧者ではない。


 だが。


 王冠へ直接触れていた。


 報告書を読まずに、縫い目へ気づいた可能性までは否定できない。


「館長」


 グレアムが、オスカーへ顔を向ける。


「報告を受けたな」


「受けました」


「調査を許可しなかった」


「延期しました」


 オスカーは言い直した。


「拒否したわけではありません」


「展示が終わるまで?」


「そうです」


「なぜ」


「王冠はすでに、特別展示の中心資料として告知されていました。内布を解く調査には時間がかかる。損傷の危険もある。開幕直前に展示を延期すれば、美術館の信用へ関わります」


「内側に、土地所有権の解釈へ影響する文書があるかもしれなかった」


「あると確認されたわけではありません」


「だから調べるんだろう」


 オスカーは口を閉じた。


 レオンが報告書をめくる。


 館長の確認印の下には。


 展示終了後に再検討。


 そう記されている。


「知らなかったわけではない」


 レオンが言った。


「可能性を知って、確かめる時期を遅らせた」


「保存上の判断です」


「展示日程の判断でもある」


「館長として、それらを考慮するのは当然です」


「当然かどうかは聞いていない」


 レオンは、報告書を閉じなかった。


「何を選んだかを確認している」


 王冠の内側を調べることと。


 予定どおり展示を始めること。


 オスカーは。


 後者を選んだ。


 彼は否定しなかった。


「報告書は、館長室から土地記録局へ回された」


 グレアムが続ける。


「フェイン認定官。お前も読んだ」


「所有権認定に関わるためです」


「内容をどう判断した」


「法的根拠のない推測です」


 セルマの表情が硬くなる。


 マリウスは彼女を見ずに続けた。


「縫い目がある。古い契約に別紙を隠す慣習がある。原文へ複数の解釈がある。それだけで、今回の王冠に別紙が存在するとは言えない」


「セルマも、存在すると断定していない」


 ミラベルが言った。


「しかし、報告が外へ出れば、断定されたものとして広まります」


「だから非公開にした?」


「法的根拠のない説を、記念展示の前に広めるべきではない」


 マリウスの声には、迷いがなかった。


「市の所有権は、百二十七年間の行政実績と、正式な認定によって成立しています。未確認の一文で、市民生活を混乱させるべきではない」


「まだ、一文は見つかっていません」


 ミラベルが言った。


「だからこそです」


「見つかっていないから、調べなくてよい?」


「調査を延期したのは、美術館です」


 マリウスは。


 オスカーへ責任を戻すように、視線を向けた。


「私は、報告書を非公開資料として扱うよう意見を付けただけだ」


「その意見が付けば」


 セルマが静かに言った。


「美術館が展示前の調査を行うことは、ほとんど不可能になります」


「あなたの推測へ、市の事業すべてを従わせるわけにはいかない」


「私の推測ではありません。調べるべき可能性です」


「表現を変えても同じです」


「同じではありません」


 セルマの声が。


 初めて、わずかに強くなった。


「あると決めることと。ないと決める前に、確かめることは」


 マリウスは答えなかった。


 グレアムが、卓を指で叩く。


「制度の責任は、あとでまとめて調べる」


 彼は、脇へ積まれていた設備記録を引き寄せた。


 地下保存区画の保守台帳。


 追加濾過器の設置記録。


 機関室への入室記録。


 部品納入表。


 保守鍵の使用簿。


「次は、保存設備だ」


 追加濾過器の設置日は、八日前。


 セルマの報告書が作成された二日後。


 設置許可書には。


 土地記録局の認定印。


 マリウス=フェインの名。


「設置を許可したのは」


「私です」


 マリウスが答えた。


「申請内容は」


「古織布保護のための、防黴濾過器追加。保存部門から申請され、保存上妥当と判断しました」


「報告書を読んだあとに?」


「時系列としては」


 否定はしなかった。


「別紙の可能性と、防黴措置は別の問題です」


「濾過器の内部に」


 グレアムが言う。


「正規部品ではない薬剤容器が隠されていた」


「知りませんでした」


「まだ、知っていたかとは聞いていない」


 マリウスの唇が閉じられる。


 グレアムは、保守台帳の欄へ太い指を置いた。


「この鍵番号は何だ」


 保存部門主任が答える。


「土地記録局管理設備用の保守鍵です」


「美術館の鍵ではない?」


「違います。認定を受けた設備の封印部を開く場合、認定部署の鍵と、美術館保存部門の鍵を併用します」


「濾過器を設置した日」


 グレアムは、鍵簿を開く。


「美術館側の鍵は?」


「私が使用しました」


 保存部門主任が答えた。


「業者側の施工鍵は」


「現場責任者です」


「土地記録局の鍵は」


 主任の指が。


 使用簿の一行で止まる。


「記録上は、フェイン認定官の管理番号です」


 グレアムが、マリウスを見る。


「お前の管理する鍵が使われとる」


「私個人しか扱えない鍵ではありません」


「管理責任者は、お前だな」


「部下が持ち出すことはあります」


「貸出記録は」


 マリウスは答えなかった。


 グレアムが、鍵簿を卓上で回す。


 土地記録局用保守鍵。


 管理者。


 マリウス=フェイン。


 使用日。


 濾過器設置日。


 返却確認印。


 だが。


 誰へ貸し出したのかを示す欄は。


 空白だった。


「部下へ任せた」


 マリウスが言った。


「設備認定は私の仕事ですが、すべての設置作業へ立ち会えるわけではない」


「誰へ任せた」


「設備認定課の者です」


「名は」


「記録を確認しなければ」


「記録にはない」


 グレアムの声が低くなる。


「だから、いま聞いている」


「八日前のことです。部下の誰かが」


「誰だ」


 マリウスは黙った。


 蒸気灯の炎が揺れる。


 卓上の影が。


 彼の顔を、斜めに分けた。


「直接渡したのか」


 グレアムが尋ねる。


「事務机へ置き、担当者へ回すよう指示したかもしれない」


「かもしれない?」


「日常的な業務です」


「土地所有権の解釈へ影響する報告を読んだ二日後に」


 グレアムは、濾過器設置許可書を開いた。


「植物性インクを薄くする効果を持つ薬剤が仕込まれた設備の設置を許可し。自分が管理する鍵を使わせた。だが、誰が使ったか説明できない」


「薬剤の存在は知りませんでした」


「それを証明する記録も、まだない」


「私が入れたという証拠もない」


「そのとおりだ」


 レオンが言った。


 許可書と。


 鍵簿を、自分の前へ並べる。


「事実は三つだ」


 マリウスを責めるのではなく。


 記録へ、順番を与えるように話す。


「あなたが濾過器の設置を許可した」


 一つ目。


「設置時に、あなたの管理下にある保守鍵が使われた」


 二つ目。


「ほかの者へ貸し出した記録がなく。あなたは、使用した部下の名を挙げられない」


 三つ目。


「それだけで、私が薬剤を入れたと?」


「断定していない」


「では、なぜ」


「断定する前に、説明できない部分を残さないためだ」


 マリウスは、レオンを睨んだ。


「探偵というのは、疑うだけで責任を負わないから気楽ですね」


「認定官は」


 レオンの声は変わらない。


「印を押すだけで、責任を負わないのか」


 マリウスの顔が強張る。


「レオン」


 ミラベルが呼んだ。


 止めるためではなかった。


 彼女は、マリウスをまっすぐ見ている。


 取材帳は開いていない。


 紙へ記す前に。


 本人の言葉を聞こうとしていた。


「一つ、伺ってもいいですか」


「警察の聴取中です」


「事件を見ていた者としての質問です」


 マリウスは答えなかった。


 拒絶とも。


 了承とも取れない沈黙。


 ミラベルは続けた。


「王冠が消えたとき、なぜ怪盗ではなく圧力計を見ていたんですか」


 保存記録室の空気が。


 止まった。


 オスカーが、マリウスを見る。


 セルマも。


 グレアムも。


 レオンだけは。


 マリウスではなく、卓上の記録を見ていた。


「円蓋の上へ、白い怪盗が現れました」


 ミラベルの声は。


 追及するには、穏やかだった。


「警察官も。館長も。セルマさんも。私も、そちらを見ました」


「あなたは、私を見ていたのでしょう」


「途中からです」


「なら、ずっと圧力計を見ていたとは証明できない」


「ずっととは言っていません」


 ミラベルは、一歩も引かなかった。


「王冠が消えた直後。白い姿が円蓋へ現れたとき。あなたは圧力計を見ていました」


「保存設備の監視が、私の役割だった」


「王冠がなくなったあとも?」


「圧力異常が出ていた」


「その異常が気になった?」


「当然です」


「何が起きると思っていたんですか」


 マリウスは、口を開いた。


 だが。


 言葉は出なかった。


「圧力が上がれば、王冠の保存へ影響するからですか」


 ミラベルが尋ねる。


「王冠は、もう展示ケースにありませんでした」


「機械設備全体へ被害が」


「それとも」


 ミラベルは。


 言葉を区切った。


「圧力が上がっても、起きるはずのことが起きなかったからですか」


 マリウスは。


 答えなかった。


 右手の親指が、左手の指輪を押している。


 犯行前にも見せていた動作。


 だが。


 動作は証言ではない。


 沈黙も。


 それだけで犯罪を証明はしない。


「答えないことを、認めたことにはしない」


 レオンが言った。


 グレアムが眉を寄せる。


「庇うのか」


「違う。今ある証拠で言える範囲を越えるなと言っている」


 レオンは。


 セルマの報告書へ指を置く。


「マリウスは、証人別紙の可能性を知っていた」


 次に。


 濾過器の設置許可書。


「その報告の二日後、追加濾過器の設置を許可した」


 そして。


 鍵の使用簿。


「設置時に、管理下の保守鍵が使われた。貸し出し記録はなく、使用者の名も説明できない」


 最後に。


 ミラベルへ視線を向ける。


「王冠が消えたとき、怪盗ではなく圧力計を見ていた。その理由を、いま答えなかった」


「十分だろう」


「重要な証拠だ」


 レオンは認めた。


「だが、薬剤容器を入れるところを見た者はいない。鍵を本人が使用したことを示す直接の証言もない。容器へ触れた痕跡も、まだ確認していない」


 マリウスが、小さく息を吐いた。


「聞いたか、警部」


「だから、帰していいとは言っとらん」


 グレアムは、入口の警官へ顎を向けた。


「フェイン認定官を、この建物から出すな。土地記録局の執務室、自宅、設備認定課を保全する。関係記録も、勝手に動かさせるな」


「令状は」


「取る」


「私は容疑者ですか」


「いまは重要参考人だ」


 グレアムは低く答えた。


「その先は、証拠が決める」


 マリウスの表情に。


 一瞬だけ、皮肉な笑みが浮かんだ。


「証拠ですか」


 その言葉には。


 この事件全体を嘲るような響きがあった。


「王冠は盗まれた」


 彼は言った。


「別紙が存在したとしても、いまは怪盗の手にある」


 セルマが顔を上げる。


「存在を認めるんですか」


「仮定の話です」


 マリウスは、すぐに言い直した。


「仮に、王冠の内側から何らかの文書が見つかったとしても。それが百二十七年前から収められていたと、誰が証明するのです」


「紙とインクの年代は調べられます」


 セルマが言う。


「古い紙は、古書市場で手に入る。植物性インクも再現できる」


「縫い糸と。内布の劣化。縫合部の状態も」


「死者の資格を利用した人物は、王冠の修復へ関わっていた」


 マリウスの言葉は、次第に速くなる。


「そいつが怪盗本人か。協力者なら。展示前から内布へ触れ、古い紙を縫い込む時間があった」


 セルマが言葉を失う。


 それは。


 別紙が本物であっても、避けて通れない問題だった。


 王冠は、午前零時以降。


 公的な管理から外れている。


 その後、誰が保持しているのかは確認されていない。


 王冠が返され、文書が見つかったとしても。


 最初から王冠へ収められていたものだと、どう証明するのか。


「犯罪者が持ち出した文書に、証拠能力などない」


 マリウスは断言した。


 レオンが顔を上げた。


 その目に。


 マリウスへの追及とは、別の光が浮かぶ。


「何です」


 マリウスが尋ねる。


 レオンは答えず。


 卓上に置かれた、予告状の写しを取った。


 百二十七年間、一度も展示されることのなかった一文を。


 この街のすべての者へ、お返しいたしましょう。


「お返しする」


 レオンが呟く。


「レオン?」


 ミラベルが、隣から覗き込む。


「ルヴェールは、王冠を返す」


 オスカーが椅子を鳴らして立ち上がった。


「分かるのですか。いつ、どこへ」


「そこまでは分からない」


「では、なぜ返すと」


 レオンは、マリウスを見た。


「いま、こいつが説明した」


「私が?」


「犯罪者が保持した文書には、証拠能力がない」


「事実でしょう」


「そうだ」


 レオンは認めた。


「怪盗の目的が、王冠を自分の物にすることだけなら。返す必要はない」


 予告状へ視線を落とす。


「だが、ルヴェールは、百二十七年間展示されなかった一文を、この街へ返すと書いた」


「義賊を装う宣伝文句かもしれません」


「これまで確認された予告状に、犯行後、虚偽と判明した記述はない」


 レオンは続ける。


「今回も。時刻。扉。封印。灯り。番人。書かれた条件を、すべて守った」


 ミラベルが、予告状の文面を読む。


「別紙を、この街のすべての者へ返す」


「怪盗が、自分の手元で公開するだけでは駄目だ」


 レオンが言った。


「なぜです」


「マリウスの言うとおりになるからだ」


 予告状の写しが。


 鉄卓の上へ置かれる。


「怪盗が王冠を持ったまま、内側の文書を見せても。いま作った。いま縫い込んだ。そう主張される」


「王冠ごと、公的な管理へ戻せば」


 ミラベルが言う。


「返却された時点で保全し。警察と美術館と第三者の立会いで、内布を開くことができる」


「紙。インク。糸。縫い目。布の劣化」


 セルマが続ける。


「搬入時の写真乾板と、修復前の記録図。保存されている織布標本とも照合できます」


「怪盗が保持していた時間に、加工できたものかも検証できる」


 レオンが言った。


「持ち出された事実は消えない。完全な連続保管には戻らない」


「それでも」


 ミラベルが、レオンを見る。


「怪盗の手元にあるよりは、証拠として調べられる」


「そうだ」


「だから返す」


「王冠を持ち続ければ」


 レオンは言った。


「ルヴェールは、王冠だけを盗んだ怪盗で終わる。そこにある一文も、犯罪者の主張として処理される」


「返せば」


 ミラベルが、予告状の最後の一文を見る。


「王冠ではなく。市が所有する資格の方が、調べられる」


「王冠が目的ではない、とまでは言わない」


 レオンは訂正した。


「難しい盗みを楽しんでいる。警察を走らせることもな」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「ずいぶん楽しそうだったぞ、あの人形は」


「だが」


 レオンは予告状を閉じる。


「盗みを完成させるには、王冠を返す必要がある」


「盗んだ品を返して、完成するのか」


「所有者を問う盗みならな」


 グレアムは腕を組み。


 少し考えた。


「王冠が返る場所は」


「返却された瞬間に、証拠として保全できる場所」


「警察か。美術館か」


「あるいは、両方が立ち会えるところだ」


「この建物へ戻ってくる?」


「可能性はある」


「外の警備を増やす」


「増やせ。だが」


 レオンは。


 白い人形を追って、警察が空にした円蓋回廊を思い出した。


「白い外套を待つな」


 グレアムの口元が、わずかに歪む。


「分かっとる」


「返却者が、人間とも限らない」


「それも分かっとる」


「本当に?」


「次は、見せられた方を追わんと言っただろう」


 グレアムは扉を開けた。


「全員、配置を組み直す。美術館内外。旧契約塔。保守橋。王冠を置ける場所を洗え」


 警官たちが動き始める。


 オスカーも立ち上がった。


「王冠が戻るなら、展示室へ」


「戻った瞬間から、事件の証拠品だ」


 グレアムが遮る。


「美術館の展示品ではない」


「所有者は市です」


 マリウスが言った。


 レオンが振り返る。


「それを、これから調べる」


 保存記録室の卓上。


 セルマの報告書。


 非公開の朱印。


 マリウスの設置許可。


 管理者以外の名が書かれていない、保守鍵使用簿。


 植物性インクだけが薄くなった試験札。


 そして。


 百二十七年間。


 存在さえ確定されなかった一文。


 王冠は、まだ返還されていない。


 証人別紙も。


 本当に存在するのか。


 何が書かれているのか。


 それは、まだ誰にも分からない。


 だが。


 レオンには。


 一つだけ、確信があった。


「ルヴェールは戻ってくる」


 ミラベルが尋ねる。


「王冠を返すために?」


「違う」


 レオンは、予告状の写しを折り直した。


「王冠に書かれたものを、盗品ではなく証拠にするためだ」

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