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第9節 ― 王冠と同じ重さ

 午前零時二十七分。


 蒼硝子円蓋室の封印が、事件後初めて解除された。


 怪盗に破られたのではない。


 美術館館長。


 市警。


 土地記録局。


 三者の立会人が、それぞれ自分の印を確認し、封蝋が犯行前の状態を保っていることを記録したうえで、正式に切り落とした。


 赤褐色の封蝋が、白い布の上へ落ちる。


 一片ずつ番号が付けられ。


 証拠袋へ収められていく。


 鍵も三本。


 それぞれの所持者が、警官の前で錠前へ差し込んだ。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 三本すべてが回ったところで、展示ケースの金属枠が低く鳴った。


 封印は正常。


 鍵も正常。


 硝子に破損なし。


 怪盗は、最後まで展示ケースを開けていなかった。


 それが。


 扉を開ける前から確認された、最初の事実だった。


「記録を」


 グレアムが命じる。


 巡査が時刻を書き留める。


「午前零時二十七分。三者立会いのもと、蒼硝子円蓋室中央展示ケースを開封。犯行前封印に異常なし。鍵、錠前ともに正常」


「正常という言葉ばかりですね」


 ミラベルが、取材帳を胸元へ抱えたまま言った。


 展示ケースの中には、王冠がない。


 それなのに。


 封印も。


 錠も。


 灯りも。


 警報機も。


 すべて正常だった。


「正常な機械が、正常に王冠を見失った」


 レオンは答えた。


 グレアムが金属枠へ手を掛ける。


「開けるぞ」


 二重硝子の扉が、慎重に外側へ引かれた。


 調整された空気が、ケースの内側から流れ出す。


 薬品とも。


 湿った古布とも違う。


 冷たい金属と、温められた樹脂の匂いが混じっていた。


 セルマが一歩出ようとする。


 グレアムが腕で制した。


「まだ入るな」


「内布の繊維が残っているかもしれません」


「だからだ。先に位置を記録する」


 警察の記録係が、展示台を四方向から撮影する。


 王冠の代わりに現れた銀色の板。


 湿度管理口。


 固定具の残骸。


 台座を覆う濃紺の展示布。


 銀板は、王冠が置かれていた場所の中央にあった。


 薄い。


 平たい。


 装飾も刻印もない。


 蒸気灯の光だけを、冷たく跳ね返している。


「見えていた板ですね」


 ミラベルが言う。


「見えていたのは、表面だけだ」


 レオンは手袋を着けた。


「どこから出たのか。何をしたのか。そこまでは確認していない」


 展示台の側面には、重量記録機が付いたままだった。


 細い紙帯には、犯行時刻を挟んで同じ数字が並んでいる。


 午後十一時五十九分。


 午前零時。


 午前零時一分。


 王冠が消えた瞬間にも。


 針は一度も警戒線を越えていない。


「警報装置から調べる」


 グレアムが保存技師を見る。


「壊すなよ」


「警察へ言われなくても壊しません」


 技師は不満そうに答え、展示台の外部端子へ検査器を接続した。


 記録歯車。


 感知板。


 警報鐘への連結。


 外部から確認できる範囲に、断線や故障は見当たらない。


「銀板を持ち上げます」


 技師が言った。


 グレアムが頷く。


「記録係。時刻を取れ」


 銀板の周囲へ、細い支持具が差し込まれる。


 二人の警官が左右を持ち。


 ゆっくりと持ち上げた。


 その瞬間。


 けたたましい金属音が、円蓋室へ叩きつけられた。


 重量警報の針が警戒線を越える。


 記録紙にも。


 重量低下を示す線が、はっきりと刻まれた。


 ミラベルが肩をすくめる。


「鳴りますね」


「うるさいほどにな」


 グレアムが耳を押さえた。


「戻せ」


 銀板が展示台へ戻される。


 警報が止まり。


 針も基準線へ復帰した。


「感知器、記録機、警報鐘。いずれも正常です」


 保存技師が言った。


「では、なぜ王冠がなくなったときに鳴らなかった」


 グレアムは答えを知りながら、記録のために尋ねた。


 レオンが銀板を見る。


「重量が減らなかったからだ」


 銀板は、正式な検査秤へ移された。


 美術館の収蔵記録に記された、七葉銀冠の重量。


 銀板の重量。


 二つの数値を照合する。


 差は。


 重量警報が検知できる範囲よりも、小さかった。


 偶然で一致する重さではない。


 王冠の代わりになるため。


 あらかじめ調整された板だった。


「機械は欺かれていません」


 ミラベルが言った。


 警報記録を見ながら、言葉を選ぶ。


「王冠が残っているとは、一度も記録していない」


「同じ重量が残っていると記録しただけだ」


 レオンが答える。


「故障していた方が、警察としては楽だったんだがな」


 グレアムが低く呟いた。


「壊れた機械なら、機械の責任にできる」


「これは正しく働いた」


「だから、人間の前提が間違っていたと認めるしかない」


 グレアムは銀板へ証拠番号を付けさせた。


 板を取り除いた展示台には、濃紺の布だけが残っている。


 レオンが布の端を持ち上げた。


 下には。


 板の形に浅く掘られた、細長い収納部があった。


 その溝は、展示台の中央まで続いている。


 銀板は、最初から王冠の真下に置かれていたのではない。


 布の下。


 脇へずらした位置へ隠され。


 何かに引かれることで、王冠の消失と入れ替わるように中央へ滑り出した。


「銀板を動かす仕掛けは」


 グレアムが膝をつく。


 溝の奥には、細い切れ込み。


 その縁へ。


 銀色の糸の断片が絡んでいた。


「同じ糸か」


「まだ断定するな」


 レオンは拡大レンズを取り出した。


 糸へ光を当てる。


 絹糸より細い。


 光を受けなければ、灰色の影にしか見えない。


 だが。


 拡大すれば。


 極細の金属線を、さらに複数撚り合わせたものだと分かる。


「銀糸です」


 セルマが言った。


「装飾用ではないな」


「これほど細ければ、肉眼ではほとんど見えません」


「王冠側にも使われていた可能性がある」


 ミラベルが、消えた銀冠の位置を見る。


「可能性ではなく、管を調べれば分かる」


 レオンは展示ケースの後方へ回った。


 湿度管理口。


 丸い金属縁の表面に。


 新しい擦り傷が走っている。


 王冠が引き込まれた方向へ。


 展示台側から、管の奥へ。


「記録してから採取する」


 グレアムが言った。


 写真乾板へ通気口の状態を残し。


 金属縁の傷を、位置図へ書き込む。


 その下へ、黒い検査布が広げられた。


 レオンが細い採取具で、通気口の金属縁をなぞる。


 最初に落ちたのは。


 夜空の星屑ほど小さな、銀色の粒だった。


 一粒。


 二粒。


 光を受けたときだけ、黒い布の上で輝く。


「銀粉」


 ミラベルが顔を近づける。


「銀製品が、ここへ擦れた痕だ」


 レオンは言った。


「館内の塵が付着した可能性は?」


 グレアムが尋ねる。


「それだけならある」


 レオンは採取具を替えた。


「だが、位置と方向を見ろ」


 銀粉は、金属縁の周囲へ均等に付着しているのではない。


 下側から奥へ。


 硬い物が引かれた方向に沿って残されていた。


 保存技師が携帯灯を管の奥へ向ける。


 細い管内壁にも。


 同じ方向へ伸びる、銀色の擦過痕があった。


「展示ケースから地下側へ向かっています」


 技師が言う。


「通常の送風で、銀粉がこの線を作ることはない」


 次に。


 採取具の先へ、茶褐色の細い繊維が引っ掛かった。


 一本ではない。


 微細な織布の毛羽が。


 金属縁と、管内壁の傷へ残されている。


 セルマの表情が強張る。


「王冠の内布と、同じ色です」


「色だけでは一致と断定できない」


 レオンは繊維を、別の証拠紙へ置いた。


「修復時に採取された標本と照合する」


 保存技師が、修復室に保管されていた織布の標本を持ってくる。


 拡大レンズの下。


 繊維の太さ。


 撚り。


 染料による色の沈み方。


 完全な鑑定には時間が要る。


 だが。


 管内の繊維は。


 少なくとも、王冠内側に使われていた古い織布と、同種の特徴を持っていた。


「銀粉だけなら、別の銀製品かもしれない」


 ミラベルが整理する。


「織布の繊維だけなら、保存作業中に付着した可能性もある」


「両方が」


 レオンが続けた。


「同じ方向の擦過痕へ残っている」


 さらに奥。


 管の接合部へ。


 琥珀色の小さな塊が付着していた。


 固まり切っている。


 だが表面は引き延ばされ。


 一度柔らかくなったものが、冷えて変形した形をしている。


 レオンは採取針で端を押した。


「樹脂ですね」


 保存技師が言った。


「王冠の固定具から採取したものと、外見上は似ています。正式な照合は必要ですが」


 技師は、樹脂片へ光を当てた。


「この伸び方は、固い状態で欠けたものではありません」


「柔らかくなったあとで引かれた」


「そう見えます」


 王冠を開いた形へ固定していた留め具。


 午前零時。


 保存装置が作動し。


 温められた空気がケースへ送られた。


 固定具が柔らかくなり。


 七枚の銀葉が重なった。


 ただし。


 現時点で確認できるのは。


 熱を受けて変形した樹脂が、王冠の通過経路と考えられる管内へ残っていたことまでだった。


「正規の修復記録には、固定具の交換が記載されていた」


 ミラベルが言う。


「交換そのものは、隠されていなかった」


「材質の性質までは、記録されていない」


 レオンは答えた。


 管の奥から。


 最後に、極細の銀糸が引き出された。


 途中で切れている。


 片端には、樹脂が薄く付着していた。


 もう片端は。


 管の地下側へ続く暗闇の中で、失われている。


 レオンは。


 展示台の溝から採取した糸と並べた。


 太さ。


 撚り方。


 光の反射。


 目視できる特徴は一致している。


「この糸で王冠を引き」


 ミラベルは、目の前で起きた消失を思い返す。


「別の糸で、銀板を中央へ引いた」


「同じ時刻に」


 レオンが言う。


「片方を管の奥へ。片方を展示位置へ」


「交換ですか」


「重量だけのな」


 グレアムは、展示ケースを見回した。


 鍵は正常。


 封印も正常。


 警報も正常。


 それでも。


 王冠は。


 柔らかくなった固定具から解放され。


 七枚の銀葉を重ね。


 銀糸によって、細い保存管へ引き込まれた。


 その代わりに。


 同じ重量の銀板が、展示位置へ滑り込んだ。


「これで、王冠が保存管を通ったことは立つな」


 グレアムが言う。


「正確には」


 レオンは黒い検査布を見た。


「銀製の物体と古い織布が、熱を受けた樹脂と銀糸を伴って、展示ケースから地下方向へ通った」


「それを七葉銀冠以外の物だと言うなら」


 ミラベルが続けた。


「同じ特徴を持つ別の物を、この時刻に、同じ管へ通した証拠が必要になる」


「いまのところ、そんな物はない」


 レオンは立ち上がった。


「地下へ行く」


    ◇


 地下保存区画では。


 機械の運転が完全に停止されていた。


 送風輪は止まり。


 湿度調整槽の弁は閉じられ。


 先ほどまで館内を満たしていた低い振動も消えている。


 動かない機械室は。


 生き物の息が止まったように、不自然に静かだった。


 追加された防黴濾過器には。


 市警の封印線が残っている。


 午前零時前に、グレアムが付けさせたものだ。


 線は切れていない。


 封蝋にも破損はない。


「少なくとも、市警が封印したあとに開けた者はいない」


 グレアムが確認した。


「不正な物があるなら、その前から中にあった」


 レオンは答える。


 マリウス=フェインは、機関室の入口付近に立たされていた。


 左右には警官。


 灰色の上着は整ったままだが。


 顔色だけが、蒸気灯の下で青白く見える。


「保存設備の調査には、土地記録局の立会いが必要です」


 彼が言った。


「立ち会っているだろう」


 グレアムが答える。


「そこから動くな」


「濾過器を開けば、保存規定に違反します」


「王冠はもう、ケースの中にない」


「だからといって、設備を破壊してよい理由にはならない」


「破壊はせん。証拠として開ける」


 グレアムは、保存部門主任と市警記録係を呼んだ。


 濾過器の設置時封印。


 土地記録局の印。


 保存部門の印。


 今夜追加した市警封印。


 すべての状態を記録する。


 そのあとで。


 封印線が切られた。


 金属留め具を外す。


 円筒形の蓋が。


 わずかに持ち上がった瞬間。


 甘いような。


 酸いような。


 湿った葉を長く煮詰めたような臭いが漏れ出した。


 ミラベルが、思わず鼻を押さえる。


「防黴剤の臭いですか」


 保存部門主任が、顔を近づけずに答えた。


「少なくとも、通常使用している濾過材の臭いではありません」


「薬品か」


 グレアムが尋ねる。


「何の薬品かは、分析しなければ断定できません」


 濾過器内部には。


 通常の防黴用吸着材。


 その中心へ。


 小さな容器が隠されていた。


 容器の蓋には、薄い膜が張られている。


 膜は破れていた。


 周囲の吸着材には。


 濡れたような変色が広がっている。


「正規部品か」


 グレアムが尋ねた。


「違います」


 保存部門主任は即答した。


「防黴濾過器へ、このような容器は入れません」


「膜が破れた理由は」


「容器の構造から見れば」


 主任は、断定を避けながら観察する。


「一定以上の圧力が掛かったとき、内容物を放出するためのものに見えます」


「午前零時の定時運転」


 ミラベルが言った。


「そのとき、送風量と圧力が上がった」


「作動時刻と一致する可能性はあります。ですが、詳細は検査が必要です」


「設置時に見落とした?」


 グレアムの声が低くなる。


「外側の認定封印と型式番号を確認しました。内部濾過材は、土地記録局の認定済み封入品として納入されていたため」


「中を見なかった」


「封印を破れば、認定済み部品として扱えなくなります」


 マリウスが口を挟む。


「規則どおりです」


 グレアムが振り返った。


「いま、それを自慢しているのか」


「事実を述べただけです」


 レオンは、濾過器の脇へ設置されていた細長い札を見た。


「これは何だ」


 保存技師が答える。


「保存状態確認用の試験札です」


 濾過器を通過した空気が、資料へどのような影響を与えるかを見るため。


 保存系統には。


 性質の異なるインクを載せた試験札が置かれていた。


 一方には。


 現代の記録用炭素インクで書かれた線。


 もう一方には。


 旧文書の保存確認に使う、植物性インクの標本線。


 午前零時前には。


 どちらも同じ濃さで記録されている。


 いま。


 炭素インクの線は残っていた。


 黒く。


 はっきりと。


 だが。


 隣の植物性インクは。


 保存装置が作動した時刻に対応する位置から、薄くなっている。


 文字の輪郭が崩れ。


 灰色の影へ変わっていた。


「擦れたわけではないですね」


 ミラベルが言った。


「表面に傷はない」


 レオンは札を横から光へ透かした。


「紙も破れていない。炭素インクにも、同じ変化は出ていない」


「通常の湿度調整で、この差が出ることは?」


 グレアムが保存部門主任へ聞く。


「考えられません。どちらも、保存環境の確認へ使える状態に調整されています」


「銀や織布への影響は」


「現時点で、保存管の金属部に腐食は見られません。試験用の布片にも、繊維の崩壊は確認できません」


「試験札で確認できたのは」


 レオンが言った。


「濾過器を通過した空気へさらされたあとも、炭素インクは残った。植物性インクは薄くなった。それだけだ」


「容器の薬剤が原因ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「可能性は高い。だが、成分分析を終えるまでは確定しない」


 セルマは。


 植物性インクの薄くなった線を見ていた。


 顔から血の気が失われている。


「王冠がケースに残っていたら」


 声が掠れる。


「内布の中に文書があったとして、その文字も」


「同じ植物性インクなら」


 レオンが答えた。


「薄くなる効果を受けた可能性がある」


「どの程度まで」


 保存部門主任が試験札を確認する。


「この短時間では、完全には消えていません。ただし、同じ空気へ長くさらされれば、さらに薄くなったと考えられます」


 銀の王冠は残る。


 古い織布も残る。


 縫い目を開けば。


 紙が見つかるかもしれない。


 だが。


 そこに植物性インクで文字が書かれていたなら。


 その文字だけが、読み取れないほど薄くなる。


 あとから調査した者に残されるのは。


 何も書かれていないように見える紙。


 あるいは。


 長い年月で自然に褪せたと説明できる痕跡だけだった。


「怪盗が仕込んだ可能性は」


 マリウスが言った。


 全員の視線が、彼へ向く。


「王冠を盗むため、保存設備へ入り込んでいたのでしょう。銀糸も。樹脂も。人形も仕掛けた。薬剤容器だけ、別人のものだと決める根拠はない」


「仕掛けの目的が違う」


 レオンが答えた。


「どちらも王冠へ関わっている」


「一方は、王冠を外へ運ぶために働いた」


 レオンは、証拠袋へ入れられた銀糸を示した。


「固定具を緩め。七枚の銀葉を重ね。管から引き込む。銀板を代わりに置く。すべて、王冠そのものを移動させる仕掛けだ」


 次に。


 薄くなった試験札へ目を移す。


「こちらは、王冠を移動させない」


「怪盗が、証拠を消したかったのかもしれない」


「何の証拠だ」


 マリウスの口が止まる。


「試験札では、金属も布も、炭素インクも残った」


 レオンは。


 植物性インクだけが薄くなった線を指した。


「王冠の内布に、古い植物性インクで書かれた文書があれば。その文字を失わせる効果を持つ」


「偶然の反応かもしれない」


「薬剤の目的までは、まだ断定しない」


 レオンは言った。


「だが。別紙の可能性が報告されたあと、その王冠専用の保存管へ、正規品にはない薬剤容器が入れられた。その結果、古い文書へ使われる植物性インクだけが薄くなった」


「証人別紙が存在するとは確定していない」


「存在しないとも確定していない」


 セルマの声だった。


 静かだったが。


 機械室にいた誰も聞き落とさなかった。


「だから、調査するはずでした」


 彼女は、マリウスを見ていた。


「文字が失われる前に」


「私を疑っているのですか」


「まだ、誰の名も挙げていない」


 レオンが遮った。


「薬剤容器を入れた者が誰かは、これから調べる。濾過器の保守記録。設置時に使われた鍵。認定手続き。持ち込まれた部品」


「なら、盗難とは別の犯行だと断定するのも早いでしょう」


「実行者が同じかどうかは未確認だ」


 レオンは認めた。


「だが、二つの仕掛けが求めた結果は分けられる」


 グレアムが腕を組む。


「王冠を持ち出す仕掛けと。文書の文字を薄くする仕掛けか」


「文書が存在し。同じインクが使われていたならな」


「存在しなくても」


 グレアムの視線が、追加濾過器へ向く。


「保存設備へ、正規品ではない薬剤容器を隠した事実は変わらん」


「王冠が先に管へ引き込まれたため」


 ミラベルが言った。


「薬剤を含んだ空気へ、長くさらされずに済んだ可能性はあります」


「怪盗が、別紙を守ったと?」


「そこまでは言っていない」


 レオンは即座に答えた。


「怪盗が薬剤を知っていたか。別紙を守るために盗んだか。単に二つの仕掛けのうち、王冠の移動が先に成功しただけか。証拠はまだない」


「結果として、文字が残った可能性はある」


「王冠を回収するまで、それも確認できない」


 レオンは。


 推測を一つずつ切り離した。


 王冠と同じ特徴を持つ物が、保存管を通った。


 それは。


 銀粉。


 古い織布の繊維。


 熱を受けて変形した樹脂。


 極細の銀糸。


 四つの物証が示している。


 同重量の銀板が、警報を鳴らさなかった。


 それは。


 正常な記録機と、実動試験と、秤が示している。


 保存空気へ何らかの薬剤が混ぜられ。


 試験札では、現代の炭素インクが残り、古い植物性インクが薄くなった。


 それは。


 追加濾過器の薬剤容器と、試験札が示している。


 だが。


 王冠を盗んだ者と。


 文字を薄くしようとした者が。


 同じ人物である証拠はない。


 むしろ。


 二つの仕掛けは、同じ午前零時を利用しながら。


 異なる結果を求めていた。


 一方は。


 王冠をなくす。


 もう一方は。


 王冠を残したまま。


 そこに隠されているかもしれない文字だけを、読めなくする。


「同じ犯人なら」


 ミラベルが、考えを言葉へ変える。


「王冠を持ち出したあとで、文書を処分すればいい。展示ケースの中へ、薬剤を流す必要はありません」


 レオンが彼女を見る。


「そうだ」


「薬剤を仕込んだ人は、午前零時を過ぎても王冠がケースに残ると思っていた」


「少なくとも」


 レオンが答える。


「薬剤を含んだ空気へ、王冠の内布がさらされることを前提にしていた」


「怪盗の仕掛けを知らなかった?」


「王冠が管へ引き込まれることまでは、知らなかった可能性が高い」


「でも、予告状は知っていた」


「その予告を利用できると考えた可能性はある」


 ミラベルはマリウスを見た。


 彼は何も言わなかった。


 ただ。


 試験札ではなく。


 市警によって開かれた濾過器を見ている。


 そこに入っていたものを。


 初めて見た者の顔かどうか。


 表情だけで決めることはできなかった。


 グレアムが、証拠品を一つずつ確認する。


 銀板。


 銀粉。


 古い織布の繊維。


 熱で変形した樹脂。


 切れた極細銀糸。


 薬剤容器。


 植物性インクだけが薄くなった試験札。


「記録しろ」


 彼が巡査へ命じた。


「王冠の盗難と、保存設備への不正工作は、別件として分ける」


「まだ、犯人は同じかもしれません」


 マリウスが食い下がる。


「同じなら、あとで一つに戻す」


 グレアムは冷たく答えた。


「最初から同じだと決めて、別の犯人を逃がすよりましだ」


 レオンは、銀板を持ち上げさせた。


 薄い板。


 王冠と同じ重さを持つだけの。


 何の歴史も。


 何の権利も記されていない銀。


「怪盗は王冠を盗んだ」


 次に。


 植物性インクの線が薄れた試験札を示した。


「別の誰かは、王冠に書かれたものを盗もうとした」

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