第8節 ― 白い怪盗は屋根を走る
白い外套が、蒼硝子円蓋の上を走った。
少なくとも。
下から見上げた者の目には、そう見えた。
銀色の仮面。
濃紺の礼装。
霧の中へ長く引かれる、月白色の外套。
怪盗は円蓋内側の保守回廊から鉄骨へ足を掛け、硝子屋根の外側へ身を翻していた。
その姿が、夜霧の向こうで蒸気灯の逆光を受ける。
顔も。
手足の細かな動きも見えない。
硝子へ映るのは。
長身の紳士を思わせる輪郭だけだった。
「西側へ回れ!」
グレアムの怒声が、円蓋室を貫いた。
警部は螺旋階段を駆け上がっていた。
その後ろを、三人の警官が追う。
短い脚で二段ずつ踏み上がりながらも、グレアムの速度は落ちない。片手で欄干をつかみ、身体を内側へ振って踊り場を回る。
「屋根側の扉を閉めろ。東の保守路も塞げ!」
「了解!」
回廊に配置されていた警官たちが、左右へ散った。
白い怪盗は、円蓋の鉄骨に沿って走っている。
靴音が。
甲高く。
一定の間隔で響いた。
左足。
右足。
左足。
外套が、そのたびに大きく揺れる。
眼下では、何人もの警官が頭上を指していた。
「北側です!」
「旧契約塔へ向かっている!」
「保守橋を押さえろ!」
白い姿が動くたび。
人の視線も。
警察の配置も。
同じ方向へ引かれていった。
展示ケースの前で。
レオンは、その流れを見ていた。
王冠の消えた台座から、まだ動かない。
「警部を止めなくていいんですか」
ミラベルが尋ねる。
「止めても行く」
「あなたは行かない?」
「地下を確認する」
レオンの視線は、円蓋上の怪盗ではなく、保存装置監視席に立つマリウスへ向いていた。
マリウスは圧力計から顔を上げている。
白い外套を一瞥した。
だが。
すぐに計器へ視線を戻した。
「その前に」
ミラベルは頭上を見た。
「本当に、あれを放っておくんですか」
「警察が四人追っている」
「捕まえられると思います?」
「人間ならな」
ミラベルが、レオンを見る。
「人間なら?」
レオンは答えなかった。
怪盗が円蓋頂部へ差しかかる。
白い外套は霧の中で膨らみ。
片腕を大きく振り上げた。
その動きへ合わせるように。
屋根の向こうで、蒸気弁が鳴った。
短く。
鋭い音。
レオンの目が細くなる。
「いまの音を聞いたか」
「蒸気の抜ける音ですか」
「足音の前にも鳴っていた」
ミラベルは耳を澄ませる。
白い怪盗が、また一歩進む。
小さく蒸気が噴く音。
その直後に。
靴音。
「歩くたびに?」
「動かされるたびに、かもしれない」
頭上。
グレアムたちは、屋根側の保守扉へ到達していた。
警官が鍵を外し、重い鉄扉を押し開く。
冷たい夜霧が、回廊へ流れ込んだ。
「二人はここに残れ」
グレアムが命じる。
「東側から挟め。俺は正面から行く」
「警部、硝子へ乗るのは危険です」
「鉄骨の上を歩け」
「足元だけを見て、怪盗を見失うな。怪盗だけを見て、足元を踏み外すな」
「両方見るんですね」
「当たり前だ!」
グレアムは外套の前を閉じ、屋根外側の保守足場へ出た。
夜のヴェルム=クロウが、その背後へ広がる。
煤霧に沈んだ街。
高架鉄道の蒸気灯。
工場煙突の赤い火。
運河沿いの倉庫街。
そのすべてが、足元より遠くに見えた。
円蓋の表面には、薄い夜露が降りている。
蒼い硝子片は湿り。
保守用の鉄骨だけが、黒く露出していた。
白い怪盗は、反対側の鉄骨上に立っている。
距離は二十歩ほど。
銀の仮面が、グレアムへ向いた。
「そこまでだ!」
グレアムは警棒を抜いた。
「王冠をどこへやった!」
怪盗は答えない。
ただ。
夜会帽の鍔へ手を添えた。
円蓋室で見せたのと同じ。
芝居がかった礼。
「そのまま動くな」
東側の保守路から、別の警官が姿を現す。
白い怪盗の前方を塞ぐ。
後方にはグレアム。
左右は、傾斜した硝子屋根。
跳び移れる足場はない。
「退路はないぞ」
グレアムが一歩進む。
怪盗も、一歩後退した。
その足元から。
人間が踏み込んだときに生じる、硝子の軋みは聞こえない。
代わりに。
円蓋の頂部で、金属輪が回る音がした。
グレアムが顔を上げる。
硝子清掃用の細いワイヤー。
その一本が。
霧の中で、張り詰めている。
「警部!」
東側の警官が叫んだ。
白い怪盗が跳んだ。
鉄骨から。
隣の硝子面へ。
身体が横向きに大きく飛ぶ。
白い外套が、翼のように開いた。
だが。
その跳躍には、踏み切りがなかった。
膝が沈まず。
足が鉄骨を蹴らず。
身体全体だけが。
糸に引かれたように、浮き上がる。
「待て!」
グレアムが警棒を振るった。
黒い警棒の先が、白い外套の脇腹へ当たる。
人間の肉を打つ感触はなかった。
軽い。
あまりにも軽い抵抗。
外套が大きくへこみ。
その内側で、細い金属が折れる音がした。
白い怪盗の上半身が、不自然な方向へ曲がった。
銀の仮面が横を向く。
片腕が、肘ではない場所から折れ。
長身の身体が。
一瞬で、潰れた。
「何だ」
警官の声が震える。
外套の裾から、金属棒が落ちた。
次に。
木製の肩枠。
折り畳まれていた細い脚部。
帽子を支えていた針金。
人の輪郭を作っていた骨組みが、次々と崩れ落ちる。
硝子の上へ。
からん。
からんと。
乾いた音を立てた。
銀の仮面も落ちた。
顔はない。
仮面の裏には。
丸めた布と、頭部の形を保つだけの軽い籠が入っていた。
「人形……」
東側の警官が呟く。
白い外套だけが。
清掃用ワイヤーに吊られたまま、夜風の中で揺れている。
腕の内側には、小さな蒸気筒。
背中には、伸縮式の骨組み。
足元には、靴の形をした木片が付いていた。
細管へ圧力が送られるたび。
腕が上下し。
脚が前後へ振られ。
外套が、身体の輪郭を作る。
靴底へ付けられた金具が、鉄骨を打つ。
それが。
下から聞こえていた足音だった。
「全員、止まれ」
グレアムの声が変わった。
怒鳴り声ではない。
現場を確認する、警察官の声へ戻っている。
「人形へ触るな。ワイヤーも切るな。現在位置を記録しろ」
警官たちが動きを止めた。
グレアムは人形の周囲を見回す。
夜露の降りた硝子。
細い鉄骨。
保守用足場。
「灯りを寄こせ」
一人が携帯蒸気灯を掲げる。
白い光が、蒼硝子の表面を横切った。
夜露は均一に残っている。
人間が歩けば。
靴底の形に露が拭われ。
煤と水分が押しつぶされる。
だが。
怪盗が走ったように見えた経路には、人の足跡がなかった。
鉄骨の上にも。
足場の板にも。
靴底の煤や泥は残っていない。
「歩いていない」
グレアムが言った。
「吊られていたんです」
警官が頭上を指す。
清掃用ワイヤーから細い吊り線が下り。
人形の肩と腰を支えている。
「硝子も確認しろ」
グレアムは灯りを低くさせた。
円蓋硝子を鉄骨へ固定する、軟金属の留め部。
そこには、人の体重が掛かれば生じる微細な沈みや、縁のずれがない。
硝子清掃員が乗るときは、荷重を支える板を渡す。
怪盗の姿が走った経路には、その板もなかった。
「この硝子へ人間が直接乗れば、痕が残ります」
美術館の保守係が、屋根扉のところから言った。
「露だけではありません。固定部がわずかに沈む。いま見える範囲にはありません」
「見える範囲では、だ」
グレアムが訂正した。
「あとで全経路を測れ」
「はい」
「動力はどこだ」
人形へつながる細管を追う。
清掃ワイヤー。
滑車。
円蓋頂部の索道。
さらに。
回廊内側の清掃設備へ接続された、蒸気管。
保守係が弁を見つけた。
「清掃用の移動装置です。圧力でワイヤー巻取機を動かします」
「停止させたはずだろう」
「主機関は停止していました。しかし、補助圧力槽が」
弁の脇。
小型の圧力槽に、後付けされた細い時限弁がある。
午前零時に生じた圧力変化を利用し。
遅れてワイヤーを巻き取るよう、調整されていた。
だが。
その仕組みを詳しく調べるのは後だった。
グレアムは、人形から目を離した。
怪盗を捕らえたと思った瞬間に。
そこに怪盗はいなかったと分かった。
なら。
警察が白い姿へ目を向けていた時間。
別の場所を動いていた者がいるかもしれない。
「伝声管を開けろ」
グレアムが命じた。
屋根扉近くの警官が、館内用の管蓋を開く。
「円蓋上の人物は人形だ」
グレアムは館内すべてへ届く声で告げた。
「全出口を封鎖。正面、裏口、地下搬入口、屋根、保守橋。現在館内にいる者は、その場から動くな」
返答を待たず、続ける。
「職員名簿、警官配置表、報道関係者の入館記録を再照合しろ。入館者だけではない。王冠消失後に退出した者を全員確認しろ」
『了解』
「怪盗の服装を探すな」
グレアムは、崩れた白い外套を見る。
「許可証を持っている者ほど、よく確認しろ」
◇
円蓋室では、伝声管から届いた命令を受け、警官たちが四方の扉を閉じていた。
ミラベルは、頭上で崩れた白い怪盗を見上げた。
「人形だったんですね」
「そうらしい」
レオンは短く答えた。
「驚かないんですか」
「蒸気音と動きが合っていた」
「気づいていたなら、警部へ言えばよかったでしょう」
「人形だとは確定していなかった」
「人間ではないかもしれないとは思っていた」
「そうだ」
「それを言ってください」
「警部は、もう階段の途中だった」
「叫べば聞こえました」
「止まらない」
「警部ではなく、ほかの警官が」
「警部を屋根へ残して、戻らない」
「では、最初から止める気がなかったんですね」
「警察が人形を確保する必要はある」
「言い方を変えましたね」
ミラベルは不満そうに言ったが。
視線を展示ケースへ戻した。
王冠はない。
銀板だけが、灯りの中に残されている。
マリウスは保存装置監視席の前で、警官に止められていた。
計器から離れたがらない。
「設備の圧力が、まだ正常値へ戻っていない」
「警部の命令です」
「異常を放置する方が危険だ」
「機関室へ確認させます。あなたはここに」
マリウスは反論しかけ。
レオンの視線に気づくと、口を閉じた。
ミラベルが声を落とす。
「圧力計ばかり見ています」
「見ているな」
「怪盗が人形だったことより、気になることがあるように見えます」
「見えることと、証明できることを分けろ」
「分かっています」
答えながらも。
ミラベルはマリウスの手元を見た。
記録板の端。
強く握った指。
計器へ戻ろうとする目。
何かが起きることを恐れているのか。
何かが起きなかったことを恐れているのか。
まだ分からない。
正面玄関側から、一人の巡査が走ってきた。
「クラウスさん」
「何だ」
「警部の命令で退出者記録を確認しています。見ていただきたいものが」
巡査が持っているのは、正面玄関の入退館台帳だった。
通常の退出欄とは別に。
緊急時の一時通行記録が一枚、挟まれている。
「誰か出たのか」
「王冠が消えた直後に、一人」
ミラベルが巡査へ向き直る。
「全出口が閉じられる前?」
「はい。屋根の怪盗が現れ、警部たちが上へ向かった直後です」
巡査は連絡票を取り出した。
保存設備異常。
外部保守所への緊急連絡。
外部点検員一名の退出を許可する。
用紙には。
美術館保存部門の署名。
市警担当者の確認署名。
正面警備責任者の通行許可印。
「偽物ですか」
ミラベルが尋ねる。
「確認しました」
巡査は悔しそうに答えた。
「用紙は本物です。保存部門主任の署名も真正。市警確認欄の署名も、担当巡査本人のものです」
「本人は、署名したことを認めている?」
「はい。保存設備の圧力異常を外部保守所へ知らせる必要があると説明され、緊急連絡票へ確認署名したそうです」
「誰に説明された」
「地下に配置されていた外部点検員です」
先ほどまで。
灰色の作業外套を着て。
手動弁の脇に立っていた人物。
正規の職員章を下げ。
入館時に身分も工具も確認されている。
「警部は、その場から動かすなと命じたはずです」
ミラベルが言った。
「命令が機関室へ届いた直後です」
巡査は答えた。
「点検員は、圧力異常を外部へ報告するのも警部の封鎖命令に含まれる緊急措置だと主張しました。機関室側の警官は、伝声管の混線で確認を取れず、正式な連絡票を持たせて正面へ送ったそうです」
「工具鞄は」
「入館時に封印したものを、機関室の警官立会いで返却しています。外部保守所で設備型式を示す道具が必要だと説明されました」
「中身を確認した?」
「封印に破損がないことを確認しただけです」
レオンは通行許可証を受け取った。
紙質。
印。
署名。
どれも。
急いで作られた偽物には見えない。
「この連絡票を作成した保存部門主任は?」
「署名したことは認めています。ただ」
「ただ?」
「書いたのは、今夜ではないそうです」
ミラベルが眉を寄せる。
「いつのものですか」
「展示準備中です。保存設備に異常が起きた場合、外部保守所へ連絡するための空欄票へ、事前署名していた」
「緊急時に手続きを省くため」
レオンが言う。
「はい」
「市警の署名は、今夜書かれた」
「担当巡査が、その場で確認して書きました」
「つまり」
ミラベルは連絡票を見た。
「事前に正式な署名が入った書類へ、今夜の異常内容と時刻を書き込み、市警へ持っていった」
「書類上は正しい」
レオンが言った。
「書かれた異常と、退出の必要性が正しかったかは別だ」
マリウスが、監視席から口を挟んだ。
「保存装置の圧力には、実際に異常が出ています」
「異常を誰が、いつ認識したかは別だ」
レオンは答えた。
「退出者は、どんな人物でした?」
ミラベルが巡査へ尋ねる。
「灰色の作業外套。外部点検員の職員章。保護眼鏡と口布。工具鞄を持っていたそうです」
先ほど、機関室に立っていたときと同じ姿だった。
「顔を見た者は」
「正面警備の二人へ、確認しています」
「直接聞く」
◇
正面玄関では、外の鉄柵まで警察の封鎖線が広げられていた。
抗議者も。
新聞記者も。
夜霧の向こうへ下がらされている。
館内側の大扉は閉じられ。
扉の前に立っていた二人の警官が、別々に事情を聞かれていた。
レオンとミラベルが着いたとき。
ちょうどグレアムも、屋根から戻ってきた。
帽子と外套には夜露が付き。
片手には、銀色の仮面を証拠布で包んで持っている。
「人形だった」
ミラベルが言う。
「見れば分かる顔をするな」
グレアムは不機嫌に答えた。
「足跡なし。硝子への荷重痕なし。清掃ワイヤーで吊られた折り畳み式の骨組みだ。補助蒸気圧で手足と外套を動かしていた」
「本物の怪盗は、最初から屋根にいなかった」
「少なくとも、あの白い姿の中にはいなかった」
グレアムは台帳と連絡票を見る。
「出た奴は」
「地下に配置されていた外部点検員が一人」
「顔は」
「いま確認します」
グレアムは、正面警備の一人へ向き直った。
「見たまま話せ。記録に書かれた性別や年齢は忘れろ」
「はい」
「顔を見たか」
「保護眼鏡と口布で、ほとんど」
「外させなかったのか」
「入館時に確認済みの職員だと」
警官は唇を噛んだ。
「連絡票と職員章の番号を確認しました」
「声は」
「設備音と警報で、はっきりとは」
「体格は」
「灰色の外套で、よく分かりません。特別大きくも、小さくもなかったと思います」
隣の警官も頷く。
「急いでいました。書類と職員章ばかり見て、顔は……」
二人の証言から確認できたことは少なかった。
外部点検員の服を着ていた。
正しい番号の職員章を下げていた。
保護眼鏡と口布で顔を隠していた。
正式な緊急連絡票を持っていた。
それだけだった。
ミラベルは取材帳を開いた。
だが。
ヴァラン=コートを名乗った人物について並べた証言のように。
身長。
年齢。
利き手。
声。
曖昧な印象を、長く書き並べることはしなかった。
「道具ではなく」
彼女は呟いた。
「身分証を見ていた」
「ヴァラン=コートのときと同じだ」
レオンが答える。
「顔より、記録が先に本人だと認められた」
「工具鞄は開けさせたか」
グレアムが尋ねる。
「いいえ」
「なぜだ」
「警察の確認署名がある連絡票を持っていました。設備異常を外部へ知らせるよう急いでいて」
もう一人の警官が、悔しそうに続けた。
「白い怪盗が屋根にいました。警部たちが追っているのも見えた。点検員は、怪盗が保存設備へ細工した可能性があると言ったんです。外部保守所へ知らせなければ被害が広がると」
「理屈は通っている」
レオンが言った。
「だから通した」
「申し訳ありません」
グレアムは部下を怒鳴らなかった。
代わりに。
連絡票を取り。
一行ずつ読んだ。
事前に押された、真正な署名。
緊急時の正式な書式。
今夜、市警が書き加えた確認。
退出を許可した警官たちは。
用意された緊急手続きへ従っていた。
偽の印章を見落としたのではない。
偽造された署名を信じたのでもない。
正しい番号と。
正しい許可証と。
正しい手続きを示された結果。
目の前の人物を、通すべき点検員だと判断した。
その判断によって。
一人の点検員を、全出口の封鎖が完了する前の美術館から出した。
「退出時刻は」
グレアムが尋ねる。
「午前零時三分です」
白い怪盗が屋根へ姿を現し。
警察が螺旋階段を上り。
円蓋室にいた者たちの多くが、頭上へ目を向けていた時刻。
「行き先は」
「保存設備の外部保守所へ連絡すると」
「保守所へ人を送れ」
「すでに確認しました」
巡査が答える。
「点検員は、到着していません」
正面玄関の向こう。
夜霧に沈んだ石段。
その先には、市政官庁街へ続く複数の通りがある。
午前零時三分から。
すでに十数分。
灰色の作業外套を着た点検員は。
白い怪盗よりも、はるかに見つけにくい。
「事実を分ける」
レオンが言った。
「円蓋上の白い姿は、人形だった」
グレアムが頷く。
「確定だ」
「王冠が消えた直後。人形へ警察の視線が集まった」
「そうだ」
「その間に、正式な通行許可を持った外部点検員が、正面玄関から退出した」
「保守所へは着いとらん」
「その点検員の顔を、明確に覚えている者はいない」
ミラベルが続けた。
「そこまでが事実ですね」
「そうだ」
レオンは答えた。
「その点検員が、予告状を書いた人物か。王冠を持ち出した者か。協力者か。無関係な人物が別の誰かに利用されたのか。それは、まだ証明されていない」
「だが、無関係とは思わんのだろう」
グレアムが尋ねた。
「思わない」
「工具鞄に王冠が入っていた可能性は」
「ある」
「入っていた証拠は」
「ない」
「面倒な男だ」
「証拠が見つかるまではな」
レオンは、正面扉へ手を当てた。
扉は壊されていない。
鍵も。
閂も。
封鎖記録も正常だった。
誰かが、この扉を破って逃げたわけではない。
正しい書類を見せ。
正しい署名を確認させ。
警察自身に、扉を開けさせた。
「壁を越える必要も」
ミラベルが言う。
「屋根から飛び降りる必要もなかった」
「白い姿は、逃げる怪盗ではなかった」
レオンは答えた。
「警察へ追わせるための姿だ」
グレアムは、証拠布に包まれた銀の仮面を見た。
男。
二十五歳から四十歳。
長身。
上流階級出身。
白い外套。
銀色の仮面。
警察が記録し。
新聞が広め。
誰もが期待していた。
怪盗紳士ルヴェールの姿。
「追うべき怪盗を見せられた」
レオンが言った。
グレアムは、仮面を巡査へ渡した。
「次は、見せられた方を追わん」
警部は正面警備の全員へ向き直った。
「白い外套を探すな。銀の仮面も探すな。身分証を持つ奴から調べろ」
その声が。
閉ざされた美術館の玄関広間へ響く。
「今夜、この建物にいた人間を、一人残らず見つけ出せ」




