第7節 ― 王冠が消えるまで
午後十一時五十分。
ヴェルム=クロウ市立古美術館の正面扉が、内側から施錠された。
最後の警官が鉄の閂を下ろす。
鍵が回り。
施錠確認印が記録帳へ押され。
正面玄関から蒼硝子円蓋室までの各扉に、市警の巡査が配置された。
円蓋室には、昼間とは異なる静けさが降りていた。
観客はいない。
靴音を響かせる見学者も。
展示解説を読み上げる教師も。
王冠の値段を囁き合う商会人もいない。
いるのは。
王冠を守る者。
王冠を盗む者を待つ者。
そして。
王冠を所有していると記録された者たちだけだった。
円形広間を覆う蒼硝子の天井は、夜の闇を深い藍色へ変えていた。
六基の蒸気灯。
警備用に追加された四基の予備灯。
合わせて十の白い炎が、二重硝子の展示ケースへ映り込んでいる。
七葉銀冠の銀葉は。
十の光と。
十の影をまとっていた。
レオンは、展示ケースの正面に立っている。
右手には懐中時計。
左手には、何も持っていない。
拡大レンズも。
巻尺も。
鑑定用の薬品も、すべて鞄へ収めてあった。
いま必要なのは、調べるための道具ではない。
起きる変化を見落とさないための目だった。
ミラベルはレオンの左側。
セルマ=アストレイは右側に立っていた。
セルマの視線は、銀葉ではなく、内側に残された古い織布へ向けられている。
両手は身体の前で組まれ。
指先が白くなるほど、強く握られていた。
「緊張していますか」
ミラベルが小声で尋ねた。
「していないように見えますか」
「私よりは」
「あなたも?」
「怪盗が本当に来るのかと思うと」
ミラベルは取材帳を胸元へ抱え直した。
「少しだけ」
「少しだけですか」
「怖いとは書かないでください」
レオンが王冠を見たまま言った。
「聞こえているぞ」
「あなたへ話していません」
「声が大きい」
「静かすぎるんです」
実際。
円蓋室は、わずかな音まで大きく拾った。
重量記録機の歯車が回る音。
紙帯へ数字が打たれる、小さな金属音。
蒸気灯の内部で炎が揺れる音。
展示ケースの湿度管理管を、空気が流れていく音。
遠くの階段を、警官が一段上る音まで聞こえた。
四方向の入口には、それぞれ市警の警官が二名。
正面玄関側。
権利文書室側。
地下階段側。
収蔵庫側。
どの警官も展示ケースへ身体を向けながら、隣の出入口を視界へ収めている。
頭上の円蓋回廊にも、グレアムの部下が配置されていた。
鉄の欄干の向こう。
警官の黒い制服が、蒼い硝子を背負って等間隔に並んでいる。
螺旋階段の下には、グレアム警部自身が立っていた。
腰には拳銃。
片手には警棒。
もう一方の手には、円蓋室と館内各所の配置を記した板を持っている。
「正面」
グレアムの声が低く響いた。
「異常なし」
正面入口の警官が答える。
「東側」
「異常なし」
「西側」
「異常なし」
「地下」
壁の伝声管から、警官の声が返ってきた。
『機関室、異常なし。保存技師一名、外部点検員一名、警官四名。全員、指定位置にいます』
「点検員は」
『手動弁脇です。工具鞄は検査後、市警封印。本人から手の届かない位置に置いています』
「濾過器」
『追加した市警封印を含め、破損なし』
「圧力は」
『規定値です』
「上」
グレアムが見上げる。
円蓋回廊から、部下の声が落ちた。
「回廊、異常なし。屋根側の扉、封印正常。清掃用索道、停止を確認」
「権利文書室」
隣室からオスカーの返答が届いた。
「灰炉譲渡証書、異常ありません。記録官二名と確認しています」
権利文書室の扉は、半分だけ開かれていた。
低い蒸気灯の奥に。
オスカー=ベルム館長と、土地記録局の記録官たちが見える。
彼らは灰炉譲渡証書の展示ケースを囲み、原文、翻訳、所有権認定書のすべてを監視していた。
王冠だけを守ればよいとは。
もう、誰も考えていない。
円蓋室の壁際。
保存装置監視席には、マリウス=フェインが座っていた。
地下保存区画から伸びる細い圧力管が、監視席の真鍮計へ接続されている。
湿度計。
圧力計。
温度計。
地下の機関室と同じ数値を、地上から確認するための補助設備だった。
マリウスは膝の上へ記録板を置き、三つの針を確認している。
現時点で。
どの計器にも異常はなかった。
グレアムは配置板から目を上げる。
「各員、持ち場を離れるな。怪しい音や影を見つけても、一人で追うな。隣と確認してから動け」
「追わなければ逃げられるぞ」
レオンが言った。
「囮に全員が釣られるよりましだ」
「学習したな」
「お前に褒められる筋合いはない」
グレアムは展示ケースを見た。
「王冠は」
「ある」
レオンが答える。
「封印は」
「正常」
「重量」
記録機の横に付いた警報針は、中央の基準線を指している。
紙帯には、同じ数字が並び続けていた。
「変化なし」
ミラベルが確認する。
「管は」
レオンは、ケース背後へ目を向けた。
丸い金属縁を持つ、細い湿度管理口。
その奥には暗い管が続いている。
「見える範囲では正常だ」
「見えない範囲は」
「見えない」
グレアムが渋い顔をする。
「そういう答えは要らん」
「なら質問するな」
外を走る夜行列車の汽笛が、遠くで鳴った。
その音が石壁を伝わり。
蒼硝子円蓋の鉄骨を、ほんのわずかに震わせる。
セルマが息を呑んだ。
「列車だ」
レオンが言う。
「分かっています」
セルマは答えたが、組んだ指を緩めなかった。
「王冠の形を見ろ」
レオンは、ミラベルへ囁いた。
「銀葉の位置。隙間。内布。固定具。いま見えている状態を覚えておけ」
「動くと思っているんですか」
「動かないなら、それも事実になる」
「どこを見ればいい?」
「全部だ」
「無理を言わないでください」
「なら、俺が銀葉を見る。君は展示台と記録機を見ろ」
「セルマさんは?」
「織布を」
セルマが自分から言った。
「私が見ます」
三人の視線が分かれる。
銀葉。
展示台。
古い織布。
同じ王冠を見ながら。
違うものを監視する。
午後十一時五十八分。
館内のどこかで。
金属が弾けるような音がした。
小さな音だった。
だが。
静まり返った館内では、誰もがわずかに身体を強張らせた。
「場所は」
グレアムが声を張る。
「東側、異常なし」
「西側も異常なし」
「上、異常なし」
『地下、異常なし。全員、持ち場にいます』
音は一度きりだった。
レオンは展示ケースから目を離さない。
「管の膨張かもしれん」
グレアムが言う。
「かもしれない」
「またそれか」
次の瞬間。
天井近くの伝声管が、低く唸った。
誰も蓋を開けていない。
それにもかかわらず。
館内各所へ声を送るための管から、細い振動音が漏れ始める。
グレアムが伝声管へ駆け寄った。
「誰だ」
返事はない。
代わりに。
低い男の声が響いた。
『今宵、皆様がお守りになるのは、王冠でしょうか』
落ち着いた声だった。
急いでもいない。
息も乱れていない。
高い円蓋室のどこから発せられたのか、判別できない。
正面の伝声管から聞こえたようにも。
権利文書室から聞こえたようにも。
地下から立ち上ってきたようにも聞こえる。
『それとも、王冠を所有しているという記録でしょうか』
最後の言葉が。
金属管の中で、わずかに反響する。
その声が消えるより先に。
グレアムが伝声管の蓋を開けた。
「発信元を確認しろ」
館内各所へ命令が飛ぶ。
『地下ではありません』
「権利文書室でもない」
「上の管に人影なし」
「正面側、異常ありません」
すべての管が同時に答えを返した。
声の発信元だけが見つからない。
「配管の途中へ、何か仕掛けたか」
グレアムが言う。
「あとで調べる」
レオンは王冠を見続けていた。
「声は囮かもしれない」
「もう二分ないぞ」
グレアムが配置へ戻る。
「各員、持ち場を維持しろ。視線を切るな」
午後十一時五十九分。
蒼硝子円蓋室から、人の声が消えた。
王冠はある。
七枚の銀葉は、円形に開き。
新しい固定具によって、展示台へ留められている。
内側の織布も見える。
封蝋は三か所。
美術館。
市警。
土地記録局。
すべての印が、破損なく残っている。
硝子に傷はない。
錠前も動いていない。
重量警報の針は、基準線の中央。
記録機は、一定の数字を紙帯へ打ち続けている。
十基の蒸気灯は、すべて点灯。
湿度管理口の金属縁にも、目視できる異常はない。
地下から声が届く。
『濾過器封印、正常。点検員、手動弁脇。保存技師、自動盤前。定時運転まで三十秒』
グレアムがレオンを見る。
「止めるなら、いまが最後だ」
レオンは王冠を見ている。
「現時点で、濾過器の中に薬剤がある証拠はない」
「ない」
「配管を開けば、内布の保存環境が崩れる」
「その説明も聞いた」
「停止と再起動でも、温度と湿度が変わる。王冠をケースから取り出すことにも危険がある」
「だから動かすのか」
「濾過器には市警封印。管の両端に監視。地下には手動弁。展示ケース側では、俺たちが王冠と通気口を直接見ている」
レオンは懐中時計を閉じた。
「異常の兆候が一つでも出たら、即座に止める」
「間に合わなければ」
「その前に止めるための配置だ」
グレアムは数秒、レオンを見た。
やがて伝声管を開く。
「予定どおり作動。針が規定値を外れるか、地上から合図があれば、即座に手動弁を閉じろ」
『了解』
地下の返答の奥で。
保存技師が自動盤を確認する声と。
灰色の外部点検員が、手動弁の準備完了を告げる声が重なった。
円蓋室の標準時計が、時を刻む。
五。
四。
三。
二。
一。
午前零時。
館外のどこかで。
標準時を告げる鐘が鳴った。
同時に。
地下保存装置の歯車が噛み合う、重い音が響く。
ごう、と。
細い管の奥で、空気が動いた。
監視席の圧力計が上がる。
湿度計の針が、ゆっくりと調整値へ傾く。
展示ケース背後の通気口から。
温められた乾いた空気が送り込まれた。
冷えた金属縁へ触れた一瞬だけ。
その流れが、白い曇りとなって見える。
薄い霧は展示ケースの底へ広がった。
銀葉の根元を這い。
古い織布の周囲を包む。
七葉銀冠は、まだそこにある。
重量計も。
封印も。
灯りも正常。
「変化なし」
グレアムが言った。
その直後。
銀葉の一枚が、震えた。
ほんのわずかだった。
蒸気灯の光が揺れ。
銀の表面を走っただけにも見える。
「いま」
ミラベルの声が止まる。
「見た」
レオンが答える。
もう一枚。
王冠の右側にある銀葉が、内側へ傾いた。
固定具が。
銀葉を留めたまま、わずかに沈んでいる。
「弁を閉じろ!」
レオンとグレアムの声が重なった。
『手動弁、閉鎖します』
地下から、金属の取っ手を回す音。
だが。
保存管の内部には、すでに送り出された空気が残っている。
三枚目の銀葉が動いた。
その動きは、もう光の反射ではなかった。
葉先がゆっくりと内側へ折れ。
隣の銀葉へ重なる。
「固定具が外れている」
セルマが硝子へ近づいた。
「違う」
レオンが言う。
「外れていない。留めたまま、形が変わっている」
四枚目。
五枚目。
七葉銀冠は。
王冠としての輪を失い始めた。
七枚の銀葉が、一枚ずつ同じ方向へ倒れていく。
広がっていた円が狭まり。
内側の織布が折れ。
葉と葉が重なる。
まるで。
長い眠りから目を覚ました生き物が。
身体を小さく畳むように。
「畳まれている」
ミラベルが呟く。
《アスト古書堂》で見た儀礼図。
細長い箱へ収められた銀の帯。
美術館が円形へ固定した王冠は。
本来の保管形態へ戻ろうとしていた。
『弁、閉鎖!』
地下から声が届く。
『送風量、低下しています』
「まだ動いている」
グレアムが言った。
「空気だけじゃない」
レオンは、展示ケース背後を見た。
通気口の奥。
暗い管の中から。
何かが張り詰めるような、細い音がした。
重なった七枚の銀葉が。
展示台の上を滑った。
人の手は触れていない。
ケースの扉も開いていない。
硝子の内側で。
細長い銀の帯となった七葉銀冠が、後方へ引かれていく。
セルマが、思わず展示ケースへ手を伸ばした。
「王冠が」
手袋が二重硝子へ当たる。
その先。
銀の帯は、展示台の背後へ滑った。
湿度管理口の前で、一度引っ掛かる。
銀葉の縁が、丸い金属縁へ擦れた。
甲高い金属音。
次の瞬間。
帯は細い通気口へ引き込まれた。
一枚。
二枚。
重なった銀葉が。
暗い管の奥へ滑り込んでいく。
最後に。
茶色い古布の端が見えた。
それも。
残った白い曇りの中へ引かれ。
消えた。
七葉銀冠は。
展示ケースから、なくなった。
「警報は」
グレアムが振り向く。
鳴っていない。
重量警報の針は。
基準線の中央にある。
記録機も止まっていない。
同じ数字を。
同じ間隔で。
紙帯へ打ち続けている。
「重量は変わっていません」
ミラベルが言った。
「そんなはずが」
セルマが展示台を見る。
王冠が消えた場所。
そこへ。
銀色の平たい物が現れていた。
王冠が管へ引かれる動きと入れ替わるように。
展示台中央の布の下から滑り出した、薄い銀板。
蒸気灯を反射し。
王冠の代わりに、重量計の上へ載っている。
「王冠と同じ重さ」
ミラベルが息を呑む。
「機械は正常だ」
レオンが言った。
「王冠があるかどうかを、最初から測っていない」
封蝋は破られていない。
鍵は開いていない。
硝子も割れていない。
重量記録も変化していない。
灯りも消えていない。
警備員は、王冠を見ていた。
そのすべてが。
予告状どおりだった。
「地下を封鎖しろ!」
グレアムが叫ぶ。
「保存管の出口を押さえろ。外部点検員と保存技師を、その場から動かすな。全員の手と衣服と工具を確認しろ!」
『了解!』
「館内の全扉を閉鎖。誰も外へ出すな!」
警官たちが一斉に動く。
地下階段側の扉が開く。
円蓋回廊の警官が、螺旋階段へ向かおうとする。
そのとき。
頭上で。
硬い靴音が一度、鳴った。
全員が見上げた。
蒼硝子円蓋の保守回廊。
いままで誰もいなかった、二本の鉄柱のあいだに。
白い外套が翻っていた。
長身の人物。
月白色の外套。
濃紺の礼装。
白い手袋。
片側の鍔が長い夜会帽。
目元を覆う、銀色の仮面。
怪盗紳士ルヴェール。
少なくとも。
市警の記録に描かれた怪盗そのものが、そこに立っていた。
「ルヴェール!」
グレアムの怒声が、円蓋室を震わせる。
白い怪盗は逃げなかった。
銀の仮面を、眼下へ向ける。
右手を夜会帽の鍔へ添え。
警察と。
館長と。
探偵と。
王冠を守れなかったすべての者へ。
深々と一礼した。
白い外套が、蒼い硝子を背に広がる。
「上へ行くぞ」
グレアムが警棒を抜いた。
「二名は地下。残りは俺に続け」
彼は配下を率い、螺旋階段へ走る。
「レオン」
ミラベルが呼んだ。
レオンは動かなかった。
怪盗を見上げない。
消えた王冠の跡。
銀板。
湿度管理口。
正常な重量記録。
その四つを見ている。
「追わないんですか」
「あれを追うのは警察の仕事だ」
「あれがルヴェールでしょう」
「ルヴェールに見える」
上では、警官たちが回廊へ上がっていく。
白い怪盗が身を翻した。
外套が大きく揺れ。
円蓋の反対側へ走り出す。
靴音が、鉄板の上へ響く。
グレアムの怒鳴り声。
警官たちの足音。
蒸気灯の白い光。
誰もが。
頭上の怪盗を見ていた。
ミラベルも。
その白い姿へ目を奪われかけた。
だが。
円蓋室の端に。
一人だけ、上を見ていない者がいた。
マリウス=フェイン。
彼は保存装置監視席に立ち。
銀の仮面も。
白い外套も。
警官たちの追跡も見ていなかった。
目を向けているのは。
地下保存装置につながる圧力計。
手動弁を閉じたという報告のあとも。
針は規定値の中央から。
まだ、ゆっくりと上昇している。
ミラベルは怪盗から目を離した。
マリウスを見る。
彼の唇が、固く結ばれている。
右手は記録板の縁を握り。
指先が白くなっていた。
王冠が消えたというのに。
彼だけは。
王冠を盗んだ怪盗を見ていなかった。




