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第6節 ― 午前零時に消えるもの

 《アスト古書堂》を出たとき。


 ヴェルム=クロウの空は、すでに夕刻の色へ沈み始めていた。


 空そのものが暗くなったというより。


 昼の煤煙と、川から上がる夜霧が重なり、ガス灯の光を必要とする濃さへ変わっていた。


 高架鉄道の下を通るたび、頭上から車輪の轟音が落ちてくる。蒸気乗合車は帰宅する労働者で混み合い、車外へ漏れる白い蒸気が、通りの人影を短く覆っては消した。


 レオンは、ほとんど口を利かなかった。


 外套の内側に入れた手帳へ、ときどき指を触れる。


 そこには、二つの数字が書かれている。


 美術館の湿度管理管の内径。


 古い儀礼図から推定した、折り畳まれた七葉銀冠の幅。


 数字だけなら。


 王冠は、管を通る。


 だが。


 数字は犯行の証明ではない。


 固定具が外れるのか。


 王冠へ何かが仕掛けられているのか。


 細い保存管の中を、どう移動させるのか。


 どこから、どのような力で引くのか。


 それらは、まだ何一つ分かっていなかった。


「黙っているときは、分かったときですか」


 並んで歩くミラベルが尋ねた。


「分からないことが増えたときだ」


「七葉銀冠が折り畳めることは分かりました」


「構造はな」


「保存管を通ることも」


「寸法上の可能性だ」


「それを普通は、手掛かりと呼ぶのでは?」


「可能性を答えに変えるのが早すぎると言っている」


 ミラベルは少し考えた。


「では、いま分かっているのは、王冠が消える方法ではなく、消えることが不可能ではないということですね」


「そうだ」


「褒めてください」


「なぜ」


「あなたの言い方に直したからです」


「余計に長くなった」


 ミラベルは唇を尖らせたが、そのまま歩いた。


 美術館が見えてくる。


 黒灰色の石壁は、蒸気灯によって下から白く照らされていた。


 正面階段の警官は朝より増えている。


 鉄柵の外には、まだ抗議者と新聞記者が残っていた。昼間より人数は減っていたが、立ち退き反対と記された布札は、夕霧の中でも揺れている。


 入口で入館記録を済ませると、若い巡査が二人を待っていた。


「クラウスさん。ワトリアさん。グレアム警部が地下保存区画でお待ちです」


「先に円蓋室へ行く」


 レオンが言う。


「ですが、警部は」


「その前に確認することがある」


 巡査は困ったようにミラベルを見る。


「止めても無駄です」


 ミラベルは答えた。


「ただ、行き先は警部へ伝えておいてください」


 レオンはすでに回廊へ入っていた。


「あなたは一言足りないんです」


「君は一言多い」


「合計すれば、ちょうどよくなりますね」


「ならない」


    ◇


 蒼硝子円蓋室は、昼間より明るかった。


 夜間も消さない六基の蒸気灯に加え、警備用の予備灯が点火されている。


 蒼い硝子天井へ、白い炎が幾重にも映り込んでいた。


 円蓋回廊には警官が立ち。


 四方の入口には、警備員と市警が二人ずつ。


 展示ケース脇の重量記録機は、変わらない数字を紙帯へ吐き続けている。


 その中心で。


 七葉銀冠は、朝と同じ円形を保っていた。


 セルマ=アストレイが、展示ケースの前に立っている。


 彼女の手には、薄い灰色の書類封筒があった。


「戻られたのですね」


「見せたい物があるらしいな」


 レオンが封筒を見る。


 セルマは、わずかに驚いた顔をした。


「警部から?」


「あなたが朝から、隠している顔をしていた」


「顔だけで分かるんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「隠していることは分かる。内容は分からない」


「それを先に言わないから、何でも見抜いているように聞こえるんです」


「便利だろう」


 レオンはセルマへ視線を戻した。


「王冠の内布についての報告書か」


 セルマは、封筒を抱える指へ少し力を込めた。


「はい」


「館長の許可は」


「市警から提出を求められました。オスカー館長も同意しています」


「自分から見せるつもりだった?」


 セルマはすぐには答えなかった。


 七葉銀冠を見る。


 蒼い光が、銀葉の縁へ細く走っている。


「見せるべきだと思っていました」


「思っていただけか」


「レオン」


 ミラベルが低く呼んだ。


 セルマは彼女へ、かすかな感謝を含んだ視線を向けた。


「構いません」


 そう言って、封筒を展示室脇の閲覧卓へ置く。


 封を解き。


 数枚の報告書を取り出した。


 紙の上部には、美術館内部調査資料を示す朱印。


 作成日は十日前。


 七葉銀冠が美術館へ搬入されてから、二日後だった。


「修復前の状態確認で、内側の織布に不自然な縫合部を見つけました」


 セルマは、添付された略図を示した。


 七枚の銀葉をつなぐ古い織布。


 その一部に、周囲とは異なる縫い目が描かれている。


「補修の跡か」


 レオンが尋ねる。


「その可能性もあります。ですが、内部を精密に調査すべきだと報告しました」


「証人別紙の可能性も記した?」


「はい。ただし、存在すると断定したわけではありません」


「実際の確認は」


「行われていません。織布が脆く、展示前の開封許可が下りなかったためです」


 報告書の結論には。


 展示前の精密調査を求める文言と。


 調査を展示終了後へ延期するという決裁が記されていた。


 レオンは、それ以上、古い契約慣習の説明を求めなかった。


 すでにリュシアンから聞いている。


 ここで必要なのは。


 誰が、報告書の存在を知っていたかだった。


「正式な閲覧者は」


 ミラベルが、余白の確認印へ目を移した。


「四人です」


 セルマは一つずつ名を挙げた。


「作成者の私。オスカー館長。保存部門主任。そして、土地記録局のマリウス=フェイン上級認定官」


「土地記録局へ回した理由は」


「証人別紙が存在した場合、灰炉譲渡証書の認定に影響する可能性があったためです」


「複写記録は?」


「ありません」


「閲覧者を確認できる記録は、この四名だけ」


 レオンが言う。


「はい」


「それ以上は言えない」


 セルマは、少し迷ってから頷いた。


「正式な記録上は」


 報告書を知っていたのは四人。


 それは事実だった。


 だが。


 報告書を見ていなくても、王冠へ直接触れた者なら、縫い目そのものを見つけられた可能性がある。


 誰かが口頭で話した可能性も。


 正式ではない複写が作られた可能性も、現時点では否定できない。


「ヴァラン=コートを名乗った人物は、回覧者ではありません」


 ミラベルが言った。


「だが、王冠へ触れていた」


 レオンが答える。


「報告書を読んだ証拠はない。縫い目を自分で見た可能性はある」


「私から聞いたと疑っていますか」


 セルマの表情が硬くなった。


「あなたが情報を漏らした証拠はない」


「では」


「ないものを、あるともないとも決めない」


 レオンは報告書を卓へ戻した。


「確認できるのは、別紙の可能性を知る経路が一つではなかったことだけだ」


 セルマの指から、少しだけ力が抜けた。


「それでも」


 彼女は王冠へ目を向けた。


「私が、もっと強く調査を求めていれば」


「調査が行われた可能性はあります」


 ミラベルが言った。


「でも、あなたが慎重に書いた理由も分かります」


 セルマの瞳が揺れる。


「証拠以上のことを言えば、エルフの郷愁だと分類される。一度そう見なされれば、その後に出す資料まで同じ扱いを受ける」


「だから、可能性としか書けませんでした」


「それは正しい」


 レオンが言った。


「証拠がなかったからな」


 短い間を置き。


「調査を求めるのをやめたことまで、正しかったとは言わない」


 セルマは、彼を見た。


 責められたようにも。


 認められたようにも聞こえたのだろう。


「証拠がなければ、断定するなと求められる」


 ミラベルが静かに言った。


「でも、調べなければ、証拠は見つかりません」


「ええ」


 セルマは答えた。


「それを、十日前の私に言えればよかった」


 展示室の入口で、靴音がした。


 マリウス=フェインが入ってくる。


 灰色の上着は朝と変わらず整っていたが、靴の縁には煤色の粉が付着している。地下保存区画から上がってきたらしい。


「報告書を提出したのですね」


「警察の要請です」


「当然でしょう」


 マリウスの声に動揺はない。


「私も読んだ」


 レオンが言う。


「そのようですね」


「なぜ読んだ」


 マリウスの眉が、わずかに動く。


「展示物の所有権認定に関わるため読んだだけだ」


 彼は淀みなく答えた。


「別紙が存在するという報告ではありません。可能性を示しただけの未確認資料です」


 その直後。


 展示室の伝声管から、グレアムの声が響いた。


『クラウス。遊んどらんで地下へ来い』


「聞こえていたんですか」


 ミラベルが管を見上げる。


『聞こえとらん。だが、上でお前たちが話し込んどることくらいは分かる』


「便利ですね」


『返事はいい。来い』


 金属蓋が閉じる音がして、声が途切れた。


 レオンは報告書をセルマへ返した。


「原本は警察へ預けろ」


「分かりました」


「フェイン認定官も来てもらう」


「私もですか」


「地下で、あなたの印を見つけたらしい」


    ◇


 地下保存区画へ下りる階段は、地上より古かった。


 美術館へ改装される前。


 ここが契約取引所だった時代から使われている石段だという。


 壁には太い蒸気管が走り、一定の間隔で圧力弁が震えている。降りるほど空気は暖かくなり、油、湿った石、古布、熱せられた金属の匂いが濃くなった。


 最下部の鉄扉を開く。


 その向こうには、機械の音が満ちていた。


 巨大な送風輪。


 湿度調整槽。


 蒸気圧を示す真鍮計。


 展示ケースへ伸びる保存空気管。


 歯車式の自動時計。


 美術館各室の温度と湿度を記録する紙帯。


 グレアムは、機関室の中央に立っていた。


 上着を脱ぎ、袖をまくっている。


 周囲には保存技師と警官が二人。


 その少し離れた場所に。


 灰色の作業外套をまとった人物が立っていた。


 革製の工具鞄。


 保護眼鏡。


 口元を覆う防塵布。


 胸元には、外部設備点検員の真鍮章。


 顔の大半は、眼鏡と布で隠れている。


「誰だ」


 レオンが尋ねた。


「今夜の保存設備を確認するために呼ばれた、外部の点検員だ」


 グレアムが答える。


「入館許可、所属、工具、全部確認した。作業に入る前から、部下を一人付けてある」


 点検員は帽子へ手を添えた。


「定時運転前の圧力検査を命じられています」


 落ち着いた声だった。


 高くも。


 低くもない。


「ここへ来た時刻は」


「午後八時四十一分です」


 答える前に、警官が手元の台帳を確かめる。


 記録と一致していた。


「点検範囲は」


「圧力計、自動時計、手動遮断弁。濾過器には触れておりません」


「工具鞄は」


「検査済みだ」


 グレアムが言った。


「退出時にも、同じ警官が照合する」


 点検員は、指示を待つように機関室の壁際へ戻った。


 目立たない作業員。


 正式な許可。


 確認済みの身分。


 警官の立会い。


 現時点で。


 不審と呼べる事実はなかった。


「それより、こっちだ」


 グレアムは、油染みの付いた設備記録を突き出した。


「八日前。王冠展示ケースの保存系統へ、防黴濾過器を追加」


 彼が示した先。


 太い主配管から枝分かれした、七葉銀冠専用の保存管。


 その途中へ、円筒形の金属容器が取り付けられていた。


 ほかの配管より、色が新しい。


 固定金具には、設置時の工具痕が残っている。


「これが濾過器ですか」


 ミラベルが近づく。


 円筒の側面には製造番号。


 用途欄には、古織布用防黴濾過。


 そして。


 設置要請元。


 ヴェルム=クロウ土地記録局。


「美術館の保存設備を、なぜ土地記録局が変更する」


 グレアムがマリウスを見る。


「王冠は、灰炉譲渡証書と一体で所有権認定される歴史資料です」


 マリウスは落ち着いて答えた。


「内布に黴が発生すれば、展示物の価値と証拠能力が損なわれる。保存部門から相談を受け、追加措置を認めました」


「認めたのは、報告書を読んだあとだな」


「時系列としては」


 マリウスは否定しなかった。


「しかし、報告書の内容と、黴対策は別です」


 グレアムが設備記録をめくる。


 保存部門から土地記録局へ送られた申請書。


 古い織布の保存環境を強化する必要性。


 追加濾過器の設置許可。


 最後に押された認定印は、マリウスのものだった。


「正式な手続きです」


 マリウスが言う。


「設置業者も登録業者。部品も保存規格品です」


「設置後に開けられた形跡は」


 レオンが尋ねた。


「ない」


 グレアムが封印を示す。


「土地記録局と保存部門の封蝋は、どちらも破損なしだ」


「設置時の受け入れ検査では、防黴濾過材が入っていることを確認しています」


 保存技師が言った。


「今日、中身は見たか」


「開封していません。外部接続、空気流量、圧力は正常です」


「開ければどうなる」


「保存系統を停止し、管の圧を抜く必要があります」


「時間は」


「予備部品への交換と再調整を含め、最短でも一時間です」


「犯行時刻には間に合う」


 グレアムが言った。


「時間だけなら」


 保存技師は濾過器ではなく、地上の王冠を意識するように天井を見た。


「しかし、停止と再起動で、ケース内の温度と湿度が急に変わります。内布は非常に脆い。いま配管を開けること自体が、安全な処置とは言えません」


「中に危険な物がある可能性は」


 ミラベルが尋ねる。


「否定できない」


 レオンは答えた。


「ただし、現時点で確認されているのは、八日前に濾過器が追加され、封印が保たれていることだけだ」


「薬剤などが入っている証拠はない」


「ない」


「それでも、怪盗が使うかもしれない」


「それも仮説だ」


 レオンは円筒の接合部を見る。


 封蝋は切れていない。


 外側へ漏れた液体も。


 薬品の匂いも。


 不自然な腐食もない。


 設置を求めた時期と。


 報告書を読んだ人物。


 疑う理由はある。


 だが。


 疑いは、中身の証明にはならない。


「この設備は、いつ大きく作動する」


 レオンが尋ねた。


「常時送風していますが、外気温が下がる夜間に、一度、湿度と温度をまとめて調整します」


 保存技師が答える。


「時刻は」


「午前零時です」


 機関室の音が。


 一瞬だけ遠くなったように感じられた。


 ミラベルが、自動時計を見る。


 真鍮製の文字盤。


 時針と分針。


 その下に、定時運転の作動時刻を示す小さな副表示。


 零時。


「ルヴェールの予告と同じですね」


「保存計画書に、以前から記載されていた時刻です」


 マリウスが答えた。


「怪盗が設備の予定へ合わせたのでしょう」


「閲覧できた者は」


 レオンが保存技師へ尋ねる。


「美術館職員。設置業者。設備変更を認定した部署。特別展示の作業関係者です」


「ヴァラン=コートを名乗った人物も?」


「王冠固定時に、保存条件を確認しています」


「なら、知っていた」


 午前零時。


 予告時刻に、保存設備が動く。


 その設備は、王冠の展示ケースへ直接つながっている。


 管の幅は。


 折り畳まれた七葉銀冠を通せる可能性がある。


 さらに。


 証人別紙の可能性を知る四人の一人が認定した、新しい濾過器が途中へ加えられている。


 ミラベルがマリウスを見る。


 彼の顔は、崩れていない。


 視線だけが。


 一度。


 王冠のある天井ではなく、保存管の圧力計へ向けられた。


 針は規定範囲の中央にある。


 マリウスは、その位置を確かめると。


 何事もなかったように、レオンへ視線を戻した。


 ミラベルは取材帳へ記す。


 ――マリウス。圧力計を確認。


 意味は書かなかった。


 一度の視線だけでは。


 保存設備を心配したのか。


 作動を待っているのか。


 そのどちらとも断定できない。


「午前零時の調整では、何が変わる」


 レオンが尋ねた。


「ケース内へ送る空気の湿度を下げます」


「温度は」


「結露を防ぐため、わずかに上げます」


「圧力は」


「送風量が増えるため、一時的に上がります。ただし、正常な範囲内です」


 レオンは、自動時計から保存管へ視線を移した。


 一定の温度で変化する何かが。


 固定具へ使われている可能性。


 細い管。


 折り畳める王冠。


 午前零時に増す、熱と空気。


 だが。


 まだ、固定具が熱で変形する証拠はない。


 王冠へ何かが通されていることも。


 濾過器の中に、防黴材以外の物があることも確認されていない。


 考えられることと。


 証明できることは違う。


「止めるか」


 グレアムが尋ねた。


 短い問いだった。


 機関室にいた全員の視線が、レオンへ集まる。


「設備を止めれば、保存管を利用する仕掛けは動かなくなるかもしれん」


「かもしれない」


 レオンが繰り返す。


「王冠を守るなら、止めるべきでは?」


 ミラベルが言った。


「停止が最も安全だと証明できるならな」


「動かしておく方が安全だと?」


「そうも言っていない」


 レオンは、保存技師を見る。


「定時調整だけを切り離せるか」


「できません。自動時計を外すなら、送風系統全体を手動へ切り替える必要があります」


「その切り替えでも、湿度は変動する?」


「はい。停止より小さくはできますが、内布へ影響が出ないとは保証できません」


「王冠をケースから出して保護するのは」


 グレアムが尋ねた。


「三本の鍵と封印解除が必要です」


 セルマが答えた。


「さらに、いま動かせば、脆い織布へ別の負荷が掛かります。内部に文書があるとしても、その状態は確認できていません」


 グレアムの顔が険しくなる。


「開けても危険。止めても危険。動かしても危険か」


「古い物を守るとは、そういうことです」


 セルマの声は静かだった。


「盗ませて、犯行方法を確かめるつもりではないだろうな」


 グレアムがレオンへ言った。


「ない」


「本当か」


「犯行を観察するために、王冠や内布を危険へさらす気はない」


 レオンは即答した。


「現時点では、設備内部に薬剤がある証拠はない。王冠がこの管を通る証拠もない。だが、何もせず定時運転を迎える気もない」


「どうする」


「濾過器は開けない。代わりに、今から市警の封印を追加する」


 レオンは円筒を指した。


「機関室側と展示ケース側。保存管の両端を監視する。操作できる者を保存技師一名に限定し、工具はすべて記録する」


「圧力が変わったら」


「手動弁を閉じる」


 壁際にある赤い取っ手へ視線を向ける。


「閉鎖まで何秒だ」


 保存技師が答えた。


「人が弁の前にいれば、三秒から五秒です」


「定時運転中も、一人を弁へ付ける。針が規定範囲を外れるか、展示室から異常の合図があれば即座に閉じろ」


「正常範囲のまま異常が起きたら?」


 ミラベルが尋ねる。


「展示ケース側で、王冠と通気口を直接見る」


「両方に人を置く」


 グレアムが引き取った。


「機関室へ警官二名。濾過器の前に一名。手動弁へ一名。点検員と保存技師は、警官の視界から外れるな」


 灰色の外套の点検員が頷いた。


「承知しました」


「円蓋室では」


 グレアムは続ける。


「通気口の前をクラウスが見る。重量記録機は市警の記録係が監視する。保存管の圧力と湿度は、機械の紙帯とは別に、警官が一定間隔で書き写す」


「定時運転前の工具点検も」


 レオンが言う。


「午後十一時五十分以降、設備へ新しい道具を持ち込ませるな」


「全員の入退室も記録する」


 グレアムが警官へ命じた。


「いったん配置についた者は、交代命令があるまで動くな。便所へ行きたい奴は今のうちに行け」


 若い警官が一瞬だけ顔を引き締めた。


「濾過器へ封印を」


 グレアムが言った。


 証拠用の封印線が用意される。


 土地記録局と保存部門の封蝋を傷つけないよう。


 その外側へ、市警の細い線を巻く。


 接続金具。


 点検蓋。


 濾過材の交換口。


 三か所へ市警印が押された。


 これより先。


 誰かが円筒を開けば、必ず痕跡が残る。


 中に何があるかは、依然として分からない。


 だが。


 これ以上、誰にも触れさせないことはできる。


 レオンは真鍮計を見上げた。


 現在時刻。


 午後九時十三分。


 午前零時まで。


 二時間四十七分。


 自動時計の内部では。


 歯車が、予告された時刻へ向けて動いている。


「これで守れますか」


 ミラベルが、声を落として尋ねた。


「守るための手は打った」


「絶対ではない」


「絶対なら、怪盗は予告状を出さない」


「それでも、王冠が消えたら」


「消える前に弁を閉じる」


「間に合わなければ」


 レオンは、すぐには答えなかった。


 濾過器。


 王冠へ続く保存管。


 セルマの報告書。


 閲覧者は四人。


 報告書の二日後に認定された設備変更。


 午前零時の定時運転。


 圧力計へ向けられた、マリウスの一度の視線。


「俺たちは、王冠が盗まれる事件だけを見ているつもりだった」


「違うんですか」


「まだ分からない」


 レオンは答えた。


「だが、怪盗が保存装置を利用しようとしているなら」


 彼の視線が。


 地上の展示ケースへ続く、細い管をたどる。


「同じ装置を、別の目的で利用しようとしている者がいても不思議ではない」


「別の目的」


 ミラベルは、内布の略図を思い出した。


 百二十七年間。


 王冠の内側へ隠されているかもしれない一文。


「別紙を盗む?」


「怪盗は返すと書いた」


「では、誰かが持ち出す?」


「持ち出せば、痕跡が残る」


 レオンは、濾過器の新しい金属表面へ映る自分の顔を見た。


「王冠を持ち出さず」


 言葉を一つずつ置く。


「封印を破らず」


 濾過器の中で。


 まだ見つかっていない何かを測るように。


「そこにある記録だけを消す方法があるとすれば?」


 ミラベルの視線が、円筒形の濾過器へ落ちる。


「中に、何か入っていると思っているんですか」


「証拠はない」


「でも、可能性は捨てていない」


「そうだ」


 レオンは、自動時計を見た。


 針は。


 音もなく、零時へ近づいている。


「午前零時に消えるのは、王冠だけではないかもしれない」

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