第5節 ― 七枚の葉は冠になる
《アスト古書堂》は、探そうとして歩く者ほど見つけにくい。
ヴェルム=クロウ旧市街。
蒸気乗合車も入れない細い路地を曲がり、煤で文字の消えかけた仕立屋の看板を通り過ぎ、行き止まりに見える煉瓦壁の手前で、さらに人ひとり分の横道へ入る。
その奥に、古いランプが一つだけ灯っている。
看板は煤けていた。
金文字で書かれていたらしい店名も、昼の薄暗さの中では半分しか読めない。
レオンが扉を押すと、頭上の鈴が乾いた音を立てた。
外を走る貨物馬車の音が、扉の閉まるのと同時に遠ざかる。
店内には、紙と革と乾いた薬草の匂いがあった。
天井まで届く本棚。
筒へ収められた古地図。
封蝋の残る契約書。
表紙に文字のない写本。
使われなくなった言語の辞典。
棚と棚の間は狭い。
それでも奥行きだけは、建物の外から見た寸法より長く感じられた。
店の奥。
深緑の上着をまとったエルフの男が、修復台へ向かっていた。
細長い指の先で、破れた頁の繊維を一本ずつ合わせている。
「いらっしゃいませ」
リュシアン=アストは、手元から顔を上げずに言った。
「本をお探しですか。それとも、本に書かれていないものをお探しですか」
「王冠だ」
レオンが答える。
リュシアンの手が止まった。
銀縁眼鏡の向こうから、静かな視線が向けられる。
「この街では、今日だけで何人も同じものを探しているでしょうね」
「本物を盗もうとしているのは、一人だけだと思いたいです」
ミラベルが言った。
「おや」
リュシアンは彼女へ柔らかく微笑んだ。
「新聞記者が、怪盗より先に王冠を見つけに来ましたか」
「怪盗の記事を書くためではありません」
「では、王冠の持ち主を決めるために?」
「それも、私が決めることではありません」
「良い答えです。決める権利のない者ほど、簡単に決めたがりますから」
リュシアンは修復中の頁へ薄紙を載せ、重しを置いた。
「七葉銀冠ですね」
「知っているのか」
「その質問は、少し失礼です」
声は穏やかなままだった。
「アスト家は、王冠をかぶった者ではありません。ですが、王冠の下で交わされた約束を記す家ではありました」
リュシアンは立ち上がり、本棚の奥へ歩いた。
ミラベルがレオンへ小声で尋ねる。
「怒らせました?」
「普段どおりだ」
「普段から言葉に棘があるという意味ですか」
「聞こえていますよ」
本棚の向こうから、リュシアンの声が返った。
「失礼しました」
「クラウスさんへ言ったのでしたら、謝る必要はありません」
レオンは何も答えず、外套の内側から手帳を取り出した。
蒼硝子円蓋室で描いた王冠の略図。
銀葉の配置。
固定具の位置。
内側の織布。
展示ケースへつながる湿度管理管の内径。
数字の並んだ頁を、作業台の上へ開く。
やがて、リュシアンが戻ってきた。
両手に抱えているのは、横幅の広い古い写本だった。
革表紙は黒ずみ、留め金には緑青が浮いている。
「触れる前に、手袋を」
「分かっている」
「分かっていても、クラウスさんは答えを急ぐと頁の方を忘れます」
「忘れたことはない」
「危うく破ったことはあります」
「破れていた頁が、俺の持った側へ崩れただけだ」
「古書を破る方は、皆そうおっしゃいます」
ミラベルは笑いを隠しながら手袋を着けた。
リュシアンは作業台を片づけ、写本を静かに置く。
留め金を外し。
厚い表紙を持ち上げ。
途中の頁を、傷めないよう一枚ずつめくった。
「旧王国末期の儀礼記録です。原本ではなく、後世の写しですが、描かれている儀礼具の構造は古い形式を保っています」
開かれた頁には、王の即位儀礼が描かれていた。
中央に立つ王。
その周囲で布を持つ神官たち。
王の頭には、銀の葉を連ねた冠。
七葉銀冠だった。
「美術館の肖像画と同じです」
ミラベルが言った。
「似ています。しかし、こちらは身につける過程が描かれている」
リュシアンが頁の端を示す。
小さな連続画があった。
最初の絵では、七枚の銀葉が細長く並べられている。
次の絵では、それを王の額へ当て。
最後の絵で、頭の周囲へ巻きつけている。
「輪を頭へ載せたのではない?」
ミラベルは顔を近づけた。
「ええ」
リュシアンは頷いた。
「七葉銀冠は、硬い金属の輪ではありません」
レオンが手帳の略図へ目を落とす。
「七枚の銀葉を、布でつないでいる」
「布と、小さな可動金具です。銀葉を一枚ずつ額へ沿わせ、頭部を包むように開く。王の頭の大きさへ合わせるため、多少の調整もできます」
「展示されている冠は、完全な円形に固定されていた」
「展示の都合でしょう」
「現在の学芸員は、構造を知らないのか」
「知識として知られていないとは限りません。ただ」
リュシアンは、レオンの描いた固定具へ視線を落とした。
「いまの美術館は、王冠を着用する必要がありません。美しく見える形に開き、その形が崩れないよう固定する。そうしているうちに、固定された姿の方が本来の形だと思われるようになる」
「記録と同じですね」
ミラベルが言った。
「保存された形が、本来の姿だと思われる」
リュシアンが彼女を見る。
「良い記者になられましたね、ワトリアさん」
「まだ見習いです」
「見習いの方が、決めつけずに済むこともあります」
レオンは儀礼図の隅を指した。
「これは何だ」
即位場面とは別の小さな絵だった。
細長い箱。
蓋は開かれ、中には銀色の帯のようなものが収められている。
「王冠の保管箱です」
「帯にしか見えません」
ミラベルが言う。
「冠を外したあと、七枚の銀葉を重ねるのです」
リュシアンは自分の指を七本の葉に見立てるように、片手を広げた。
それを、一枚ずつ折り重ねる。
「葉と葉のあいだには可動部があります。冠として使うときは開く。使わないときは閉じる。すべてを重ねれば、細長い帯になる」
「巻くのではなく、畳む?」
「そうです」
「織布は」
「銀葉の根元をつなぎ、頭部へ触れる部分を保護します。銀だけで作れば、開閉のたびに金属同士が傷つく。それを防ぐ役割もあった」
ミラベルは、美術館で見た王冠の内側を思い出した。
「茶色い古い布が残っていました」
「本来の布なら、王冠が儀礼具として使われていた時代のものかもしれません」
「セルマさんも、銀葉より織布の方が当時の扱われ方を知る手掛かりになると言っていました」
リュシアンの目が、わずかに細くなる。
「セルマ=アストレイ主任ですか」
「ご存じなんですか」
「論文を何本か読みました。市立古美術館にいながら、展示札よりも古い記録を読む方です」
「彼女は、王冠の内布に何かが隠されている可能性を疑っていた」
レオンが言った。
リュシアンは、すぐには答えなかった。
写本の頁へ視線を戻す。
「何か、とは?」
「予告状には、百二十七年間、一度も展示されなかった一文とある」
「それで、王冠の内側に文書があると?」
「推測だ」
「セルマ主任も、同じ推測を?」
「内布に不自然な箇所があるらしい」
リュシアンの指が、儀礼図の王冠へ触れない位置で止まった。
「可能性はあります」
「何を根拠に?」
ミラベルが尋ねる。
「旧王権の契約は、公開された文書だけで成立するとは限りませんでした」
リュシアンは写本を閉じず、別の頁を探した。
今度は、文字の多い頁だった。
欄外に、王冠、印璽、王杖の小さな図が描かれている。
「王領を他者へ預けるとき。王統を一時的に別の家へ託すとき。戦乱のあいだ、統治権や神殿財産を他者へ委ねるとき」
リュシアンは、文章を一行ずつ追った。
「公開される契約本文とは別に、証人の意思を記した細い文書を作る慣習がありました」
「証人別紙」
レオンが言う。
「ご存じでしたか」
「形式だけは」
「では、なぜ私のところへ?」
「現物の構造と、今回の契約に使われた可能性を確認するためだ」
「相変わらず、知らないことより、知っている範囲を確かめに来る方ですね」
「知らないことまで任せると、あんたは話を古代まで遡らせる」
「古い契約を調べに来て、過去が長いと文句を言われても困ります」
ミラベルが二人のあいだへ取材帳を置いた。
「その別紙には、何を書くんですか」
「契約本文だけでは表せない条件です」
リュシアンが答えた。
「返還の条件。契約が効力を失う場合。公の場では明記できない証人の名。王が脅迫されて署名した場合に、契約を否定するための文言」
「なぜ隠す必要があるんです?」
「公開文書は奪われます。書き換えられます。翻訳されます。勝者の記録庫へ収められる」
声は穏やかだった。
だが。
その言葉の底には、長く沈殿した怒りがあった。
「王冠や印璽、王杖は、契約を結んだ王権そのものの象徴です。その内側へ証人別紙を隠せば、本文と王権の象徴が揃わないかぎり、契約の意味を確定できない」
「二つで一つの契約」
「形式によっては」
リュシアンは慎重に付け加えた。
「すべての旧契約がそうだったわけではありません。時代も、王家も、契約の種類も違う。公開契約だけで成立するものもあります」
「灰炉譲渡証書が、この形式だった証拠は?」
「私の手元にはありません」
「七葉銀冠に別紙がある証拠は?」
「ありません」
リュシアンは、レオンを正面から見た。
「セルマ主任の推測には、歴史的な根拠がある。それ以上でも、それ以下でもない」
「内布を開かなければ確認できない」
「そうでしょう。ただし、百二十七年前の織布です。乱暴に開けば、別紙があったとしても、布と一緒に失われる可能性があります」
「だから、展示終了後まで調査を延期した?」
ミラベルが尋ねる。
「それは、美術館へ聞くべきことです」
リュシアンの返答は柔らかかった。
「慎重さのために延期したのか。都合の悪い答えを先送りしたのか。外からは同じ沈黙に見えます」
ミラベルは取材帳へ書き込んだ。
――証人別紙の存在は未確認。
――ただし、旧王権契約に同様の慣習あり。
ペン先が一度止まる。
「別紙が見つかれば、土地は返るんですか」
レオンが彼女を見た。
だが、問いを遮らなかった。
リュシアンは写本の中に描かれた王冠を見つめ。
それから、棚の隙間に立つミラベルへ視線を戻した。
「過去の意味が変わるだけです。現在の暮らしまで、きれいに元へ戻るわけではありません」
「それでも、意味はある?」
「いまは、市が正当に所有しているという答えから、すべてが始められている」
リュシアンは、写本の頁を静かに閉じた。
「別紙が見つかれば、その答えを一度取り下げることができる。そこから先は、現在そこに暮らす者たちを含め、改めて問わなければなりません」
「答えが出るのではなく」
ミラベルが言った。
「問いが正しくなる」
「ええ」
店内の奥で、古い時計が鳴った。
一回。
二回。
間を置きながら時を刻み、夕刻が近いことを知らせる。
犯行予告の午前零時まで。
残された時間は減り続けていた。
レオンは、閉じられた写本の上へ手帳を置いた。
七葉銀冠の略図。
円形に開いた七枚の銀葉。
その隣に、細長い箱へ収められた帯状の王冠を描き足す。
「この保管箱の内寸は分かるか」
「図から比率は推定できます」
リュシアンは定規を取り出した。
写本の人物像と王冠。
箱の幅。
銀葉の長さ。
実物の正確な寸法ではない。
それでも。
七枚を重ねたときの幅は、おおよそ読み取れる。
リュシアンが数字を告げる。
レオンは、美術館で測った湿度管理管の内径を、その横へ書いた。
二つの数字を見比べる。
ミラベルが、レオンの肩越しに手帳を覗く。
「通りますか」
「寸法だけなら」
「折り畳んだ七葉銀冠が、保存管を?」
「可能だ」
レオンは即答しなかった。
もう一度、二つの数字を確かめる。
「だが、現物が古い図と同じように動くことは確認していない。固定具が外れるかも分からない。管の内側を通せる状態か。王冠を引き込む手段があるか。そのどれも証拠がない」
「では、犯行方法ではない」
「まだな」
「でも、展示ケースを開けなくても、王冠を外へ出せる可能性はある」
「条件が揃えば」
レオンは手帳を閉じた。
リュシアンが銀縁眼鏡を押し上げる。
「怪盗のやり方が分かりましたか」
「王冠が、俺たちの見ていた形でしか存在しないという前提が間違っていた」
レオンは外套を整え、扉へ向かった。
「それだけだ」
「それだけで十分危険な気づきですよ、クラウスさん」
「危険なのは、気づいたことじゃない」
レオンは足を止めない。
「怪盗が、俺たちより先に知っていたことだ」
ミラベルはリュシアンへ礼を言い、レオンを追った。
扉を開く。
外の蒸気音と煤霧が、古書堂の静けさへ流れ込んだ。
路地へ出たところで、ミラベルはもう一度尋ねた。
「本当に、管を通ると思いますか」
レオンは美術館の方角を見た。
石壁の内側で。
七枚の銀葉は、硬い円形の王冠として固定されている。
その背後には。
人の指さえ入らない細い保存管が、封印の外まで続いている。
「王冠のままでは通らない」
レオンは言った。
「だが、七枚の葉なら通る」




