第4節 ― 十年前に死んだ修復師
最後王の肖像画を見上げたまま、レオンはしばらく動かなかった。
署名を終えた羽根筆。
長卓へ広げられた灰炉譲渡証書。
王の頭に残された七葉銀冠。
公式の説明では、その日。
王は王冠と土地を、ヴェルム=クロウ建設評議会へ譲り渡した。
だが。
その場を記録した肖像画には、王冠をかぶった王が描かれている。
「絵を調べるのはあとだ」
背後から、グレアムの声がした。
振り返ると、警部は一冊の記録綴りを脇へ抱えていた。表紙から、色の違う紙片が何枚も突き出している。
「展示準備に関わった者を、全員洗う」
「もう始めていたんですか」
ミラベルが尋ねる。
「怪盗が予告したからといって、予告当日だけ見ればいいわけじゃない」
グレアムは不機嫌そうに言った。
「固定具を交換した奴。展示台を組んだ奴。保存管を触った奴。鍵を運んだ奴。警報機を設置した奴。全員だ」
レオンは肖像画から離れた。
「珍しく意見が合うな」
「お前に言われる前に動いたんだ。そこを間違えるな」
グレアムは記録綴りを開いた。
美術館が提出した、展示準備名簿だった。
学芸員。
保存技師。
運搬業者。
警備装置の技師。
展示台の職人。
王冠修復師。
氏名の横には、作業日、入退館時刻、担当区画、資格番号、身元保証印が並んでいる。
「全員の所在を確認する」
グレアムは名簿の上から順に指を滑らせた。
「美術館職員は館内。外部業者は市警が聞き取りに向かった。入館記録と作業報告も照合させとる」
「王冠へ直接触れた者は」
「四人だ」
グレアムの指が止まる。
「セルマ=アストレイ。保存部門の技師二名。それから、王冠修復師ヴァラン=コート」
レオンが目を上げた。
「固定具を交換した責任者だな」
「そう記録されとる」
「現在地は」
「まだ分からん」
「住所は登録されているでしょう?」
ミラベルが記録を覗き込む。
「旧市街東区。職人登録もある。古美術修復資格も有効。過去に市立美術館へ品を納めた実績もある」
グレアムは頁をめくった。
「身元保証印も正式だ。今回の入館許可にも、不備はない」
「それで、見つからない?」
「住所へ部下を向かわせた」
そのとき。
円蓋室へ続く扉の向こうから、足音が近づいた。
若い巡査が一人、帽子を押さえながら入ってくる。美術館の静けさに遠慮しているのか、急いできた割に声を低く抑えていた。
「警部」
「どうした」
巡査は、細長い電信紙を差し出した。
「ヴァラン=コートの身元照会について、中央戸籍局から回答です」
グレアムは紙を受け取る。
最初の一行を読んだところで、眉が止まった。
「何と書いてあります?」
ミラベルが尋ねる。
グレアムは答えず、最後まで読む。
紙を裏返し。
もう一度、最初から確かめた。
「警部?」
「死んどる」
低い声だった。
「誰がです」
「ヴァラン=コートだ」
円蓋室の中で、蒸気灯の燃える音だけが残った。
オスカーが一歩近づく。
「何かの間違いでは?」
グレアムは電信紙を卓上へ広げた。
「ヴァラン=コート。ヒト族。古美術修復師。十年前、冬肺炎で死亡。死亡届受理済み。埋葬許可も出とる」
「同姓同名では」
「職人登録番号が一致した」
グレアムの指が、電信紙の数字を叩く。
「生年月日も。旧住所も。修復資格番号も同じだ」
オスカーの顔から色が引いた。
「ですが、資格照会は通っています」
「それも本物だ」
グレアムは展示準備名簿と、添付されていた資格証明を並べた。
「古美術修復資格。職人組合登録。過去の納入記録。身元保証印。どれも偽造の痕跡はない。照会先の原簿にも、同じ内容がある」
「死亡しているのに、資格が有効なんですか」
ミラベルが尋ねる。
「有効と回答された」
「では、どちらかの記録が偽物なのでは?」
「死亡記録も正式だ」
グレアムは苦々しく答えた。
「死んだという記録も本物。職人だったという記録も本物。今回提出された証明も、本物の記録から作られとる」
レオンは二つの書類を見比べた。
死亡を証明する電信紙。
職人であることを証明する資格記録。
片方には、十年前に終わった人生。
もう片方には、いまも仕事を続けている職人。
「職人資格の原簿を確認した者は」
「美術館の契約担当です」
オスカーが答えた。
「古美術修復師は数が少ない。今回の展示では、市記録院が登録資格者の一覧を提供しました。その中から実績のある職人へ依頼を出しています」
「誰がヴァランを推薦した」
「推薦ではありません。資格、専門分野、過去の納入実績を条件に抽出した結果です」
「顔写真は」
「職人登録にはありません」
「現在の署名見本は」
「契約書に署名があります」
「本人の過去の筆跡と照合した?」
オスカーは黙った。
「していないな」
「資格番号と身元保証印が一致していました」
「顔の代わりに番号を見た」
「正式な確認手続きです」
「正式だったから、死者を雇った」
レオンの声に責める調子はなかった。
それがかえって、オスカーの表情を硬くした。
「誰も、死亡記録まで調べるとは考えません」
「本人が目の前に立っていれば、普通はな」
グレアムは名簿を閉じた。
「だが、その本人が誰だったのか分からん」
セルマが、王冠の展示ケースから目を離した。
「ヴァラン氏を名乗った方は、十二日前から修復室へ出入りしていました」
「あなたは話したか」
グレアムが尋ねる。
「作業について何度か」
「以前に会ったことは?」
「ありません。文献で名前を見たことはありましたが」
「ほかの職員は」
「古美術修復は外部へ依頼することが多いのです。過去の納入も、品物と書類だけで済んだものがあります」
「つまり」
ミラベルが言った。
「美術館で、本物のヴァラン=コートの顔を知る人はいなかった」
セルマは頷いた。
「少なくとも、今回の職員には」
レオンは展示準備名簿を取り上げた。
入館時刻。
退館時刻。
作業区画。
王冠修復室。
蒼硝子円蓋室。
地下保存区画。
ヴァラン=コートを名乗った人物は、十二日前から六日前まで、正式な許可を得て美術館の内部を歩いていた。
王冠へ触れ。
古い織布を確認し。
固定具を交換し。
展示台への設置を担当した。
「搬入時の記録と、作業後の状態は照合したか」
レオンが尋ねた。
「写真乾板と記録図があります」
セルマが答えた。
「搬入直後。修復開始前。固定具交換後。展示台への設置後。それぞれの状態を記録しています」
「外観上の差は」
「申請された修復箇所と補強箇所だけです。ただし、写真に写らない部分や、織布の内部までは確認できません」
「記録は保存室ですね」
ミラベルが確認する。
「はい」
「あとで照合する」
レオンは名簿へ視線を戻した。
「職員の聞き取りをする」
グレアムは入口へ向き直った。
「ヴァランと接触した者を、修復室へ集めろ。別々に話を聞く。顔を合わせさせるな」
若い巡査が駆け出した。
オスカーが眉を寄せる。
「今夜の警備準備があります。職員を長く拘束されては」
「十年前に死んだ男の資格で、誰かがあんたの美術館へ入り、王冠を触っとったんだぞ」
グレアムの低い声が、円蓋室へ響いた。
「警備準備の一部だ」
◇
地下修復室には、薬品と古布の匂いが染みついていた。
長い作業台。
大小の拡大鏡。
銀製品を支える木枠。
毛先の細い刷毛。
切れた織布を保管する平箱。
壁際には、交換前の固定具を収めた証拠箱が置かれている。
王冠を修復した人物は、ここで何日も作業していた。
だが。
その人物が、どのような人間だったのかを尋ねると。
答えは一つにまとまらなかった。
最初に呼ばれたのは、正面入口の受付係だった。
「背の高い老人でした」
受付係は即答した。
「少なくとも、私よりはずっと。痩せていて、灰色の外套を着ていました」
「顔は」
グレアムが尋ねる。
「白い髭がありました。眼鏡も」
「髭の形は」
「口元を覆うくらい……だったと思います」
「声は」
「低い声でした。よく響く声で」
グレアムが記録係へ目をやる。
証言が筆記される。
「話した内容は」
「入館証を確認しただけです。『ご苦労』と」
「その二語で、声が低いと覚えた?」
受付係は自信を失ったように瞬きをした。
「はい。たぶん」
次に呼ばれたのは、収蔵庫の係員だった。
「小柄な方でした」
彼は首を傾げた。
「腰が曲がっていて。歩くときは杖を使っていました」
「背が高かったという証言がある」
「腰を伸ばせば高かったのかもしれません。でも、私が見たときは、私より低く見えました」
「髭は」
「覚えていません」
「声は低かった?」
「ほとんど喋りませんでした」
「一言も?」
「必要なときに頷くくらいで。喉を悪くしているのかと思いました」
三人目は、保存部門の若い助手だった。
「右手を使っていました」
助手は自分の動作を再現するように、空中で刷毛を持った。
「大きな刷毛や工具は右手です。固定具を外すときも」
「利き手は右か」
「そう思います」
グレアムが書き留めさせる。
だが。
部屋の隅にいたセルマが、静かに言った。
「細かな織布の補修では、左手を使っていました」
グレアムが顔を向ける。
「確かか」
「針を持ったのは左手です。右手で布を押さえていた」
保存助手も考え込む。
「そうだったかもしれません。細かい作業は、私たちを近づけませんでしたから」
「両利きか」
ミラベルが呟く。
「それとも、作業ごとに使う手を変えた」
レオンが答えた。
「どちらも仮説だ」
四人目の警備員は、白髭ではなく灰色の口布を見たと言った。
五人目の運搬係は、眼鏡を掛けていなかったと証言した。
作業開始時に会った者は、背筋の伸びた長身の老人と記憶し。
修復室で作業中に見た者は、腰の曲がった小柄な男と記憶していた。
低い声を聞いた者がいる。
ほとんど声を聞いていない者もいる。
右手を使っていた。
左手で精密作業をしていた。
誰も、嘘をついているようには見えなかった。
それでも。
証言を重ねるほど。
ヴァラン=コートを名乗った人物の輪郭は、薄くなった。
ミラベルは取材帳へ、証言を二列に分けていた。
長身。
小柄。
低い声。
無口。
右手。
左手。
老人。
だが。
年齢を直接確かめた者はいない。
「同じ人を見た証言とは思えませんね」
彼女が言った。
「別人が交代していた可能性は?」
グレアムが尋ねる。
「可能性はある」
レオンは作業台に残された入退館表を見た。
「だが、今ある証言だけでは証明できない。姿勢、外套、作業位置、話した時間。見え方が変わる理由はいくらでもある」
「では、変装を見破る手掛かりにはならない?」
「決定打にはならない」
「背の高い男という市警記録は」
ミラベルが尋ねた。
「同じだ」
レオンは答えた。
「目撃者が長身の男を見たことまでは事実かもしれない。だが、怪盗本人の身体が長身で、男性だと証明したわけではない」
グレアムの顔が険しくなる。
「また市警記録へ文句か」
「文句ではない。分類を直している」
「性別不明。年齢不明。身長不明。これでは手配書にならん」
「誤った顔を描くよりはましだ」
「何も描けんぞ」
「それが現状だ」
グレアムは唸り、証言記録を閉じた。
「ヴァランを名乗った者が、ルヴェールだと考えるのか」
レオンはすぐには答えなかった。
作業台の上へ広げられた修復記録を見る。
七葉銀冠の状態確認。
内側の織布の補強。
腐食した固定具の交換。
展示台への固定。
湿度管理設備との接続確認。
その一つ一つに。
王冠修復師ヴァラン=コートの署名があった。
「断定できることから整理する」
レオンは言った。
「本物のヴァラン=コートは、十年前に死んでいる」
「確定だ」
「今回、美術館へ来た人物は、その死者の正式な職人記録を利用した」
「そうだ」
「その人物は予告状が届くより前から館内にいた。王冠へ触れ、固定具を交換し、展示台と保存設備を確認する時間があった」
ミラベルは修復記録の日付を追った。
「十二日前から」
「予告状が来る十日前です」
グレアムが腕を組む。
「だが、そいつがルヴェール本人とは限らん。協力者かもしれん」
「そのとおりだ」
レオンは頷いた。
「ヴァランを名乗った人物が、予告状を書いた者と同一か。協力者か。別の目的で死者の記録を使った人物か。そこは未確認だ」
「では、何が分かった」
「犯行の準備が、予告状と同時に始まったわけではないということだ」
レオンは修復室の扉を見た。
その向こうには。
蒼硝子円蓋室。
封印された展示ケース。
交換された固定具。
細い湿度管理管。
「怪盗は侵入する必要がなかった」
グレアムが顔をしかめる。
「招待状を出したのは美術館か」
「身分証明書へ招待状を書かせたのは、記録だ」
レオンは、ヴァラン=コートの資格証明を持ち上げた。
印章は本物だった。
番号も本物だった。
経歴も本物だった。
そこに記された職人が、すでに死んでいることを除けば。
「美術館は、人を見なかった。職人登録を見た。資格を見た。納入実績を見た。保証印を見た」
「全部、正しかった」
ミラベルが言う。
「正しい記録だった」
レオンは資格証明を作業台へ戻した。
「ただし」
死者の名が記された紙の端を、指先で押さえる。
「目の前にいる人間の記録ではなかった」




