↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
107/228

第4節 ― 十年前に死んだ修復師

 最後王の肖像画を見上げたまま、レオンはしばらく動かなかった。


 署名を終えた羽根筆。


 長卓へ広げられた灰炉譲渡証書。


 王の頭に残された七葉銀冠。


 公式の説明では、その日。


 王は王冠と土地を、ヴェルム=クロウ建設評議会へ譲り渡した。


 だが。


 その場を記録した肖像画には、王冠をかぶった王が描かれている。


「絵を調べるのはあとだ」


 背後から、グレアムの声がした。


 振り返ると、警部は一冊の記録綴りを脇へ抱えていた。表紙から、色の違う紙片が何枚も突き出している。


「展示準備に関わった者を、全員洗う」


「もう始めていたんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「怪盗が予告したからといって、予告当日だけ見ればいいわけじゃない」


 グレアムは不機嫌そうに言った。


「固定具を交換した奴。展示台を組んだ奴。保存管を触った奴。鍵を運んだ奴。警報機を設置した奴。全員だ」


 レオンは肖像画から離れた。


「珍しく意見が合うな」


「お前に言われる前に動いたんだ。そこを間違えるな」


 グレアムは記録綴りを開いた。


 美術館が提出した、展示準備名簿だった。


 学芸員。


 保存技師。


 運搬業者。


 警備装置の技師。


 展示台の職人。


 王冠修復師。


 氏名の横には、作業日、入退館時刻、担当区画、資格番号、身元保証印が並んでいる。


「全員の所在を確認する」


 グレアムは名簿の上から順に指を滑らせた。


「美術館職員は館内。外部業者は市警が聞き取りに向かった。入館記録と作業報告も照合させとる」


「王冠へ直接触れた者は」


「四人だ」


 グレアムの指が止まる。


「セルマ=アストレイ。保存部門の技師二名。それから、王冠修復師ヴァラン=コート」


 レオンが目を上げた。


「固定具を交換した責任者だな」


「そう記録されとる」


「現在地は」


「まだ分からん」


「住所は登録されているでしょう?」


 ミラベルが記録を覗き込む。


「旧市街東区。職人登録もある。古美術修復資格も有効。過去に市立美術館へ品を納めた実績もある」


 グレアムは頁をめくった。


「身元保証印も正式だ。今回の入館許可にも、不備はない」


「それで、見つからない?」


「住所へ部下を向かわせた」


 そのとき。


 円蓋室へ続く扉の向こうから、足音が近づいた。


 若い巡査が一人、帽子を押さえながら入ってくる。美術館の静けさに遠慮しているのか、急いできた割に声を低く抑えていた。


「警部」


「どうした」


 巡査は、細長い電信紙を差し出した。


「ヴァラン=コートの身元照会について、中央戸籍局から回答です」


 グレアムは紙を受け取る。


 最初の一行を読んだところで、眉が止まった。


「何と書いてあります?」


 ミラベルが尋ねる。


 グレアムは答えず、最後まで読む。


 紙を裏返し。


 もう一度、最初から確かめた。


「警部?」


「死んどる」


 低い声だった。


「誰がです」


「ヴァラン=コートだ」


 円蓋室の中で、蒸気灯の燃える音だけが残った。


 オスカーが一歩近づく。


「何かの間違いでは?」


 グレアムは電信紙を卓上へ広げた。


「ヴァラン=コート。ヒト族。古美術修復師。十年前、冬肺炎で死亡。死亡届受理済み。埋葬許可も出とる」


「同姓同名では」


「職人登録番号が一致した」


 グレアムの指が、電信紙の数字を叩く。


「生年月日も。旧住所も。修復資格番号も同じだ」


 オスカーの顔から色が引いた。


「ですが、資格照会は通っています」


「それも本物だ」


 グレアムは展示準備名簿と、添付されていた資格証明を並べた。


「古美術修復資格。職人組合登録。過去の納入記録。身元保証印。どれも偽造の痕跡はない。照会先の原簿にも、同じ内容がある」


「死亡しているのに、資格が有効なんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「有効と回答された」


「では、どちらかの記録が偽物なのでは?」


「死亡記録も正式だ」


 グレアムは苦々しく答えた。


「死んだという記録も本物。職人だったという記録も本物。今回提出された証明も、本物の記録から作られとる」


 レオンは二つの書類を見比べた。


 死亡を証明する電信紙。


 職人であることを証明する資格記録。


 片方には、十年前に終わった人生。


 もう片方には、いまも仕事を続けている職人。


「職人資格の原簿を確認した者は」


「美術館の契約担当です」


 オスカーが答えた。


「古美術修復師は数が少ない。今回の展示では、市記録院が登録資格者の一覧を提供しました。その中から実績のある職人へ依頼を出しています」


「誰がヴァランを推薦した」


「推薦ではありません。資格、専門分野、過去の納入実績を条件に抽出した結果です」


「顔写真は」


「職人登録にはありません」


「現在の署名見本は」


「契約書に署名があります」


「本人の過去の筆跡と照合した?」


 オスカーは黙った。


「していないな」


「資格番号と身元保証印が一致していました」


「顔の代わりに番号を見た」


「正式な確認手続きです」


「正式だったから、死者を雇った」


 レオンの声に責める調子はなかった。


 それがかえって、オスカーの表情を硬くした。


「誰も、死亡記録まで調べるとは考えません」


「本人が目の前に立っていれば、普通はな」


 グレアムは名簿を閉じた。


「だが、その本人が誰だったのか分からん」


 セルマが、王冠の展示ケースから目を離した。


「ヴァラン氏を名乗った方は、十二日前から修復室へ出入りしていました」


「あなたは話したか」


 グレアムが尋ねる。


「作業について何度か」


「以前に会ったことは?」


「ありません。文献で名前を見たことはありましたが」


「ほかの職員は」


「古美術修復は外部へ依頼することが多いのです。過去の納入も、品物と書類だけで済んだものがあります」


「つまり」


 ミラベルが言った。


「美術館で、本物のヴァラン=コートの顔を知る人はいなかった」


 セルマは頷いた。


「少なくとも、今回の職員には」


 レオンは展示準備名簿を取り上げた。


 入館時刻。


 退館時刻。


 作業区画。


 王冠修復室。


 蒼硝子円蓋室。


 地下保存区画。


 ヴァラン=コートを名乗った人物は、十二日前から六日前まで、正式な許可を得て美術館の内部を歩いていた。


 王冠へ触れ。


 古い織布を確認し。


 固定具を交換し。


 展示台への設置を担当した。


「搬入時の記録と、作業後の状態は照合したか」


 レオンが尋ねた。


「写真乾板と記録図があります」


 セルマが答えた。


「搬入直後。修復開始前。固定具交換後。展示台への設置後。それぞれの状態を記録しています」


「外観上の差は」


「申請された修復箇所と補強箇所だけです。ただし、写真に写らない部分や、織布の内部までは確認できません」


「記録は保存室ですね」


 ミラベルが確認する。


「はい」


「あとで照合する」


 レオンは名簿へ視線を戻した。


「職員の聞き取りをする」


 グレアムは入口へ向き直った。


「ヴァランと接触した者を、修復室へ集めろ。別々に話を聞く。顔を合わせさせるな」


 若い巡査が駆け出した。


 オスカーが眉を寄せる。


「今夜の警備準備があります。職員を長く拘束されては」


「十年前に死んだ男の資格で、誰かがあんたの美術館へ入り、王冠を触っとったんだぞ」


 グレアムの低い声が、円蓋室へ響いた。


「警備準備の一部だ」


    ◇


 地下修復室には、薬品と古布の匂いが染みついていた。


 長い作業台。


 大小の拡大鏡。


 銀製品を支える木枠。


 毛先の細い刷毛。


 切れた織布を保管する平箱。


 壁際には、交換前の固定具を収めた証拠箱が置かれている。


 王冠を修復した人物は、ここで何日も作業していた。


 だが。


 その人物が、どのような人間だったのかを尋ねると。


 答えは一つにまとまらなかった。


 最初に呼ばれたのは、正面入口の受付係だった。


「背の高い老人でした」


 受付係は即答した。


「少なくとも、私よりはずっと。痩せていて、灰色の外套を着ていました」


「顔は」


 グレアムが尋ねる。


「白い髭がありました。眼鏡も」


「髭の形は」


「口元を覆うくらい……だったと思います」


「声は」


「低い声でした。よく響く声で」


 グレアムが記録係へ目をやる。


 証言が筆記される。


「話した内容は」


「入館証を確認しただけです。『ご苦労』と」


「その二語で、声が低いと覚えた?」


 受付係は自信を失ったように瞬きをした。


「はい。たぶん」


 次に呼ばれたのは、収蔵庫の係員だった。


「小柄な方でした」


 彼は首を傾げた。


「腰が曲がっていて。歩くときは杖を使っていました」


「背が高かったという証言がある」


「腰を伸ばせば高かったのかもしれません。でも、私が見たときは、私より低く見えました」


「髭は」


「覚えていません」


「声は低かった?」


「ほとんど喋りませんでした」


「一言も?」


「必要なときに頷くくらいで。喉を悪くしているのかと思いました」


 三人目は、保存部門の若い助手だった。


「右手を使っていました」


 助手は自分の動作を再現するように、空中で刷毛を持った。


「大きな刷毛や工具は右手です。固定具を外すときも」


「利き手は右か」


「そう思います」


 グレアムが書き留めさせる。


 だが。


 部屋の隅にいたセルマが、静かに言った。


「細かな織布の補修では、左手を使っていました」


 グレアムが顔を向ける。


「確かか」


「針を持ったのは左手です。右手で布を押さえていた」


 保存助手も考え込む。


「そうだったかもしれません。細かい作業は、私たちを近づけませんでしたから」


「両利きか」


 ミラベルが呟く。


「それとも、作業ごとに使う手を変えた」


 レオンが答えた。


「どちらも仮説だ」


 四人目の警備員は、白髭ではなく灰色の口布を見たと言った。


 五人目の運搬係は、眼鏡を掛けていなかったと証言した。


 作業開始時に会った者は、背筋の伸びた長身の老人と記憶し。


 修復室で作業中に見た者は、腰の曲がった小柄な男と記憶していた。


 低い声を聞いた者がいる。


 ほとんど声を聞いていない者もいる。


 右手を使っていた。


 左手で精密作業をしていた。


 誰も、嘘をついているようには見えなかった。


 それでも。


 証言を重ねるほど。


 ヴァラン=コートを名乗った人物の輪郭は、薄くなった。


 ミラベルは取材帳へ、証言を二列に分けていた。


 長身。


 小柄。


 低い声。


 無口。


 右手。


 左手。


 老人。


 だが。


 年齢を直接確かめた者はいない。


「同じ人を見た証言とは思えませんね」


 彼女が言った。


「別人が交代していた可能性は?」


 グレアムが尋ねる。


「可能性はある」


 レオンは作業台に残された入退館表を見た。


「だが、今ある証言だけでは証明できない。姿勢、外套、作業位置、話した時間。見え方が変わる理由はいくらでもある」


「では、変装を見破る手掛かりにはならない?」


「決定打にはならない」


「背の高い男という市警記録は」


 ミラベルが尋ねた。


「同じだ」


 レオンは答えた。


「目撃者が長身の男を見たことまでは事実かもしれない。だが、怪盗本人の身体が長身で、男性だと証明したわけではない」


 グレアムの顔が険しくなる。


「また市警記録へ文句か」


「文句ではない。分類を直している」


「性別不明。年齢不明。身長不明。これでは手配書にならん」


「誤った顔を描くよりはましだ」


「何も描けんぞ」


「それが現状だ」


 グレアムは唸り、証言記録を閉じた。


「ヴァランを名乗った者が、ルヴェールだと考えるのか」


 レオンはすぐには答えなかった。


 作業台の上へ広げられた修復記録を見る。


 七葉銀冠の状態確認。


 内側の織布の補強。


 腐食した固定具の交換。


 展示台への固定。


 湿度管理設備との接続確認。


 その一つ一つに。


 王冠修復師ヴァラン=コートの署名があった。


「断定できることから整理する」


 レオンは言った。


「本物のヴァラン=コートは、十年前に死んでいる」


「確定だ」


「今回、美術館へ来た人物は、その死者の正式な職人記録を利用した」


「そうだ」


「その人物は予告状が届くより前から館内にいた。王冠へ触れ、固定具を交換し、展示台と保存設備を確認する時間があった」


 ミラベルは修復記録の日付を追った。


「十二日前から」


「予告状が来る十日前です」


 グレアムが腕を組む。


「だが、そいつがルヴェール本人とは限らん。協力者かもしれん」


「そのとおりだ」


 レオンは頷いた。


「ヴァランを名乗った人物が、予告状を書いた者と同一か。協力者か。別の目的で死者の記録を使った人物か。そこは未確認だ」


「では、何が分かった」


「犯行の準備が、予告状と同時に始まったわけではないということだ」


 レオンは修復室の扉を見た。


 その向こうには。


 蒼硝子円蓋室。


 封印された展示ケース。


 交換された固定具。


 細い湿度管理管。


「怪盗は侵入する必要がなかった」


 グレアムが顔をしかめる。


「招待状を出したのは美術館か」


「身分証明書へ招待状を書かせたのは、記録だ」


 レオンは、ヴァラン=コートの資格証明を持ち上げた。


 印章は本物だった。


 番号も本物だった。


 経歴も本物だった。


 そこに記された職人が、すでに死んでいることを除けば。


「美術館は、人を見なかった。職人登録を見た。資格を見た。納入実績を見た。保証印を見た」


「全部、正しかった」


 ミラベルが言う。


「正しい記録だった」


 レオンは資格証明を作業台へ戻した。


「ただし」


 死者の名が記された紙の端を、指先で押さえる。


「目の前にいる人間の記録ではなかった」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。