第2節 ― 蒼硝子円蓋室
ヴェルム=クロウ市立古美術館は、警察に守られているというより、警察によって包囲されていた。
正面階段の両脇には制服警官が立ち、翼を閉じた石造の鴉よりも険しい顔で来館者を見張っている。通常なら開館を待つ市民が列を作る時刻だったが、黒い鉄柵の外にいるのは、事情を聞きつけた新聞記者と、展示中止を訴えるエルフの一団だけだった。
霧の中で、声が重なる。
「王冠を閉じ込めるな」
「盗まれる前に、真実を公開しろ」
「市の財産を守れ」
同じ王冠へ向けられた言葉とは思えなかった。
石段の下で待っていたグレアム警部が、レオンとミラベルへ手を上げる。
「遅いぞ」
「予告時刻まで、まだ十五時間ある」
レオンは懐中時計すら見なかった。
「午前零時に来るつもりだったのか」
「怪盗が時間を守るなら、それでも間に合う」
「その前に警備計画を決めるんだ」
グレアムはミラベルの持つ取材鞄へ視線を移した。
「紙と鉛筆だけだろうな」
「爆薬を持ってくるような記者に見えますか」
「記者は爆薬より面倒な物を持ち込む。記事だ」
「証拠を隠さなければ、怖がる必要はありません」
「誰に似たんだ、その言い方は」
「少なくとも、こちらの方ではないでしょうね」
ミラベルがレオンを見る。
「俺もそう思う」
レオンは答え、正面扉へ歩き出した。
グレアムが鼻を鳴らして後を追う。
入口では、警官が三人の名前と入館時刻を台帳へ記した。続いて、携行品の確認。レオンの拡大レンズ、巻尺、鑑定用手袋、封蝋採取具。ミラベルの取材帳と筆記具。グレアムの警棒と拳銃。
すべてが一つずつ記録された。
レオンは署名欄へ名を置きながら、警官の手元を見た。
「退出時にも確認を?」
「同じ係が照合します」
「交代は」
「正午と午後六時です」
「引き継ぎのあいだ、台帳は誰が持つ」
警官の筆が止まった。
グレアムが横から言う。
「入口警備の穴を探すのはあとにしろ」
「穴があるとは言っていない」
「相手の顔を見ると、あると言っとるのと同じだ」
警官は気まずそうに台帳を閉じた。
三人が館内へ入ると、外の抗議の声は厚い扉の向こうへ遠ざかった。
高い玄関広間には、磨かれた黒石の床が広がっている。壁面には古い契約取引所時代の真鍮製銘板が残され、その上から美術館の案内板が取り付けられていた。
かつて所有権を売買した建物が、いまは所有された品々を展示している。
その中央で、細身の男が待っていた。
濃紺の礼服。
銀縁の眼鏡。
襟元には、市立古美術館館長を示す金属章。
「レオン=クラウス氏ですね」
男は、礼儀として必要なだけの笑顔を作った。
「館長のオスカー=ベルムです。お越しいただき、感謝します」
「警察に連れてこられただけです」
「それでも、いらしたことに変わりはありません」
オスカーの笑顔が、一瞬だけ固まった。
ミラベルは名刺を差し出す。
「《ヴェルム市民記録報》のミラベル=ワトリアです」
「記者の方まで入館されるとは聞いていませんが」
「助手だ」
レオンが言った。
「必要な証言を拾う」
「記事にはしないと?」
「それは約束できません」
ミラベルが答えた。
オスカーは、今度こそ笑顔を消した。
「展示品の安全に関わる情報は、公開を控えていただきたい」
「安全のために必要な秘密と、責任を隠すための秘密は区別します」
「ワトリア嬢」
グレアムが低く制した。
「まだ何も起きとらん」
「だから、区別するだけです」
オスカーは短く息を吐き、広間の奥へ向き直った。
「まず、王冠をご覧いただきます。警備体制については、すでに市警と調整済みです。率直に申し上げれば、あの予告状が約束しているような盗難は不可能です」
「不可能なら、俺を呼ぶ必要はなかったな」
「警察からの強い要請です」
「館長自身の要請ではない」
「美術館は、専門外の事柄について専門家の助言を拒みません」
言葉は丁寧だった。
だが、オスカーは一度も「助けてほしい」とは言わなかった。
彼の足音に導かれ、一行は展示室へ続く長い回廊を進んだ。
両側の壁には、旧エルフ王国の神殿彫刻、儀礼面、銀製の杯が並んでいる。どの展示ケースにも市の所有番号が付けられ、品名より大きな数字が台座へ刻まれていた。
回廊の先。
二枚の扉が開かれる。
蒼い光が、石床へ落ちた。
ミラベルは、思わず足を止めた。
巨大な円形広間だった。
頭上を覆う硝子円蓋は、透明ではない。淡い青に染められた硝子片が鉄骨のあいだへ嵌め込まれ、朝の灰色い光を深い水底の色へ変えている。
細い鉄骨が円蓋の頂点へ集まり、その下へ影を落としていた。
広間の中央には、円形の展示ケース。
さらに、その中に。
七葉銀冠が置かれていた。
七枚の銀葉が輪を描き、それぞれの先端をわずかに外へ反らしている。表面には宝石も王家の紋章もない。ただ、葉脈を思わせる細い彫刻が、根元から先端まで走っていた。
蒼い光を受けた銀葉は、冷たい炎のように見える。
「昨日の新聞とは、ずいぶん違います」
ミラベルが囁いた。
「印刷は銀を黒くする」
レオンは歩みを止めずに答えた。
「本物は?」
「銀色だ」
「見れば分かります」
「なら聞くな」
展示ケースの周囲には、旧王家最後王の肖像画、王国領の古地図、王家の系譜、市成立時の工業計画図が並べられていた。
歴史の前半は森と河川で描かれ。
後半は線路と工場で描かれている。
その境目に、王冠が置かれていた。
展示ケースの前には、二人の人物が立っていた。
一人はエルフの女性だった。
黒に近い緑の長衣。細身の身体。肩へ流した淡い金褐色の髪。年齢はヒト族の目には三十代ほどに映るが、実際の歳は判別できない。
彼女は王冠を見ていた。
美術品を鑑賞する眼差しではない。
傷病者の息遣いを確かめるように、視線を銀葉の根元へ据えている。
「古文書部門主任学芸員、セルマ=アストレイです」
オスカーが紹介した。
セルマは王冠から目を離し、三人へ一礼した。
「七葉銀冠と灰炉譲渡証書の調査を担当しています」
声は静かだった。
ただし、両手は身体の前で強く組まれている。
指先が、もう一方の手袋をわずかに押し込んでいた。
ミラベルは、その緊張に気づいた。
王冠が盗まれることを恐れている。
それだけではないように見えた。
もう一人の男は、セルマより半歩前へ立っていた。
仕立てのよい灰色の上着。
胸元には土地記録局の認定官章。
髪は短く整えられ、書類を扱う者らしく爪の際まで清潔だった。
「マリウス=フェインです」
男は先に名乗った。
「土地記録局上級認定官として、灰炉譲渡証書の法的認定を担当しました」
「怪盗対策にも認定官が必要なのか」
レオンが尋ねる。
「今回狙われているのは、市有財産です。その法的地位を説明できる者が必要でしょう」
「怪盗にか」
「市民にです」
マリウスは、ミラベルの取材帳を一瞥した。
「誤解が広がり始めていますから」
「何が誤解なんでしょう」
ミラベルが尋ねた。
「灰炉譲渡証書は真正な文書です」
マリウスは即座に答えた。
「紙質、年代、王の署名、証人印。いずれも複数回の鑑定を通過している。旧王国の七つの領地と王冠が、ヴェルム=クロウ建設評議会へ永久譲渡されたことに、法的な疑義はありません」
「文書が本物であることと、現在の解釈が正しいことは同じですか」
ミラベルが重ねる。
マリウスは、わずかに間を置いた。
「正しい手続きに基づく公的認定は、個人の感想より重い」
「質問への答えになっていません」
「ワトリア嬢」
オスカーが割って入る。
「ここでは防犯設備の確認を優先させてください」
レオンはマリウスを見ていなかった。
七葉銀冠へ近づき、展示ケースの外周をゆっくり歩いている。
硝子へ触れず。
床へ視線を落とし。
ケースと石床の接合部。
台座の高さ。
蒸気灯の配置。
硝子の継ぎ目。
すべてを一周して確かめた。
「説明を」
彼が言った。
オスカーは待っていたように頷いた。
「展示ケースは特別製です。硝子は二重。外側を破っても、内側には届きません」
彼は外周の金属枠を指す。
「開閉部の施錠には、三本の鍵が必要です。それぞれ別の管理者が保管しており、三者が揃わなければ開けられない」
「予告状が届いてから、鍵は?」
レオンが尋ねる。
「すべて確認済みです」
グレアムが答えた。
「市警が封印した。鍵の持ち主には警官を付けてある」
「複製の有無は」
「登録上はない。鍵型も照合させた」
「登録外は」
「今のところ証拠なしだ」
「なら、複製がないとは断定できない」
「だが、あるとも言えん」
「それでいい」
レオンは次の設備へ視線を移した。
展示ケースの開閉部には、赤褐色の封蝋が三か所。
それぞれに美術館、市警、記録局の印が押されている。
「封蝋は今朝、新しくしたものです」
マリウスが言った。
「昨夜からの封印を破ったのか」
「警察の立ち会いで内部点検を行いました」
オスカーが答える。
「王冠に異常がないことを確認したあと、改めて封印しています」
「点検した者は」
「学芸員、保存技師、警備主任、市警の担当官。それに私です」
「マリウス氏は?」
レオンの問いに、マリウスが答えた。
「記録上の所有物と、展示品の同一性を確認しました」
「王冠の真贋を判定できる?」
「認定番号と保管記録を照合しただけです」
「つまり、王冠そのものを鑑定したわけではない」
「それは学芸員の領域です」
セルマの組んだ指が、またわずかに動いた。
「今朝の確認では」
彼女が静かに言った。
「七葉銀冠に、目視できる損傷はありませんでした」
「目視できない損傷は」
レオンが尋ねる。
「ケースを開け、詳細に調査しなければ断定できません」
「その調査はした?」
セルマは答える前に、オスカーを見た。
ほんの一瞬だった。
「展示準備中に、修復作業を行っています」
「質問と答えが違う」
レオンの声は平坦だった。
オスカーが一歩出る。
「クラウス氏。王冠は保存基準に従って処置されています。予告状が届いたからといって、百二十七周年展示の初日に解体調査を行うことはできません」
「できないのではなく、しなかった」
「美術品は、疑えば自由に分解できる物ではありません」
「それは正しい」
レオンはあっさり認めた。
「だから、未確認の部分が残っている」
オスカーの眉がわずかに寄った。
「搬入時の状態記録はあるか」
レオンが尋ねた。
「あります」
セルマが答えた。
「修復作業へ入る前に、正面、左右、背面、内側を写真乾板へ記録しました。銀葉の傷、固定具、織布の縫い目についても、拡大図を作成しています」
「現在の状態と照合した?」
「今朝の目視確認では、外観上の大きな相違はありません。ただし、硝子越しに確認できない箇所までは断定できません」
「乾板と記録図は」
「保存記録室です」
「あとで見る」
オスカーがわずかに顎を引く。
「持ち出しは禁止です」
「ここで見る」
グレアムが展示台の側面に付いた真鍮箱を指した。
「こっちは重量警報だ」
箱の内部で、小さな記録歯車が一定の間隔で回っている。そこから細い紙帯が吐き出され、王冠と展示台に掛かっている重量を連続して印字していた。
「王冠が持ち上げられれば、針が基準線を外れる」
グレアムは機械の横にある警報管へ手を置いた。
「変化が一定量を超えれば、館内と警備室で警報が鳴る。今夜は市警の記録係も横に置く」
レオンは紙帯へ顔を寄せた。
同じ数値が、等間隔に印字され続けている。
「機械が測っているのは」
「展示台上部へ掛かる重量です」
保存技師らしい男が、少し離れた場所から答えた。
「形は判別する?」
「いいえ」
「材質は」
「重量機です。そこまでは分かりません」
レオンは、紙帯を指先で軽く弾いた。
「なら、機械が記録しているのは重量だけだ」
「王冠が持ち上がれば、重量が変わる」
グレアムが言った。
「正常に動いていればな」
「今朝も試験した。異常なしだ」
「それなら、機械は正しい」
レオンは真鍮箱から目を上げた。
「ただし、正しい機械が答えられるのは、測るように作られたことだけだ」
ミラベルは取材帳へ書き込んだ。
――警報機は、形も材質も判別しない。重量のみを記録する。
「それから蒸気灯です」
オスカーが話を進めた。
展示ケースの内外には、白い炎をガラス筒へ閉じ込めた蒸気灯が六基。
「夜間も消灯しません。予告状にある『灯りを消さず』という条件に関係なく、通常から継続点灯しています。今夜は予備機も稼働させます」
「影は増えるな」
レオンが天井と床を見比べた。
「明るくするのが問題だと?」
グレアムが尋ねる。
「光源が増えれば、見る角度によって硝子への映り込みも増える。だが、消すよりはましだ」
「犯人へ有利な配置は?」
「今のところ断定できない」
円形広間の四方には、それぞれ扉が一つずつあった。
すでに警官が立っている。
「今夜は四方向すべてへ警備員と警官を置く」
グレアムが配置を示した。
「交代は二人一組。展示ケースから目を離さない。上の回廊も封鎖する」
彼が見上げる。
蒼硝子円蓋の内周には、鉄製の細い保守回廊が巡っていた。硝子清掃と照明整備のための足場で、壁沿いの螺旋階段から上がれる。
すでに階段口には警察の封印帯が張られている。
「円蓋外側の屋根へ通じる扉も市警管理だ」
「窓は」
「開閉式ではない」
「硝子清掃用の設備は」
「今夜は停止させる」
グレアムは胸を張った。
「正面、裏口、地下、屋根。出入口はすべて警察が押さえる。ケースの四方に人を立て、上にも下にも部下を置く。鍵も封蝋も監視する。いくら怪盗でも、これだけの警察力を抜けて王冠を持ち出すことはできん」
レオンは展示ケースの前に立ったまま、グレアムを見た。
「警備計画はよくできている」
「珍しく素直だな」
「展示ケースを開ける犯人に対しては」
グレアムの眉が下がった。
「開けずに盗めると言うのか」
「予告状には、封印を傷つけないと書かれている」
「挑発だ」
「過去の記録では、予告状へ嘘はなかった」
「だからといって、言葉どおりに成功するとは限らん」
「成功させるつもりで警備を考えるべきだ」
レオンはケースの外周を再び歩いた。
「今の警備は、人間が扉から入り、鍵か硝子を破り、王冠を手で持ち上げ、どこかの出口から逃げることを前提にしている」
「普通の盗人ならそうする」
「相手は、その普通を予告状で否定した」
「では、どう盗む」
「それを調べに来た」
グレアムは何か言い返そうとしたが、やめた。
レオンの視線は、すでに王冠へ戻っている。
彼は展示ケースの硝子すれすれまで近づき、銀葉の根元を観察した。
七枚の葉は、細い固定具によって台座へ留められている。
そのうち数本だけが、ほかより色が新しい。
「この留め具は交換されている」
セルマの肩がわずかに強張った。
オスカーがすぐに答える。
「修復記録にあります」
「いつ」
「展示準備の六日前です」
セルマが引き継いだ。
「従来の固定具に腐食が見つかりました。王冠本体を傷つけない保存用固定具へ交換しています」
「作業者は」
「修復班です」
「責任者名は」
オスカーが保存技師へ目を向けた。
技師は手元の記録板を開く。
「王冠修復師、ヴァラン=コート。作業確認は保存部門が行っています」
「交換前の固定具は保管してある?」
「地下修復室に」
「あとで見る」
レオンは新しい固定具の色と位置を目で追った。
「何かおかしいんですか」
ミラベルが尋ねる。
「新しい」
「交換記録があります」
「だから、交換そのものは隠されていない」
「正規の修復だった可能性が高い?」
「正規の記録があることは事実だ。作業内容が正しかったかは、まだ別の問題だ」
彼は断定しなかった。
ミラベルは王冠の正面から少し横へ回った。
銀葉同士の隙間。
固定具の影。
そこへ身体を低くすると、王冠の内側に、銀とは違う色が見えた。
「布があります」
セルマがミラベルを見る。
「王冠の内側に」
ミラベルは硝子へ触れないよう、指先を止めた。
「銀葉の根元をつないでいるように見えます。茶色に近い……織布でしょうか」
「古い儀礼布です」
セルマが答えた。
その声は、先ほどより慎重だった。
「王冠が実際に着用されていた時代のものと考えられています」
「交換しなかったんですか」
「極度に脆くなっています。取り外せば、元の形を保てない可能性があるため、補強だけを行いました」
「布まで残っている王冠は珍しい?」
「非常に」
セルマは王冠へ向き直った。
「金属は残ります。布は腐り、失われる。だから、銀葉よりも内側の織布の方が、当時の扱われ方を知る手掛かりになることがあります」
「扱われ方」
「誰が身につけたのか。どのように保管したのか。修理された時期。縫い方によっては、儀礼上の意味も」
「今回は何か分かりましたか」
ミラベルの問いに、セルマはすぐ答えなかった。
組んでいた指が、さらに強く絡む。
「詳細な調査は、まだ完了していません」
「展示終了後に行う予定です」
オスカーが代わりに答えた。
ミラベルはセルマを見た。
セルマは否定しなかった。
だが、同意したようにも見えなかった。
「古い織布が残っていることは、展示解説にも記載しています」
マリウスが言う。
「歴史的な価値は認められている。そこに法的な意味を持たせるのは別問題です」
「まだ誰も法的な意味があるとは言っていません」
ミラベルが返した。
「予告状が、展示されていない一文を示唆している」
「怪盗の文章です」
「怪盗が何かを知っている可能性は?」
「証明されていない」
マリウスの声は崩れない。
「公的記録は、犯罪者の暗示によって無効にはなりません」
「無効になるとは言っていません」
「だが、疑いを広げるには十分だ」
「疑われるだけで崩れる権利なら、最初から確認した方がいいのでは?」
マリウスの口元から、わずかに温度が消えた。
「記者は、疑問を記事にすれば済む。行政は、その後に生じる混乱へ責任を負います」
「混乱を避けるためなら、調べなくてもいい?」
「そのようなことは言っていません」
「二人とも、そこまでだ」
グレアムが割って入った。
「今は怪盗を止める」
ミラベルは取材帳へ目を落とした。
マリウスもそれ以上は続けなかった。
ただ。
セルマだけが、再び王冠の内側へ視線を戻していた。
レオンはその沈黙を横目で見たが、問いを重ねなかった。
代わりに、展示ケースの背後へ回る。
台座と床のあいだに、細い金属管が通っていた。
一見するとケースを固定する支柱の一部に見える。だが、耳を近づければ、内部を空気が流れる微かな音がした。
「これは」
「湿度管理管です」
オスカーが答えた。
「地下保存区画の装置から、温度と湿度を調整した空気をケース内部へ送っています。銀と織布を同じ環境で保存するには、細かな管理が必要です」
「ケースの外部へつながっている」
「保存設備ですから当然でしょう」
「封印の内側へ通じている」
「空気しか通りません」
レオンは膝をついた。
巻尺を取り出し、管の外径を測る。続いて、ケース側の通気口へ拡大レンズを向けた。
通気口は細い。
成人の指さえ入らない。
丸い金属縁の奥は暗く、どこまで続いているのか見えなかった。
「通気口は開閉するか」
「しません」
保存技師が答えた。
「金属縁はケース本体と一体です。地下側には保守点検口がありますが、管そのものは狭く、人の手や通常の工具を差し込める構造ではありません」
「今朝、点検した?」
「圧力と空気流量は正常です」
「管の内側を目視したか」
「全長を覗くことはできません」
「なら、異物がないことは未確認だ」
オスカーが苛立ちを隠さず言った。
「クラウス氏。空気管です。王冠は、あの細い管よりはるかに大きい。盗難経路にはなりません」
レオンは返事をせず、巻尺の目盛りを読み取った。
次に展示ケースへ顔を上げる。
円形に開かれた七葉銀冠。
固定具。
根元に残された古い織布。
細い湿度管理管。
重量だけを測る警報機。
彼の視線が、それぞれを順に結んでいった。
ミラベルは、その目の動きを追う。
「何か通せますか」
「空気は通っている」
「それ以外です」
「まだ分からない」
「王冠は無理でしょう」
「今見えている形ならな」
レオンは立ち上がった。
オスカーが眉を寄せる。
「形が変わるとでも?」
「仮説を述べたつもりはない」
「では何を疑っているんです」
「あなた方の前提だ」
グレアムが通気口を覗き込み、太い指を一本近づけた。
指先さえ入らない幅だった。
「人間は通れんぞ」
レオンは巻尺を巻き戻した。
「人間が通る必要があるとは限らない」




