第12話 元婚約者、浮気されてた
一方、アスベルが姿を消した後のことである。
彼との婚約を破棄した、ミレーヌはというと――
元恋人との、燃えるような恋を楽しむつもりであった。だが、しかし――
「は……。ちょっと……それは、どういうことなの……」
彼女がいるのは、元恋人の家であった。頼りがいのある、三つ年上のその男。だが――彼の家を訪れた彼女は、言葉を失うことになる。
「あ、いや……ミレーヌ……これは、その……」
「ダーリン、誰よ、その女……」
そう、元恋人の背後には、一人の女がいたのである。しかも、ただの女ではなかった。
彼を「ダーリン」――すなわち、夫と呼ぶ女。その胸には、幼い子どもが抱かれていた。そして、傍らには、もう少し年高の子どもの姿まで――は?
「え? は……。どういう……ことなの。ねえ、トコクズ?」
トコクズ――元恋人に、ミレーヌは詰め寄った。
「ど、どういうこと、って……」
今日、ミレーヌは、トコクズに内緒でこの家を訪れたのだった。驚かせようという、ちょっとした演出のつもりで。
ところが、彼の背後にいたのは、妻らしき女と、二人の子ども。これは、いったい――
「あ、あ、あなた、まさか……け、結婚していたの……!?」
トコクズは、動揺したように目を伏せた。しかも、子どもがいるということは――自分と付き合っていた頃から、すでに結婚し、子どもまでいたということになる。
「信じられない……」
優しいだけで、つまらない男、アスベル。それよりも、頼りがいがあり、何より見目のよいトコクズのほうがいい。彼となら、刺激的な日々を送れる。幸せになれる。誰よりも自分を大切にし、守ってくれる――そう、思っていたのに。
「ひ、ひどい……」
「何を言っているのか、さっぱり分からないな」
「……は?」
トコクズが、目を逸らしながら言う。分からない、とは――
「何を言って……」
「君は、確か、アスベルとかいう男の婚約者だろう。俺に、何の用だ」
「……は?」
(ま、まさか、この期に及んで、すっとぼけるつもり……!? アスベルを、私に捨てさせておいて……!)
「ふ、ふざけないでよ!」
ミレーヌが、トコクズに詰め寄ろうとする。だが、トコクズは、彼女を激しく突き飛ばした。
「ぎゃっ!」
ぐしゃり、と、ミレーヌは顔面から地面に倒れ込んだ。その拍子に、鼻を強く打ちつける。
「いったぁ……何すんのよ……」
ばたん、と。
トコクズは、ミレーヌを締め出してしまった。扉の向こうから、「ハニー。実はあいつ、俺のストーカーでさ。ずっとつきまとわれて、参ってたんだよ」と、猫撫で声が聞こえてくる。妻の機嫌を取っているのだろう。
――それはすなわち、自分よりも、妻の機嫌を優先したということであった。
(この私よりも……あんな年増を? どうしてよ! 私のほうが、若いじゃない!)
ミレーヌは、何度も扉を叩いた。
「ちょっと、ストーカーって何よ! 困ってる? ふざけないで! 勝手なこと言わないでよ!」
何度叩いても、トコクズが姿を現すことはなかった。こちらが憤っていようと、機嫌を取ろうとする素振りすら、見せなかった。
(アスベルは、違った……。こちらの機嫌が悪いときは、そっと甘いものを差し出してくれたり、黙って話に頷いてくれたりしたのに)
元恋人にも、同じようにしてもらえるはずだと、そう思っていた。だが、違った。
受け入れるどころか、突き放されたのである。
「ちょっと! ねえ! 出てきてよ、トコクズ……!」
「何を騒いでいるんだ、お前」
村の自警団の若者が、ミレーヌの肩を叩いた。騒ぎを聞きつけて来たらしい。
「あいつが悪いのよ! 私を捨てたのよ! 浮気だったのよ!」
「……はあ? 何だ、そりゃ」
「私に黙って! 他に女を作って、子どもまでいたのよ! ふざけないでよ!」
すると、若者は、率直な疑問を口にした。
「え、あんたって、アスベルさんの婚約者じゃ、なかったっけ」
「! そ、それは……」
「その話しぶりだと……あれ、浮気してたのは、あんたのほうじゃないの? アスベルさんって婚約者がいながら、トコクズと浮気していた、ってことになるけど」
「あ、いや、それは……」
確かに、そのとおりであった。世間から見れば、ミレーヌはアスベルの婚約者だ。その彼を裏切り、他の男に心を移していたのは、他ならぬミレーヌ自身であった。
トコクズを責め立てているが、やっていることは、彼と何ら変わりがない。
「え……うわ、マジか……。あんた、アスベルさんがいながら……うわぁ、最低じゃん」
「ち、違……」
自警団の若者は、呆れたようにミレーヌを見やった。
「まあ、確かに婚約であって、結婚まではしてなかったけどさ……。でも、それはないわ、本当にないわ、あんた……。夜も遅いし、とりあえず家に帰りなよ」
そう言い残し、若者は立ち去っていった。近くにいた仲間に、「ミレーヌが……」「マジで?」「そうそう……うわ、最低……」と、今しがたの一部始終を語っている声が聞こえる。
田舎の村は、娯楽が少ない。狭い共同体の中では、不貞の噂など、瞬く間に広まってしまうだろう。
――そうなれば、ミレーヌの肩身が狭くなることは、言うまでもなかった。
「な、なによ、浮気が何だって言うのよ! あ、あいつが悪いんじゃない!」
トコクズを指さしながら、ミレーヌは叫んだ。だが、誰一人として、彼女に賛同する者はいなかった。
――独りきりであった。
いつもならば、アスベルがそばにいてくれた。支えてくれた。思えば、苦しいときはいつも、そっと寄り添ってくれていたのだ。
「あ、アスベル……」
もしや、と、ミレーヌは思う。アスベルは、案外、良い伴侶だったのではないか、と。
彼はいつも、きちんと誠意を見せてくれていた。わがままにも、すべて耳を傾けてくれた。自分のこれからの人生を、共に背負おうとしてくれていた。
あっさりと切り捨てたトコクズとは違い、ミレーヌとの未来について、真剣に考えてくれていたのだ。
「え、え……。もしかして、私……間違えて、いたの……選択を」
誰も、答えてはくれない。だが、答えは、あまりにも明白であった。
ミレーヌは、彼の人柄ではなく、ただ、年が十一も離れているから。一緒にいて、面白みがないから。そんな理由だけで、彼を切り捨てたのだ。
――だが、それ以外は、完璧であった。優しく、頼りがいがあり、剣の腕も確か。そして何より、誰よりもミレーヌを気にかけてくれていた。
「あ、あれ……。嘘……嫌……」
じわじわと、絶望が押し寄せてくる。自分のしでかしたことの重さを、ようやく、思い知らされていた。
だが、気づいたところで――もう、遅いのだった。
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