第三話『居場所』(後)
彼女は手のひらで包み込んでいた破壊された懐中時計を再びカウンターの上に置き、丸眼鏡の奥の瞳を細めてルーペを構え直した。感情に流されるのではなく、古物商としての冷徹な観察眼で、この時計が持つ記憶の奥底へとさらに深く潜り込んでいく。
アンティーク時計の裏蓋の内側には、過去にその時計の修理や分解清掃を手がけた時計職人たちが、自分たちの仕事の証として極小の文字で修理の記録を彫り込むという文化がある。美波の鋭い視覚は、無数の細かい傷の中に紛れ込んだ、針の先で引っ掻いたような微小な記号の羅列を確実に見逃さなかった。
一番新しい彫り跡は、おそらく数ヶ月前に刻まれたものだ。日付の横に彫られている特殊な記号、蜘蛛の巣に鍵が交差した印は、表の世界で生きる普通の時計職人のものではない。美波は脳内にある膨大な古物の知識と、裏社会の流通に関する記憶を引き出していく。
やがて一つの確信に辿り着き、美波は小さく息を呑む。
(間違いない。これは東京の裏社会で出処のわからない盗品や足のつく美術品を専門に洗浄して売り捌いている、通称『スパイダー』と呼ばれる地下の仲介業者の印だ)
なぜ公安の人間が、わざわざ裏社会の人間が扱ったアンティーク時計を脅しに使ったのか。その理由は、彼らが絶対に足のつかない方法でこの時計を調達する必要があったからだ。
正規の時計店や古物商でアンティーク品を購入すれば、防犯カメラの映像はもちろんのこと、古物の取引記録として必ず顧客台帳に身元が残ってしまう。ただの買い物ならいざ知らず、これは脅迫という犯罪に使う道具だ。万が一表の警察の捜査が入った時、購入者が公安の人間であると割れるわけにはいかない。だからこそ彼らは、身分確認など一切行わず、足のつかない現金のみで取引をする裏社会の業者から、この時計を秘密裏に買い取ったのだ。
公安は自分たちが安全な場所にいて、証拠など何一つ残していないと過信している。だが、モノはすべての因果を記憶している。彼らが記録を消すためにこの時計を選んだ事実そのものが、裏社会と繋がる決定的な痕跡となるのだ。
美波は机の上の帳面に、仲介業者の名前とその活動拠点の情報を素早く書き込んだ。
これを桐生と綾瀬に渡せば、あの有能な二人のことだ。裏社会の人間から情報を聞き出し、公安の工作員がいつどこでこの時計を買ったのか、その取引の証拠を確実に引っ張り出してくれるはずだ。強大な権力者への反撃の糸口が、確かに見えた。
しかし、その情報を書き終えた瞬間、美波のペンを持つ手がピタリと止まった。
反撃すれば、公安は今以上に狂暴になる。自分一人の命が狙われるだけならまだいい。だが、もし幸一や洋子、笠原や冬馬、健太にまでその牙を向いてきたらどうなるか。
昼間、店の前に立って公安の監視員を追い払ってくれた幸一の、あの広くて頼もしい背中が脳裏に浮かぶ。いつも美味しいご飯を作ってくれる洋子の笑顔が浮かぶ。彼らは美波のためなら、自分の危険など顧みずに立ち向かってくれるだろう。だが、相手は国家権力と暴力の専門家なのだ。下町の善良な人々が束になったところで、勝てる相手ではない。万が一彼らの身に何か起これば、美波は一生自分を許すことができない。
(これ以上、皆を巻き込むわけにはいかない。お父さんとお母さんの死も、牧村さんの死も、すべて私たちの血筋が背負った業のせいなのだから)
美波は強く唇を噛み締め、決断した。
帳面を破り取り、ダッフルコートのポケットにねじ込む。そして、カウンターの奥から小さな鞄を取り出し、最小限の着替えと現金、そして時洲家のルーツであるあの名もなき茶器を箱ごと慎重に詰め込み始めた。
桐生たちと合流し、この街から離れる。公安の目を自分に引きつけ、下町の人々から危険を遠ざけるのだ。すべてが終わるまで、二度とこの時洲堂には戻らない覚悟だった。
美波が店の奥の電源を落とし、暗闇の中で鞄を閉めた、その時だった。
「美波。こんな夜更けにどこへ行くつもりだ」
静寂を切り裂くような、ひどく低く凄みのある声。
肩を震わせて入り口の方を振り向くと、そこにはいつの間にかガラス戸を開けて店内に入ってきていた、三枝幸一が立っていた。店の外の路地灯の明かりを背に受け、その頑固で屈強な姿が暗い店内に黒々と浮かび上がっている。
「幸一さん。どうして」
「玄関の明かりが消えていたからな。夜中に明かりもつけずに動いていれば、何かバカなことを考えているとわかる」
幸一はゆっくりと店内に入り込み、カウンターの上に無造作に置かれたままになっていた破壊された懐中時計と、その横にある工具の山、そしてカウンターの脇に置かれた鞄に鋭い視線を落とす。
「昼間の背広の連中か。そのぶっ壊された時計が挨拶というわけだ」
斜向かいで金物屋を営み、長年金属や道具の構造と向き合ってきた職人である幸一の目は誤魔化せなかった。彼もまた一目見ただけで、その懐中時計が事故や故障ではなく、明確な悪意を持って破壊されたものであることを正確に読み取っていた。
幸一の太い拳が、音を立てて握りしめられる。
「どこの誰だか知らねえが。職人が精魂込めたものをコケにしやがって。こんな下劣な脅しに使いやがった奴ら、俺が許さねえ」
幸一が抱いたのは、美波と全く同じ、モノを愛する職人としての純粋な怒りだった。だからこそ、美波は胸が締め付けられるほどに辛かった。
「幸一さん。ごめんなさい。私、この街を出ます。しばらく時洲堂は閉めますから」
美波は鞄の持ち手を握りしめ、顔を伏せた。
「逃げるんじゃありません。やらなきゃいけないことがあるんです。でも、これ以上ここにいたら皆にまで危険が及んでしまう。私の家は皆さんが思っているようなただの古物商じゃないんです。私の先祖が犯した罪のせいで、お父さんもお母さんも殺されて。私にはその因果がある。だから、皆を巻き込めない」
震える声で、必死に一人で背負い込もうとする美波。
その言葉を聞いた幸一は、大きく深くため息をついた。そして暗い店内を歩み寄り、美波の目の前で立ち止まると、その大きな両手を美波の華奢な両肩に置いた。
美波が顔を上げると、幸一の顔はかつて見たことがないほどに本気の怒りに満ちていた。
「水臭いこと言っているんじゃねえぞ、美波」
腹の底から響くような、重く真っ直ぐな声。
「お前がどこの誰の血を引いていようが、そんなこと、俺たちには関係ねえ」
幸一の言葉は理屈ではなく、彼がこの下町で生きてきた人生そのものの重みを持っていた。
「昔、工房を閉めようとした時、お前のじいさんに腕を見込まれて救われた。親父さんとお袋さんも、俺たち夫婦に近所付き合い以上に寄り添ってくれた。時洲家は、俺たちのかけがえのない身内だ」
幸一の大きな手が、美波の肩を優しく、けれど力強く包み込む。
「お前は、俺たちの腕の中で育った宝だ。お前がどんな因果を背負っていようが、そんなもの俺たち下町の人間がまとめて背負ってやる。一人でいなくなるなんて、二度と言うんじゃねえ」
美波の丸眼鏡の奥から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
孤独な暗闇の中で、一人で戦わなければならないと思い詰めていた彼女の心に、幸一の不器用で圧倒的なまでの愛情が、雪解けのようにお湯を注ぎ込んでいく。
「相手が警察だろうが関係ない。この街の人間は家族だ。お前に手を出そうとする奴は、俺たちが束になって相手になってやる。美波、ここがお前の帰る場所だ。逃げるな」
幸一のその力強い言葉に、美波は鞄の持ち手から手を離し、両手で顔を覆って声を上げて泣き崩れた。
百年の怨嗟という重すぎる十字架。国家権力という圧倒的な恐怖。そのすべてを無条件の愛情で包み込んでくれる親代わりの背中が、ここにはあった。
幸一は泣きじゃくる美波の頭を、大きなタコだらけの手で何度も優しく撫で続けた。
翌朝。
冬の冷たい雨が東京の街を濡らしていた。
時洲堂の前に、一台の黒い覆面車両が音もなく滑り込む。後部座席のドアが開き、スーツの上に黒いコートを羽織り、傘も差さずに降り立ったのは、警視庁捜査一課から謹慎処分を受け、捜査の権限を完全に剥奪されたはずの男、桐生だった。続いて助手席から、険しい顔つきの綾瀬が降りてくる。
ドアベルを鳴らして店内に入ると、そこには昨夜の涙を乗り越え、すっきりと晴れやかな顔をした美波が待っていた。彼女の隣には、腕組みをして桐生たちを値踏みするように睨みつける幸一の姿もあった。
「どうやら、俺の出番を待たずとも自力で持ち堪えたようだな、時洲」
桐生はカウンターの上に置かれた破壊された懐中時計を一瞥し、鼻で笑った。
「権限を奪われようが、俺の信念に狂いはない。警察組織という窮屈な檻から解き放たれた分、むしろ俺の牙は研ぎ澄まされていると思え。奴らがこんな脅しを仕掛けてきたということは、俺たちの足音が確実に奴らの喉元に迫っている証拠だ。お前の方の収穫はあったのか」
「はい。桐生さん」
美波は静かに頷き、昨夜書き留めた裏社会の仲介業者に関する記録を桐生へと差し出した。
「この時計を公安に流したと思われる、裏社会の業者の正体と拠点です。モノに残された痕跡が、彼らの繋がりを証明しています。彼を調べれば、公安が裏金を使って工作を行っている決定的な証拠が手に入ります」
記録を受け取った桐生は、銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げ、その端正な顔に冷徹な笑みを浮かべる。
「素晴らしい。さすがは俺が見込んだ眼だ。これで反撃の第一段階が完成した」
桐生は記録をコートのポケットにしまい、綾瀬の方を振り返った。
「行くぞ、綾瀬。俺たちでその業者の巣穴に乗り込み、公安との黒い繋がりを完膚なきまでに叩き出し、すべて吐かせてやる。奴らが自身の権力を過信しているのなら、その自尊心ごと俺がこの手で完全に破壊してやるからな」
「わかったよ、桐生。牧村さんの仇、絶対に取ってやる」
綾瀬も拳を握りしめ、強い決意を瞳に宿して応えた。
幸一が、店の奥から桐生に向かって太い声をかける。
「おい、そこの眼鏡」
「俺のことか、金物屋」
「美波のこと、絶対守り抜け。万が一のことがあったら、ただじゃおかないぞ。覚えておけ」
幸一の凄みに満ちた言葉に、桐生は少しも怯むことなく、むしろ当然のことのように鼻を鳴らした。
「勘違いするな。俺は誰かに言われて誰かを守るような、非論理的な感情で動く人間ではない。だが俺の信念において、この時洲美波という存在はもはや欠かすことのできない重要な人間だ。俺が認めたこの女を無能な権力者どもに傷つけさせるような間違いを、この俺が犯すはずがないだろう」
ひどく理屈っぽく、傲慢な言い草。しかしその不器用すぎる言葉の裏にある桐生なりの揺るぎない守護の誓いを、美波は確かに感じ取っていた。
「よろしくお願いします、桐生さん、綾瀬さん」
美波が深く頭を下げる。
警察組織から追放されたエリート刑事と、亡き先輩の遺志を継ぐ刑事。そして、下町の人々の愛情に支えられた探し物探偵の少女。百年の怨嗟と強大な国家権力に対し、彼らの反撃の狼煙は明確に上がったのだ。
雨の降る東京の空の下、桐生と綾瀬を乗せた黒い車が裏社会の深淵へと向かって勢いよく走り出していく。美波はその後ろ姿を、幸一の大きな背中の横で静かに、けれど強い決意を持って見送り続けていた。




