第三話『居場所』(前)
翌日。
警視庁本部庁舎、捜査一課のフロアは、押し殺したような重苦しい静寂と奇妙な緊張感に包まれていた。
普段ならば怒号が飛び交い、電話のコール音が鳴り止まず、刑事たちが慌ただしく行き交うはずの場所である。しかし今日に限っては、誰もが息を潜め、フロアの奥にあるガラス張りの課長室の方を、腫れ物に触るような、あるいは怯えるような視線で盗み見ていた。
ガラス越しに見える課長室の中では、三つ揃いの高級なオーダースーツを完璧に着こなした桐生が、苛立ちも焦りも見せず、冷徹な銀縁眼鏡の奥の瞳で、デスクの向こう側に座る釘宮を見下ろしていた。
「以上が、上層部からの決定だ。桐生、お前は本日付けで無期限の謹慎処分とする。同時に、現在担当しているすべての事件における捜査権限を剥奪する」
顔面を土気色にした釘宮が、震える手で一枚の書類を突き出しながら言った。
書類の束には、先日桐生たちが実行した株式会社トラスト・ロジスティクスへの家宅捜索について、でっち上げられた数々の不適切な捜査手法が羅列されていた。令状の範囲を逸脱した強引な証拠押収、被疑者への威圧行為、さらには所轄への連絡義務違反による越権行為など、どれもこれも、桐生を現場から排除するために後から取ってつけたような、粗末な言いがかりばかりだった。
「待ってください。桐生がそんな規則違反をするわけないじゃないですか。あの捜索は、令状に基づいた一切の瑕疵がない合法な捜査でした。それをこんな難癖で謹慎だなんて、横暴にも程があります」
桐生の背後に立っていた同期の綾瀬が、耐えきれずに一歩前に出て怒鳴った。
「黙れ、綾瀬。これは決定事項だ。お前もこれ以上楯突くなら、同罪として地方の交番に飛ばすぞ」
「飛ばせるものなら飛ばしてみてください。警察の看板を背負って、真実から目を背けるような真似なんてできません」
「綾瀬。少し黙ってろ」
激昂する綾瀬を制止したのは、他ならぬ桐生だった。
桐生は、自身の捜査権限がすべて奪われたというのに、これっぽっちも動揺した様子を見せず、むしろ口角を吊り上げて傲慢な笑みを浮かべていた。
「俺の完璧な論理と正当な捜査手法に、このような三流の難癖をつけてまで俺を現場から引き離そうとする。それはつまり、上層部の腐敗した連中が、俺の知略を本気で恐れ、尻尾を巻いて震え上がっているという何よりの客観的証明だ」
「桐生、お前、自分の立場がわかっているのか」
「俺の立場など、お前のような組織の歯車に理解できるはずがない」
桐生は冷ややかに言い放つと、スーツの内ポケットから黒革の警察手帳を取り出し、デスクの上に無造作に放り投げた。重たい音を立てて手帳が滑り、釘宮の手元で止まる。
「権限など、くれてやる。もとより俺は、警察という窮屈な組織の枠組みの中だけで真実を暴こうなどとは、これっぽっちも考えていない。むしろ、無能な上司の顔色を窺う必要がなくなり、せいせいしているところだ」
桐生は銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げ、蔑むような視線を釘宮に向けた。
「せいぜい、公安委員長の山添翔一に報告するがいい。生意気な猟犬からは牙も爪も奪った、とな。だが、俺の頭脳という最も鋭利な刃まで奪えたと錯覚しているのなら、それは致命的な論理的欠陥だと思い知ることになるぞ」
桐生はそれ以上何も言わず、踵を返して課長室のドアノブに手をかける。
「行くぞ、綾瀬。たまには有給休暇を消化して、下町の美味しい定食でも食べに行くとするか。俺の胃袋を満たす論理的な投資だ」
唖然とする釘宮を背に、桐生は堂々とした足取りで部屋を出ていった。綾瀬も失礼すると言い残し、急いで桐生の後を追う。
二人が捜査一課の部屋を通り抜ける間、他の捜査員たちは気まずそうに視線を逸らした。かつてエースと呼ばれた男が追放されるという異常事態。その重苦しい沈黙の廊下を抜け、人気のないエレベーターホールへとたどり着いた瞬間、綾瀬は悔しそうに壁を殴りつけた。
「まんまと奴らの思い通りじゃないか。お前が謹慎になってしまったら、誰が現場の指揮を執るんだ。あの裏の記録のデータだって、正規の捜査権限がなければ、逮捕状を請求することもできないだろう」
「ふん。俺から権限を奪うことなど、初めから計算通りだ」
桐生はエレベーターの階数を示す数字を見つめた。
「奴らは、俺の手足を縛れば俺が諦めるとでも思っているらしい。だが、それは甘すぎる。警察組織という公式の道が塞がれたのなら、別の道から奴らの喉元に刃を突きつけてやればいいだけのことだ。山添翔一と青柳。この国の闇を牛耳る二人の権力者が、自らの足元から崩れ落ちる様を、俺の推理で証明してやる」
到着したエレベーターの扉が静かに開く。
牙を剥き始めた巨大な権力。しかし、刑事の反逆の炎は、消えるどころかさらに冷たく、鋭く燃え上がっていた。
一方、その頃。
東京の下町、細い路地の奥にひっそりと佇むアンティークショップ『時洲堂』の周辺には、目に見えない、しかし明確な異物の気配が忍び寄っていた。
冷たい北風が吹き抜ける午後。
時洲堂のガラス張りのショーウィンドウの前で、近所に住む常連の笠原が背中を丸めてじっと中を覗き込んでいた。彼は骨董品を見る目はあるのだが、いかんせん財布の紐は奥さんが握っているため滅多に商品を買うことができない。しかし美波はいつも嫌な顔一つせず、彼が飽きるまでゆっくりとモノを眺めさせてくれるのだ。
「笠原さん、外は冷えますから。どうぞ、温かいお茶でも」
ガラス戸が開き、美波が湯気を立てるほうじ茶の入った湯呑みを両手で持って出てきた。
キャメル色のダッフルコートを着て丸眼鏡をかけたその姿は、両親の死の真実という重い十字架を背負っているようには見えないほど、穏やかで優しい雰囲気を纏っていた。
「おお、すまないねえ美波ちゃん。いつもごちそうになってしまって」
笠原はシワだらけの手で湯呑みを受け取り、美味しそうに一口すすると、ホゥと白い息を吐いた。
「しかし、このアール・デコ調のランプシェードは何度見ても見事だな。うちの婆さんがもう少し話のわかる人間なら、ポンと買ってやるんだが」
いつものちょっとした愚痴をこぼす笠原に、美波は小さく笑い、「奥様によろしくお伝えくださいね」と微笑んだ。
しかし、笠原は湯呑みを両手で持ったまま、ふと路地の奥の方へ視線を巡らせ、声を潜めて美波に言った。
「ところで美波ちゃん。最近、この辺りでひどく見かけない顔がうろついているが」
「え」
「ほら、あそこの電柱の陰や、路地の角。スーツを着て、こんな下町には似合わないひどく物騒な顔つきをした連中だよ。ここ数日ずっと時洲堂の様子を窺っているように見えるんだが、何か心当たりはないかい」
美波の背筋に、冷たいものが走った。
笠原の視線の先をさりげなく追うと、確かに、灰色のスーツを着た大柄な男が、スマートフォンをいじるふりをしながら執拗にこちらを監視しているのが見えた。一人ではない。路地の反対側にも、もう一人いる。
公安の監視だと美波は直感する。
桐生たちがダミー企業への捜索を行ったことで、黒幕である公安委員会の山添が本格的に動き出したのだ。警察上層部という強大な権力は、桐生の手足を縛るだけでなく、美波という時洲の血脈を直接監視し、プレッシャーをかけるために、私兵とも言える公安警察の人間をこの下町に送り込んできたのだ。
「いえ、特に心当たりはありません。たぶん、新しくできたマンションの下見か何かじゃないでしょうか」
美波は笠原を心配させまいと、無理に笑顔を作って誤魔化した。
そんな時だった。
「こんにちは。お届け物です」
大きな声とともに、路地の向こうから台車を押してやってきたのは配送業者の青年、冬馬だった。
彼は美波の前まで来ると、台車から小さな段ボール箱を一つ下ろした。
「時洲さん、オークションで落札したアンティークの部品ですね。お届けに上がりました」
「冬馬くん、いつもありがとうございます。寒い中、お疲れ様です」
美波が受け取りのサインをしていると、冬馬は周囲を見回し、不機嫌そうに舌打ちをした。
「やっぱり気のせいじゃなかったか。あそこに立ってる気味の悪いスーツの連中、時洲さんのストーカーじゃないですか」
冬馬は配達で毎日この街の隅々まで走り回っている。だからこそ、この下町の風景にそぐわない異物には警察官以上に敏感だった。
「俺、午前中の配達の時から気づいてたんですよ。あいつら、ずっとこの時洲堂の周りを徘徊している。時洲さんに何か因縁つけてくる気なら俺が許しません。ちょっと、文句を言って追い払ってきます」
美波へのほのかな恋心を抱いている冬馬は、男気を見せようと腕まくりをして、公安の監視員の方へ歩き出そうとした。
「駄目です冬馬くん。行かないで」
美波は慌てて冬馬の作業着の袖を掴んで引き留めた。
相手はただのストーカーやチンピラではない。国家権力の手先であり、法を無視してでも平気で人を傷つけることのできる冷徹な組織の人間だ。冬馬のような一般市民が不用意に近づけば、どんな口実をつけて連行され、酷い目に遭わされるかわからない。
「時洲さん」
「お願いです。私なら大丈夫ですから。皆さんに迷惑や危険をかけたくないんです」
美波が悲痛な顔で懇願すると、冬馬はハッとして足を止め、悔しそうに拳を握りしめた。
「迷惑なんてこれっぽっちも思ってないですよ。俺たちは、時洲さんの力になりたいだけなんです」
その時だった。
大きな音を立てて、斜向かいの金物屋の引き戸が開いた。
中から出てきたのは、分厚い作業着を羽織った金物職人、三枝幸一だった。
幸一は冬馬や笠原を制止するように軽く手で合図をすると、時洲堂の店の前に無言で立ち塞がった。
そして太い腕を胸の前で組み、電柱の陰に隠れているスーツの男たちに向かって、周囲の空気が震えるほどの凄まじい眼光を放ち始めたのだ。
言葉は一言も発しない。
ただ、「ここは俺たちの街だ、俺たちの大事な娘に指一本でも触れてみろ、ただじゃおかないぞ」という強烈な怒りと意志を、その全身から放つ威圧感だけで監視員たちに真っ直ぐに叩きつけていた。
下町の人間たちの、身内を守る時の団結力と覚悟はどんな組織にも負けない。
幸一の無言のプレッシャーに耐えきれなくなったのか、あるいは目立ちすぎることを避けたのか。監視していた公安の男たちは、舌打ちをするように視線を逸らし、路地の奥へと足早に姿を消していった。
「幸一さん」
美波が声をかけると、幸一は振り返り、ぶっきらぼうに言った。
「気にするな。お前はいつものように笑ってろ」
笠原は「そうだ、この街はわしらの庭だ、変な虫は寄せ付けないさ」と笑い、冬馬も「俺も配達のルート変えて一日に何回もこの前の道を通るようにしますからね」と胸を張った。
彼らは皆、美波が抱えている事情のすべてを知っているわけではない。それでも彼女に迫る危険を本能的に察知し、こうして無条件で盾となって守ろうとしてくれているのだ。
私には、こんなに温かい人たちがいる。だからこそ、過去の因縁は私の代で絶対に終わらせなければ。
美波は深々と頭を下げた。丸眼鏡の奥の瞳には、決して涙を見せまいとする鋼のような決意が宿っていた。
その日の夕暮れ。
冬馬たちが帰り、路地に夕闇が迫り始めた頃。
美波が、時洲堂の入り口の横に置いてあるアンティークの傘立てを店内にしまおうとした時のことだった。
傘立ての陰、外からは死角になる場所に、見慣れない小さな木箱が置かれているのを見つけた。
手のひらに乗るほどのサイズの、黒ずんだ桐箱。郵便局や宅配業者の伝票は貼られておらず、宛名も送り主の名前も一切書かれていない。直接誰かがここに置いていったのだ。
(これは冬馬くんの荷物じゃない。昼間、あの監視員たちが去り際に置いていったのかな)
美波は木箱を拾い上げ、用心深く店内へと持ち込んだ。
カウンターの上に置き、スタンドライトの明かりをつける。
箱からは時計の作動音は聞こえない。完全なる沈黙だ。
美波は静かに深呼吸をし、木箱の蓋をゆっくりと開けた。
中に入っていたのは、黒く変色し、表面に無数の細かい傷が刻まれた、銀製の手巻き式アンティーク懐中時計だった。
美波はかけていた大きな丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、ダッフルコートのポケットから愛用の銀色のルーペを取り出した。探し物探偵としてのスイッチを入れ、古物商の眼差しでそのモノと真っ直ぐに向き合う。
時計のガラス風防は曇り、文字盤の針は十二時を指したまま停止している。一見すると、ただの壊れた古い時計だ。
しかし、美波の特異な観察眼は、それが単なる故障ではないことを瞬時に見抜いた。
美波は細いマイナスドライバーを取り出し、時計の裏蓋を慎重にこじ開けた。
現れた内部の機械機構を見た瞬間、美波は息を呑んだ。
ひどい。経年劣化による故障なんかじゃない。明確な悪意を持って、物理的に破壊されている。
ルーペ越しに見るその内部は惨憺たる有様だった。
時計の心臓部であるゼンマイが、正常な巻き方向とは逆の方向に無理やり巻き上げられ、その負荷に耐えきれず無惨に引きちぎられている。その反動で、緻密に噛み合っていたはずの真鍮の歯車たちは軸をへし折られ、粉々に粉砕されて散乱している。
時を刻むという、このモノに与えられたルーツと役割を、故意に残酷なまでに否定し、破壊し尽くしている。
さらに、美波の視覚と嗅覚がもう一つの異常を捉えた。
破壊された歯車の隙間やケースの継ぎ目の奥深くに、黒い油のようなペースト状の汚れがべっとりと付着していたのだ。
美波はピンセットでその黒い汚れをわずかに削り取り、鼻に近づけた。
(獣脂とワックス、それに特有の有機溶剤の匂い。ただの機械油じゃない。これは、靴墨だ)
美波の脳内で、知識と観察結果が高速で結びついていく。
市販されている光沢重視の高級品じゃない。雨や泥に耐えるための耐久性と耐水性を極端に重視した、非常に硬い成分の靴墨。警察や自衛隊で支給される官給品のブーツに使われるものと、特徴が間違いなく一致している。
美波はルーペを静かに机に置き、破壊された懐中時計を見つめた。
すべてが明確なメッセージとして繋がった。
官給品のブーツを履いた人間。すなわち警察組織に属する公安の人間が、この時計の内部を無理やり逆巻きにして破壊し、靴墨にまみれた手で組み直して、時洲堂の前に置いていったのだ。
(これはただの嫌がらせなんかじゃない。明確な殺意と警告だ。時を無理やり逆戻りさせて、容赦なく破壊してみせる。これ以上過去の因縁を嗅ぎ回って百年前の時間を巻き戻そうとするなら、私の時間も命も、こうして容易く終わらせるという、公安からの脅迫なんだ)
強大な国家権力が、ついに美波という個人の命を標的に定め、明確な牙を剥いてきたのだ。
恐怖で足がすくみそうになる。
しかし、美波の胸の奥底から湧き上がってきたのは、恐怖よりももっと深く、静かで激しい感情だった。
それは両親を殺されたことへの憎しみではない。
人間の勝手な都合と脅しの道具として、長い歴史を刻んできた美しいアンティーク時計が、こんなにも無慈悲に、心ない手によって破壊されたことに対する、古物商としての揺るぎない怒りだった。
モノに罪はないのに。こんなに残酷な脅しの道具にされて壊されるなんて、この時計が、あまりにも可哀想すぎる。
美波は破壊された懐中時計を、自分の手のひらでそっと優しく包み込んだ。
相手はこの国の闇を牛耳る絶対的な権力者かもしれない。
だが、モノの記憶を踏みにじり、下町の優しい人々の日常を脅かす連中を、美波は絶対に許すつもりはなかった。
丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、かつてないほどの鋭い光を放つ。
復讐のためではない。この哀しい因果の連鎖を断ち切り、モノと人々の平和な時間を守り抜くために。
時洲美波は、静かなる反撃の狼煙をその胸の中で確かに上げていた。




