第二話『始動』(後)
美波の推理によって通気口の奥から引きずり出された、分厚い黒革のバインダー。
埃と石膏の粉にまみれたオフィスの一角で、綾瀬はそれを強引に開き、食い入るようにページをめくった。
「十年分の記録が、すべてここに残されている。牧村さんが掴んでいた通りだ」
綾瀬は震える手で黒革の書類の束のページをめくり、そこに整然と並んだ数字と、仮名で書かれたような名前の羅列を目で追った。
日付、金額、そして資金の移動先となる口座の番号。
何年にもわたって記録され続けたそのデータは、警察組織という巨大な権力の内部が、どれほど深く腐敗しきっているかを雄弁に物語っていた。
「奴らは、裏の社会から上がった汚い金をこの会社を隠れ蓑にして、警察の幹部や政界の人間たちへ、裏金として流し続けていたんだ。そして、その不正の事実を隠蔽するために、時洲さんのご両親を」
綾瀬の怒りに満ちた声が、誰もいない静まり返った部屋に虚しく響く。
美波は、綾瀬の手にあるその分厚い書類の束を、ひどく悲しげな瞳で追っていた。
ただの紙の束。黒いインクで書かれただけの数字の羅列が、両親の命を奪った直接の理由なのだ。人間の底知れない強欲と、権力への醜い執着が、この帳簿の隅々にまで染み付いている。
モノは決して嘘をつかない。
だが、モノが記憶している真実が、必ずしも美しいとは限らない。時にはこうして、人間の最も醜い部分を残酷なまでに正確に記録し、後世へと残してしまう。美波がそんな悲痛な思いを抱きながら裏の記録に目を落としていると、隣に立っていた桐生が、衣服の内側から布を取り出し、自分のスーツにわずかに飛んだ石膏の粉を優雅に払いながら鼻で短く息を吐いた。
「綾瀬。そのような感情論で吠えたところで、過去の事実は一ミリも変わりはしない。重要なのは、俺たちが今、奴らの喉元に突きつけるための確かな証拠を手に入れたという、その一点のみだ」
桐生は銀縁眼鏡の奥で鋭い光を放ち、綾瀬から書類をひったくった。
そして、高速でページをめくりながら、その中に記された仮名と数字の規則性を自らの頭脳で瞬時に読み解いていく。
「なるほど。単純なものだ。口座の動きと照らし合わせれば、この仮名が誰を指しているのかなどすぐにわかる。これだけの確たる証拠があれば、上層部の腐った連中を一網打尽にし、俺の推理を証明するには十分すぎる」
桐生は大きな音を立てて書類を閉じると、それを自分の脇にしっかりと抱え込んだ。
「よくやった、時洲。お前のその特異な観察眼は、やはり俺の論理を補完するものとして非常に有用であるようだ」
桐生は美波を見下ろし、口角を上げて不敵に笑った。
相変わらずの傲慢な言い草だったが、美波にはわかっていた。彼が自分をただの道具として見ているのではなく、彼なりの不器用な表現で、最大の賛辞と信頼を向けてくれているのだということを。
「ありがとうございます、桐生さん。でも、気をつけてください。相手は、警察が動く情報を事前に察知できるほど、組織の中枢に深く根を張っている人間です。この記録が私たちの手に渡ったと知れば、なりふり構わず潰しにかかってくるはずです」
「愚問だな。俺がそのような反撃を予測していないとでも思っているのか。安心しろ時洲。何があっても俺が守ってやる。さあ行くぞ、綾瀬。直ちに警視庁に戻り、この記録を元に汚職に関与した幹部連中への逮捕状を一気に請求する」
翻った高級なスーツの裾が冷たい風を巻き起こし、桐生は部屋の出口へと向かった。
綾瀬も力強く頷き、美波の方を振り返った。
「時洲さん、俺たちはこの足で本庁へ直行します。民間人である時洲さんを中に入れるわけにはいかないので、ここで別行動になります。どうか、時洲堂の戸締まりをしっかりして、俺たちからの連絡を待っていてください」
「はい。私は大丈夫です。綾瀬さん、桐生さん。どうか、ご無事で」
美波は深々と頭を下げ、戦いの場へと向かう二人の刑事の背中を見送った。
冷たい冬の雨が降りしきる中、そびえ立つ巨大な警視庁本部庁舎は、日本の治安を維持する中枢でありながら、今の桐生たちにとっては得体の知れない巨大な敵が潜む魔城のように見えた。
覆面車両を地下駐車場に滑り込ませた桐生と綾瀬は、証拠の原本が入った鞄を固く握りしめ、捜査一課のある階へと向かった。
廊下を歩く間、すれ違う他の部署の刑事や職員たちの視線がどこか不自然なほどに冷たく、そして彼らを遠巻きに避けているように感じられた。
「おい桐生。なんだか、嫌な空気が漂っていないか。みんな、俺たちの顔を見てひそひそと囁き合っている」
綾瀬が周囲を警戒しながら小声で囁く。
「前を見て歩け。空気を読んでいる暇があるなら、自分の足元を掬われないように気を配ることだ」
桐生は顔色一つ変えず、堂々とした足取りで捜査一課の部屋へと足を踏み入れた。
しかし、彼らが自分の席に戻るよりも早く、奥にある課長室の重厚な扉が開き、顔面を土気色にした直属の上司、捜査一課長の釘宮が飛び出してきた。
「桐生。綾瀬。貴様ら、今までどこで何をしていた」
その怒声に、周囲で作業に向かっていた捜査員たちが一斉に手を止め、こちらを振り向いた。
「どこで何を、とは愚問ですね。事前に提出した捜査計画書の通り、資金洗浄の拠点と目される会社の事務所へ正当な家宅捜索を行ってきました。結果は極めて良好。奴らの首を根元から落とすための確かな証拠を押収しましたよ」
桐生は手にした鞄を軽く叩き、余裕の表情を崩さない。
しかし、釘宮の顔色は晴れるどころか、さらに濃い絶望と恐怖の色に染まった。彼は周囲の目を気にするように見回すと、桐生と綾瀬の腕を強引に掴み、課長室の中へと乱暴に引きずり込んだ。
防音の扉が閉められ、外の喧騒が遮断される。
「いいか、よく聞け。あの会社への捜査は、たった今、この瞬間をもって無期限の凍結とする。直ちに捜査員を撤収させ、お前たちが押収したすべての証拠品を、一切の記録を残さずに私の手元へ提出しろ」
「何をご冗談を」
桐生は銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、室内の温度が下がるような冷徹な声を発した。
「押収した記録には、警察庁の幹部や大物政治家への明白な贈収賄の事実が残されています。これを今ここで握り潰すということは、課長、あなたも警察組織を腐敗させている共犯者の一人として、排除の対象になるということですが。よろしいのですね」
「何を言っているのだ。これは私の独断ではない」
釘宮は机を強く叩き、悲鳴のような声で叫んだ。
「警視総監からの、いや、さらにその上の絶対的なお方からの直接の命令だ。これ以上あの企業をつつけば、捜査一課どころか警視庁全体が吹き飛ぶと言われたんだ。お前たちも、これ以上首を突っ込めば、刑事の職を失うだけでは済まされないぞ。いいから、大人しく手を引け」
その言葉を聞いた瞬間、綾瀬の頭の中で張り詰めていた理性の糸が音を立てて切れた。
「ふざけないでくださいよ」
綾瀬は捜査一課長の胸ぐらを掴み上げ、血走った目で怒鳴りつけた。
「その上層部の連中の保身のために、十年前、無実の市民である時洲さんのご両親が殺されたんですよ。そして数日前、俺たちの先輩である牧村さんが惨殺されました。あの人が命を懸けて守り抜いたこの証拠を、上のご機嫌取りのために捨てろなど。そんな腐った命令、誰が聞くのですか。俺は絶対に引かない、絶対に奴らを逮捕します」
「綾瀬。貴様、上官に向かってなんという態度だ。離さんか」
揉み合う綾瀬と釘宮。
その光景を、桐生はまるで遠くのどうでもいい騒ぎでも見つめるような、氷のように冷たく、感情の欠落した目で見つめていた。
「離せ、綾瀬。見苦しい真似はやめろ」
桐生の低く、しかし絶対的な命令を含んだ声に、綾瀬はハッとして釘宮の胸ぐらから手を離した。
「桐生。お前まさか、この腐った命令に従うつもりじゃないだろうな。お前のその偉そうな正義や論理は、権力に脅されたら容易く引っ込むような安いものだったのか。彼女に、あんなに偉そうに約束しておいて」
「少し黙っていろ」
桐生は綾瀬を一瞥して黙らせると、鞄を開け、中から石膏の粉まみれの黒革の書類の束を取り出し、釘宮の机の上に無造作に放り投げた。
「桐生。お前、わかってくれたか」
釘宮が安堵したような顔で書類に手を伸ばす。桐生はそれを制止することもなく、冷ややかに言い放った。
「組織の命令とあらば、俺に従わないという選択肢はない。その証拠品は好きに処分するがいい。ただし、俺は俺の信念を曲げたわけではない。圧力をかけてくる連中を、さらに高い次元から徹底的に論破し、駆逐するための準備をするだけだ」
「何を言っているんだお前は」
「行くぞ、綾瀬。こんな腐臭の漂う部屋にこれ以上いれば、俺の衣服にまで悪臭が染み付いてしまうからな」
桐生は踵を返し、課長室の扉を開けて大股で歩き出した。綾瀬は信じられないものを見る目で桐生の背中を睨みつけたが、机の上の書類と顔面蒼白の釘宮を交互に見比べた後、壁を殴りつけ、桐生の後を追った。
冷たい雨が打ち付ける、警視庁本庁舎の屋上。
立ち入り禁止の柵の前に立ち、東京の灰色の空を見下ろしている桐生の背中に向かって、綾瀬は激しい怒りをぶつけた。
「どういうつもりだ、桐生。牧村さんが命と引き換えに守った証拠を、なんであんなに素直に引き渡したんだ。お前は、あの時洲さんの涙を、悲しげな顔を、なんとも思わなかったのか。やはりお前は、ただ出世したいだけの冷血漢だ」
綾瀬の怒声が、雨音にかき消されそうになりながら響く。
しかし桐生は、傘もささずに雨に打たれながらゆっくりと振り返り、銀縁眼鏡を押し上げて不敵な笑みを浮かべた。
「相変わらず、物事の表面しか見ることができない男だ。お前は、俺が何の対策もなしに、あんな貴重な証拠を敵の手に渡すような三流の真似をすると思ったのか」
桐生は衣服の内ポケットから、一つの真新しい記憶媒体を取り出し、綾瀬の目の前で揺らした。
「それは」
「書類の全ページは高解像度で撮影し、ここに記録してある。さらにそのデータ自体も外部の秘匿領域に転送済みだ。俺が課長に渡したあの分厚い原本の束は、今頃シュレッダーにかけられているだろうがな。奴らは原本を破壊したことで安心し、必ず隙を見せる。その慢心こそが、俺の罠の第一段階だ」
桐生の言葉に、綾瀬は目を見開き、言葉を失った。
この男は、上層部からの圧力がかかることすら事前に余さず計算し、証拠の完璧な控えを取った上で、あえて敵に原本を渡して油断させるという、恐ろしく冷徹で見事な布石を打っていたのだ。
「すごいなお前。そこまで計算して」
「俺の頭脳を、お前のような感情だけで動く人間と一緒にしないでもらいたい。それより、問題はここからだ」
桐生は記憶媒体をポケットにしまい、表情を一段と険しくする。
「俺たちがトラスト・ロジスティクスの事務所へ捜査を行ってから、課長室で中止命令が出るまでの時間は、わずか三十分だった。これは異常な速さだ」
「三十分。確かに普通の部署が動いたのなら、上が情報を把握して指示を出すまで、少なくとも半日はかかるはずだ。それが三十分ということは」
「そうだ。奴らは捜査一課の動きを常に監視し、いざとなれば副総監や警視総監すら飛び越えて、直接現場に中止命令を出せる絶対的な権力を持っているということだ。単なる警察の腐敗ではない。これは国家権力そのものが動いている」
桐生は雨に濡れた屋上の柵に寄りかかり、データ化された記録の仮名と、日本の権力構造の関わりを、自身の頭脳の中で高速で照らし合わせていった。
「企業から流れた莫大な裏金の行方。十年前の交通事故を強制的に揉み消した圧力。そして今回の一件で、俺から捜査権限を即座に剥奪できる位置にいる人間。すべての条件を満たす黒幕は、この日本に二人しか存在しない」
桐生は、冷たい雨に打たれながら、その二つの名前を、低く重々しい声で口にした。
「一人は、警察の予算と人事権を手中に収め、警視庁を影から支配する男。国家公安委員会の長、山添翔一。そしてもう一人は、裏の資金を吸い上げて政界での絶大な権力を手に入れた、現職の内閣官房長官、青柳征太郎だ」
「公安と、内閣官房長官」
綾瀬は愕然とし、その場に立ち尽くした。
相手がただの悪徳刑事や裏社会の人間であれば、どれほど危険でも命を懸けて戦う覚悟はできている。しかし、公安委員会の長と、現職の内閣官房長官。それは末端の刑事がどれほど足掻いても決して届かない、まさに雲の上の存在だった。法律を作る側にいる人間であり、日本の警察組織そのものを私物化できる権力者なのだ。牧村が警察組織の中で真実を追うことを諦め、裏社会に潜らざるを得なかった理由が、今になって痛いほどに理解できた。
「こんな連中を相手に、俺たちだけでどうやって戦うと言うんだ。証拠を上に提出したって握り潰されて終わりだ。裁判所に持ち込もうにも、法に携わる者すら奴らの息がかかっているかもしれない」
絶望に染まる綾瀬に対し、桐生は冷たく視線を落とした。
「怯えるなら、一人で逃げ帰るがいい。だが忘れるな。相手がどれほど強大な権力を持っていようと、大臣という見えない鎧を纏っていようと、この世界において真実と論理を超えるものは存在しない」
桐生は一度、銀縁眼鏡を外し、雨に濡れたレンズを布でゆっくりと拭き上げた。
「奴らが自身の権力を過信しているのなら、その自尊心そのものを破壊し、逃げ場のない場所へと追い詰めてやる。百年の怨嗟だか何だか知らないが、俺の信念を汚し、時洲美波の日常を理不尽に脅かす連中を、俺は決して許しはしない。俺の誇りに懸けて、必ず奴らを社会的に抹殺してやる」
桐生は内心に燻る別の感情を必死に理屈で押し殺し、冷たい瞳を隠すように眼鏡をかけ直した。
「行くぞ、綾瀬。まずは時洲堂へ向かい、あの古物商の女に、敵の正体を報告してやる。俺という無敵の盾が前に立ってやるのだから、泣いている暇などないということを教えてやらねばならないからな」
圧倒的な国家権力を前にしても一歩も引くことなく、自らの頭脳と信念だけを武器に立ち向かう桐生。
綾瀬は、この不器用なエリート刑事が、今は誰よりも頼もしく、そして牧村の遺志を継ぐにふさわしい男であることを認めざるを得なかった。
「わかったよ。お前のその知恵、とことんまで利用させてもらうからな」
冷たい雨が降り続く東京の空の下。
百年の怨嗟という名の巨大な呪縛に立ち向かうための、権力者への本当の反撃が、今まさに始まろうとしていた。




