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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と帰るべき場所―』  作者: 長月有希


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第二話『始動』(前)

 警視庁近くの純喫茶で、桐生と綾瀬という二人の刑事と共に過去と向き合う覚悟を決めてから、三日の時が流れた。

 時洲堂のガラス戸には臨時休業の木札が掛けられたままである。

 あの日、強力な協力者を得て、美波は両親と牧村の無念を晴らす決意を固めたはずだった。だが、それから今日に至るまで、二人の刑事は時洲堂に一度も姿を見せていない。

 連絡一つない空白の時間は、美波の心に少しずつ暗い影を落としていた。


 ストーブの火を落とした薄暗い店内で、美波は膝を抱えるようにしてロッキングチェアに座り込んでいた。

 警察上層部や裏社会の巨大な組織を敵に回す恐怖。自分の一族が背負う、百年にわたる怨嗟という業の深さ。気丈に振る舞ってはみせたものの、一人きりの空間に取り残されると、美波の心は得体の知れない不安に押し潰されそうになっていた。

 斜向かいで金物屋を営む幸一や洋子、いつも荷物を届けてくれる冬馬にも、店を休んでいる本当の理由は何も話していない。大好きな下町の人々を、殺し合いが起きるような恐ろしい事件に巻き込むわけにはいかないからだ。それに、事件の全容すらまだはっきりと見えていない状態では、上手く説明できる自信もなかった。

 自分が享受してきた穏やかな日々は、牧村の孤独な戦いと流血の上に成り立っていたのだ。その事実が、一人で抱え込む美波の心を激しく苛んでいた。


 沈鬱な思考の深い海に沈んでいた美波を現実へと引き戻すように、ガラス戸を激しく叩く音が響いた。

 ただの来客を知らせる音ではない。何か緊急事態でも起きたかのような、切羽詰まった強い叩き方だ。

 美波が肩を震わせ、ゆっくりと立ち上がって戸の方へ向かおうとした時、外から聞き慣れた怒声が飛んでくる。


「美波。いるんだろ。開けろ」


 声の主は三枝幸一だった。美波は慌てて鍵を開け、ガラス戸を横に引いた。

 そこには、分厚い作業着を羽織り血相を変えた幸一と、その横で大きな唐草模様の風呂敷包みを抱えた妻の洋子が立っていた。


「幸一さん、洋子さん。どうしたんですか、そんなに慌てて」

「どうしたじゃねえ」


 幸一は美波の青白い顔を見るなり、低い声で凄むように言った。


「三日も店を閉めて、電話にも出ねえ。近所の連中と探し回る寸前だったぞ」

「え」


 美波は顔を上げ、自分のスマートフォンをポケットから取り出した。画面には、幸一や洋子、それに冬馬からの着信履歴が何十件も残されていた。不安に苛まれるあまり、着信音にすら気づいていなかったのだ。


「ごめんなさい。考えごとに没頭していて、手元から離してしまっていました」

「馬鹿野郎。一人で抱え込むな」


 頑固で寡黙な幸一だが、その短い言葉の裏には、美波を本当の娘のように大切に想う本気の心配が溢れていた。

 洋子が幸一の背中を叩き、「あんたは声が大きいのよ、ご近所迷惑でしょ」と嗜めると、美波に向かって優しく微笑みかけた。


「美波ちゃん、顔色が真っ青じゃないの。ちゃんと眠れてる。ご飯、食べてる」

「ごめんなさい。あまり、食欲がなくて」


 美波が俯くと、洋子は強引に店内に入り込み、ストーブの前の丸椅子を指差した。


「ほら、そこに座りなさい。食べなきゃ、体だけじゃなくて心まで死んじゃうわよ」


 洋子は抱えていた風呂敷包みをカウンターに広げた。中からは大きな保存容器がいくつも出てきた。洋子が手際よく蓋を開けると、冷え切った店内に温かい家庭料理の匂いが一気に広がった。

 出汁が中までしっかり染み込んだ鶏肉と根菜の筑前煮、焦げ目一つない美しい黄色をした甘い卵焼き、胡麻油の香りが食欲をそそるほうれん草のおひたし、そして炊きたての白いご飯がおにぎりになって並べられている。


「さあ、温かいうちに食べなさい。美波ちゃんが好きなもの、全部詰め込んできたんだから」

「洋子さん」


 美波は渡された割り箸を両手で受け取り、小さくいただきますと呟いて、卵焼きを一口かじった。

 優しい出汁の風味と甘さが冷え切った胃に落ちて、そこから全身の細胞へとじんわりと染み渡っていく。

 美味しい。

 ただそれだけの単純な感覚が、張り詰めていた美波の心の糸をほんの少しだけ解きほぐした。


「美味しいです。すごく、美味しい」


 美波の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 両親を失ってからの十年間、孤独で潰れそうになった時も、熱を出して寝込んだ時も、この不器用で温かい夫婦がいつもこうして時洲堂に駆けつけ、自分の心と体を繋ぎ止めてくれていた。

 自分の血筋がどんなに怨嗟に塗れていようと、権力者たちがどんなに深い闇を抱えていようと、今ここにある下町の人々の無条件の愛情は紛れもない本物だ。


「なんだ、泣くほど美味かったのか。洋子の飯は天下一品だからな」


 幸一が照れ隠しのように鼻を擦りながら笑う。洋子も美波の背中を優しくさすりながら、「ゆっくりよく噛んで食べなさいね」と目を細めた。


(私は、一人じゃないんだ)


 美波は涙をハンカチで拭い、しっかりと前を向いた。

 過去の因縁から逃げることはできない。だが、憎しみや復讐に飲み込まれることだけは絶対にしない。この温かい日常、愛すべき人々が暮らすこの下町の平和だけは、何があっても絶対に守り抜いてみせる。牧村が命を懸けて繋いでくれた未来を自分の手で切り開くのだと、美波は心の中で強く誓い、再び筑前煮へと箸を伸ばした。


 美波が洋子の手料理を平らげ、少しだけ頬に血の気が戻ってきた頃だった。

 時洲堂の前の細い路地に、場違いなほど黒光りするセダン、覆面パトカーが低いエンジン音を響かせて滑り込んできた。

 車のドアが開き、二人の男が降りてくる。

 一人はグレーのスーツの上に黒いコートを羽織った、目つきの鋭い綾瀬。そしてもう一人は、高級なイタリア製の三つ揃いのオーダースーツを完璧に着こなし、銀縁眼鏡をかけた長身の男、警視庁捜査一課のエリート刑事である桐生である。

 ドアベルが鳴り、二人が店内に入ってくる。

 幸一は先頭に立っていた見慣れない綾瀬を一瞥した後、後ろから入ってきた桐生の顔を見て、露骨に顔をしかめた。


「なんだ、またあのスカした四つ目か。表の休業札が見えねえのか」

「いえ、俺たちは警察の者で。時洲さんに話があって」


 綾瀬が慌てて内ポケットから警察手帳を取り出し、幸一に見せて宥めようとする。


「警察なのは知ってる。こっちの眼鏡野郎とは前にも会ったからな」

「一般市民に捜査の進捗を説明する義務はない。そこをどけ。時洲、待たせたな」


 相変わらずの高圧的な桐生の態度に、幸一の額に青筋が浮かぶ。


「なんだとこの野郎。相変わらず偉そうにしやがって」


 幸一が低い声で凄んだ、まさにその時だった。


「時洲さん、こんにちは。宅配便です」


 大きな声とともに、路地から台車を押して入ってきたのは、いつも時洲堂に荷物を届けてくれる配送業者の青年、冬馬(とうま)だった。

 冬馬は店内にいる美波の姿を見てホッとしたような顔を見せたが、すぐに桐生の姿を見つけ、露骨に顔をしかめた。


「なんだ、またあんたか。時洲さんに何の用だ。警察だからって、また時洲さんに厄介事押し付けに来たんなら、俺が許さないぞ」


 美波に密かな恋心を抱いている冬馬は、自分の領域を荒らされた猟犬のように、恋のライバルとして敵視している桐生の前に立ち塞がった。

 しかし桐生は、立ちはだかる冬馬の作業着姿を上から下まで冷ややかに見下ろし、銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げた。


「お前のような肉体労働者に、一々事情を語るほど俺は暇ではない。公務執行妨害で連行されたくなければ、さっさと荷物を置いて立ち去れ」

「なんだと」

「やめてください、冬馬くん」


 美波が慌てて間に入り、両手を広げて冬馬を制止しようとする。


「おい桐生、一般市民に喧嘩売るな」


 同期の綾瀬も声を荒らげて桐生の背中を小突く。

 狭い時洲堂の店内は、幸一の威圧感、冬馬の抗議、綾瀬の苛立ちで、混沌とした状態に陥っていた。論理と秩序を重んじる桐生は、この下町特有の泥臭いペースに巻き込まれ、ひどく不愉快そうに顔をしかめている。


 そこへさらにドアが開き、元気な足音が飛び込んできた。


「お姉ちゃん」


 使い込まれたランドセルを背負った近所の小学五年生、健太だった。彼は大人たちの険悪な空気など全く意に介さず、満面の笑みで美波に向かって一直線に突進してきた。しかし、その進路上には長身の桐生が立っていた。

 勢いよく飛び込んできた健太は、桐生の磨き上げられた高級な革靴を踏んづけ、スーツの足に激突した。


「こら、ガキ。どこを見ている。俺のスーツに泥がつくではないか」


 桐生が顔をしかめて健太を払いのけようとするが、健太は怯むどころか、目を輝かせて桐生を見上げた。


「おっと、ごめんなさい。って、おじさん誰。スーツかっこいい。もしかしてマフィア」

「マフィアではない。警視庁捜査一課のエリートだ」

「本物の警察。拳銃持ってるの。すげー、見せてよ」


 健太は高学年特有の生意気な好奇心丸出しで、桐生のスーツのポケットのあたりをまさぐろうとする。


「やめろ。スーツにシワが寄るだろう。触るな、俺の論理的思考が乱される。おい綾瀬、お前も傍観していないで、このガキを引き剥がせ」


 普段は冷徹で隙のないエリート刑事が、一人のマセた小学生の遠慮のない攻撃によって完全にペースを崩され、狼狽している。

 その滑稽な姿を見て、怒っていたはずの幸一が豪快に笑い出し、冬馬もすっかり毒気を抜かれたように肩の力を抜いて吹き出した。後ろから入ってきた母親の小百合が、すみませんと平謝りしながら健太を回収し、美波の方を向いた。


「美波ちゃん、なんだか顔色悪かったから心配してたのよ。無理しないでね」

「ありがとうございます、小百合さん。もう大丈夫です」


 美波は、この愛すべき、騒がしくて温かい下町の人々を順番に見渡した。

 お節介で愛情深い三枝夫婦。真っ直ぐに心配してくれる冬馬。無邪気な健太と優しい小百合。彼らがいるこの空間こそが自分の帰るべき場所であり、何よりも尊い宝物なのだ。

 美波は自然と笑みをこぼし、胸の中で再び強く誓った。


「茶番はここまでだ。行くぞ、時洲」


 ようやく健太の猛攻から解放され、スーツのシワを神経質に伸ばしながら、桐生が不機嫌極まりない声で言った。


「あんたを外部の有識者として同行させる手はずは整えてある。俺の完璧な論理を補完するための眼として、しっかり働いてもらうぞ」

「はい。すぐに行きましょう」


 美波は頷き、キャメル色のダッフルコートを羽織ると、大きな丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。それが、迷子になったモノの声を聴き、真実を紐解く、彼女の探し物探偵としてのスイッチだった。

 幸一たちに「残りは帰ったら食べます。少し出かけてきますね」と告げ、桐生と綾瀬と共に覆面パトカーに乗り込む。


 向かう先は、牧村の遺したデータに記されていた『トラスト・ロジスティクス』という、裏社会のダミー企業のオフィスだった。

 表向きは中堅の物流会社を装っているが、その実態は、裏社会から得た黒い資金を洗浄し、警察上層部などの権力者へ賄賂として流すためのフロント企業である。十年前、美波の両親の車に赤信号を無視して突っ込んだトラック運転手に多額の報酬を支払っていたのもこの企業だった。


 都内の外れにある、古びた雑居ビルの五階。

 桐生は牧村のデータを元に自身の権限とエリートとしてのコネクションをフル活用し、裁判所から捜索差押許可状を最短で手に入れていた。ビルの前にはすでに桐生が手配した捜査一課の精鋭たちが待機しており、周囲に異様な緊張感が漂っていた。

 桐生の鋭い合図とともに、綾瀬を先頭にした捜査員たちが一斉に階段を駆け上がり、五階のオフィスのドアを叩き破るようにして踏み込んだ。


「警察だ。全員そこを動くな」


 綾瀬が声を張り上げ、警察手帳を高く掲げる。

 しかし、オフィスの中は異様なほどに静まり返っていた。怒号も、逃げ惑う社員たちの足音も聞こえない。広々としたフロアにはいくつものデスクが並んでいるが、社員の姿はただの一人もなかった。


「もぬけの殻だ」


 綾瀬が舌打ちをして、一番手前にあるデスクの引き出しを乱暴に開ける。中は見事に空っぽだ。他の捜査員たちがフロア全体に散開し、次々と状況を報告してくる。


「桐生。こっちのシュレッダー、まだモーターが熱を持ってるぞ。ゴミ袋には大量の裁断された紙くずが詰まってる」

「こっちのパソコン、ハードディスクがすべて物理的に破壊されてます。データの復旧は不可能です」

「部屋の奥にある耐火金庫、扉が開け放たれていますが中は空です」


 オフィスの惨状を聞き、綾瀬は悔しそうに壁を殴りつけた。


「奴ら、俺たちが動くことを事前に察知して、徹底的に証拠を隠滅したんだ。上層部のどこかから、捜査の情報が漏れていたんだ」


 怒りで顔を歪める綾瀬に対し、桐生は冷徹な視線でオフィス全体を見回し、一切の動揺を見せることなく言い放つ。


「騒ぐな、三流。警察上層部の腐敗を暴こうとしているのだから、こちらの手の内が筒抜けになっていることなど最初から想定内だ。むしろ、これほど慌てて逃げ出したということは、牧村の遺したデータが奴らにとって致命傷になり得る本物であるという客観的な証明に他ならない」

「でも、これじゃあ上層部への資金ルートを示す、肝心の裏帳簿が手に入らないだろう。いくらなんでも証拠隠滅が徹底されすぎている。紙くずと壊れたパソコンじゃ、あの官房長官や公安委員長を追い詰めることは不可能だ」


 焦る綾瀬。その言葉を聞き、入り口付近でフロアを見渡していた美波が、ゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。完璧な証拠隠滅など、この世のどこにも存在しません。人間が動いた以上、必ずどこかに物理的な痕跡が残ります」


 美波の迷いのない声に、桐生は銀縁眼鏡の奥の瞳を微かに細めた。


「ならばあんたのその眼で、この部屋に隠された論理的な矛盾を見つけ出せ。外部の有識者として現場に連れてきた意味を、俺に証明してみせろ」


 桐生の高圧的な指示に、美波は黙って頷いた。

 ダッフルコートのポケットから愛用の銀色のルーペを取り出し、オフィスの中をゆっくりと歩き始める。荒らされたデスク、破壊されたパソコン、空の金庫。犯人たちが情報を得てどれほど焦り、慌ただしく証拠を消し去ってこの場から逃げ去ったのかが、残留する空気の乱れとモノの配置から痛いほどに伝わってくる。

 美波は、フロアの一番奥にある、立派な革張りの椅子が置かれたデスクの前で足を止めた。名札には経理部長と書かれている。裏帳簿を管理していたであろう人物の席だ。

 しかし、そのデスクの下の床に、このオフィスには不釣り合いなものが一つだけ転がっていた。黒光りする金属製の特殊警棒だ。

 美波はハンカチ越しにそれを拾い上げ、ルーペを右目に当てる。


「警察官やプロの警備員が装備する、特殊合金製の警棒です」


 美波の古物商としての視覚が、その警棒に刻まれた明確な違和感を捉えた。警棒の先端には、人間を打った痕ではなく、金属のようなものを強引にこじ開けたような激しい摩耗があった。さらに伸縮部分の溝に不自然に詰まっている微細な白い粉。美波は指先でその白い粉を拭い、匂いを嗅ぎ、指の腹でザラつきを確認する。


「桐生さん、綾瀬さん」


 美波の凛とした声に、二人が素早く歩み寄ってくる。


「何かわかったのか、時洲」

「はい。この警棒の先端は異常な摩擦で削れています。そして溝に詰まっているこの白い粉。これは、石膏の粉です」

「石膏の粉」


 綾瀬が首を傾げる。


「そうです。経理担当者のデスクに、なぜ警察仕様の特殊警棒が転がっていて、そこに工事現場にあるような石膏の粉がつくのでしょうか。答えは一つです。彼らは情報を得て慌てて証拠を隠滅しようとしました。しかし最も重要な裏帳簿の原本は分厚く、シュレッダーにかけるには時間がかかりすぎる。かといって持ち出せば、外で待ち構えているかもしれない警察に捕まるリスクがある。だから」


 美波は警棒を置き、ゆっくりと背後を振り返った。

 視線の先にあるのは、オフィスの間仕切りとして使われている、白い壁紙が貼られた平坦な壁だ。一般的な雑居ビルの間仕切り壁は防火性と防音性のために石膏ボードで作られ、その表面に壁紙が貼られている構造になっている。そしてその足元には、鉄製の通気口のカバーが取り付けられていた。


「彼らはこのオフィスの中に裏帳簿を隠したんです。上の指示で証拠隠滅に派遣されていた工作員が持っていたこの特殊警棒で、足元にある通気口のカバーのネジを強引にこじ開け、その隙間から壁の裏の空洞に裏帳簿を落とし込んだ。だから警棒の先端が削れ、壁の内部の石膏の粉が付着したのです」


 美波は壁際に歩み寄り、通気口のカバーを指差す。


「ここです。この四隅のネジの溝が、ドライバーではなく無理やり金属をねじ込んで回したことで修復不可能なほど潰れています」

「綾瀬、そこを開けろ」


 桐生が興奮を隠しきれない声で短く命じる。

 綾瀬は即座に工具を取り出し、美波が示した通気口のカバーを強引に引き剥がした。外れたカバーの奥、壁と壁の間の暗い空洞の中を手探りで探った。


「あったぞ」


 綾瀬が引きずり出したのは、分厚い黒革のバインダーだった。

 表面には埃と白い石膏の粉がまぶされているが、それは紛れもなく、隠滅を免れた重要な書類の束だった。綾瀬が震える手でバインダーを開き、中身のページを素早くめくる。


「間違いない。ダミー企業から、警察上層部や政治家への不正な資金提供のルートを示す、裏帳簿の原本だ。日付も、金額も、名前も残っている」


 綾瀬の歓喜の声が、もぬけの殻のオフィスに響き渡る。

 桐生は美波に向かって静かな、しかし確かな賛美の視線を送った。


「見事だ、時洲。あんたのその眼と俺の論理が組み合わされば、連中の浅薄な隠蔽工作など容易く粉砕できるというわけだ。これで、奴らの喉元に刃を突きつけることができる」


 美波は深く一礼した。

 消されたはずの決定的な証拠が、モノの記憶と痕跡を通して再び光の元へと引きずり出された瞬間だった。

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