第一話『真実』(後)
元刑事であり、警察組織を外れて裏社会の深い闇に潜り真実を追い求めたフリーライター・牧村秋義が、凍てつく横浜港の廃倉庫でその孤独で壮絶な生涯を閉じてから、三日の月日が流れた。
東京の下町は、すっかり本格的な冬の刺すような冷たい空気に包まれていた。灰色の分厚い雲が空を重く覆い、時折、氷のような北風が街路樹の枯れ枝を揺らしては、物寂しい風音を立てている。吐く息は真っ白に染まり、道行く人々は皆、厚手のコートの襟を立て、足早に通りを過ぎていく。
骨董品店『時洲堂』の入り口のガラス戸には、『臨時休業』と墨で書かれた小さな木札が掛けられていた。いつもなら、日が落ちる前から路地を温かく照らし出し、道行く人々に安心感を与えているはずの琥珀色のランプも、今は火が入れられることなく、暗く沈んだままだった。
静まり返った店内。
外部の喧騒が完全に遠のいた空間で、年代物の丸型石油ストーブの火だけが、微かな燃焼音を立てて燃えている。
若き店主である時洲美波は、マホガニーの重厚なカウンターの奥にある指定席、使い込まれたロッキングチェアに、深い喪服を思わせるような真っ黒なハイネックのニットに身を包んで、深く腰掛けていた。
彼女の視線の先には、カウンターの奥の棚に大切に飾られた、小さな真鍮製の写真立てがある。
セピア色に褪せかけたその写真の中で、若き日の父・仙暉と、母・朱音、そしてまだ幼かった美波が、三人で肩を寄せ合い、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。
幸せだった頃の、かけがえのない、温かい家族の記憶。
美波はその写真を、深い悲しみと喪失感を湛えた琥珀色の瞳で、ただじっと、微動だにせず見つめ続けていた。
優しい両親は、雨の日の不運なスリップ事故で亡くなったのではなかった。
明確な殺意と、百年にわたる怨嗟という、常軌を逸した権力者たちの因縁によって、冷酷に暗殺されたのだ。
その事実を知ってからというもの、美波の心の奥底には、冷たく重い鉛のような塊が居座り続けている。
美波の脳裏に、数ヶ月前、初夏の夕暮れに高校教師であり生きる伝説の鑑定士である神谷宗珠が残した言葉が、呪文のように繰り返されていた。
『モノには因果が宿る』
神谷は、美波が筆立てに使用していた薄汚れた名もなき茶器を見て、それが歴史の表舞台から消えた天才大泥棒・土岐半次郎が盗み出したものだと語った。
あの時、美波は両親がなぜあんな恐ろしいモノを遺したのか、全く理解できなかった。自分がただの古物商の娘であり、両親は善良な小市民であると信じて疑わなかったからだ。
しかし、牧村が己の命と引き換えに遺した血塗られた真実によって、両親の死の理由が少しずつ繋がっていった。
時洲家は、土岐半次郎の血脈そのものであり、あの名もなき茶器は、一族の始まりを示す決して消えない血の証だったのだ。
「お父さん、お母さん」
美波は小さく呟き、両手で顔を覆った。
自分たちを消し去ろうとする圧倒的な闇の存在に、両親は気づいていたのだろうか。あの雨の夜、死が迫る瞬間に、彼らはどれほどの恐怖と無念を抱いたのだろうか。
そして、自分がこれまで無事に生きてこられたのは、牧村秋義という一人の不器用な刑事が、自分の人生のすべてを犠牲にして、裏社会で囮となり、見えない底からずっと私たちの平穏を守り抜いてくれていたからだった。
沈鬱な思考の海に深く沈んでいた美波を現実へと引き戻すように、控えめで、しかしどこか切羽詰まったようなドアベルの音が鳴った。
ガラス戸を開けて入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ、警視庁捜査一課の刑事・綾瀬である。彼の姿は、三日前に凄惨な廃倉庫で別れた時よりもさらに憔悴しきっていた。目の下には濃い青黒い隈ができ、無精髭も伸び放題になっている。服もシワだらけで、まともな睡眠すらとっていないことは明白だった。
だが、その瞳の奥には、尊敬する先輩の無念を晴らすための、凄まじい怒りと使命感という鋭く強い光が宿っていた。
「時洲さん」
「綾瀬さん。お疲れ様です。外はひどく冷えたでしょう。どうぞ、こちらへ」
美波は立ち上がり、綾瀬のために、温かいほうじ茶を急須で丁寧に淹れた。
綾瀬はストーブの前の丸椅子に重い腰を下ろし、出された湯呑みを凍えた両手で大切に包み込んだ。一口飲み、ほうじ茶の香ばしい熱が少しだけ体を緩ませたのか、彼は小さく息を吐き出した。
そして、スーツの内ポケットから、あの夜、牧村が己の肉体に隠して守り抜いたマイクロSDカードと、そのデータを印刷した分厚い紙の束を取り出し、カウンターの上に重い音を立てて置いた。
「牧村さんが命懸けで遺したデータ。警察の科捜研に回せば、確実に上層部に握り潰される。だから、俺が個人的に信頼している、裏社会にも顔が利く民間の専門業者に頼んで、ロックを完全に解除し、中身をすべて抽出してきました」
「何が、残されていたのですか」
美波の問いかけに、綾瀬は唇を強く噛み締め、印刷された紙の束を手早くめくった。
そこには、膨大な量の報告書、写真、そして音声データの書き起こしが克明に記録されていた。
「ここに記されていたのは、十年前、時洲さんのご両親の命を奪った雨の日の交通事故の恐るべき全貌と、我々の最大の敵の名前です」
綾瀬の低く、激しい怒りに震える声が、静寂の時洲堂に響き渡る。
牧村が十年間という途方もない時間をかけて、泥水をすするような思いでかき集めたその証拠は、権力者の末裔たちが警察上層部の一部と結託し、どのようにして時洲仙暉と朱音を暗殺したかを克明に示す、完璧で逃れようのない緻密な記録だった。
「事故当日。ご両親の乗る車のブレーキホースは、整備工場に潜入した工作員によって、徐々にゴムを腐食させる特殊な薬品が塗布されていました。走行中の振動と雨水に反応して、交差点に差し掛かるタイミングで自然に破断するように仕組まれていたんです。さらに、赤信号を無視して交差点に突っ込んできた大型トラックの運転手。彼は多額の借金を抱えて首が回らなくなっており、裏社会のダミー企業から、ご両親の車を確実に事故死させることを条件に、数千万の莫大な報酬を得ていました」
美波は、黙って父と母の写真を見つめ続けていた。
痛いほどに、胸の奥が軋む。
偶然の事故などではなかった。彼らは、絶対に逃れられない死の罠に嵌められていたのだ。
「当時、所轄の若手刑事として事故の捜査を担当していた牧村さんは、現場のブレーキ痕の不自然さや、トラック運転手の不可解な口座の動きから、この事件の致命的な不審点にいち早く気づきました。しかし、捜査を本格化させようとした矢先、所轄の署長経由で、警察庁の上層部から異常なまでの圧力がかかり、捜査は強制的に打ち切られ、ただの事故として処理されてしまったんです」
綾瀬は紙の束をめくる手を止め、美波の顔を真っ直ぐに見つめた。
「でも、牧村さんは諦めなかった。警察という組織の中では真実を追えないと悟ったあの人は、刑事という天職を自ら捨て、フリーライターという汚れ役を被って裏社会に潜った。そして、消される寸前だったトラック運転手を拘束して自白の音声録音を取り、さらにそのダミー企業から警察上層部への黒い金の流れを示す裏帳簿のデータまで、凄まじい執念で掴み取っていたんです」
「牧村さんは、本当に」
「ええ。それだけじゃありません。牧村さんの記録には、もう一つの事実が書かれていました」
綾瀬は声を震わせ、紙を持つ手に力を込めた。紙が歪む。
「どうしてこの十年間、一族の最後の一人である時洲さんご自身が、奴らから狙われずに無事だったのか。それは、裏社会に潜った牧村さんが、ことあるごとに奴らの周辺を嗅ぎ回り、わざと派手に、目立つように動き続けていたという事実です。そうすることで、組織の警戒と標的を時洲さんではなく、牧村秋義という危険な猟犬に固定し続けていた。あの人は、十年間、たった一人であなたを守るための絶対的な盾になっていたんです」
美波は、涙に濡れた目を見開いた。
牧村秋義という男は、自分がかつて守れなかった夫婦の娘を、その後十年間、誰にも知られることなく、絶望的な孤独と死の恐怖の中で守り続けてくれていたのだ。
あの猛吹雪の夜。時洲堂を訪れ、ここは禁煙ですよと父親と同じ言葉で注意した美波に向かって、牧村がどこか懐かしそうに、そして深い悲しみを湛えて笑った理由。
(牧村さんは、ずっと、この時洲堂の優しい日常を、私とお父さんたちの思い出の場所を、真っ暗な闇の中からたった一人で支えてくれていたんだ)
「許せません」
綾瀬が、カウンターに拳を打ち付けた。
湯呑みが揺れる。
「百年も前の先祖の因縁なんて、現代を生きる俺たちには全く関係のない、くだらない理由だ。そんな狂った理由で、無関係なご両親を殺し、牧村さんまであんな目に遭わせた。時洲さん、奴らは人間のクズです。警察の風上にも置けない。俺は絶対に奴らを許さない。俺の警察官としての人生をすべて懸けて、この手で必ず、奴ら全員を地獄に引きずり落としてやります」
綾瀬の言葉は、激しい憎悪と怒りの炎に燃え盛っていた。
それは、身内を殺された人間として、そして真っ直ぐな正義感を持つ刑事として、当然の感情だった。
しかし、その言葉を聞いた美波は、そっと手元のハンカチで涙を拭うと、かけていた大きな丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
それが、迷子になったモノの声を聴き、真実を紐解く、彼女の探し物探偵としてのスイッチだった。
そして、ひどく穏やかで、澄み切った声で口を開いた。
「綾瀬さん。私は、彼らを強く憎み、復讐したいとは思えないのです」
綾瀬は言葉を失い、信じられないものを見るような、あるいは裏切られたような目で美波を見た。
両親を理不尽に殺され、恩人を惨殺されておきながら、憎まないなどということがあるだろうか。
「誤解しないでください。両親の命を奪い、牧村さんをあんなに酷い目に遭わせた実行犯たちや、私腹を肥やす黒幕たちを、私は決して許すことはできません。彼らの犯した罪は、法の下で正しく、厳正に裁かれるべきです。でも」
美波は、ロッキングチェアからゆっくりと立ち上がり、カウンターの上に置かれている筆立てにそっと手を伸ばした。
無数のペンやハサミが立てられている、黒褐色の釉薬が鈍く光る名もなき古い茶器。
時洲家のルーツ。大泥棒・土岐半次郎が盗み出し、彼が泥棒稼業から足を洗い、この下町の土地を買う資金となった、幻の茶器だ。
神谷から真実を告げられた後も、美波はこれを仰々しく隠したりはせず、両親が残してくれた日常の風景のまま、今まで通り筆立てとして使い続けていた。
「モノには、必ずルーツがあり、因果が宿ります。土岐半次郎という人は、弱きを助ける義賊として民衆に愛されたのかもしれません。でも、彼が富裕層から盗み出した数々の至宝は、決して、彼のものではなかったのです」
美波は、その冷たい茶器の表面を、悲しげな指先でそっと撫でた。
「奪われた側にも、そのモノに対する深い愛着や、代々受け継いできた大切な想いがあったはずです。権力者だから、金持ちで悪い人間だから盗んでいいという理屈は、モノの記憶と向き合う古物商として、私は絶対に肯定できません。半次郎が盗みを重ねるたびに、奪われた人々の悲しみと怒りは行き場を失い、深い業となって沈殿していったのです」
美波の琥珀色の瞳は、憎しみではなく、過去の歴史そのものに対する深い哀悼の意に満ちていた。
彼女は、自分がただの可哀想な被害者ではなく、罪を犯した者の血脈であるという重い事実から、決して目を背けようとはしなかった。
「私の両親の死は、その百年にわたって積み重なった悲しい業の連鎖の果てに起きた悲劇です。だからこそ、私は、彼らと同じように憎しみという感情で相手を打ち負かそうとは思いません。憎しみと復讐で返せば、その因果は決して終わることなく、また次の百年へと続いてしまう。別の誰かの日常を、理不尽に奪うことになってしまいます」
美波は、カウンターの上のマイクロSDカードを、包み込むように、しかし確かな強さを持って握りしめた。
「私は、両親の仇を討つためではなく、この悲しい因果の連鎖を、ここで完全に終わらせるために、止まったままの時間を動かすために、この真実を日の当たる場所へと引きずり出したいのです。牧村さんが、命を懸けて繋いでくれた、この証拠を使って」
決して声を荒らげることなく、自身の血脈が背負った罪の歴史すらも客観的に見つめ、その上で未来へと進もうとする。
その美波のあまりにも優しく、そして気高い覚悟を前にして、綾瀬は自分が恥ずかしくなったように口を閉ざし、やがて握りしめていた拳の力を抜き、深く頷いた。
「わかりました。あなたのその覚悟、俺も背負います。復讐ではなく、正義のために。行きましょう、時洲さん。牧村さんが遺した、最後のバトンを渡しに」
その日の午後。
冷たい北風が吹き抜ける、警視庁本部庁舎、桜田門のすぐ近くにある、静謐で高級感のある純喫茶『ル・ロワ』。
その一番奥、周囲から仕切られた薄暗いボックス席で、綾瀬は一人の男と対峙していた。
三つ揃いの高級なオーダースーツを完璧に着こなし、隙のない姿勢で座る男。銀縁の眼鏡の奥で合理的な知性の光を放つ、警視庁捜査一課のエリート刑事・桐生である。
「やれやれ。多忙な俺をわざわざ呼び出しておいて、何かと思えば」
桐生は、運ばれてきたモカ・マタリのブラックコーヒーのカップに優雅に口をつけ、向かいに座る綾瀬に心底見下したような、冷ややかな視線を向けた。
「十年前に警察を辞め、裏社会で嗅ぎ回っていた元刑事の残した陰謀論だと。百年前の泥棒の因縁で、警察上層部が一般市民を暗殺したとでも言うのか。荒唐無稽にも程がある。証拠もない感情論と被害妄想だけで動く三流刑事の相手をしている暇は、俺にはない」
桐生のその傲慢な言葉に、綾瀬の額に青筋が浮かんだ。
彼はテーブルの下で拳を握りしめ、桐生を激しく睨みつけた。
「なんだと。牧村さんは、俺たち後輩が誰も追いつけないくらい、誰よりも優秀で真っ直ぐな刑事だった。お前みたいな、現場の血も涙も知らず、机の上で理屈ばかりこねてるだけの冷血漢に、牧村さんの何がわかるって言うんだ」
「現場の血とやらを知ったところで、事件は解決しない。その優秀な刑事が、結果的に誰にも真実を伝えることなく、裏社会の路地裏で野垂れ死んだというのなら、それは彼の能力不足という客観的な事実でしかない。帰るぞ」
桐生が冷たく言い放ち、伝票を取って席を立とうとした、その時だった。
「待てよ。これは俺個人の頼みじゃないんだ」
綾瀬は桐生を引き留めるように声を張り上げ、入り口の方へと視線を向けて合図を送った。
喫茶店の真鍮製のドアベルが鳴り、一人の女性が店内へと歩み入ってきた。
キャメル色のダッフルコートを着て、大きな丸眼鏡をかけた時洲美波である。
その姿を視界に捉えた瞬間。桐生の動きが凍りついたように止まり、その整った彫刻のような顔に、明確な動揺が走った。
常に論理と理屈だけで世界を測り、他人をチェスの駒のようにしか見ていない彼にとって、時洲美波という存在は、自らの感情の均衡を崩す唯一にして最大のイレギュラーだった。彼女のその純粋で、どこまでも優しく、時に痛ましいほどに気高い生き様に、桐生は無自覚な、そして決して認めたくない恋心を抱いていたのだ。
綾瀬はそのことを知る由もないが、結果的に彼にとって最も断り切れない、絶対的な切り札を突きつけてきた形になる。
「桐生さん」
美波は桐生の前に立つと、深く頭を下げた。
そして、ダッフルコートのポケットからあのマイクロSDカードを取り出し、テーブルの上の中央にそっと置いた。
「私の両親は、十年前に事故に見せかけて殺されました。そして数日前、私のために証拠を集めてくれていた恩人である牧村さんも、命を奪われました。このデータの中には、彼が自分の命と引き換えにして守り抜いた、そのすべての証拠が入っています」
美波の琥珀色の瞳が、桐生の銀縁眼鏡の奥の瞳を、真っ直ぐに射抜いた。
その瞳の中には、怒りでも憎しみでもなく、ただ果てしなく深く、静かな悲しみと、因果を断ち切るという揺るぎない覚悟だけが満ちていた。
「私は、相手を憎み、復讐したいわけではありません。ただ、もうこれ以上、誰も傷ついてほしくない。過去の悲しい歴史に縛られて、誰かの日常が理不尽に奪われるようなことを、絶対に終わらせたいのです。桐生さん。どうか、力を貸してください。私の両親と、牧村さんの無念を晴らすために」
再び深く、祈るように頭を下げる美波。
すべてを失うかもしれない絶望の淵に立ち、涙を堪えて自分に助けを求めている彼女の健気な姿に、桐生の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
燃え上がりそうになる己の感情を、彼は長年培ってきた理屈という名の装甲で必死に覆い隠す。
桐生は銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げ、一つ咳払いをした。
そして、これまで同僚たちに向けていた慇懃無礼な態度を捨て、美波に向かって傲慢に言い放った。
「勘違いするなよ、時洲」
桐生の声は淡々としているが、その口調には、明らかな熱が帯びていた。
「俺は個人的な情や、涙による感情論で動くような、非合理で三流の人間じゃない。だが」
桐生はテーブルの上のマイクロSDカードを、素早く、しかし大切に指先で摘み上げた。
「これほどまでに決定的な物理的証拠を前にして、捜査の着手すら放棄するというのは、警察官として、何より警視庁捜査一課のエリートであるこの俺の美学に反する。特別に、俺がこの不合理な因縁を、完璧な論理で解決してやる。それに、あんたには借りもあるしな」
桐生はSDカードを透明な袋に入れ、内ポケットにしまい込み、美波を見下ろして不敵に笑った。
「おい、桐生。俺が頼んだ時は三流の被害妄想だと即座に切り捨てたくせに、時洲さんが頼んだ途端に見事な手のひら返しだな」
綾瀬が呆れたように睨みつけると、桐生は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。俺はただ、推測だけの感情論ではなく、明確な物理的証拠が提示されたからこそ合理的な判断を下しただけだ」
「出世第一主義のお前が、上層部を敵に回すような厄介事を結局引き受けるなんてな」
「腐敗した連中のご機嫌を取って出世するなど、俺のプライドが許さない。俺が出世するのは、すべての悪を論理的に駆逐した結果として、当然の評価を下されるからだ。いいか、正面から上層部を突くのは愚策だ。まずはこのデータにある、裏社会のダミー企業から潰す。脱税と資金洗浄の別件で捜査を行い、外堀から完全に埋め立てて、奴らの逃げ道を物理的に塞ぐ」
瞬時に緻密な反撃プランを構築し始める桐生に、綾瀬は圧倒される。
「綾瀬。お前のような無能でも、手足としてなら少しは役に立つだろう。せいぜい俺の指示通りに動くんだな」
「なんだとこの野郎。誰が手足だ」
即座に胸ぐらを掴まんばかりに怒る綾瀬と、それを涼しい顔で受け流す桐生。
対極にある水と油のような二人の刑事のやり取りを見て、美波はほんの少しだけ、悲しみの中で微笑みをこぼした。
モノの因果を読み解く、探し物探偵の女。
亡き先輩の遺志を継ぐ、熱血漢の刑事。
そして、傲慢だが絶対に悪に屈しないエリート刑事。
牧村が遺した沈黙の道標は、決して交わるはずのなかった三人の運命を一つに結びつけた。
純喫茶を出ると、冷たい冬の太陽が、東京のビル群を白く、鋭く照らし出している。
百年にわたる過去の怨嗟と、両親の死の真実。
警察組織すらも飲み込む巨大な闇に対する、三人の決死の反撃が、ここから確かに幕を開けようとしていた。




