第一話『真実』(前)
猛吹雪が吹き荒れていた東京の下町から、車を飛ばして一時間あまり。深夜の横浜港は、雪ではなく皮膚を突き刺すような冷たい氷雨と、重油の匂いが混じった海風が吹き抜ける、凍てつくような暗闇に包まれていた。海面には等間隔に並ぶ街灯の鈍いオレンジ色の光が油膜と共に不気味に揺れ、遠くからは絶え間なく護岸に打ち寄せる波の音と、時折、大型貨物船の低く物悲しい汽笛が響いてくる。
近代的な高層ビル群や華やかな観覧車が輝く観光エリアからは遠く離れた、古いコンテナと赤錆びたクレーンだけが立ち並ぶ無機質な工業地帯。その最も外れの一角、周囲から孤立したような海沿いの埋立地に、目的の建物はまるで墓標のようにひっそりと佇んでいた。第十二廃倉庫である。
時洲美波と、警視庁捜査一課の刑事である綾瀬を乗せた覆面パトカーは、ヘッドライトを消したまま、その廃倉庫から少し離れた資材置き場の陰に音もなく滑り込んだ。エンジンを切り、ワイパーが停止すると、フロントガラスを激しく打つ氷雨の重い音だけが車内に響いた。流れる水滴の向こう側に、闇に沈む廃倉庫の威圧的なシルエットが浮かび上がっている。
「着きましたね。時洲さん、この先は何が待っているか全く予測できません。黒幕の連中がまだ残っている可能性も十分にあります。俺の背中から、絶対に離れないでください」
運転席の綾瀬が、極度の緊張で強張った声で言った。彼はグレーの背広の内ポケットから、黒光りする警察官の拳銃を取り出し、シリンダーを開いて弾倉の確認をしてから、冷ややかな金属音を響かせて元に戻した。通常、勤務を外れた刑事が無断で拳銃を持ち出すことは厳しく禁じられている。ましてや、所轄の管轄外である横浜に乗り込み、民間人を帯同して単独で突入するなど、警察官としてのキャリアを捨てる、懲戒免職に等しい行為である。
しかし、綾瀬の横顔に迷いは一切なかった。彼の脳裏にあるのはただ一つ、自分を一人前の刑事に育て上げてくれた大恩人であり、絶対的な先輩である牧村秋義を、この途方もない闇の中から救い出すことだけだった。
「はい。覚悟はできています」
助手席の美波は、外套のポケットの中で傷だらけの銀の着火道具を固く握りしめ、声を発さず、しかし鋼のような強さで頷いた。
十年間、雨の日の不慮の事故だと信じて疑わなかった両親の死。その背後に潜む、警察組織すらも飲み込む底知れぬ暗闇。牧村は、その真実をたった一人で追い続け、囮となって美波を守り、そして今、この冷たい廃倉庫の奥で生死の境を彷徨っているかもしれないのだ。古物商として、迷子になったモノの温かい記憶ばかりを紐解いてきた彼女の穏やかな日常は、昨夜、水濡れの手帳の文字を読み解いた瞬間に脆くも崩れ去った。彼女の前に開かれたのは、自らの血脈に刻まれた因縁と向き合うための、後戻りのできない戦いの始まりだった。
二人は車を降り、容赦なく体温を奪っていく氷雨に打たれながら、廃倉庫へと近づいていった。
波板トタンで覆われた倉庫の外壁は、長年の潮風に晒されて赤茶色に錆びつき、至る所に穴が空いている。周囲に人の気配は全くなく、ただ風が吹き抜ける不気味な悲鳴のような音だけが響いていた。綾瀬が倉庫の側面に回ると、搬入口の横にある小さな通用口の鉄扉が、わずかに開いたままになっているのを発見した。鉄扉の取っ手付近には、雨で薄まりかけてはいるものの、生々しい血の手形が残されていた。
綾瀬は美波を片手で制止し、もう一方の手で拳銃を構えながら、油の切れた蝶番を軋ませないように、慎重に鉄扉を押し開けた。
倉庫の内部は、飲み込まれそうな暗闇だった。外の街灯の光すら届かない、底知れぬ漆黒の空間。広大な倉庫の天井からは、雨漏りの水滴が床を穿つ反響音が等間隔に響いている。敵が潜んでいるかもしれない。黒幕の暴力団員や、重武装の殺し屋たちが、暗闇の中で銃口をこちらに向けて息を潜めている危険性もある。綾瀬は呼吸音すら殺し、壁際に背中をつけながら、左手に持った小型の懐中電灯のスイッチを押し込んだ。
鋭い白い光の刃が、倉庫の暗闇を真っ二つに切り裂く。光が埃の舞う空間を薙ぎ払うようにして内部を照らし出した瞬間、美波と綾瀬は思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。
「なんだ、これは」
綾瀬の喉から、恐怖と絶望の入り混じった震える声が漏れた。
そこに、敵の姿はない。黒幕も、殺し屋たちの気配も、すでに跡形もなく消え失せていた。代わりに光が照らし出したのは、人間の想像を絶するような、凄惨極まる死闘の痕跡だった。
広大な倉庫のコンクリートの床には無数の薬莢が散乱し、ライトの光を反射して金色の不気味な輝きを放っていた。積まれていた木箱は自動小銃で撃ち抜かれたように粉砕され、倉庫を支える太いH鋼の鉄骨には、弾丸が抉り取った生々しい金属の傷跡がいくつも刻まれている。
そして何より二人の目を釘付けにしたのは、床や壁の至る所に残された、夥しい量の血痕だった。まばらに落ちる血の雫などという生易しいものではない。動脈から吹き出したような飛沫の痕、倒れた人間を引きずったような太い血の帯、そして、誰かが血まみれの手で壁を這いずりながら進んだ、おぞましい手形の連続だった。
探し物探偵としてモノや場所に宿る記憶を感じ取る美波は、この凄惨な光景から、ここで何が起きたのかを痛いほどに正確に感じ取っていた。
ただの処刑などではない。牧村が一人で、圧倒的な数の敵を相手に、地の利と暗闇を利用して死に物狂いで抵抗した戦いの跡だ。飛び散った薬莢のサイズがいくつもあるということは、敵は重武装で少なくとも五人以上。それに対して、残された足跡は、牧村が大量に出血しながらも決して背中を見せずに応戦し、後退し続けたことを示している。
その血を流しながら戦い抜いた一人の男が誰なのか、考えるまでもなかった。
「牧村さん。牧村さん」
危険も忘れ、綾瀬が懐中電灯を振り乱しながら、血痕の続く先へと向かって絶叫した。二人の足音が、薬莢を踏み砕きながら倉庫の奥へと進んでいく。
やがて、ライトの光の先。倉庫の最奥にある、貨物用エレベーターの太い鉄骨の柱。その冷たい鉄の塊に背中を預けるようにして、一人の男が力なく座り込んでいた。
光に照らし出されたその姿を見た瞬間、綾瀬は拳銃を取り落としそうになり、美波は両手で口を覆って悲鳴を噛み殺した。
そこにいたのは、かつて時洲堂を訪れた時の、隙のない外套を着こなし、底知れない理知的な笑みを浮かべていた猟犬の姿ではなかった。
牧村秋義は、身に着けていた衣服から靴に至るまで、すべてを無残に剥ぎ取られている。凍えるような冬の廃倉庫のコンクリートの上に、薄汚れた肌着一枚とズボンという半裸に近い状態で放置されたその肉体は、直視できないほどに破壊され尽くしていた。大柄で鍛え抜かれた全身には無数の刺し傷と骨を砕くような打撃の痕があり、腹部と右肩を貫通している複数の銃創が、黒赤く口を開けている。彼が座り込んでいる周囲の床には、流れ出た彼自身の血によって、広がりゆく赤い水たまりが形成されていた。
一目見ただけでわかる。すでに致死量を超える血液を失い、人間の生命力という炎が、今まさに最後の一揺らぎを終えて消え去ろうとしている、絶対的な死の淵の姿だった。
「牧村さん、しっかりしてください」
綾瀬は水たまりとなった血の海に膝をつき、牧村の体にすがりついた。触れた肌は氷のように冷たく、衣服の代わりになっているのは彼自身の流した血だけだった。
「今、救急車を呼びます。警察病院のヘリを飛ばさせますから、死なないでください、牧村さん」
綾瀬が震える手で背広のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を血まみれにしながら緊急通報の番号を押そうとした、その時だった。
「よせよ、綾瀬」
暗闇の廃倉庫に、砂を噛むような低い声が響いた。牧村の血に染まった太い腕がゆっくりと持ち上がり、画面を操作しようとしていた綾瀬の腕を力強く掴んだ。その握力は、瀕死の重傷を負っている人間とは思えないほど熱を帯びていた。
牧村秋義は、ひどく重たそうな瞼をゆっくりと持ち上げた。焦点の合っていなかった瞳が徐々に光を取り戻し、自分にすがりついて泣いている後輩の顔を、そしてその後ろで青ざめた顔で立ち尽くしている時洲美波の姿を、確かに捉えた。
「救急車は必要ない。自分の状態は、僕が一番よく理解している。急所を三箇所、撃ち抜かれた。もう修復不可能だ。どう足掻いたところで助からない」
浅い呼吸の合間に発せられる言葉は途切れ途切れで、息を吸うたびに胸郭が痛ましく上下している。
「そんなこと言わないでください。あなたが死んでいいはずがない。俺が絶対に助けますから」
子供のように泣きじゃくる綾瀬に対し、牧村は肺の奥から血の混じった咳を吐き出しながら、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「相変わらず、感情の抑制が下手な男だね、君は」
牧村は綾瀬の腕から手を離し、今度は美波の方へとゆっくりとその眼差しを向けた。死の淵にあっても、彼が宿している真実を追い求める猟犬としての知性は決して失われていなかった。
「よく来てくれたね、時洲さん。君なら必ず、あの暗号を解き明かしてくれると信じていたよ」
「牧村さん。どうして、こんな酷いことに」
美波は涙で視界を滲ませながら、牧村のそばに膝をついた。牧村の息は浅く、擦れた痛ましい呼吸音が漏れている。
「奴らはとうとう、猟犬の正体に気づいたんだ。ここでの取引は、僕を誘い出して消し、証拠を奪うための罠だった」
牧村の言葉と惨状から、彼がどれほどの拷問と執拗な身体検査を受けたのかが伝わってくる。敵は牧村の命を奪うことよりも、彼が十年間かけて集めた自分たちの破滅に繋がる証拠を回収し、隠滅することに執着していたのだ。
「だが」
牧村は血に染まった唇を微かに吊り上げ、冷酷なまでに理知的な、誇り高い笑みを浮かべた。
「奴らには絶対に見つけられなかった」
牧村は右手をゆっくりと震えながら持ち上げ、その指を自分自身の口の中へと無造作に突っ込んだ。指先が血まみれの口腔を探り、奥歯のさらに奥、人間の視覚からは完全に死角となる場所へと潜り込んでいく。
綾瀬が驚愕の声を上げる中、牧村は奥歯の裏側に張り付けてあった何かを、指の爪で強引に引き剥がした。激しく咽せ返りながら、牧村が口から取り出したもの。それは彼の血と唾液にまみれ、分厚い防水フィルムと特殊な接着テープで何重にも厳重にコーティングされた、親指の爪よりも小さなマイクロSDカードだった。
「どんなに有能な殺し屋でも、まさか奥歯の裏の肉に張り付けてあるとは、思い至らないものさ」
牧村は己の命と引き換えにして、肉体の最も生々しく痛みを伴う場所に隠し通したそのデータを、震える手で綾瀬の顔の前へと差し出した。
「綾瀬。受け取ってくれ。これが僕の、十年のすべてだ」
綾瀬は一欠片の躊躇もなく両手を差し出した。牧村の血と唾液にまみれたその小さなデータを、彼は両手でしっかりと受け止め、胸に押し当てて号泣した。氷のように冷え切った廃倉庫の中で、その託された欠片だけが、牧村の体温と血液の熱を帯びて異様なほどの重みを持っていた。
牧村はかすむ目で美波を見つめ、残されたわずかな命の炎を燃やすように、大きく深く息を吸い込んだ。そして、これまで決して口にすることのなかった十年間隠され続けてきた絶対的な真実を、美波の目を見てはっきりと告げた。
「時洲さん。君の両親は事故で死んだんじゃない。明確な殺意によって消されたんだ」
わかっていたこととはいえ、実際にその言葉を叩きつけられた美波の全身が粟立った。
牧村は荒い息継ぎを挟みながら、最後の力を振り絞って語り続ける。
「奴らが恐れたのは時洲家の歴史だ。権力者から至宝を奪い去り、決して捕らえられなかった伝説の大泥棒、土岐半次郎の血脈。奴らにとってその存在は、先祖の誇りを傷つける百年の怨嗟だった。強大な盾であった祖父の仙次郎さんが他界したことで、彼らは好機を得た。そして君が十歳になったあの日、両親に対する狂気の暗殺計画を実行したんだ」
美波の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。優しい両親の笑顔。時洲堂で過ごした温かい日々。それがすべて、理不尽な理由で奪われたという事実。
牧村の呼吸はさらに浅く、限界が近づいているのは誰の目にも明らかだった。
「真相と物的証拠は、そのデータの中にある。だが、綾瀬。今の警察上層部は腐り切っている。正義感だけで君が単独で動けば、データは握り潰され、君も消される」
牧村は血走った目で後輩をまっすぐに見据え、再び美波へと視線を戻した。
「時洲さん。このデータを、捜査一課の桐生という男のところに持っていってくれないか。彼は出世欲の塊だが、根底にあるのはどんな権力にも屈しない潔癖な論理的正義だ。彼の頭脳と権力を使うんだ」
牧村は綾瀬の腕からゆっくりと手を離した。彼の瞳から猟犬としての鋭い光が少しずつ失われ、代わりに、すべてを終えた人間の安らかで穏やかな光が宿り始めていた。
「時洲さん。十年前。君の、ご両親を守れなくて、すまなかった。僕がもっと早く、奴らの計画に気づいていれば」
「そんなことありません。牧村さんは、自分の人生をすべて捨ててまで、私のために戦ってくれたじゃないですか。お願いだから、謝らないでください」
美波は牧村の冷たい手に顔を埋め、声を上げて泣き崩れた。牧村は美波の頭を撫でようと指を動かしたが、もうその力は残っていなかった。
「あの、吹雪の夜。君の淹れてくれた、ほうじ茶」
牧村の口元に、ひどく穏やかな、そしてどこか懐かしむような笑みが浮かんだ。
「あのお茶は、本当に、美味しかったよ。冷え切った体に、温かく染み渡った」
それが、美波に向けられた最後の言葉だった。牧村は最後に、泣きじゃくる綾瀬の方へと顔を向けた。
「泣かないでくれ、綾瀬。僕より、マシな刑事に、なるんだよ」
不器用で、けれど何よりも後輩を愛していた刑事の、最後の皮肉めいた優しい笑み。直後、牧村秋義の体から抗うことなく力が抜け、鉄骨に預けていた頭が糸が切れたように横へと傾いだ。浅く響いていた呼吸音が途絶え、沈黙が落ちる。
百年の怨嗟という闇に、たった一人で立ち向かい続けた孤独な猟犬は、十年の時を経て、愛する後輩と、守り抜いた娘のすぐそばで、ついにその長い戦いを終えたのだった。
綾瀬の悲痛な絶叫が、暗く冷たい廃倉庫の天井に何度も虚しく木霊した。
外からは、綾瀬が密かに要請していたであろうパトカーと救急車のサイレンの音が、氷雨を切り裂いて遠くから近づいてきているのが聞こえた。しかし、美波の心はこれまでにないほどの静寂と、冷たく研ぎ澄まされた使命感に満たされていた。優しい両親を奪い、そして不器用なほどに真っ直ぐな一人の刑事の命を奪ったまだ見えざる闇。牧村が命を懸けて遺してくれたこの血塗られた証拠を、絶対に無駄にはしない。
美波はただ無言で立ち上がり、涙を手の甲で拭い去った。
冷たい海風が吹き込む廃倉庫の闇の中で、彼女は綾瀬が握りしめる記憶媒体を見つめた。過去の哀しき因果を断ち切るための確かな覚悟が、彼女の胸の奥で、静かに力強く燃え上がっていた。




