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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と帰るべき場所―』  作者: 長月有希


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第四話『善と悪』(前)

 公安によるあからさまな監視と、無残に破壊された古い時計による殺害予告。

 国家権力という巨大な闇が、時洲(ときす)美波(みなみ)という一個人を明確な標的として定めた出来事から数日が経過していた。

 警視庁から謹慎処分を受け、公式な捜査権限を奪われた桐生(きりゅう)と綾瀬(あやせ)はすっかり地下に潜り、非公式な道から裏社会の仲介業者を追い詰めるための過酷な捜査を続けていた。


 一方、時洲堂のある東京の下町では、表面上はいつもと変わらない穏やかな初冬の日常が流れていた。

 しかし、その実態は大きく異なっていた。三枝(さえぐさ)幸一(こういち)を中心としたご近所衆による、美波を守るための見えない防壁が時洲堂を囲んでいたのである。

 笠原(かさはら)が散歩を装って一日に何度も路地の入り口を見回り、幸一は金物屋の作業台を窓際に移して常に外に目を光らせている。少しでも見慣れない背広姿の男や不審な車両が近づけば、彼らは呼吸を合わせて連携し、無言の圧力をかけて追い払っていた。

 その温かくも強固な愛情の盾に守られながら、美波は今日も時洲堂のカウンターの奥で古物商としての静かな仕事に向き合っている。


 控えめで上品なドアベルの音が鳴った。

 顔を上げると、そこには一人の見知らぬ老紳士が立っていた。

 年齢は八十をとうに超えているだろう。背筋は真っ直ぐに伸び、仕立ての古い、しかし極めて上質な毛織物の衣服を着こなしている。手には使い込まれた細身の杖と、桐の箱を持っていた。

 その佇まいからは、激動の昭和を生き抜いてきた者特有の、静かで品格のある空気が漂っていた。


「いらっしゃいませ。外は冷えたでしょう、どうぞ中へ」

「突然の訪問、失礼いたします。あなたは、こちらの店主殿でいらっしゃるか」


 老紳士の声は枯れてはいるが、一音一音がはっきりとした威厳を持っていた。


「はい。時洲堂の店主、時洲美波と申します。本日はどのようなご用件でしょうか」


 老紳士はカウンターの前に進み出ると、手にしていた桐の箱をまるで赤子を扱うように極めて慎重にカウンターの上に置いた。


「私の名は、御影(みかげ)と申します。恥ずかしながら、かつては華族に名を連ねていた御影男爵家の末裔にあたる者です」

「華族の、御影様」

「ええ。もっとも戦後の財産税や農地改革で没落し、今ではただの年金暮らしの老いぼれですがね。本日は、こちらの時洲堂様が古い紙や古文書の修復、そして鑑定に大変優れておられると聞き及び、藁にもすがる思いで参りました」


 御影はそう言うと、震える手で桐箱の蓋を開けた。

 中に入っていたのは、ひどく傷み、変色した和紙の束だった。和綴じの糸は千切れかけ、虫食いの穴が無数に空いており、少しでも乱暴に扱えばそのまま崩れ落ちてしまいそうなほどに脆くなっている。


「これは随分と古い書物ですね。江戸の末期から、明治初期にかけてのものでしょうか」

「ご慧眼の通り。これは我が御影家に代々伝わる家系図と、当時の当主が記した一族の裏面史をまとめた備忘録です。先の戦火で土蔵が焼け落ちた際、持ち出す過程で酷い水濡れと損傷を受け、長年開くこともできずに眠っておりました。私の命ももう長くはありません。私が生きているうちに何とかこれを修復し、我が一族が激動の明治をどのように生き抜いたのか。その正確な歴史を読み解いて孫の代へと遺しておきたいのです」


 御影は深く頭を下げた。


 モノに込められた、一族のルーツを知りたいという切実な想い。

 それは両親の死の真実と自らの血脈の因果に直面している美波にとって、決して他人事とは思えない、深く胸に刺さる依頼だった。


「承知いたしました。御影様。この古い紙に刻まれた御影家の記憶、私が責任を持って修復し、読み解かせていただきます」


 美波が力強く頷くと、御影は安堵したように目を細め、どうかよろしくお願いいたしますと何度も頭を下げて店を後にした。


 その日の午後から、美波は時洲堂の奥にある作業台で、御影家から預かった古文書の修復作業に没頭していた。

 修復は気の遠くなるような繊細さを要求される作業だ。まずは極細の筆と精製水を使って、和紙の表面にこびりついた百年の埃とカビを文字の墨を滲ませないように慎重に拭い去っていく。次に虫食いで穴が空いた部分や破れて欠損している部分に年代の近い古い和紙を当て、小麦粉から炊いて作った特殊な糊で一枚一枚裏打ちして補強していく。

 道具を使い、自らの呼吸すら制御しながらの孤独な作業。

 数時間が経過し、ようやく第一巻の修復を終え、乾燥させるための仮張りをしていた時だった。


「こんにちは。お届け物です」


 声とともに、冬馬が台車を押して入ってきた。

 彼は美波が無事であることを確認するとホッとしたような顔を見せ、作業台の上に広げられた古文書を見て目を丸くした。


「うわあ、すごい古い本。時洲さん、またそんな神経使いそうな仕事しているのですか。ちゃんと休まないと倒れてしまいますよ」

「冬馬くん、お疲れ様です。大丈夫ですよ。モノの記憶に触れている時は、とても心が落ち着くんです」


 美波が笑って答えると、冬馬は少し照れたように頭を掻いた。


「そうですか。そうだ時洲さん。俺、今日の午後は仕事が休みなんです。その古い本、何か調べ物とかあるんじゃないですか。もしよかったら、俺、国立国会図書館にでも行って資料とか文献とか探してきますよ」


 冬馬の申し出に、美波は少し驚いて目を瞬かせた。


「お気持ちは嬉しいのですが、冬馬くんの貴重なお休みを潰してしまうのは」

「いいんです。俺は難しいことはよくわからないけれど、時洲さんが一人で抱え込んでいる因縁とか、そういうの、少しでも力になりたいんです。監視の奴らを追い払うだけじゃなくて、俺も時洲さんを守る手伝いをさせてください」


 冬馬の真っ直ぐで嘘のない言葉に、美波の胸が温かくなる。

 幸一たちだけではない。この青年もまた、自分を心から案じ、寄り添おうとしてくれているのだ。


「ありがとうございます、冬馬くん。それじゃあ、お言葉に甘えさせてください。実はこの古文書を読み解くにあたって、明治十五年頃の東京の政界や実業界の人物録と、当時の新聞の写しをいくつか調べてほしいんです。この文書の中に、いくつか気になる名前が出てきていて」

「任せてください。俺の足と体力に不可能はないですから」


 荷物を降ろし、冬馬は美波から伝票のサインと書き付けを受け取ると、店を飛び出していった。

 その頼もしい背中を見送りながら、美波は再び作業台に向かい、先ほど仮張りを終えたページに記されたくずし字の解読を始めた。


 御影家の家系図と備忘録は、第一級の歴史的資料と言えるほど当時の情勢が克明に記録されていた。

 華族であった御影家の当主は、明治新政府の司法省で判事のような役職に就いていたらしい。そのため彼の備忘録には、表の歴史書には決して載らない、明治初期の東京で繰り広げられていた政治家と商人たちによる生々しい権力闘争と汚職の実態が、日記のような形で詳細に綴られていた。

 近代化という名目の下、西洋の文化が流れ込み文明開化の華やかな光が街を照らしていた時代。しかしその強烈な光の裏側には、必ず底知れぬ暗闇が伴う。特権階級が私腹を肥やす一方で、地方から上京してきた貧しい農民や職を失った士族たちは、その日を生きるのさえ困難な生活を強いられていた。


 美波はルーペを覗き込みながら、和紙に走る達筆な墨の文字を現代の言葉へと頭の中で翻訳していく。

 明治十五年、秋。司法省の調査に関する記録。この頃、東京の裏社会と政界を牛耳っていた二人の大物の名前が頻繁に出てくる。

 美波の指先が、和紙に記された二つの名前に止まった。


 内務省警保局長、山添(やまぞえ)儀一(ぎいち)。

 金貸し青柳屋、青柳(あおやぎ)勘左衛門(かんざえもん)。


 その名前を見た瞬間、美波の心臓が大きく鳴り始めた。

 山添と、青柳。

 間違いない。桐生が突き止めた、現代の警察上層部を腐敗させ、両親の暗殺を指示した最大の黒幕、国家公安委員長の山添(やまぞえ)翔一(しょういち)と内閣官房長官の青柳(あおやぎ)征太郎(せいたろう)。その二人へと連なる、百年前の先祖の名前だ。


 当時の山添儀一は警察組織の頂点である警保局長。青柳勘左衛門は没落した士族から法外な利息をむしり取り莫大な富を築いた高利貸し。この二人は裏で深く結託して、青柳が庶民から搾取した金を山添に賄賂として渡し、山添は警察権力を使って青柳の違法な取り立てを黙認して邪魔者を次々と闇に葬っていた。

 御影の備忘録には、彼らの悪逆非道な振る舞いが怒りと嘆きを込めて書き記されていた。司法省にいた御影でさえ、彼らの強大な権力と圧倒的な財力を前には手出しができず、証拠がないために歯噛みするしかなかったのだ。

 権力と金で法律すらねじ伏せていた二人の悪党。でも、そんな彼らがなぜ現代になって土岐半次郎の末裔である時洲家をあれほど深く憎み、百年にわたる怨嗟を抱いているのだろうか。


 美波は逸る心を抑えながらさらにページをめくった。

 そして備忘録の後半、明治十五年の冬の記述に差し掛かった時。そこに記されていた衝撃的な歴史の真実を前に、美波は息を呑み絶句した。

 やがて夕刻が近づく頃、国会図書館へと向かっていた冬馬が戻り、当時の新聞記事の写しを美波に届けてくれた。その記事と備忘録を照らし合わせた美波は、権力者たちが抱く深い因縁の正体をはっきりと理解したのである。



 日がすっかり落ち、時洲堂の店内に琥珀色の照明が灯った頃。

 店のガラス戸が開き、冷たい夜風とともに二人の男が店内に滑り込んできた。

 グレーの背広を着た綾瀬と、黒い外套を羽織った桐生である。

 二人の靴には泥が跳ね、衣服の裾は雨に濡れて重たくなっていた。この数日間、警察組織の後ろ盾を持たない状態で裏社会の底辺を這いずり回るようにして仲介業者の足取りを追っていた彼らの疲労は、頂点に達しているはずだった。

 しかし、桐生の銀縁眼鏡の奥の瞳だけは、獲物を追い詰めた猟犬のような恐ろしいまでの熱量を放っていた。


「おい時洲。頭を回すための珈琲を淹れろ。ミルクも砂糖も不要だ」


 桐生は我が物顔で店内のロッキングチェアに腰を下ろし、コートを脱ぎ捨てて命じた。

 綾瀬が「おい桐生、人の家に入ってきていきなりなんだその態度は」と咎めるが、美波は「すぐにお持ちしますね」と静かに微笑み、二人のために熱い珈琲を淹れた。


「それで、裏の業者は見つかったのですか」


 美波が珈琲を差し出しながら尋ねると、桐生は器を受け取り香りを嗅いでから傲慢に笑った。


「俺の捜査の網の目から、あのような小悪党が逃げ切れるはずがないだろう。海外への密航船に乗る寸前のところを港で綾瀬に確保させた。奴は今頃、俺の手配した特別な場所で震えながら自分の犯した罪と公安との黒い繋がりを余すところなく調書に書き起こしている頃だ」

「桐生があの業者を壁際に追い詰めて、逃げ場のない理屈で三時間も延々と、情け容赦なく問い詰め続けたんですよ。逃走ルートから裏金の口座、隠し持っている別名義のパスポートまで徹底的に論破して、一切の反論を許しませんでした。あんな恐ろしい尋問、俺は初めて見ました」


 綾瀬がひどく疲れた顔で報告する。

 どうやら、公安の工作員が時計を購入し美波への脅しを依頼したという決定的な証拠の確保には成功したようだ。


「これで、公安の実行犯たちを一網打尽にする手はずは整った。だが」


 桐生は珈琲を一口飲み、表情を険しくした。


「末端の実行犯を捕まえたところで、巨大な胴体である山添翔一と青柳征太郎はいくらでも言い逃れができる。奴らを完全に失脚させるには、奴らがなぜそれほどまでに時洲一族を憎み抹殺しようとしたのか。その百年の怨嗟という動機の核心を解明し、白日の下に晒す必要がある」

「その動機の核心についてなら。今、答えが出たところです」


 美波の静かで、ひどく重々しい声に桐生と綾瀬が顔を上げた。

 美波はカウンターの奥から修復を終えた御影家の備忘録と、冬馬が持ち帰ってくれた明治時代の新聞記事の写しの束を二人の前に広げた。


「これは、かつて司法省に勤めていた華族の方が記した当時の裏面史です。ここに、百年前の山添家と青柳家の先祖の姿が記されています。当時の警保局長と悪徳高利貸し。彼らは裏で結託し法をねじ曲げ、人々から徹底的に搾取して莫大な富と権力を築き上げていました」


 桐生は備忘録の記述と新聞の写しに素早く目を通し、鼻を鳴らした。


「なるほど。当時の法をも凌駕する権力者と特権商人。まさに絵に描いたような腐敗の構図だ。現代の山添と青柳がやっていることと本質的に何一つ変わっていない。だが、それがなぜ時洲の先祖である土岐半次郎への恨みに繋がる」


 桐生の問いに、美波は唇を噛み締め、痛ましい事実を告げるようにゆっくりと口を開いた。


「土岐半次郎は、強固な蔵から金品を奪い、貧しい人々に分け与える義賊として知られていました。しかし明治十五年の冬。半次郎が山添儀一と青柳勘左衛門の屋敷に忍び込んだ時。彼が盗み出したのは、莫大な小判でも高価な美術品でもありませんでした」

「では、何を盗んだというんだ」

「彼が盗み出したのは、山添と青柳が絶対に表に出すことのできないあらゆる汚職と賄賂、そして非道な犯罪の数々を詳細に記録した裏帳簿と密約の証文でした。彼らが最も厳重な蔵の奥底に隠し、命よりも大切に守っていた自分たちの首を絞める決定的な証拠そのものだったのです」


 その言葉を聞いた瞬間、桐生の銀縁眼鏡の奥の瞳が見開かれた。


「半次郎は、盗み出したその証拠の数々を自身の懐に納めることも、誰かを脅迫することにも使いませんでした。彼は盗んだその足で、証拠書類を山添と対立していた司法省の役人の屋敷の門前と、当時最も影響力のあった新聞社の玄関先にすべて撒いて消え去ったのです」


 美波は、冬馬が持ち帰ってくれた明治十五年の新聞の写しを指差した。

 そこには、大きな活字で警保局長・山添儀一と青柳屋の大疑獄事件、白日の下に晒さると見出しが打たれていた。


「翌朝。決定的な証拠を突きつけられたことで彼らの悪行は世間全土に知れ渡りました。激怒した民衆は暴動を起こし、司法省はついに彼らを逮捕せざるを得なくなった。圧倒的な権力と富を誇っていた山添家と青柳家はたった一夜にしてその財産をすべて没収され、一族の当主は投獄され、世間から見放される最底辺の泥水の中へとすっかり叩き落とされたのです」


 静まり返った時洲堂の店内に、柱時計の重い振り子の音だけが響き渡る。

 それは単なる盗難事件などではなかった。

 一人の大泥棒の圧倒的な技術によって、絶対的な権力者が社会的な死を宣告された。一族の未来を、栄華を、そして何よりも重んじていた名誉をすっかり奪い去られたのである。


「なるほど。そういうことか」


 沈黙を破したのは桐生の低く冷え切った声だった。彼は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰ぎ見た。


「百年前、土岐半次郎という一人の泥棒によって先祖の誇りと地位を根こそぎ奪われ社会的に抹殺された。残された子孫たちは世間の冷たい目に晒されながら、泥水をすするような極貧と屈辱の歴史を歩まされたはずだ。だからこそ奴らは執念で這い上がり、百年という途方もない時間をかけて自分たちを破滅させた警察と政治の頂点に再び返り咲いた。すべては一族の誇りを取り戻し、自分たちを地獄に突き落とした土岐半次郎の血脈である時洲一族を、自分たちと同じように完全なる地獄へと叩き落とすためだけに」


 桐生の分析が、百年の怨嗟の正体を残酷なまでに明確に暴き出していく。

 失われた金品への恨みなどではない。奪われた一族の誇りと名誉を取り戻すための、執念の復讐劇だったのだ。


「これが私の一族が背負った、本当の因果です」


 美波はカウンターの上にある両親の写真を、悲しみに満ちた瞳で見つめた。

 土岐半次郎は当時の悪党を倒し弱者を救うための正義として、その証拠を盗み出し暴露したのだろう。しかしその正義の行いが、奪われた側の子孫の心に決して消えることのない真っ黒で巨大な憎しみの業火を植え付けてしまった。

 その百年にわたる怨嗟の炎が、十年前、何も知らない美波の優しい両親を焼き尽くし、そして今、牧村という一人の刑事の命までをも奪い去ったのだ。


「俺は、なんて言ったらいいのか」


 あまりにも重く凄絶な歴史の真実を前にして、綾瀬は完全に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 善と悪。正義と犯罪。

 その境界線が複雑に絡み合い、百年という時間の重圧となって美波の華奢な肩に重くのしかかっていた。

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