第七話『道標』(前)
三枝夫婦の自宅の小さな居間には、古い石油ストーブの放つじんわりとした熱と、微かな灯油の匂いが漂っている。昨日まで時洲堂という確かな帰る場所を持っていた時洲美波は、机の前に静かに座り、洋子が淹れてくれた温かいほうじ茶の湯呑みを両手で大切に包み込んでいた。
部屋の隅に置かれたテレビの画面は、朝から同じ映像を何度も繰り返し流し続けている。
国家公安委員長の山添翔一が、自らの執務室がある霞が関の庁舎から連行されていく姿である。無数の報道陣が放つ容赦のない閃光を浴びながら、東京地検特捜部の黒い車両へと押し込まれるかつての権力者の顔には、もはや昨日まで見せていた傲慢な誇りの欠片もなかった。そこにあるのは、自らの絶対的な城を崩されたことによる、深い疲労と絶望の皺だけである。
現職の国家公安委員長が、殺人教唆および証拠隠滅の容疑で逮捕されるという前代未聞の事態。
各局は通常番組をすべて切り替えて特別番組を編成し、東京の主要駅では号外が配られているというアナウンサーの興奮した声が、小さな居間に響き渡っていた。十年前の交通事故を装った殺人事件への関与、そして武装した非合法部隊を一般市民の店舗へ差し向けたという事実は、警察組織の根幹を揺るがす異常事態として、世間に凄まじい衝撃を与えている。
(一つ、終わったよ。これでお父さんとお母さんを殺した直接の実行犯と、その命令を下した人間は、法の下で正しく裁かれることになる)
美波は湯呑みの縁を見つめながら、心の中で静かに呟いた。しかし、彼女の胸の内にすべてが終わったという安堵の色は全く存在していない。
隣に座り、腕を組んで画面を睨みつけている綾瀬もまた、悔しげに奥歯を噛み締めていた。
「山添の奴、自分が助かるために洗いざらい吐くかと思いきや、見事に黙秘を貫きやがった。特捜部がいくら厳しく締め上げても、あの裏帳簿に記されていたもう一人の巨悪、青柳官房長官の名前だけは絶対に口にしない。いや、口にできないんだ」
綾瀬は拳を強く握りしめ、机を軽く叩いた。
「山添が失脚しても、警察上層部や特捜部の上層部の中には、まだ内閣官房長官である青柳の息のかかった連中が山ほどいる。山添は、ここで青柳を売れば自分の一族の残りの人間まで社会的に抹殺されるとわかっている。だから、すべての罪を自分が被って尻尾切りになる覚悟を決めたんだ。このままじゃ、最大の黒幕である青柳征太郎には、指一本触れることができずに終わってしまう」
「そんなことは、最初から俺の計算の範疇だ」
苛立つ綾瀬を冷ややかに制止したのは、座椅子に深く腰掛け、ブラックの珈琲を静かに飲んでいた桐生だった。
彼は銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
「法と権力という城の奥深くに引きこもっている限り、内閣の中枢である官房長官を引きずり出すことは極めて困難だ。だが、奴のその権力への異常な執着こそが、俺が仕掛けた罠の起動の鍵なんだよ」
「罠」
「そうだ。青柳征太郎は、百年の泥水をすすって這い上がり、ついに手に入れた今の地位と名誉を何よりも愛している。だからこそ、山添が逮捕された今、自分の名前に少しでも火の粉が降りかかることを、奴の肥大化した誇りが絶対に許容できない。自らの潔白を世間に誇示するために、奴は必ず自分の足で安全な場所から出てくるはずだ」
桐生がそう言い切った、まさにその瞬間だった。
テレビの臨時報道の画面が切り替わり、緊迫した音声とともに速報の文字が大きく表示された。
『内閣官房長官である青柳征太郎氏が、午後三時より首相官邸内にて緊急会見を開くことを発表。山添氏の逮捕について、重大な声明を出す模様。』
「ほら見ろ。俺の予測の通りだ」
桐生は珈琲の器を置き、静かに立ち上がった。
「奴は、この大規模な会見の場で山添にすべての罪を押し付け、自分は長年の友人に裏切られ、何も知らずに不正の片棒を担がされそうになった悲劇の政治家だという筋書きを演じ切る気だ。世論を味方につけ、国民の同情を巧みに誘えば、特捜部であってもそれ以上奴に手出しすることはできなくなる。これが、奴の用意した最大の防壁だ」
「そんなふざけた大芝居、絶対に許せるものか。だけど、どうするんだ。あんな全国に生中継されるような会見場、警察の厳重な警備で固められていて、俺たちじゃ近づくことすらできないぞ」
綾瀬の言う通りだった。官房長官の緊急会見ともなれば、会場となる場所の警備は最高段階に引き上げられる。正規の報道許可証を持たない人間は、会場の入り口を通過することすら不可能なのだ。
しかし、桐生は黒いコートを羽織りながら、不敵な笑みを深めた。
「俺が何の準備もなしに、ここまで待っていたと思うか」
桐生は衣服の内側から、謹慎によって奪われていたはずの黒革の警察手帳を取り出した。
「山添が逮捕されたことで、警視庁の上層部は現在大混乱に陥っている。保身に走る無能な上司たちを徹底的な論理で問い詰め、俺たちの不当な謹慎は先ほど正式に取り消させてきた。だが、それだけではない。綾瀬。牧村秋義がこの十年間、誰にも知られずに裏社会で築き上げてきた財産は、あの証拠のデータだけではないはずだ」
「それってまさか」
桐生は、さらに三枚の通行証を取り出し、机の上に並べた。
それは、国内の主要機関に属するものではなく、独自の情報を専門に扱う自由契約の記者が発行した、本物の報道許可証だった。
「牧村が情報を集める過程で裏社会で繋がっていた、反権力志向の強い記者たちの繋がり。俺の信頼できる部下を使ってそいつらに接触し、法外な情報料と引き換えにこの通行証を三枚手配させた。俺たちの身分は、今この瞬間から、牧村の遺志を継ぐ自由契約の記者と、その専属の撮影係だ」
桐生の用意周到さと、権力の壁を越えるためにあらゆる手札を冷酷に使いこなすその知恵に、綾瀬は言葉を失った。
「行くぞ。青柳征太郎が、全国の撮影機材の前で自らの勝利と潔白を確信し、最も気が緩んだその瞬間。奴の百年にわたる一族の誇りという最大の防壁を、俺の推理と時洲の眼で粉々に粉砕してやろう。官房長官の特権など、俺の前ではただの紙切れだということを、全国民の面前で証明してやるぞ」
桐生の自信に満ちた宣告に、美波は静かに立ち上がった。
彼女はキャメル色のダッフルコートを羽織り、右のポケットに愛用の銀色のルーペをしっかりと忍ばせた。
これが、本当に最後の戦いになる。
百年前の大泥棒である土岐半次郎から始まった、奪う者と奪われた者の底知れない悲しい因果。復讐のためではなく、真実を白日の下に晒し、過去の亡霊たちを永遠に終わらせるために。
美波は心配そうに見守る幸一と洋子に向かって、「行ってきます」と静かに、しかし深い感謝を込めて一礼した。そして、二人の刑事の背中に続いて、百年の怨嗟に決着をつけるための舞台へと向かった。
午後二時五十五分。
永田町、首相官邸一階。
そこは、数百人を超える新聞記者、映像の撮影係、そして数多くの大掛かりな機材と強力な照明によって、むせ返るような熱気と異様な緊張感に包まれていた。
会場の入り口では、何重にも配置されたSPと警備員たちが、入場者の許可証と顔写真を厳格に調べ、金属探知機による徹底した確認を行っている。
桐生、綾瀬、そして美波の三人は、牧村の道筋から手に入れた記者用の許可証を首から下げ、見事にその厳重な警戒網をすり抜けて、会場の後方、無骨な撮影機材の陰に身を潜めていた。
美波は首から記録用のレコーダーを下げ、綾瀬はマイクと帳面を手にしている。桐生は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、演壇の上の状況を冷徹な視線で分析していた。
「見ろ、時洲、綾瀬。あれが、法という無敵の盾に守られた、この国最大級の怪物だ」
やがて時計の針は午後三時ちょうどを指す。
会場の横の重厚な扉が開き、無数の光が滝のように瞬く中、一人の白髪の老紳士が、数人の取り巻きと屈強な護衛に囲まれながら、ゆっくりとした自信に満ちた足取りで演壇へと姿を現した。
内閣官房長官、青柳征太郎。
年齢は七十代前半。仕立ての良い最高級の紺色の衣服を着こなし、その胸元には、一点の曇りもなく磨き上げられた古い意匠の装身具が、眩い照明の光を受けて鈍く、そして重々しく輝いている。
銀髪を綺麗に整えたその顔立ちは、政治家としての絶対的な威厳と、どこか親しみやすさを感じさせる温和な雰囲気を絶妙に漂わせていた。しかし、その奥底に潜む細められた目だけは、周囲の人間をただの獲物として値踏みするように冷たく、底知れない狡猾さを孕んでいる。
青柳は演壇の中央に進み出ると、マイクの前に立ち、深々と、そしてひどく悲痛な表情を作って頭を下げた。
「本日は、急な会見にお集まりいただき、誠にありがとうございます。この度、私の長年の友人であり、警察行政の長であった山添翔一氏が逮捕された件につきまして。国民の皆様に多大なるご心配をおかけしましたことを、心より深くお詫び申し上げます」
その声は絶妙に震え、信頼していた友に裏切られた深い悲しみを見事に表現していた。
会場に集まった記者たちから、一斉に撮影の駆動音が鳴り響く。
「私は、信じられません。山添氏が、あのような不正な資金作りに関わり、あろうことか人の命を奪うような恐ろしい計画に加担していたなどと。彼は、私生活でも家族ぐるみで付き合いのある、かけがえのない友でした。彼から、警察の福利厚生のための健全な資金運用だと説明を受けて署名した書類が、まさかあのような裏金作りのための企業に使われていたとは思いもしませんでした。私は、まんまと彼に騙されていたのです」
青柳の口から紡がれるのは、一言一句まで計算し尽くされた、悲劇の政治家の完璧な筋書きだった。
彼は言葉を詰まらせ、目頭を指で押さえるような仕草を見せながら、自らが一切の不正を知らずに利用されただけの善良な被害者であることを、滔々と語り続けた。
「私は、知らなかったとはいえ、あのような男を信頼し、結果として国民の皆様を裏切る形になってしまったご批判は、真摯に受け止めます。しかし、私の政治家としての良心に誓って、不法な裏金は一円たりとも受け取っておりません。この疑惑が綺麗に晴れるまで、私は内閣官房長官の職を辞し、一人の政治家として、清廉潔白を証明するために戦い抜く覚悟です」
青柳の演説は、まさに悪魔的なまでに計算高いものだった。
内閣の要職を辞任するという責任を取る姿勢を自ら見せることで国民の怒りを逸らし、同時に特捜部からの同情を引き出す。すべての泥を逮捕された山添に被せ、自分は潔白な被害者として同情を集め、ほとぼりが冷めた数年後に再び政界の表舞台へ復帰する。
何重にも張り巡らされた、自己保身のための絶対的な防壁。
記者たちの中には、彼の大仰で迫真の演技に同情し、深く頷きながら帳面に書き留める者すら現れ始めていた。
美波はカメラの覗き窓越しに青柳の顔を見つめ、その底知れない人間の業の深さと醜さに戦慄した。
十年前、自分の両親の殺害計画を練り上げ、不正を追っていた牧村を死に追いやった張本人が、こうしてカメラの前で涙を流し、被害者を演じている。この男のどこに、彼らが執着する一族の誇りなどというものがあるのだろうか。
青柳の用意周到な演説が終わり、質疑応答の時間に移ろうとした、まさにその時だった。
「その見え透いた茶番は、そこまでにしておけ、青柳征太郎」
数百人の記者が詰めかける会場の後方から。
マイクも通していない、しかし会場の淀んだ空気を一変させるほどに冷徹で、そしてよく通る声が響き渡った。
会場中がどよめき、カメラのレンズが一斉に後方へと向けられる。
そこに立っていたのは、首から下げていた偽の許可証を引きちぎり、黒いコートを翻しながら堂々とした足取りで前へと進み出る桐生だった。その後ろには、険しい顔をした綾瀬と、静かに前を見据える美波がしっかりと続いている。
「何だ君たちは。どこの社の記者だ。名を名乗りなさい」
進行役の司会者が慌てて制止しようとし、会場の隅から数人の屈強な護衛が桐生たちを取り押さえようと飛び出してきた。
しかし、桐生は衣服の内側から正規の黒革の警察手帳を取り出し、それを頭上に高く、見せつけるように掲げた。
「警視庁捜査一課、桐生だ。全国に中継されるこの報道の人間の前で、真実を封殺し、不都合な事実を強引に隠蔽しようというのか。報道の自由を謳うお前たちが、この俺の正当な告発から目を背けるというのなら、この国に正義など存在しないということになるぞ」
桐生の圧倒的な気迫と、警察手帳という絶対的な身分証明。
そして何より、特ダネの匂いを嗅ぎ取った記者たちが一斉に桐生たちに眩い光を浴びせ始めたことで、護衛たちは迂闊に手を出すことができず、その場に立ち尽くしてしまった。
「警察の人間、だと」
演壇の上の青柳は、微かに眉をひそめたが、すぐに余裕の笑みを作り直した。
「これは驚いた。警視庁の優秀な刑事さんが、私に何の御用かな。言っておくが、私はすでに特捜部の聴取にも全面的に協力し、身の潔白は証明されているはずだが」
「白々しい嘘を吐くな。お前のその薄汚い被害者の仮面を、俺たちの手で残さず剥ぎ取ってやる。綾瀬」
桐生が場所を譲ると、綾瀬が鞄から板状の通信機器を取り出し、マイクの並ぶ最前列まで進み出た。綾瀬はその画面を演壇の青柳、そして周囲の記者たちに向けて高く掲げた。
そこには、ダミー会社の壁の裏から引きずり出した、あの裏帳簿のデータがはっきりと表示されていた。
「青柳官房長官。この記録は、企業からあんたへ流れた莫大な裏金の記録だ。そして、その不正を嗅ぎ回っていた俺たちの先輩、牧村秋義を襲撃した記録も残っている。さらに、十年前の雨の日に起きた時洲仙暉、朱音夫妻の偽装交通事故。あんたたちは裏金問題とは全く無関係の、ただ時洲一族に対する百年の私怨というだけで、あの夫婦の命を奪った。あんたは山添に騙されたんじゃない。山添と共に警察と裏社会を意のままに操り、無実の人間を消してきた最大の黒幕だ」
綾瀬の熱く、悲痛な怒りの告発が、会場の機器を通して全国へと生中継されていく。
会場内は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなり、記者たちが一斉に青柳にマイクとカメラのレンズを向けた。圧倒的な劣勢。普通の政治家であれば、ここで言葉を失い、崩れ落ちるだろう。
しかし、青柳征太郎という怪物は、これだけの証拠を公衆の面前で突きつけられても、全く動じることはなかった。彼は深くため息をつき、ひどく哀れむような目で綾瀬を見下した。
「やれやれ。警視庁の刑事ともあろう者たちが、そのような出処不明の、捏造された電子データに踊らされているとは。嘆かわしい限りだ」
青柳は演壇のマイクを両手で握りしめ、堂々と反論を開始した。
「いいかね、記者諸君。そして国民の皆様。先ほども申し上げた通り、私は山添氏の不正には一切関与していない。その裏帳簿とやらに私の名前があったとしても、それは山添氏が勝手に私の名前を騙り、裏社会の連中を信用させるために利用しただけのことに過ぎない。私が牧村刑事の死に関与した証拠などどこにもない。そもそも、私が裏金とは無関係な一市民の、ただの古物商の夫婦を暗殺する動機など、どこにも存在しないではないか」
青柳の反論は、見事なまでに理にかなっていた。
裏帳簿に金の流れがあっても、名前を勝手に使われたとシラを切られれば、決定的な物証にはならない。そして何より、内閣官房長官という国家権力の頂点が、裏金問題を知らないただの夫婦をわざわざ暗殺しなければならない明確な動機が、第三者には全く理解できないのである。
百年前の大泥棒への怨嗟。そんな不合理な私怨など、報道機関の前では決して通用しない。
青柳は自らの完璧な防壁に自信を持ち、勝ち誇ったように見下ろしていた。
(古物商の夫婦)
その言葉が、美波の耳に鋭く引っかかった。
桐生が論理の刃を突きつけようと口を開きかけたその時、美波は桐生の腕を静かに制し、誰よりも確かな足取りで演壇の直前へと歩み出た。
美波は大きな丸眼鏡のブリッジを人差し指で静かに押し上げる。
丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳は、数多の暴力的な光にも、青柳の放つ圧倒的な権力の重圧にも、微塵も揺らぐことはなかった。
「青柳官房長官」
マイクも通していない美波の静かで、ひどく澄み切った声が。
なぜか、喧騒に包まれた会場の隅々にまで、波紋のように広がっていった。
青柳が、不審そうに美波を見下ろす。
「なんだ、君は。警察の回し者か」
「私は、時洲堂の店主、時洲美波です。十年前、あなたがその権力を守るために殺害を指示した、時洲仙暉と朱音の娘です」
その名前を告げた瞬間、青柳の顔色が一瞬だけ、わずかに引き攣った。しかし、彼はすぐに政治家の仮面を被り直し、何を言っているのか全く理解できないな、と薄く冷笑した。
「私たちは先ほど、十年前の被害者について時洲仙暉、朱音夫妻としか言っていません。当時の報道でも、ただの悲惨な交通事故として扱われ、被害者の職業まで大々的に報じられたわけではありませんでした。それなのに、なぜあなたは、十年前に事故死した夫婦の職業が古物商だと正確に知っているのですか」
静まり返った会場が、再び大きくざわめき始めた。
記者たちの鋭い視線が、一斉に青柳の顔へと突き刺さる。完璧な被害者を演じていた青柳の顔に、明確な焦りの色が浮かんだ。
「そ、それは山添氏から以前聞いたことがあったからだ。あるいは当時の新聞で読んだ記憶が」
「いいえ。当時、両親の職業は報道されていません。あなたがそれを知っているのは、あなたが十年前に直接彼らを標的にし、彼らが古物商であることを正確に把握した上で暗殺の指示を下したからです」
自らの口からこぼれ落ちた致命的な失言。それを完璧に突かれ、青柳は顔を真っ赤にして激昂した。
「これ以上の言いがかりは、名誉毀損で告訴するぞ。私は百年の歴史を持つ青柳家の現当主であり、この国を豊かにするためにすべてを捧げてきた政治家だ。私のこの胸に輝く一族の栄誉を示す装身具に誓って、私はいかなる不正にも手を染めていない」
青柳は、自らの胸元に輝く古い意匠の装身具を、これ見よがしに指差した。
それは、純金と白金で作られ、中央に見事な青い宝石があしらわれた、ヨーロッパの王族の持ち物のような意匠だった。
青柳家が百年前、大泥棒である土岐半次郎によってすべての財産を失い、泥水の中へと叩き落とされた時。先祖が泥にまみれながらも、唯一盗まれずに残されていたこれだけを固く握りしめ、いつか必ず、この栄誉にふさわしい権力の頂点へ返り咲くという復讐の誓いを立て、代々大切に受け継いできたものだ。
これこそが青柳の誇りの象徴であり、彼がすべての非道を正当化するための絶対的な心の拠り所だったのである。
「私からすべてを奪おうとする卑劣な陰謀に、私は決して屈しない。これが証明する我が青柳家の誇りにかけて、私は最後まで真実と正義のために戦い抜く」
青柳のその熱のこもった見事な演説に、会場の記者たちの間に、再び同情と、警察の暴走ではないかという疑念の空気が広がり始めた。
決定的な物証がない。そして、青柳の演説による強固な防壁。
美波の追及すらも、権力という途方もない壁に跳ね返されようとしていた。
しかし、美波の琥珀色の瞳は、青柳自身ではなく、青柳の胸元で仰々しく輝いているあの古い意匠の装身具をじっと見据えていた。
(モノは、決して嘘をつかない。百年の怨嗟の始まりも、権力者の醜い嘘も、すべてはモノが記憶している)
美波の脳裏に、数日前に修復した御影家の備忘録の記述と、古物商としての圧倒的な知識が、極限の集中力の中でピタリと重なり合った。
「ところで、あなたが誇らしげに身につけている、その一族の栄誉を示す装身具。あなたは、それを百年前の先祖から代々受け継ぎ、権力の頂点へ返り咲くための心の支えにしてきたのですよね」
「それがどうした。これは我が一族が、どんな苦境にあっても誇りを失わなかったことの明確な証明だ。お前のような小娘に、とやかく言われる筋合いはない」
「いいえ。あなたは、根本的に間違っています」
美波の言葉は氷のように冷たく、そして残酷なまでに研ぎ澄まされていた。
「その台座部分。純金や白金のように見えますが、光の反射と経年劣化による微細な青錆の痕跡から、それが安価な金メッキを施しただけの真鍮であることがわかります。そして、中央に輝く青い宝石。一見、見事な細工に見えますが、カットの角度が単調で内部の気泡が不自然なほど均一であり、不純物が混じっています。それは天然の宝石ではなく、十九世紀後半に大量生産されたただの色ガラスです」
「な、何を馬鹿なことを言っている。これが偽物だとでも言う気か」
青柳が激昂し、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。しかし美波は一歩も引くことなく、百年前の真実を白日の下に晒した。
「はい。それは、まったく価値のない安物の模造品です。百年前、大泥棒である土岐半次郎は、あなたの先祖の厳重な蔵に忍び込み、すべての不正の証拠と、本物の財宝を根こそぎ奪い去りました。その時、半次郎は、これだけをわざと盗まずに残していったのです。民衆からすべてを搾り取った哀れな高利貸しには、この安物がお似合いだという、最大の皮肉と手向けとして」
静寂。
沢山の光が瞬く中、会場の空気が完全に凍りついた。
青柳征太郎が、そして彼の先祖が、百年という途方もない時間をかけて、泥水をすすりながら守り抜いてきた一族の栄誉の象徴。
自分たちを正当化し、他者を殺してでも権力にしがみつくための絶対的な心の支え。
それが、大泥棒である土岐半次郎の手のひらの上で踊らされていた、ただの価値のない偽物だったという事実。
土岐半次郎は、彼らの富と権力を奪っただけではなかった。彼らの誇りそのものを、百年前のあの日、根底からすっかり嘲笑い、破壊していたのだ。
「あ、あ、ああ」
青柳の口から、空気が抜けるような間の抜けた音が漏れた。
彼は震える手で自らの胸元に触れ、目を見開き、信じられないものを見るようにただ呆然と立ち尽くした。
「モノは、嘘をつきません、青柳官房長官」
美波の言葉が最後の一撃となって、青柳の心を粉砕した。
「あなたが百年間守り抜いてきた誇りは、最初から存在しなかった。あなたは、ただの偽物にすがりつき、自分の権力欲を満たすためだけに、私の両親や牧村さんという罪のない人々の命を奪ったのです。あなたの人生は、ただの哀れな勘違いでしかありません」
その瞬間。
青柳征太郎の被っていた悲劇の政治家という分厚い仮面が、音を立てて砕け散った。
「嘘だ……」
青柳は、胸元の装身具を力任せにむしり取り、硬い床に強く叩きつけた。
偽物のガラスの宝石が、虚しい音を響かせて粉々に弾け飛ぶ。
「嘘だ嘘だ嘘だ。私が。我が一族が、泥棒ごときに嘲笑われていたというのか。こんな偽物のために、私は百年間。許さん、許さんぞ時洲美波。お前たち一族が、我が青柳家からすべてを奪ったのだ。お前の両親も、裏でこそこそ嗅ぎまわるドブネズミを消したのも私だ。お前たちのような薄汚い血脈と、それに関わる者も一人残らずこの世から消え去るべきなのだ」
屈辱と激怒で正気を失った青柳は、全国の生中継のカメラが回っている前で、十年前の暗殺の正当性と、自らがすべての黒幕であることを自らの口で絶叫し、すっかり自白してしまったのだ。
会場に集まった数百人の記者たちは、一瞬の沈黙の後、爆発したようにカメラの駆動音を鳴らし、一斉に本社へと怒号のような報告を入れ始めた。
「観念しろ、青柳」
桐生は、狂乱する青柳を見下ろし、冷徹な笑みを浮かべた。
力や論理だけでは決して崩せなかった、絶対的な権力の強固な防壁。
それを内側から破壊したのは、美波の眼が読み解いた、百年前の残酷な真実だったのだ。
綾瀬が、震える手で手錠を取り出し、演壇へと飛び乗る。
もはや青柳を守るSPは誰一人として動かない。彼らもまた、自らが守っていた男の正体が、狂気に取り憑かれたただの殺人教唆の犯罪者であることを、今この瞬間にはっきりと理解したのだ。
「青柳征太郎。殺人教唆、および数々の汚職の容疑で逮捕する。あんたのくだらない誇りごっこは、これですべて終わりだ」
冷たい金属の音が、マイクを通して会場中に響き渡る。
歯を食いしばり、憎悪に満ちた目を美波に向ける青柳征太郎。
光の嵐の中、百年にわたる怨嗟という名の巨大な怪物が、ついにその息の根を止められた瞬間だった。
美波は、床に砕け散った偽物のガラスの破片を、静かに見つめていた。
復讐を果たしたという喜びはない。ただ、果てしなく続く哀しい因果の連鎖に、ようやく終止符を打つことができたという、静かな安堵だけが胸に広がっていた。
(終わったよ。お父さん、お母さん。そして、牧村さん)
美波はそっと目を閉じ、小さく息を吐き出した。




