第七話『道標』(後)
日本という国家の根幹を揺るがす、未曾有の事件の幕が切って落とされた。
会場を埋め尽くしていた数百人の記者たちは我先にと特ダネを送り、各局はすべての予定を取り消してこの異常事態を報じ続けた。内閣官房長官である青柳が狂乱しながら叫んだ『時洲』という名前や、『百年の怨嗟』という時代錯誤な言葉の真意を巡って、報道機関は連日連夜、狂騒の渦に巻き込まれていった。
その後の展開は、まさに雪崩を打つような激しさだった。
最大の黒幕であった青柳が崩れ落ちたことで、彼にすがりついていた特捜部や警察上層部の腐敗した派閥は、強固な後ろ盾を完全に失った。そこへ、桐生が事前に各所へ送っていたダミー会社の裏帳簿のデータと、トラック運転手へ裏金が支払われたという裏取引の証拠が、決定的な物証として火を噴いたのだ。
青柳の息の根を止めた桐生の緻密な論理の罠は、すでに逃げ場を失っていた権力者たちを、次々と無慈悲に捕らえていった。裏金を受け取っていた警察幹部、便宜を図っていた政治家、そして企業を隠れ蓑にしていた裏社会の組織。
国家公安委員長の山添翔一と、内閣官房長官の青柳征太郎という二つの巨大な頭を失った怪物は、もはや抵抗する術を持たず、わずか数日の間にその巨体のすべてを法の下に解体され、白日の下に晒されることとなった。
百年にわたって時洲家を呪い、権力の頂点から人々を見下してきた者たちの、社会的な死。
それは、大泥棒である土岐半次郎の血脈がもたらした二度目の敗北であり、今度こそ決して這い上がることのできない、永遠の終焉だった。
それから、一週間の月日が流れた。
世間の喧騒がまだ冷めやらぬ中、分厚い雲が晴れ渡り、高く澄み切った冬の青空が広がる日の午後。
東京近郊にある、木立に囲まれた霊園の小高い丘の上に、三つの人影が立っていた。
美波、綾瀬、そして桐生である。
彼らの視線の先には、まだ真新しい、綺麗に磨き上げられた黒い墓石がひっそりと佇んでいる。
墓石の正面には、牧村秋義の名が深く刻まれている。
事件の全貌が解明されたことで、牧村が警察組織を不当に追われた理由も、彼が十年間たった一人で裏社会に潜り込み、警察の腐敗を命懸けで暴こうとしていた真実も、すべてが上層部に正式に認められた。結果として、牧村の生前の汚名は完全に雪がれ、彼は巨大な悪に孤独に立ち向かい、真実を守り抜いた誇り高き刑事として、特例でこの警察の公式な墓地に埋葬されることが許されたのだ。
「随分と、見晴らしのいい場所ですね」
美波が、冷たい冬の風にキャメル色のダッフルコートの裾を揺らしながら、誰に向けるでもない声で呟いた。
丘の上からは、牧村が愛し、そして命を懸けて守り抜こうとした東京の街並みが、冬の澄んだ空気の中で遠く霞んで見渡すことができた。
綾瀬は灰色の背広の膝を土で汚すことも厭わず、墓石の前にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、袋から牧村が好きだったという安物のブラック珈琲を取り出し、火をつけた煙草とともに墓前にそっと供えた。
細く立ち上る紫煙が、冷たい冬の空気に溶け込みながら、高く、高く昇っていく。
「牧村さん」
綾瀬は、赤く腫らした目をこすりながら、震える声でぽつりと語りかけた。
「あなたの遺してくれた証拠のおかげで、俺たち、とうとう黒幕を捕まえましたよ。警察組織はまだ揉めていますが、上の連中が一掃されたおかげで、少しずつまともな方向に向かおうとしています。牧村さんが流した血は、無駄にはしませんでした」
綾瀬は鼻をすすり、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺、少しはマシな刑事になれましたかね。牧村さんみたいに一人で闇の中に飛び込んでいくような器用な真似はできません。でも、牧村さんが命懸けで守りたかったものを、俺も、ちゃんと守り抜くことができたでしょうか」
冷たい風が吹き抜け、墓石の横に供えられた真っ白な百合の花が、優しく揺れた。
それはまるで、不器用で真っ直ぐすぎた先輩刑事が、お前はまだまだ甘いなと笑みを浮かべながら、後輩の頭を撫でてくれているかのようだった。
「感傷に浸っているところ悪いが、お前がマシな刑事になったという証拠は、どこにも存在しないぞ、綾瀬」
桐生が、黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、背後から冷や水を浴びせるような言葉を口にした。
「お前はただ、俺が構築した舞台の上で、俺の指示通りに動いただけの存在に過ぎない。俺の知恵がなければ、お前などとうの昔に権力に押し潰されて、東京湾の冷たい底に沈んでいただろう」
相変わらずの、人の心を逆撫でするような傲慢な物言い。
しかし、綾瀬は反論する代わりに小さく笑みをこぼした。桐生のその態度の裏にある不器用さを、この数日間の戦いを通じて誰よりも理解していたからだ。
「だが」
桐生は銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、牧村の墓石を真っ直ぐに、そしてひどく真摯な目で見据えた。
「この男が、警察という組織の枠組みを自ら捨て、一人で裏社会の泥水をすすりながら、奴らの尻尾を十年間も執念深く掴み続けたという事実。それだけは、俺の完璧な計算式にも到底組み込むことのできない、唯一の変数だったと認めてやる。この男が命と引き換えに集めたものがなければ、俺の推理も完成には至らなかった」
桐生は、コートのポケットから右手を出し、自らの胸元に軽く当てて、目を閉じ、そして深く一礼した。
「有能な刑事に、最大限の敬意を表してやろう。安らかに眠れ」
それは、他人の能力を滅多に認めず、感情を押し殺して生きる桐生にとって、これ以上ないほどの最大級の賛辞であり、彼なりの不器用な弔いの言葉だった。
美波は、桐生のその言葉に小さく微笑むと、持参した琥珀色の美しい百合の花束を、墓前にそっと手向けた。そして、冷たい墓石に両手を触れ、胸の前で手を合わせて深く目を閉じる。
(牧村さん。あなたが十年間、一人で暗闇の中から、私と両親の大切な思い出の場所である時洲堂を守り続けてくれたおかげで。私は今日まで、温かい人たちに囲まれて、笑って生きてくることができました)
脳裏に浮かぶのは、あの吹雪の夜。時洲堂に現れ、ここは禁煙ですよと注意した美波に向かって、どこか懐かしそうに、そして深い悲しみを湛えて笑った、あの不器用な男の顔。彼は、自分がかつて守れなかった夫婦の娘が、古物商として成長している姿を見て、どれほど安堵しただろうか。
(あなたの繋いでくれた命を、もう絶対に過去の亡霊たちには渡しません。本当に、本当に、ありがとうございました)
ゆっくりと目を開けると、冷たいけれど心地よい冬の風が、美波の前髪を優しく揺らした。過去の悲しい因果は完全に断ち切られ、両親と牧村の無念は、ついに晴らされた。これからは、後ろを振り向くことなく、前を向いて歩いていく。彼らが命を懸けて繋いでくれたこの愛おしい日常を、未来へと進めていくために。
「行きましょうか。みんなが、待っていますから」
美波が振り返って微笑むと、綾瀬は涙を拭って力強く頷き、桐生は鼻を鳴らして踵を返した。
三人は、冬の澄んだ空の下、確かな足取りで丘を下っていった。
その日の夕刻。
東京の下町、細い路地の奥に佇む時洲堂は、数日前の青柳の私兵による襲撃の傷跡を痛々しく晒していた。
粉々に砕け散った陳列棚のガラス。無残にひしゃげた仕切り。美波の父が愛したマホガニーのカウンターは真っ二つに折れ、母が大切に磨いていた古い柱時計は、文字盤を砕かれてその鼓動を止めている。両親の生きた証と、美波の思い出が詰まった帰るべき場所は、権力者の身勝手な保身によって、修復不可能なほどに破壊し尽くされていた。
しかし、その変わり果てた建物のすぐ斜向かいにある、三枝夫婦の家の居間からは、外の寒さなど吹き飛ばすほどの、温かい笑い声と熱気が溢れ出していた。
机の上には、洋子が腕によりをかけて作った山盛りの手料理や、色とりどりの食事、そしてお祝いと書かれた巨大な菓子の箱が所狭しと並べられている。
「さあさあ、今日は美波ちゃんが、あの悪い政治家をやっつけたお祝いよ。みんな、遠慮しないでどんどん食べてね」
割烹着姿の洋子が、満面の笑みで紙皿と割り箸を配って回る。
事件のすべてが報道された後、美波は三枝夫婦に、自分の一族が大泥棒、土岐半次郎の血脈であること、そして、半次郎に汚職を暴かれた青柳家からの百年にわたる怨嗟の標的にされていたことを、すべて包み隠さずに打ち明けた。
両親が殺された本当の理由を知り、洋子は声を上げて泣き、幸一は押し黙り、けれど激しい怒りで拳を震わせている。
「なんだ美波、お前、そんな大事なことを抱えて、とんでもねえ相手と戦っていたのか」
幸一が、麦酒が入った器を片手に、少しだけ拗ねたように言った。
「ごめんなさい、幸一さん。でも。自分が泥棒の末裔だって知ったら、皆さんに嫌われてしまうんじゃないかって、怖くて言えなかったんです。それに、これ以上皆さんを巻き込みたくなくて」
美波が俯くと、幸一は馬鹿野郎と短く吐き捨て、その大きな手で美波の頭を乱暴に撫でた。
「百年前の先祖が泥棒だろうが何だろうが、俺たちが知っているお前は、この街で一緒に泣いて笑ってきた、ただの時洲美波だ。そんなもので、俺たちがお前を嫌うわけねえだろうが。それに、お前の親父とお袋は、最後まで俺たちの自慢の家族だった。その誇りだけは、どんな偉そうな大臣だろうが、絶対に奪えやしねえよ」
幸一の不器用で、けれど何よりも重く温かい言葉に、美波の目頭が熱くなる。
そこへ、杖をつきながらのんびりとした足取りで笠原爺さんが入ってきた。
「やあ、美波ちゃん。報道を見た時は寿命が縮む思いだったがね。あの悪い大臣が捕まって、本当に安心したよ。今日はうちの婆さんがあんたみたいな年寄りが邪魔しては駄目だと言うのを、無理やり振り切って来たんだよ」
「笠原さん、ありがとうございます。でも、奥様をあまり怒らせないでくださいね。あとで、お詫びの品として綺麗なガラスの小瓶でもお持ちしますから」
「おお、そいつは助かる」
笠原が目を細めて笑っていると、突然勢いよく玄関のドアが開き「こんにちは、お届け物です」と、大きな段ボール箱を抱えた冬馬が飛び込んできた。
「時洲さん。報道見て、俺、心配で心配で心臓止まるかと思いましたよ。これ、今日届いたアンティークの荷物です。署名、お願いします」
冬馬は、真っ赤な顔をして照れくさそうに伝票を差し出す。彼は美波が危険な目に遭っていた間、何も知らずに埼玉まで配達に行かされていたことを後から知り、ひどく落ち込んでいたのだ。だからこそ、今日は誰よりも早く美波の顔を見たかったのだろう。
「冬馬くん、ありがとうございます。あの日は、埼玉までの配達、無理を言ってごめんなさい。冬馬くんが引き受けてくれたおかげで、私は安心してやらなきゃいけないことに集中できました」
「とんでもないです。時洲さんのためなら、地球の裏側だって、配達しますから。だから。もうあんな風に一人で危険なこと、しないでくださいね」
冬馬の真っ直ぐな言葉に、美波は「はい」と優しく微笑んだ。
和気藹々とした笑い声と、温かい料理の匂いが居間に満ちる中。
今度は弾かれたように玄関が開き、「お姉ちゃん」と声をあげながら、ランドセルを背負った健太が飛び込んできた。その後ろから、母親の小百合も「健太、走らないの」と言いつつ笑顔でついてきた。
「お姉ちゃん、僕ね、今日、国語のテストも一番だったんだよ。だから早くお姉ちゃんに……」
美波に飛びつこうとした健太の言葉が、途中でピタリと止まった。彼の真ん丸な視線の先。机の隅で一人だけ腕を組み、出された料理にも手を付けずに、ひどく不機嫌そうな顔をして座っている男がいた。
桐生だった。
「あ。警察のおじさんだ」
健太は目を輝かせ、美波を通り越して一目散に桐生の方へと突進していった。
「こら坊主。飛びついてくるな。俺の衣服に、お前の手の泥がつくではないか。離れろ」
桐生が顔をしかめて健太を引き剥がそうとするが、健太は声を上げて笑いながら、桐生の長い脚にしがみついて離れない。
「おじさんももしかして、お姉ちゃんのこと好きなの。でもお姉ちゃんは僕のお嫁さんになるんだから、だめだよ」
「馬鹿を言え。俺は警視庁捜査一課の誇り高き刑事だぞ。今日はただ、事件の事後処理に関する報告を──こら、ポケットに木の実を入れるな」
必死に理屈を並べ立てて自身の行動を正当化しようとする桐生だが、健太の猛攻に押されており、刑事としての隙のない仮面はすっかり形無しだった。その滑稽で人間味に溢れた姿を見て、幸一が「おい眼鏡、そんな顔をしていないで唐揚げ食え」と豪快に笑い、冬馬や笠原たちも一斉に吹き出した。綾瀬も「桐生。お前、本当に素直じゃないな」と苦笑いしながら、洋子から渡された麦酒を受け取っている。
美波は小百合や洋子たちと顔を見合わせて小さく笑い合い、その騒がしくも愛おしい光景を確かに目に焼き付けていた。
窓の外を見れば、無残に破壊された時洲堂の姿がある。両親の思い出の場所は、権力の暴力によって一度は失われてしまった。
でも、本当の帰る場所は、建物なんかじゃない。今、目の前に広がっている、不器用で、騒がしくて、お互いを思いやり、助け合って生きていく、この温かい人々の繋がり。これこそが、両親が懸命に生き、美波に託してくれた何よりも尊い宝物であり、本当の時洲堂なのだ。
「みなさん」
美波は、麦酒の器を傾けている幸一たちに向かって、静かに、けれど強い決意を込めて言った。
「私、決めました。しばらくの間、この下町を離れて、日本中を旅してきます」
その言葉に、居間の喧騒がピタリと止まり、全員の視線が美波に集まった。桐生でさえも健太を引き剥がす手を止め、眼鏡の奥の瞳をわずかに見開いた。
「お店はあんな風に壊されてしまったけど。でも、悲しくはありません。だって、幸一さんが直してくれるって約束してくれましたから」
美波は幸一の太い腕を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「だから、幸一さんたちがお店を建て直してくれている間。私は日本中の迷子になったモノたちの声を聴きに行く旅に出ます。お父さんとお母さんが愛した古物商の仕事を、もっと深く、もっと広い世界で学ぶために。そして、いつかこの街に帰ってきた時、お父さんたちに恥じない立派な時洲堂の店主になるために」
美波の決意。それは過去の怨嗟から解放され、未来へ向かって自分の足で歩き出すための確かな一歩だった。
幸一は器の麦酒を飲み干すと、満足げに深く頷いた。
「ああ。行ってこい、美波。全国のモノの声を聴いて、腕を磨いてこい。その間に、俺たちがこの時洲堂を骨組みからきっちり前より立派に建て直しておいてやる」
「はい。いってきます」
洋子が泣き笑いのような顔で美波を抱きしめ、冬馬や小百合たちも温かい拍手で美波の背中を押してくれた。綾瀬は旅先で何かあったら、いつでも連絡してくれよと笑い、桐生は鼻を鳴らして俺の目から外れるような、馬鹿な真似はするなよと、相変わらずの言葉を口にした。
そのすべてが、たまらなく愛おしかった。
***
翌朝。
まだ薄暗い、静寂に包まれた下町の路地。
美波は革のトートバッグを肩にかけ、新しく買い直したコートを着て、傍らに置いたアンティークのトランクケースと共に、数々の思い出が残る、半壊した時洲堂の前に立っていた。手には、使い込まれた古い革の手帳と万年筆が握られている。
美波は手帳の新しいページを開き、静かにペンを走らせた。
『モノには、因果が宿る。
それは時に、人の心を百年の闇に縛り付ける、重く冷たい呪縛となる。
けれど、モノは嘘をつかない。
そして、モノが記憶しているのは、悲しみや憎しみだけじゃない。
誰かを想って作られた温もり。
大切に磨き続けられた、愛おしい時間。
過去を紐解き、本当の声を聴くことができれば。
モノは、私たちを温かい未来へと導いてくれる、優しい道標になる。』
美波はペンを置き、手帳をそっと閉じた。
丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳は、澄み切った朝の空のように、どこまでも透き通っていた。
過去の悲しい因果はすっかり断ち切られ、新しい時間がまたゆっくりと、けれど確かに刻まれ始める。
美波は朝日に照らされ始めた時洲堂の跡地に向かって、深く一礼した。そして振り返ることなく、新しい風が吹く方へと向かって、力強い足取りで歩き出した。
全国の迷子になったモノたちが、彼女の優しい手を待っている。




