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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と帰るべき場所―』  作者: 長月有希


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第六話『物証』(後)

 午後二時を回った頃。

 国家公安委員長という強大な権力の座にいた山添翔一を東京地検特捜部へと引き渡し、その連行を確かに見届けた後。桐生が運転する黒い覆面車両は、霞が関の無機質で巨大な官庁街を抜け、東京の下町へと向かって静かに車を走らせていた。

 昨夜の武装集団との死闘から一睡もせずに山添の執務室へと突入し、極度の緊張状態からようやく解放された三人の肉体と精神は、すでに疲労の頂点に達している。


 助手席では、大立ち回りを演じた綾瀬が深い眠りに落ちており、規則正しい寝息を立てていた。

 後部座席に座る美波も、窓の冷たいガラスに頭を預け、流れゆく冬の景色を静かな瞳で見つめている。

 百年の怨嗟の片翼を担っていた巨悪を完全に失脚させたという事実は、車内に微かな安堵の空気をもたらしていた。すべてが桐生の緻密な論理と美波の眼によって証明され、言い逃れのできない状況へと追い詰めたのだ。


 しかし、戦いがすべて終わったわけではない。

 山添は確かに国家の治安維持を司る国家公安委員長であり、国務大臣であった。だが、真の黒幕はそのさらに上に君臨している。内閣の中枢を完全に掌握し、政界と裏社会を文字通り牛耳る大物政治家、内閣官房長官の青柳征太郎である。

 山添という分厚い防壁が崩れた今、あとは国政の深淵に潜むその最後の敵を追い詰めるだけだという確信が、彼らの疲弊した心を確かに支えていた。


 暖房の効いた車内は静まり返り、平和な下町の日常へと帰還する穏やかな時間が流れていた。


 しかし、車が見慣れた下町の細い路地へと入り込んだ、その瞬間だった。

 桐生が急ブレーキを踏み込み、車輪が硬いアスファルトを激しく擦る鋭い摩擦音が車内に響き渡った。


 前方にのめり込みそうになった衝撃で、助手席でうたた寝をしていた綾瀬が跳ね起き、前方を睨んで言葉を失った。後部座席の美波も弾かれたように顔を上げ、窓の外の光景を見て、全身の血の気が一瞬にして足元へと引いていくのを自覚する。


 そこにあるはずの、穏やかで温かい古物商の店舗の姿は、原形を留めていなかった。


 時洲堂の周囲には、赤色灯を激しく回転させる警察車両が数台停まっており、黄色い規制のテープの外側には、不安そうに顔を見合わせる近所の人々が黒山の人だかりを作っていた。

 人垣の隙間から見えた時洲堂の木造の引き戸は、重機で強引に破壊されたかのように、無残に打ち破られている。通りに面した陳列棚の分厚いガラスは粉々に砕け散り、冬の冷たい日差しを反射して、鋭い刃のように路上に無数に散乱している。


 店内に整然と並べられていた年代物の柱時計や、美しい彫刻が施されたマホガニーの椅子は、すべて床に叩き落とされ、金属の鈍器のようなもので修復不可能なほどに破壊し尽くされていた。

 そして、ひしゃげた木材の表面には、赤いスプレー塗料で殴り書きされた生々しく巨大な文字が、暴力的なまでの自己主張とともに残されている。


『これ以上嗅ぎ回れば、次は店だけでは済まない』


 息を呑む美波の横で、運転席の桐生が鋭く舌打ちをした。


「青柳の差し金か。山添が特捜部に落ちたことをいち早く察知し、自分に火の粉が降りかかる前に俺たちの足元を崩しに来たというわけだ。下っ端のならず者どもを金で雇って店を襲わせるとは、実に浅ましく、下劣極まりないやり方だ」


 美波は震える手で車のドアを開け、よろめくような足取りで規制線の前まで歩み寄り、破壊された両親の思い出の場所の前に立った。


 足元に散らばる、かつて温かい光を放っていた琥珀色のランプのガラス片。父親がいつも座って古い帳簿をつけていたマホガニーのカウンターは真っ二つにへし折られ、母親が毎日大切に磨いていたアンティークの柱時計は文字盤を砕かれている。精巧な真鍮の歯車が外に飛び出し、百年以上の時を刻んできた時計の鼓動が、暴力によって理不尽に止められてしまっていた。


 それはただの古い建物ではない。両親が生きた証であり、美波が今日まで必死に守り抜いてきた唯一の帰る場所だったのだ。一つ一つの品物に両親の温かい手の感触が残り、迷子になったモノたちを救済してきた時洲家の誇りが詰まっていたのである。


 美波の膝から完全に力が抜け、冷たいアスファルトの上に崩れ落ちそうになる。

 自分の血筋を呪うような感傷は、もう彼女の中にはない。ただ、家族の大切な記憶が正体不明の泥靴で汚され、ただの瓦礫のように踏みにじられたことへの、純粋で息ができないほどの深い悲しみが、美波の胸を激しく締め付けた。


「美波ちゃん」


 割烹着姿の洋子が血相を変えて駆け寄ってきた。洋子は蒼白になって立ち尽くす美波の姿を見ると、大粒の涙をこぼしながらその細い体を力いっぱい抱きしめた。


「よかった。美波ちゃんが無事で。あんたが店にいなくて、本当によかった」


 石鹸と出汁の匂いがする洋子の温かい体温に触れ、美波の目から堪えきれずに涙が溢れ出す。その後ろから、顔見知りの警官との話を終えた幸一が重い足取りで歩み寄ってきた。


 その太い腕は微かに震え、行き場のない怒りを堪えるように、両手の拳が白くなるほど固く握りしめられている。彼がどれほど激しい怒りに駆られ、この惨劇に間に合わなかった自分を深く悔いているかが、痛いほどに伝わってくる。


「幸一さん」

「黒い車が数台乗り付けてきて、顔を隠した連中が鉄の棒で手当たり次第に壊して行きやがった。ほんの数分の出来事だ。俺が飛び出した時には、もう連中は逃げた後だった。美波、すまねえ」


 寡黙な金物職人は奥歯を強く噛み締め、変わり果てた姿になった時洲堂を憎々しげに睨みつけた。


「ひどい。こんなこと、人間のやることじゃない」


 車から降りてきた綾瀬が、惨状を目の当たりにして拳を震わせて呻く。

 桐生は周囲の人々と慌ただしく動く警官を一瞥し、冷徹な声で言い放った。


「青柳の狙いは物理的な破壊による精神的圧力だ。これ以上この場に留まって悲劇の主人公を演じることは、敵の安っぽい脅しに屈したと認めるのと同じだ。時洲。お前は今夜、この夫婦の元で休め。俺と綾瀬は本庁に戻り、明日青柳の喉元に刃を突きつけるための最後の手はずを整える。明日、必ず迎えに来る。いいな」


 桐生の言葉には一切の同情はなかったが、それは決して立ち止まることを許さない彼なりの強烈な激励だった。美波は涙を拭い、深く頷いた。


 桐生と綾瀬が車に戻り、路地を去っていくのを見送った後、洋子は涙で顔を濡らしながら美波の背中を優しくさすった。


「美波ちゃん。今日はもう、うちにおいで。こんな冷たい風の吹くところにずっといては駄目よ」


 足取り重く、何度も時洲堂を振り返る美波を幸一と洋子は両方から支え、三枝家の方へと向かっていった。



 その夜。

 三枝夫婦の自宅の小さな居間には、静かでひどく重い空気が漂っていた。

 古い石油ストーブで暖められた部屋の机には、洋子が丹精込めて作った大根と豚肉の熱々の汁物、山盛りの鶏の唐揚げ、艶やかに光る黄金色の厚焼き玉子が並べられている。食欲をそそる温かい匂いが部屋に満ちているというのに、美波は割り箸を持つこともできず、ただ深く俯いて自分の膝の上で両手を固く握りしめていた。


(お父さんたちの遺したお店を、大切な思い出の場所を私は守れなかった。皆さんにまで、こんな怖い思いをさせてしまった)


 時洲堂の痛ましい惨状が脳裏に甦る。

 美波の琥珀色の瞳は涙に濡れたままであった。


 決して逃げないと決めた覚悟に変わりはない。過去の血筋を言い訳にして逃げ出すような弱さは、すでに乗り越えている。しかし、自分自身の命が狙われることと、両親の生きた証である店が破壊され、自分を愛してくれる近所の人々を危険に晒してしまったことは、美波にとって全く別の次元の痛みを伴っていた。

 自分が国家権力に立ち向かうと決めたことで、この温かい下町の日常に暴力という名の泥を塗ってしまったのではないだろうか──その鋭い責任感が、美波の心を深くえぐっていた。


「ごめんなさい。私のせいで、皆さんに迷惑をかけて」


 美波が喉の奥から絞り出すように呟いた、その時だった。


「もう泣くんじゃねえ、美波」


 腕を組んで黙っていた幸一が、低く、しかし驚くほど優しい声で言った。

 美波が涙で滲む目を上げると、幸一は真っ直ぐに彼女を見つめ返していた。


「店が壊されたのは心底腹が立つが、お前の命が無事だったんだ。あんな建物くらい、俺が何度だって直してやる」

「でも。柱も梁もめちゃくちゃにされて」

「だから直すと言っているんだ」


 幸一は自分の分厚い胸を大きな手で力強く叩いた。


「いいか、美波。お前がどんな厄介な連中とやり合っているのか、俺たちはこれ以上詳しく聞くつもりはないし、止めるつもりもない。だから、途中で投げ出す事は許さねえ」


 幸一の言葉はただの慰めではなかった。長年モノ作りに携わってきた職人としての、そして美波を幼い頃から見守ってきた親代わりとしての、絶対的な信頼と覚悟だった。


「柱も梁もやられているから、骨組みからすっかり建て直すには数年はかかるだろう。だが、必ず俺が前より立派で頑丈な時洲堂をここに作ってやる。俺の腕を信じろ。だから美波、お前は店のことなんか一切気にせず、お前の戦いを最後の最後までやり抜いてこい」


 洋子も目に涙を浮かべながら、美波の冷え切った手に自分の温かい手を重ねた。


「そうよ、美波ちゃん。お店のことはお父さんに任せておけば絶対に大丈夫。私たち皆がいるここが、あなたの帰る場所よ。絶対に無くしたりしないからね。だから、安心して行ってきなさい」


(ああ)


 美波の胸の奥で、冷え固まっていた悲しみが、温かいお湯を注がれたようにゆっくりと溶けていく。


 青柳の卑劣な脅しは、時洲堂という形ある建物を破壊したかもしれない。でも、この下町の人たちとの間に築かれた目に見えない繋がりは、どれほどの権力や暴力をもってしても決して壊すことなどできないのだ。

 彼らがこの街に遺したものは、決して過去の憎しみや因縁なんかではない。今目の前に広がっているこの不器用でどうしようもなく温かい絆こそが、両親が残してくれた何よりも尊い遺産なのだと、美波は深く悟った。


「ありがとうございます。幸一さん、洋子さん」


 美波は涙を服の袖でしっかりと拭い、机の上の割り箸を静かに手に取った。

 そして、洋子が作ってくれた温かい汁物を一口飲み込む。出汁の深い旨味と味噌の豊かな風味が体の芯まで染み渡り、冷え切っていた胃袋から強烈な熱と生きる力が湧き上がってくるのを感じた。


(青柳征太郎という男がどれほど大きな存在だったとしても、この温かい日常を守るために、私は最後の最後までやり遂げるんだ)


 美波の琥珀色の瞳に、揺るぎない覚悟と澄み切った光が再び宿った。


 三枝家の小さな居間。温かい食事と不器用な家族の愛情に包まれながら、美波は明日の決戦に向けて静かに、しかし力強く命の炎を燃やしている。

 最大の黒幕、内閣官房長官である青柳征太郎という絶対的権力との最後の対決の時は、もうすぐそこまで迫っていた。

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