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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と帰るべき場所―』  作者: 長月有希


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第五話『印璽』(後)

 重厚なマホガニーのカウンターのさらに奥にある小さな控え室の物陰で、美波は冷たい床に膝を抱えるようにしてうずくまり、ただじっと息を潜めていた。暖房も切られた店内は吐く息が白く染まるほどに冷え切っている。しかし美波の額にはうっすらと汗が滲み、外套のポケットの中で固く握りしめられた両手は小刻みに震えていた。

 怖いわけではない。死を恐れているわけでもない。ただこれから自分の身に降りかかろうとしている暴力の気配と、百年にわたる怨嗟という目に見えない巨大な呪縛が確かな重さとなって華奢な肩にのしかかっていたのだ。


「来る」


 右耳の通信機器から、外に潜伏している桐生の冷静な声が響く。


「奴ら、三班に分かれた。二名は外での見張り。四名が正面のガラス戸から、残る二名が勝手口からの同時突入を図る気だ。いいか、時洲。俺の合図があるまで、お前はそこから動くな。奴らが店内に侵入し、お前が流した偽の証拠に手を伸ばしたその瞬間が、奴らを現行犯として捕らえる絶好の機会だ。俺の計画を、お前の勝手な行動で乱すことは許さないからな」


 美波は声を出さずに唇だけで小さく頷いた。

 十年前、両親の命を奪った巨大な闇。数日前、自分を守るために命を落とした牧村の無念。その直接の実行犯たちが今自分を消し、一族の誇りを守るためにこの思い出の詰まった時洲堂へと足を踏み入れようとしている。

 静寂を切り裂くような微かな金属音が、正面のガラス戸の鍵穴から響く。道具による鍵の破壊。専門の工作員の手にかかれば、時洲堂の古い鍵などものの数秒で無力化されてしまう。

 直後、油を差したばかりの金具が音もなく滑り、重たいガラス戸が開け放たれる。同時に裏手の勝手口からも扉の鍵を特殊な工具で焼き切るような微かな音が聞こえ、黒い影たちがまるで夜の闇そのものが滑り込んでくるかのように、一切の足音を立てずに店内へと侵入してきた。


(入ってきた)


 美波は控え室の物陰から息を殺して店内の様子を窺った。

 暗闇の中。しかし彼らの頭部に装着された暗視の装置からは、不気味な緑色の光が鈍く光っている。六つの黒い影は一言も言葉を交わすことなく合図だけで意思疎通を図り、店内を二手に分かれて探っていく。

 彼らが構えた銃口からは見えない光が放たれ、店内に飾られたティーカップや柱時計のガラス盤、マホガニーの机を無差別に舐め回していく。もしこの光が美波の体を捉えれば、その瞬間に一切の躊躇なく弾丸が彼女の命を奪うだろう。

 一人の工作員が、美波の隠れている場所からわずか数メートルの位置にあるカウンターの前に立ち止まった。

 美波は自らの心臓の音が、まるで警鐘のように店内に響き渡ってしまうのではないかと錯覚するほど激しい動悸に襲われた。工作員は迷うことなくカウンターの前に立ち止まり、床板を特殊な刃物でこじ開け始めた。


 古い木材が軋む音が鳴る。

 工作員が床板を外し、その中から古い桐箱を引きずり出した。彼らはその箱の重みと手触りを確認し、任務の第一段階である証拠の回収が完了したことを合図で指示役の男に伝えた。

 指示役の男は頷き、次に首をゆっくりと控え室の方へと向けた。

 任務の第二段階。時洲の名を持つ者の抹殺。

 男が銃口を上げ、暗闇に向かって一歩足を踏み出した、その瞬間だった。


「お遊びはここまでだ」


 突如として店内に設置された拡声器から、桐生の声が大音量で鳴り響いた。工作員たちが驚愕して銃口を向けた刹那。時洲堂の店内のすべての照明、そして外の路地に設置されていた強力な照明が一斉に太陽のような凄まじい光量で点灯した。

 暗闇の中で光を何千倍にも増幅させていた工作員たちの目を、突如として放たれた閃光が容赦なく焼き切った。六人の工作員たちが視界をすっかり奪われ、装置をむしり取ろうと苦悶の声を上げて顔を覆う。


「突入しろ。一匹残らず、力で制圧しろ」


 桐生の鋭い号令とともに、時洲堂の正面ガラス戸と裏の勝手口から、雪崩を打つようにして重装備の捜査員たちが店内に突入してきた。彼らは警察上層部の腐敗に気づきながらも手出しができなかった、桐生が裏で密かに掌握し選び抜いた精鋭部隊だった。


「動くな。警察だ。武器を捨てて両手を頭の後ろに組め」


 捜査員たちの怒号が飛び交う。しかし、公安の暗殺部隊である彼らは視界を奪われながらも、ただのならず者のように混乱に陥ることはなかった。彼らは即座に散開し、家具やカウンターを盾にして、見えないまま銃を乱射しようと引き金に指をかけた。

 銃撃戦になればこの店は蜂の巣になり、美波にも流れ弾が当たる危険がある。


「させるか」


 その時、正面入り口から弾丸のような速度で一人の男が飛び込んできた。灰色の背広を翻し鬼の形相で指示役の男に肉薄したのは、綾瀬だった。

 綾瀬は男が銃口を向けるよりも早くその懐に潜り込み、鍛え抜かれた体躯から放たれる渾身の拳を男の顎に正確に叩き込んだ。


「牧村さんの仇だ」


 綾瀬の拳には、先輩を奪われた悲しみと憎悪、そして正義を貫けなかった警察組織そのものに対する激しい怒りがすべて乗せられていた。一撃で脳を揺らされ崩れ落ちようとする男の胸ぐらを掴み上げ、綾瀬はさらに警察の逮捕術の粋を集めた技で、男を床に激しく叩きつけた。

 他の五人の工作員たちも、視界が回復しないまま桐生の部下たちによる連携の取れた格闘術によって次々と武装を解除され、床に押さえつけられていく。抵抗しようと刃物を抜いた者もいたが、それすらも圧倒的な数の力と計算し尽くされた戦術の前には無力だった。


「制圧完了。被疑者六名、全員の武装を解除し身柄を確保しました」


 部隊の隊長からの報告が響く。その声を聞いて、美波は控え室の物陰から震える足に力を込めてゆっくりと立ち上がった。

 店内は激しい格闘の跡でいくつか椅子が倒れてはいたが、幸いなことに幸一が心配していたようなガラスの破損や大切な家具の深刻な破壊は免れていた。そして入り口のガラス戸の向こうから、黒いコートを羽織った桐生が、まるで自らが演出した舞台に上がる役者のように悠然とした足取りで店内に入ってきた。


「滑稽だ。国家の暗部を自称する精鋭部隊も、俺の仕掛けた罠の前ではただの目隠しされた群れと変わらないというわけか」


 桐生は床にうつ伏せに押さえつけられ手錠をかけられた工作員たちを見下ろし、銀縁眼鏡の中央を中指で押し上げて冷笑を浮かべた。


「お前たちが回収しようとしたその桐箱の中身は、古本屋で安く買ってきたただの白紙の束だ。お前たちは俺の流した偽の情報にまんまと踊らされ、一般市民の店舗に完全武装で侵入し強盗と殺人未遂という言い逃れのできない現行犯で逮捕されたのだ。この敗北の味はどうだ」


 桐生の挑発にも、工作員たちは誰一人として声を上げなかった。彼らは床に顔を押し付けられながらも無表情のまま奥歯を強く噛み締めている。彼らは捕らえられた際の厳しい尋問に対する訓練を受けており、自らの口から組織の情報や黒幕の名前を吐くことなど万が一にもあり得ないのだ。


「桐生。こいつら、さすがに黙秘の訓練を受けている。いくら締め上げても、山添や青柳の指示だとは死んでも口を割らないぞ。これじゃあただの強盗団として処理されて、関係者の切り捨てで終わってしまう」


 綾瀬が男の胸ぐらを掴みながら、焦燥に駆られた声で叫んだ。

 国家権力という巨大な組織は、この程度の末端の実行犯をいくら切り捨てようが決して痛手にはならない。実行犯の証言が取れなければ、山添たちを失脚させることは不可能なのだ。しかし桐生は全く動じることなく鼻を鳴らした。


「騒ぐな、綾瀬。こいつらが口を割らないことなど、最初から俺の計算の範疇だ。俺が欲しいのは、そんな不確かな自白などという安い証拠ではない」


 桐生は床に散乱している工作員たちの装備品、銃、暗視装置、刃物、そして通信機器の数々を見下ろした。


「人間は嘘をつき沈黙を守る。だがどれほど訓練された専門家であろうと、その任務に用いられたモノだけは決して嘘をつかない。そこに刻まれた確かな痕跡こそが、奴らの組織と黒幕へと繋がる確固たる証拠となる。そうだろ、時洲」


 桐生は控え室から歩み出てきた美波に向かって声をかけた。


「俺の推理の総仕上げだ。お前のその眼で、この無口な連中の落とし物から山添翔一の首に直接巻き付く決定的な証拠を見つけ出してみせろ。できるな」


 桐生の問いかけに、美波は深く頷いた。両親の死の真実と百年の因果を終わらせるための最後の時間。美波はすでにポケットの中で準備していた愛用の銀色のルーペを取り出し、床に押さえつけられている工作員たちの装備品の前に膝をついた。


「まずは彼らの足元から見させてもらいます」


 美波はルーペを右目に当て、工作員が履いている黒い靴の底とその縫い目を丹念に観察し始めた。


「この靴、市販の模造品ではないようです。底の特殊な配合ゴムの模様、そして防水性を高めるために縫い目に塗り込まれているあのアンティーク時計を破壊したのと同じ靴墨の匂い。この靴が歩んできた道は、ただの裏社会の人間ではなく公的な組織に属する人間の痕跡です」

「なるほど。だがそれだけでは警察のどの部署かまでは特定できない。続けろ」


 桐生の冷静な指示に、美波は次に彼らが床に落とした銃へと視線を移した。


「銃器の製造番号はすべて深く削り取られ薬品で溶かされています。一切の足がつかないように加工された非合法の銃です。しかし手入れに使われている油の匂いと内部の部品に残された微細な研磨の痕。これは大量生産品の粗悪な痕跡ではありません。専門の職人が潤沢な予算を使って一丁ずつ手作業で精度を高めた証です」


 美波の言葉に、床に押さえつけられている男の眉間がわずかに動いた。自分たちが隠蔽したはずの組織の痕跡を、ただの古物商の少女がまるでモノの歴史を読み解くように次々と丸裸にしていく。その底知れない観察眼に、専門の工作員ですら恐れを抱き始めていたのだ。


「靴と銃器だけで彼らが国家権力によって飼われている非合法の部隊であることは証明できます。ですが桐生さんのおっしゃる通り、これだけでは山添翔一という個人の命令であることを証明するには不十分です」


 美波は立ち上がり、最後に男の胸元の衣服から転がり落ちていた黒い特殊な通信機器を手に取った。それは一般的な警察の無線とは全く異なる、強固な暗号化の処理が施された機器だった。


「この通信機。これが、実行役と指示役を繋ぐ最後の鍵です」


 美波はカウンターの上に通信機を置き、照明の明かりの下で極小の道具を使ってその頑丈な外装を慎重に開け始めた。外装が外れ、複雑な電子基板と電池の部品が姿を現す。

 美波はルーペを通して、その内部の基板の溶接の痕跡や留め具の締め付け具合、そして電池の裏側に隠された微細な刻印を、一ミリの隙もなく読み解いていった。


「この通信機はただの無線機ではありません。内部の基板に施されている溶接は盗聴防止のための特殊な合金。そして外装を固定していた留め具の締め付けの痕。ここには公安の最奥にある特殊な部署だけが使用する独自の青い緩み止めの薬が残っています。この通信機が誰の手で管理されてきたか、その記憶がはっきりと残っています」

「よし。そこまでは想定通りだ」


 桐生が腕を組み、鋭い視線を通信機に落とす。


「だが、公安の装備だというだけではまだ足りない。山添は部下が勝手に持ち出してやったことだとシラを切るはずだ。奴自身の首を直接絞める、言い逃れのできない証拠を見つけ出せ。頼むぞ、時洲」


 桐生の厳しい要求に、美波は一切怯むことなく通信機のさらに奥深くに隠された真実へと指先を伸ばした。彼女は道具を使い、通信機の電池の奥にある極小の暗号化の部品が差し込まれている部分をそっと引き抜いた。その部品の表面を見た瞬間、美波の琥珀色の瞳が決定的な真実を捉えて大きく見開かれた。


「ありました。桐生さん、これを見てください」


 美波がルーペ越しに指し示したその極小の部品の表面には、電子的な鍵とは別に目に見える形での封印が施されていたのだ。それは赤い蝋を垂らし、その上から特殊な金属製の印を押し当てた中世の封蝋のような古い形の封印だった。


「これは、目に見える封印か。なんでこんな最新の通信機にこんな時代遅れの細工がされているんだ」


 綾瀬が不思議そうに覗き込むが、桐生は一瞬でその意味を理解し、笑みを深めた。


「なるほど。奴の権力への執着と異常なまでの用心深さが、自らの首を絞める致命的な隙を生み出したというわけか」

「はい。その通りです」


 美波は静かに頷き、その赤い封蝋に刻まれた極小の紋章を男の目の前に突きつけた。

「この部隊の任務は記録に残してはならない非合法な作戦です。デジタルな暗号鍵だけでは、外部からの侵入や内部の告発で証拠が漏れることを恐れた。だからこそ作戦の最高責任者は、部隊の指示役が持つこの通信機の部品に自らの手で直接封印を施したんです。通信の鍵を解除し殺しの指示を受け取るためには、この蝋の封印を破らなければなりません。つまりこの封印が無傷で残っているということは、作戦の直前に最高責任者が自分の手でこの通信機を直接手渡し命令を下したという、決定的な証明なのです」


 美波は、その封蝋に刻まれた紋章をはっきりと読み上げた。


「この封蝋に刻まれた紋章は、警察の桜の代紋ではありません。丸に三つ柏。百年前から続く山添家の正式な家紋です。そしてこの赤い蝋の成分に混じっている特有の香木と高級な煙草の匂い。これは公安委員会の長である山添翔一の執務室の匂いと一致します」


 沈黙。美波の見事な鑑定と証拠の提示を前にして、床に押さえつけられていた男はついに観念したように力なく頭を床に落とした。


「見事です、時洲さん」


 綾瀬が震える声で呟いた。彼らが十年間どれほど足掻いても手が届かなかった、国家権力の最奥に潜む巨大な闇。その分厚い壁が、一人の古物商の少女が持つモノの声を聴く眼によって今すっかり打ち砕かれたのだ。


「完璧だ」


 桐生は美波の手からその部品を恭しく受け取ると、銀縁眼鏡の奥ですべての勝利を確信した笑みを浮かべた。


「いかに山添翔一と言えども、これでもはや一ミリの言い逃れも不可能だ」


 桐生は部品を証拠品袋に厳重に封入し、部下たちに向かって鋭く命じた。


「この連中を直ちに極秘の施設へ連行しろ。そして綾瀬。俺の用意した起訴の書類とこの証拠を持って今すぐ山添の元へ乗り込むぞ。自分の権力を過信し俺の信念とこの女の日常を理不尽に踏みにじった罪の代償を、まずは山添の社会的失脚をもって支払わせてやる」

「了解だ。行こう、桐生」


 綾瀬が力強く頷き、実行犯たちが次々と連行されていく。激しい嵐が過ぎ去った後のように、時洲堂の店内には再び静寂が戻ろうとしていた。しかしそれはもはや怯えるような暗闇の静寂ではない。百年の怨嗟という過去の呪縛を断ち切り、新たな夜明けを迎えるための澄み切った静けさだった。


「時洲」


 店を出て行く間際。桐生は振り返りカウンターの奥に立つ美波を見つめた。彼の態度の裏に隠された美波への不器用な気遣いと無自覚な敬意。それが今夜の彼の行動のすべてに表れていた。


「お前のその眼は俺の推理の総仕上げとして見事に機能した。よくやった。この後のことは任せろ。山添も青柳も俺たちが引き摺り出す。お前はもう過去の因縁に怯える必要はない。ここで、お前の日常を生きるんだ」


 それは桐生なりの最高の賛辞だった。


「はい。ありがとうございます、桐生さん。気をつけて、行ってらっしゃいませ」


 美波は深く、深く頭を下げた。

 警察組織を追われた刑事と、亡き先輩の遺志を継ぐ刑事。彼らの背中が冷たい冬の夜の闇の中へ、最後の標的である巨大な権力者を狩るために力強く消えていった。

 やがて美波は顔を上げ、カウンターの奥にある両親の写真を見つめ、柔らかく微笑む。

 過去の悲しい因果を断ち切るための道筋が、今夜すべて見えたのだ。これからはまたあの温かい下町の人々とともに、迷子になったモノの声を聴き未来へと繋ぐための穏やかな日々を取り戻す。

 時洲堂の琥珀色の照明に、美波は再び優しく温かい火を灯した。

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