第五話『印璽』(前)
夕刻。東京の下町に、長く冷たい冬の夜が忍び寄ろうとしていた。
古物商である時洲堂の店内は、表の仕切りが半分下ろされ、琥珀色のアンティーク照明の明かりだけが、マホガニーの重厚なカウンターの周囲を薄暗く照らし出していた。定休日ではないにもかかわらず、店は事実上の休業状態にあった。外の冷気が微かに隙間から忍び込み、店内に立ち込める古い紙と木材の匂いを冷たく引き締めている。
カウンターの前に立つのは、黒いコートを羽織り、銀縁眼鏡の奥で冷徹な知性の光を放つ警視庁捜査一課のエリート刑事である桐生だった。そしてその隣には、凄惨な死を遂げた先輩刑事の無念を晴らすために並々ならぬ意志を燃やす若手刑事の綾瀬が、険しい表情で腕を組んでいた。
彼らを迎え撃つように、カウンターの奥には深い喪服を思わせる黒い衣服を身に纏った時洲美波が立っている。彼女の琥珀色の瞳には、もはや絶望や迷いは微塵も存在せず、ただ静かに、しかし鋼のような覚悟を秘めた光が宿り、二人の刑事の顔を真っ直ぐに見据えていた。
「いいか、よく聞け。俺たちが相手にしているのは、その辺の粗暴な悪党や、ただの詐欺集団などではない。国家の治安維持を司る公安委員会の頂点と、国政を動かす現職の内閣官房長官だ」
桐生は、カウンターに広げられた相関図を指先で叩きながら、極めて冷静な声で口を開いた。彼の言葉は、自分たちが直面している壁の途方もない高さを、感情を一切交えずに冷酷なまでに定義していく。
「俺たちが、裏社会の仲介業者を徹底的な論理で問い詰めて手に入れた証言と物的な証拠。そして、ダミー会社の事務所の壁の裏から引きずり出した裏帳簿のデータ。確かにこれらは、奴らの底なしの不正を証明する決定的な証拠だ。だが、これをこのまま警察の監察や外部の検察に持ち込んだところで、奴らの分厚い権力の壁を崩すことはほぼ不可能だ」
「どうしてだ。これだけの証拠が揃っているのに」
綾瀬が身を乗り出して食ってかかる。末端の刑事として現場の血と汗を知る彼にとって、明確な証拠がありながら手を出せないという現実は、到底受け入れがたいものだった。しかし桐生は、怒りに駆られる綾瀬を静かに見据えて言葉を続けた。
「相手は法律を作り、警察組織そのものを手足として動かす側の人間だ。正面から正攻法で挑めば、必ず関係者の切り捨てで終わる。俺たちが命懸けで集めた証拠は巧妙に偽造だと揉み消され、関わった末端の人間たちがすべての罪を被らされて不審な死を遂げるだろう。そして、肝心の山添翔一と青柳征太郎には傷一つ付かずに終わるのが関の山だ。権力という強固な鎧を着た相手と、相手が支配する土俵で戦うこと自体が、あまりに愚かで無謀なのだ」
桐生は銀縁眼鏡の両端を親指と中指で挟み込むようにして押し上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。
「安全な場所にいる限り、奴らは無敵だ。ならば、奴ら自身にその強固な砦から歩み出させ、自らの手で取り返しのつかない罪を直接犯させ、言い逃れのできない現行犯として確保するしかない。つまり、奴らを直接こちら側の土俵へと引きずり下ろす罠を仕掛ける」
「罠。でも、そんな簡単に、あの狡猾な連中が引っかかるとは思えないぞ」
綾瀬が怪訝な顔をして問い返す。長年、警察の目を逃れて裏社会と繋がり続けてきた権力者たちが、安易な挑発に乗るとは考えにくかった。すると桐生は、視線を隣に立つ美波へとゆっくりと向けた。
「どんなに強大な権力者であろうと、感情を持った人間である以上、必ず冷静さを失う致命的な弱点が存在する。時洲。お前なら痛いほどわかるはずだ。奴らの理性を狂わせ、慎重な判断力を根こそぎ奪い去る激しい感情の正体がな」
桐生の問いかけに、美波は静かに、深く頷いた。彼女の脳裏に、百年前の先祖が残した古い備忘録に記されていた凄惨な歴史の真実が蘇る。
「一族の誇り、ですね」
「ご名答」
桐生は満足げに頷いた。
「百年前、土岐半次郎というたった一人の泥棒によって、奴らの先祖はすべての名誉を奪われ、民衆から石を投げられ、社会的に抹殺された。奴らはその敗北の屈辱と怨嗟の記憶を抱え、復讐の念だけで泥水の中から這い上がってきた。ならば、その最大の急所を、もう一度同じ形で突いてやればいい」
桐生が立案した反撃の筋書き。それは、権力者たちが最も恐れる過去の悪夢を、現代に再び再現することだった。
「俺たちの手で、裏社会の末端から情報を流す。時洲堂の奥から、祖父である伝説の鑑定士、仙次郎が隠し持っていた、百年前の山添と青柳両家の新たな汚職の証拠が発見された、とな。そして、その証拠の中には当時の先祖が残した醜悪な犯罪の記録が克明に記されており、時洲美波がそれを公の場に晒す準備を進めている、というわけだ」
その作戦を聞いた瞬間、綾瀬は息を呑み、言葉を失った。桐生の思考の恐ろしさに戦慄したのだ。祖父の仙次郎は、かつて政財界に顔が利くアンタッチャブルな存在として恐れられていた。彼が隠し持っていた証拠となれば、その噂の信憑性は極めて高いものとして敵の耳に届くはずだ。
「なんて恐ろしい作戦だ。だが、あの狡猾な連中がそんな挑発に乗るのか」
「乗るさ」
桐生の瞳に、獲物を狩る直前の猟犬のような鋭い光が宿る。
「奴らにとって、憎き泥棒の血筋からの二度目の敗北は、何があっても受け入れられない。一族の誇りが再び脅かされるとなれば話は別だ。激しい怒りと焦りで冷静さを失い、自らの直属の暗殺部隊を動かしてこの時洲堂を直接襲撃し、証拠の隠滅と、目障りな時洲美波の排除を指示してくるはずだ」
「俺たちが、その襲撃してきた者を現行犯で確実に制圧して捕らえ、そこから一気に山添と青柳の直接の指示という決定的な証拠を引き出すのだな」
綾瀬が力強く拳を握りしめる。桐生の論理は完璧であり、敵の心理を掌握していた。
しかし、それは同時に、あまりにも危険すぎる賭けでもあった。
「桐生さん。その作戦を実行するということは、つまり、私が、襲撃の的になるということですね」
美波のひどく静かな問いかけに、桐生は一瞬だけ口をつぐみ、眉間に微かな皺を寄せた。
彼の優れた頭脳は、この作戦が最も確実で迅速な手段であると冷徹に計算している。しかし、彼の心の奥底にある美波への自覚のない気遣いが、彼女を死の危険に直接晒す囮にすることに対して、言葉を淀ませるほどの躊躇いを生じさせていたのだ。
「時洲。お前を囮にするのは、あくまで奴らをおびき出すための手順に過ぎない。襲撃の夜は、俺が密かに手配した信頼できる捜査員たちでこの店を完全に包囲し、強固な防衛の網を敷く。お前に指一本触れさせるような真似は、決してさせない。だが」
桐生は言葉を区切り、目を伏せた。相手は法の外で動き、殺人を躊躇わない暴力の専門家たちだ。絶対の保証など、この世のどこにもない。
「怖いなら、今すぐ降りろ。俺と綾瀬だけで別の方法を考える。少し時間はかかるが、俺が何とか──」
「やります」
桐生が言い終わるよりも早く、美波は一切の躊躇なく、はっきりと断言した。
「私が、囮になります」
「時洲」
「権力者たちの誇りを刺激して確実に誘い出すには、土岐半次郎の血を引く私自身が舞台の真ん中に立たなければ、意味がないでしょう。それに、牧村さんが遺してくれた記者の人脈を使って情報を流すにしても、古物商である私が祖父の遺品から恐ろしい古文書を見つけたと直接話す方が、彼らにとっては自然な脅威として響くはずです」
美波の琥珀色の瞳には、静かで強く、揺るぎない決意だけが浮かんでいる。
「わかった。俺の指示に遅れなく従うなら、お前のその覚悟、俺の完璧な計画の一環として組み込んでやる」
桐生は内心の焦燥を必死に理屈で押し隠しながら、不敵に笑って見せた。
こうして、巨大な国家権力に対する決死の逆襲劇の幕が上がった。
綾瀬はすぐさま、牧村が遺した分厚い手帳の連絡網を使い、裏社会の情報屋や顔役たちに接触を開始した。元刑事としての勘と執念を総動員し、最も効果的に敵の耳に届くルートを選び出して噂を撒いていく。
美波もまた、自身の古物商としての知識と人脈を活かし、かつて祖父の顧客であった同業者たちに、表には出すことができない明治期の恐ろしい密約書を見つけてしまったという相談を持ちかける形で、巧妙に情報を流布していった。彼女の控えめで真面目な性格を知る者たちは、その深刻な相談を真に受け、噂に信憑性を持たせて拡散させていく。
情報は彼らの予想を超える速度で、東京の暗部を駆け巡った。
そして作戦開始からわずか二日後の夕刻。桐生の暗号化された携帯電話に、警察上層部の内部に潜ませていた協力者から、短い知らせが届いた。
敵が、動き出した。
山添と青柳が、証拠隠滅と時洲美波の排除のために、直属の武装部隊を動かしたのだ。
襲撃は、今夜。決戦の時は目前に迫っていた。
冬の短い太陽が西の空に沈み、東京の下町が冷たく重い夜の闇に包まれ始めた頃。
時洲堂の店内では、美波が一人、カウンターの周りの整理をしていた。桐生と綾瀬はすでに店の外に散り、信頼できる少数の捜査員たちと共に周囲の路地を取り囲み、見えない場所に息を潜めている。あとは襲撃者たちがこの店に踏み込んでくるのを待つばかりだ。
しかし、美波にはその前にどうしても果たさなければならない、最も重要な役目があった。
それは、この血なまぐさい争いに一切関係のない、この街の善良な近所の人々を、これから始まる危険な現場から安全な場所へと遠ざけることである。
澄んだドアベルが鳴り、元気な足音が店内に飛び込んできた。
「お姉ちゃん。遊びに来たよ」
使い込まれたランドセルを背負った健太と、その後ろから申し訳なさそうについてくる母親の小百合だった。
「忙しいのにごめんなさいね、美波ちゃん。この子、学校で作った工作をどうしても美波ちゃんに見せるのだって聞かなくて」
「いいんですよ。健太くん、見せて」
美波がしゃがみ込んで目線を合わせると、健太は誇らしげに、松ぼっくりや木の実を丁寧に組み合わせて作った動物の置物を取り出した。子供らしい不格好さはあるものの、一生懸命に作られたことが伝わってくる温かい作品だった。
「おっ、すごい。とっても強そうなライオンですね」
「へへっ。これ、お姉ちゃんにあげるよ」
「えっ、私にですか。ありがとうございます。では、お店の一番いいところに飾っておきますね」
美波は置物を両手で大切に受け取ると、戸棚の奥から真鍮製の小さなアンティークの方位磁針を取り出し、健太の小さな手にしっかりと握らせた。
「これは、私からのお返しです。実はですね、健太くん、小百合さん。今日の夜から数日間、お店の特別な整理と、強いお薬を使った古い家具の手入れをするんです。なので、しばらくの間はお店を閉めて、誰も近寄れないようになります」
美波は彼らを危険から遠ざけるためにあらかじめ用意しておいた嘘の言葉を、極めて自然な笑顔で口にした。
「ええっ、しばらくお姉ちゃんに会えないのかよ」
「ごめんなさい。でも、それが終わったらまたいっぱい遊びましょうね。だから、今日から数日は時洲堂の周りの路地には入ってきちゃ駄目ですよ。お薬の匂いで、喉が痛くなってしまうかもしれませんから。この方位磁針は、健太くんが迷子にならないためのお守りだから、大切にしてくださいね」
「そっか。わかった。じゃあ、終わったら一番に遊びに来るからね」
健太は方位磁針を嬉しそうにポケットにしまい、小百合も「大変だけれど無理しないで頑張ってね」と優しく微笑んで、店を後にしてくれた。
美波はガラス戸の向こうで二人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、深く頭を下げて見送った。これから起きる暴力の連鎖が、あの純粋な笑顔を決して脅かすことがないようにと、強く祈りながら。
それから三十分後。今度は路地の向こうから、重たい台車を押す音が聞こえてきた。
「こんにちは。最後の配達、終わりました」
作業着姿の冬馬だった。彼は美波の顔を見るとホッとしたような、それでいてどこか周囲を鋭く警戒するような顔で路地を見回した。
「時洲さん、大丈夫ですか。なんだか今日、この辺りの空気が妙に張り詰めているというか、いつも以上に嫌な感じがするんですよ」
毎日この街の隅々まで走り回っている配達員としての直感が、見えない場所に潜む桐生たちの気配や、迫り来る異常な事態を無意識に察知していたのだ。
「お疲れ様です。実は、冬馬くんに折り入ってお願いがあるんです」
美波はカウンターの下から、あらかじめ厳重に梱包しておいた少し大きめの荷物を取り出した。
「これ、埼玉の川越に住んでいるお得意様から、どうしても今日の夜までに届けてほしいと頼まれたアンティークの照明なんです。すごく壊れやすい繊細な品物で、他の業者さんには任せられなくて。冬馬くん、お手数ですが、今から直接、車で届けていただけませんか」
「埼玉の川越にですか。今から」
冬馬は驚いて目を見張った。ここから川越まで車で往復すれば、どんなに急いでも数時間はかかる。今夜遅くまで、この下町には戻ってこられない距離だ。彼もまた美波に迫る危険を肌で感じ取っていたからこそ、彼女のそばを離れることに強い躊躇いを覚えたのだ。
「駄目、でしょうか。冬馬くんにしか頼めないんです」
美波が少しだけ悲しそうな、懇願するような瞳で見つめると、冬馬は深く息を呑み、力強く頭を掻いた。
「できます。やります。時洲さんの頼みとあっては、断れるわけがないです。俺の安全運転で、無傷で届けてきますから。だから時洲さんも、戸締まりはしっかりしてくださいね」
「ありがとうございます。道中、本当に気をつけてくださいね」
美波の言葉の裏にある、今日という危険な夜を無事にやり過ごして遠くにいてほしいという本当の願いに気づくことなく、冬馬は任せてくださいと元気よく荷物を抱え、自身の車両へと走り去っていく。
宵闇が広がり、冷気がさらに厳しさを増した頃。ガラス戸の向こうから、ゆっくりとした足取りで歩いてきたのは、常連の笠原だった。
彼はいつものように陳列棚の前に立ち、並べられたアンティークの時計や陶器を懐かしむような優しい目で眺めている。美波は店から出ると、笠原の隣にそっと並び立った。
「笠原さん。今夜は、一段と冷え込みますね」
「ああ、美波ちゃん。なんだか今日は、街がひどく静かだな。いつもならもう少し人の気配があるのだが」
笠原は白い息を吐きながら、周囲の暗い路地を見回した。桐生の部下たちが周囲を密かに見張り、不必要な人の立ち入りを制限しているため、不自然なほどの静寂がこの区画を支配していたのだ。
「ええ。笠原さん、今日はもう店を閉めようと思うんです。冷たい風に当たって体調を崩されては大変ですから、どうか真っ直ぐご自宅へお帰りになって、温かくしてお過ごしくださいね」
美波が気遣うような優しい声で促すと、笠原は美波の顔をじっと見つめた。
長年この街で様々な人間模様を見てきた老人の目は、美波の纏う空気がいつもとは違う決定的な覚悟と緊張に満ちていることを、静かに読み取っていた。
「そうかい。わかった。それじゃあ、今日は大人しく帰るとするよ。うちの婆さんも、今日は機嫌がいいといいのだがね」
「ふふっ。笠原さんが笑顔で帰れば、きっと奥様も喜んでくださいますよ」
美波が深くお辞儀をすると、笠原は美波ちゃんも戸締まりはしっかりするんだよとだけ言い残し、杖をつきながらゆっくりと路地の奥へと消えていった。
これで、愛すべき近所の人々を危険な場所からすべて遠ざけることができた。
残るは、あのお節介で愛情深い夫婦だけだ。美波が大きく息を吐き出し、安堵とともに店内に戻ろうと振り返った、その瞬間だった。
「下手な芝居だ」
時洲堂のガラス戸の横。暗闇に同化するようにして立っていたのは、分厚い防寒着を羽織った三枝幸一と、その隣で目元を赤く腫らした妻の洋子だった。
二人は、美波が健太たちに理由をつけて送り出し、冬馬を遠方へ向かわせ、笠原を帰らせる一連の行動を、ずっと斜向かいの自分の店の陰から静かに見届けていたのだ。
「幸一さん、洋子さん」
美波は言葉を詰まらせた。
この頑固で愛情深い親代わりの二人だけは、どんな言い訳も通用しない。彼らには美波が今夜、自分の身を賭して巨大な闇との決着をつけようとしていることが伝わってしまっていた。
「止めないでください。幸一さん、洋子さん」
美波は二人の目を真っ直ぐに見据え、悲壮な決意を込めて言った。
「これは、私がやらなければいけないことなんです。私の一族が背負った因縁と、お父さんやお母さんを奪った怨嗟をここで終わらせるために。だから、お願いです。お二人も今日は早く」
「馬鹿野郎」
幸一の低く、重みのある声が美波の言葉を遮った。彼は美波の前に歩み寄ると、その大きな手を高く持ち上げた。洋子もまた口元を手で覆いながら、幸一の隣に寄り添っている。
叩かれる。そう思って美波が身を強張らせて目を瞑った瞬間。
幸一の大きく分厚い手が、美波の頭の上に優しく、ひどく不器用に置かれた。それと同時に、洋子の温かい手が美波の震える両手をそっと包み込んだ。
「……」
「いい顔になったな。覚悟を決めた娘に、今更文句は言わん」
美波が恐る恐る目を開けると、幸一は怒鳴り顔ではなく、どこか寂しげで、それでいて果てしなく温かい父親のような眼差しで美波を見下ろしていた。
「本当なら、私たちが美波ちゃんを守ってあげたいのよ。しゃしゃり出て、悪党どもを相手に大立ち回りをしてやりたいわ。でもね」
洋子が涙声で言葉を継ぐと、幸一が静かに頷いた。
「あいにく、俺はただの金物屋の親父で、洋子はただの料理上手な主婦だ。手練れ相手じゃ、足手まといになるだけだということくらいわかっている」
幸一は美波の頭を少しだけ乱暴に撫でた。洋子も美波の手を何度も優しくさする。
(私を引き留めたかったはずなのに。自分たちが無力だと認めることは、どれほど悔しくて辛いことだろうか)
彼らの深い愛情と葛藤が痛いほどに伝わり、美波の胸が締め付けられる。
「だからよ、美波。お前の信じた連中と、きっちり決着をつけてこい」
「美波ちゃん。どんなことがあっても、私たちはいつだってあなたの味方だからね」
「幸一さん、洋子さん」
幸一は美波の頭から手を離し、時洲堂の古い木造の店構えを愛おしそうに見上げた。
「店に傷がつこうが、ガラスが割れようが気にするな。どんなに壊れても、俺が元通り直してやる。存分にやってこい。そして必ず、無事に戻ってこい」
それは彼らなりの最大の理解であり、これ以上ないほどに不器用で、温かい励ましだった。
美波の目から、堪えきれずに涙が零れ落ちる。
「はい。行ってきます、幸一さん、洋子さん」
美波が深く、深く頭を下げると、幸一はおうと短く答え、洋子も強く頷いて、それ以上は何も振り返らずに足早に路地の奥へと歩き去っていった。
二人の背中が見えなくなるまで見送った美波は、ハンカチで涙をしっかりと拭い、時洲堂のガラス戸を静かに閉めた。
鍵をかける。店内の照明をすべて落とし、暗闇の中で美波はカウンターの奥に身を潜めた。
静まり返った下町の路地。
もうすぐこの静寂を切り裂いて、強大な敵が美波の命と偽りの証拠を求めてこの時洲堂に襲いかかってくる。美波は五感を極限まで研ぎ澄まし、わずかな物音や空気の変化に意識を集中させた。
暗闇の中、通信機器から外で待機している桐生の冷静な声が響いた。
「時洲。相手の車両が三台、路地に侵入した。人数は八名。全員が武器を持っている。いよいよだぞ。いいか、俺の合図があるまでは動くな」
「了解しました、桐生さん」
美波はダッフルコートのポケットの中で愛用の銀色のルーペを固く握りしめ、大きな丸眼鏡のブリッジを静かに押し上げた。




