第九話 黒い空
一九六〇年八月十六日・最高高度
高度計の針が、止まった。
十万二千八百フィート。
気球は、もう上がらなかった。薄い空気の中で、膨らみきった膜が静かに浮いている。吊りかごは、少しずつ回っていた。風に流されているのではない。何にもつかまっていないから、回っていた。
キッティンジャーは、上を見た。
空は、黒かった。
夜の黒ではなかった。夜には星があり、月があり、雲の縁に光がある。この黒には、何もなかった。太陽が出ているのに、空が黒い。光は、どこにも当たらずに、ただ通り過ぎていく。
下を見た。
地球があった。
茶色い大地と、ところどころの白い雲。その縁が、ゆるやかに曲がっていた。曲がった先で、青い薄い膜が大地を包んでいる。あれが、空だった。人間が、空と呼んでいるものだった。
自分は、その上にいた。
*
無線が鳴った。
計器を読み上げる。高度。気圧。外気温。酸素。
読み上げが終わった。
彼は、少しだけ間を置いた。
「右手の与圧が、抜けている」
無線の向こうで、しばらく返事がなかった。
雑音だけが、規則正しく流れていた。
彼は、待たなかった。
*
手順は、体に入っている。
跳躍の準備に入った。酸素を確かめた。吊りかごにつながる管と線を、一つずつ外していく。
右手は、膝の上に置いたままだった。
手袋は、もう張りつめていた。指は、曲がらない。曲げようとすると、手首の奥まで痛みが走った。
跳躍の七十秒前。
無線のアンテナを切り離した。
線が、下へ落ちていった。
雑音が、消えた。
*
音が、なくなった。
ヘルメットの中で、自分の呼吸だけが聞こえた。吸う。吐く。顔の前の覆いが、わずかに曇っては晴れる。
地上の声は、もう届かなかった。
何十人もの男たちが、夜明け前から砂利の上を歩き、膜を押さえ、金具を確かめた。その男たちの声が、今はどこにもなかった。
この高さにいるのは、一人だった。
彼は、座席から腰を浮かせた。
浮いた。
計器箱は、挟まっていなかった。湯たんぽは、どこにもなかった。
左手で、吊りかごの縁をつかんだ。
立った。
入口の上に、札があった。
ここが、世界で一番高い一段。
彼は、その札の下に立った。
足もとに、縁があった。縁の向こうには、何もなかった。三万メートルの空気が、底まで続いているだけだった。
右手は、腰の横に垂れていた。
左手で、背中の引き綱を確かめた。
それから、黒い空を一度だけ見上げた。
胸の内で、短く祈った。
主よ、今こそ、私をお守りください。
(第九話 完)




