第十話 地球
一九六〇年八月十六日・落下
足が、縁を離れた。
それだけだった。
押し出す力もなかった。踏み切る音もなかった。吊りかごの縁から、靴の底が一つ、それからもう一つ、何もないところへ移っただけだった。
体が、右へ傾いた。
右の肩を下にして、彼は落ちていった。
空気をつかむ手応えは、ない。風の音も、ない。落ちているという感覚さえ、ほとんどない。ただ、腹の底がすっと抜けていく。
あの日と、同じだった。
違うのは、今度は、数えなかったことだった。
*
体を、ひねった。
仰向けになった。
頭上に、気球があった。
黒い空を背にして、銀色に光っていた。さっきまで自分が座っていた場所が、遠ざかっていく。膜の縁が陽を受けて、細く輝いた。
彼は、それを見ていた。
背中で、何かが弾けた。
小さな傘が飛び出した。続いて、安定傘が開いた。
体が、引かれた。
足のほうへ。
ぐい、と。
空が上に、大地が下に、来た。
それきり、動かなかった。
*
落ちていく。
小さな傘に引かれて、男は落ちていく。
速さは、目に見えなかった。周りに、比べるものが何もない。雲も、建物も、鳥もない。あるのは、黒い空と、遠い地球だけだった。
その地球が、少しも近づいてこなかった。
どれほど速いのか、分からなかった。
男は、足を地球に向けて、まっすぐに落ちていた。
*
体が、静かに回った。
回転ではなかった。風見のように、向きを変えただけだった。
南の地平に、町の影が見えた。エルパソだった。テキサスの町だ。それから、また向きが戻った。ニューメキシコの砂漠が、正面に来た。
どこかに、救助の車が走っているはずだった。
どこかに、基地があるはずだった。
*
地上では、誰も口をきかなかった。
無線は、もう黙っていた。最後に届いたのは、右手の与圧が抜けている、という声だった。それに答える前に、アンテナは切り離されていた。
観測員は、経緯儀の接眼鏡に目を押し当てていた。視野の中に、銀色の点があった。気球だった。その下にあるはずの、もっと小さな点は、もう見分けられなかった。
「離れた――と、思う」
声に、確かさがなかった。
スタップは、ストップウォッチを握っていた。上着のポケットから出したものだった。親指が、ボタンにかかっていた。
押さなかった。
いつ離れたのか、地上の誰にも分からなかった。分からない秒は、数えられない。
親指が、ボタンから離れた。
スタップは、ストップウォッチを握ったまま、空を見上げた。肉眼では、何も見えなかった。眩しい青があるだけだった。その下のほうに、雲が広がりはじめていた。
今度は、誰も数えていなかった。
空の上でも、地上でも。
*
首が、締まった。
ヘルメットが、上へずり上がっていた。首の輪が、喉に食い込む。息が、細くなる。
左手を上げかけて、やめた。
肩の上で、帯が張っていた。
締めつけは、続いた。
彼は、待った。
空気が、少しずつ濃くなっていく。服の膨らみが、わずかに緩んでいく。
喉の圧迫が、ほどけはじめた。
息が、戻った。
風の音が、聞こえはじめた。
ヘルメットの外で、低く唸っている。薄い空では聞こえなかった音だった。空気が、また空気になりはじめていた。
*
真下に、白いものが広がっていた。
雲だった。
厚い雲の層が、地面を覆い隠していた。上から見ると、雪原のように硬く見えた。
その雪原が、近づいてくる。
速く。
もっと速く。
彼は、足を引き上げた。
考えるより先に、体がそうしていた。固いものにぶつかる前に、人間の体はそうする。
足が、雲に触れた。
何も、なかった。
白い。
上も下も、白かった。黒い空も、地球も、消えた。顔の前の覆いに、細かい水の粒がつきはじめる。
右手は、腰の横で、重く垂れていた。
白の中を、落ちていく。
背中で、もう一度、何かが外れた。
大きなものが、頭上へ伸びていく。風をつかむ音がした。
体が、強く引き上げられた。
それから、静かになった。
吊られて、揺れている。行って、戻る。行って、戻る。
白が、薄くなった。
下から、色が来た。
茶色だった。
灌木と、砂と、乾いた道。ニューメキシコの大地が、雲の下から現れた。
近かった。
地球が、もう、遠くなかった。
(第十話 完)




