第八話 右手
一九六〇年八月十六日・上昇中
地上が、白みはじめていた。
吊りかごの下で、砂漠が夜の色を一枚ずつ脱いでいく。滑走路のひび割れも、トラックも、男たちの姿も、もう見分けられなかった。見えるのは、灰色から茶色へ変わっていく大地と、その上に細く伸びる道路の線だけだった。
キッティンジャーは、計器を読み上げた。
高度。気圧。外気温。酸素。
無線の向こうで、声が復唱する。いつも通りだった。
気球は上がり続けていた。高度計の針が、休まずに回っている。外気温の目盛りが、少しずつ下がっていく。
空の色が変わりはじめた。
地上で見る青ではない。あの日と同じ、底の抜けた青。
*
最初に気づいたのは、右手の指先だった。
手袋の中で、何かが違った。
左手は、締めつけられている。この高さでは、その圧力が命だった。
右手は、締めつけられていなかった。
彼は、右手を握った。
握れた。
開いた。
開けた。
もう一度、握った。手袋の布が、指の付け根で、ゆるく余っていた。左手には、そんな余りはなかった。
彼は、膝の上で両手を並べた。
左と、右。
同じ手袋だった。夜明け前、ヘイル軍曹が同じように持ち上げ、同じように指を入れさせ、同じように締めた手袋だった。
違うのは、右だけだった。
低圧室で一度、空気を漏らした手だった。ヘイルが一晩かけて直し、二度と漏れなかった手だった。
*
高度計の針は、回り続けていた。
右手が、重くなりはじめた。
痛みではなかった。最初は、ただ重かった。指の一本一本に、何かが少しずつ満ちていく。手袋の内側が、だんだん狭くなる。
彼は、右手を目の前に上げた。
手袋の甲が、わずかに丸く盛り上がっていた。
無線が鳴った。
「ジョー、状態を」
彼は、計器を読み上げた。
高度。気圧。外気温。酸素。
一つずつ、正確に。
数字の読み上げが終わると、無線の向こうが「了解」と答えた。
彼は、それ以上何も言わなかった。
*
言えば、地上の男たちは、ここで跳べ、と言うだろう。目標に届く前に。
それは、正しい判断だった。
彼が地上にいれば、同じことを言った。
だが、確かめるべき答えは、まだずっと上にあった。
*
痛みが来た。
最初は、指の関節に。それから、手のひら全体に。脈を打つたびに、手袋の内側で何かが押し広げられていく。
彼は、右手を握ろうとした。
指が、途中で止まった。
もう一度。
止まった。
手袋の甲は、はっきりと膨らんでいた。左手と並べると、もう同じ手には見えなかった。
彼は、右手を膝の上に置いた。
動かさないようにした。動かせば、痛む。動かさなくても、痛む。それなら、動かさないほうがいい。
無線が鳴った。
「状態を」
彼は、左手で計器の板を指でたどりながら、数字を読み上げた。
高度。気圧。外気温。酸素。
右手のことは、読み上げる計器の中になかった。
*
オハイオでは、朝の八時を回っていた。
台所の窓が開いていた。網戸の向こうで、蝉が鳴いていた。
マークは、居間の床で積み木を並べていた。
母親は、ラジオをつけなかった。
戸棚の上から、シリアルの箱を下ろした。中身は、もう空になっていた。捨てるつもりで、何日も前から戸棚の上に置いたままになっていた箱だった。
裏を返した。
四角い穴が開いていた。
縁は、ぎざぎざしていた。
彼女は、その穴に指を入れなかった。箱を両手で持ったまま、流しの前に立っていた。
窓の外は、晴れていた。低くも高くもない、いつものオハイオの空だった。
その上のどこかに、夫がいるはずだった。
しばらくして、彼女は箱を戸棚の上に戻した。
捨てなかった。
*
空の色が、また変わった。
青の上のほうが、黒くなりはじめていた。
吊りかごの中は、静かだった。風の音はない。聞こえるのは、ヘルメットの中の自分の呼吸と、無線の雑音と、手袋の内側で打つ脈だけだった。
右手は、膝の上で、もう一回り大きくなっていた。
ふだんの倍。
そう見えた。
彼は、顔を上げた。
吊りかごの外側に、小さな紙が貼ってあった。四隅のテープは、夜明け前に貼ったときのまま、一つもはがれていなかった。
オレゴン。
縁は、ぎざぎざしていた。
彼は、右手を動かそうとした。
動かなかった。
それから、計器に目を戻した。
高度計の針は、まだ回っていた。
(第八話 完)




