第七話 出発
一九六〇年八月十五日夜〜十六日夜明け
夜の宿舎で、マーヴィン・フェルドスタインがドアを叩いた。
軍医は部屋に入ってくると、机の上に小さな紙包みを置いた。錠剤が二つ。その横に、医学誌を一冊。
「眠れなければ、飲め」
それから医学誌を指で叩いた。
「眠れそうなら、これを読め。どちらでも効く」
キッティンジャーは、医学誌の表紙を見た。細かい字で、論文の題が並んでいた。
フェルドスタインは、それ以上何も言わずに出ていった。
キッティンジャーは、机の上の二つを見た。
廊下で、靴音が遠ざかっていった。
*
夜明けよりずっと前に、車が出た。
トゥラローサの北、道路の東側に、使われなくなった飛行場があった。滑走路のひび割れから、乾いた草が生えている。昼間なら、ただの荒れ地だった。
その夜は、荒れ地に灯りが集まっていた。
車の前照灯。懐中電灯。作業灯。光の輪の中を、男たちが行き交っている。
平台のトラックが一台、滑走路の端に止まっていた。荷台に吊りかごが載っている。その上へ、しぼんだ気球の膜が長く伸び、クレーンの腕が先端をつかんで、暗い空へ吊り上げていた。
ヘリウムの弁が開く音がした。
白い膜が、ふくらみはじめた。
膜のそばには、何人もの男がしゃがんでいた。手袋をはめた手で、膜を地面からそっと浮かせている。砂利に擦れれば、薄い膜は破れる。破れれば、今日はない。短い指示が飛んだ。男たちは答えず、手を動かした。
キッティンジャーは、まだ飛行服を着ていなかった。
作業着の上に上着をはおっただけの姿で、彼はトラックの荷台に上がった。
吊りかごは、小さかった。人が一人座れば、それでいっぱいになる。座席、計器の板、酸素の管、カメラ。
入口の上に、一枚の札が掲げてあった。
英語で書かれていた。訳せば、こうなる。
ここが、世界で一番高い一段。
誰かの懐中電灯の光が、その札の上をかすめて、また離れていった。
キッティンジャーは、上着の胸のポケットに手を入れた。
折り畳んだ紙を取り出した。鉛筆の字が並んでいる。一番下の一行を、指で押さえた。
番号札 一枚。
紙をポケットに戻した。
それから、上着の内側から封筒を出した。
封を開け、厚紙をそっと抜いた。その下から、小さな紙が出てきた。
オレゴン。
彼は、吊りかごの外側を見回した。札の下。座席の脇。計器の板の端。
一か所を選んだ。
そこに紙を当て、左の手のひらで押さえた。右手でテープを引き出し、歯で切った。紙の上の端に、一枚貼る。下の端に、一枚。指の腹で、テープの上から空気を押し出していく。端から端まで。ゆっくりと。
ぎざぎざの縁が浮かないように、角にもう一枚ずつ貼った。
それから、手を離した。
紙は、動かなかった。
彼は、空になった封筒を厚紙と一緒に畳み、上着の内側に戻した。
荷台の下で、誰かがそれを見上げていた。生命維持装備を担当するヘイル軍曹だった。
ヘイルは何も訊かなかった。腕時計を見て、顎で更衣用の車のほうを示しただけだった。
*
ここから先は、ヘイルの仕事だった。
長い下着。保温の服。与圧服。その一枚ごとに、紐が締められ、金具が噛み合わされ、継ぎ目が指で確かめられる。ヘルメットが下ろされ、首の輪が合わされる。
酸素が流れはじめた。
顔の前の覆いの内側で、自分の呼吸の音だけが大きくなった。
最後に、手袋だった。
ヘイルは、左の手袋を持ち上げた。指を一本ずつ入れさせ、手首の継ぎ目を合わせ、締める。指で継ぎ目をなぞる。
それから、右の手袋を持ち上げた。
同じように指を入れさせ、継ぎ目を合わせ、締める。指でなぞる。
ヘイルはうなずいた。
キッティンジャーは、両手を握った。開いた。
もう、素手ではなかった。テープを切った指も、紙の縁をなぞった指も、厚い手袋の中にあった。
*
装備をすべて着けた体は、一人では荷台に上がれなかった。
男たちの手が、腕を取り、腰を支え、吊りかごの座席へ下ろした。酸素の管がつながれ、計器の線がつながれ、帯が締められる。
頭上で、気球は高く立ち上がっていた。クレーンに先端を吊られ、膜の下半分はまだたるんでいる。それでも、もう地上のどの建物よりも高かった。
東の空の縁が、わずかに白みはじめていた。
無線の向こうで、誰かが時刻を読み上げた。
五時二十九分。
鈍い破裂音が、二つ続いた。
吊りかごを荷台に留めていた金具が、切り離された。クレーンが先端を放した。
気球が、吊りかごを持ち上げた。一分間に、千二百フィート。
荷台が、離れていく。
男たちの顔が、下へ遠ざかっていく。懐中電灯の光が一つ、二つ、上を向いたまま揺れている。
キッティンジャーは、下を見なかった。
吊りかごの外側に、目をやった。
まだ薄暗い空気の中で、小さな紙が一枚、四隅をテープで留められて、そこにあった。
縁は、ぎざぎざしていた。
オレゴンの番号をつけた乗り物は、ニューメキシコの夜明けへ上がっていった。
(第七話 完)




