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地球に落ちた男 ―帰るために、飛んだ―  作者: 八雲 海


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第五話 三万メートル

一九六〇年前半


黒板に、数字が二つ書いてあった。

七六、四〇〇。

七四、七〇〇。

一度目と、二度目の高さ。単位はフィートだった。

その横に、誰かが白墨《はくぼく》で線を引き、三つ目の数字を書き足した。

一〇〇、〇〇〇。

書いたのが誰なのか、部屋にいた者は誰も訊かなかった。白墨を置いた手は、もう次の書類をめくっていた。


*


二度目の実験は、成功だった。

装置は正しく働き、男は自分の足で砂漠に立った。報告書は上へ送られ、受け取った者たちは満足した。

それで終わりにしてもよかった。

だが、ライト・パターソン基地の航空医学研究所で、記録の紙をめくる男たちの手は止まらなかった。

戦闘機は、年ごとに高く飛ぶようになっていた。研究機は、ロケットの火で、さらにその上を目指している。人間を大気の外へ送る計画も、もう図面の上にあった。

その高さで機体を失った男が、どうやって帰ってくるのか。

七万五千フィートで働いた傘が、十万フィートでも働くのか。

誰も、知らなかった。

人形なら、もう落としていた。百四十回。十万フィートの高さからも落とした。だが人形は、腕を動かさない。息をしない。寒さに震えもしない。

十万フィートから生きた人間が落ちて、生きて帰ってきたことは、まだ一度もなかった。


*


ホロマン基地の低圧室は、鉄の箱だった。

厚い扉が閉められ、ポンプが唸《うな》りはじめると、中の空気が少しずつ抜かれていく。小窓の向こうで、計器の針が回りはじめる。

小窓の外に、フランク・ヘイル軍曹が立っていた。

生命維持装備の担当だった。与圧服、ヘルメット、手袋、酸素の管。男の体と死のあいだにある、布とゴムと金具のすべてが、彼の受け持ちだった。

一度目の飛行の前、ヘイルは、ヘルメットの留め金と落下傘の帯のあいだを、落下傘の紐で何本も結んでおいた。上空で服が膨らむと、ヘルメットが押し上げられる。それを留めるはずの帯が、低圧室の試験で一度、外れたことがあった。

上空で、ヘルメットは二インチ浮いた。ヘイルの紐が、それを肩の上に留めていた。

二度目の前、ヘイルは帯の端と端を、針と糸で縫い合わせた。留め金が滑ろうが滑るまいが、もう関係がないように。

今、小窓の向こうで、ヘイルは箱の中の男の手を見ていた。

手袋の指先。手首の継ぎ目。そこから空気が漏れれば、指は膨らみ、動かなくなる。動かない指では、何もつかめない。

ポンプの音が、低くなった。

計器の針が、十万フィートの目盛りに近づいていく。

箱の中の男が、右手を握り、開いた。

もう一度、握ろうとした。

指が、途中で止まった。

手袋の甲が、わずかに丸く盛り上がっていた。

ヘイルは、小窓のガラスを拳《こぶし》で二度叩いた。

ポンプの音が変わった。空気が戻りはじめる。計器の針が、逆向きに回りはじめた。

長い時間がかかった。箱の中の空気は、急には戻せない。戻せば、今度はそれが体を傷める。ヘイルは小窓の前から動かなかった。針が地上の目盛りに戻るまで、男の右手から目を離さなかった。

扉が開いた。

ヘイルは、誰よりも先に中へ入った。男の右手を取り、手首の継ぎ目を指でなぞった。

一か所で、指が止まった。

男は、何も言わなかった。ヘイルも、何も言わなかった。


*


その夜、装備室の明かりは遅くまで消えなかった。

ヘイルは、作業台の上で右の手袋の継ぎ目を外した。新しい部品に替え、合わせ、締めた。指でなぞった。

外した。

合わせ、締めた。なぞった。

何度目かで、彼はようやく手を止めた。

翌日、試験はやり直された。

ポンプが唸り、針が十万フィートの目盛りに届いた。箱の中の男が、右手を握り、開いた。もう一度、握って、開いた。左手も、同じように。

ヘイルは、手元の紙に印をつけた。

右手。左手。それぞれの欄に、一つずつ。

右の欄の印だけ、鉛筆の跡が濃かった。


*


気球は、上がる高さに合わせて大きくしなければならない。

空気が薄いほど、ヘリウムは膨らむ。地上では細長い袋にすぎないものが、十万フィートでは巨大な球になる。その球が、吊りかごと、男と、男の装備のすべてを持ち上げる。

装備を着けた男の重さは、三百二十ポンド。ふだんの体重の倍を超えていた。

それを、もっと高くへ運ぶ。

気球の担当者たちは、計算尺を滑らせ、数字を書き、消し、また書いた。風の向き。上昇の速さ。落ちる場所。砂漠のどこに降りれば、救助の車がたどり着けるか。

彼らの数字が一つ違えば、男は帰ってこられない。


*


春の終わり、ライト・パターソン基地の一室に、男たちが集まった。

スタップが、計画書の表紙をめくった。

キッティンジャーは、壁際の椅子に座っていた。

計画書には、日程があり、装備の一覧があり、人員の配置があった。気球の大きさ。吊りかごの重さ。落下傘の作動の順序。低圧室での試験の結果。

そして、一つの数字があった。

十万フィートを超える高さ。

誰かが、低い声で言った。

「前の高さの、一・三倍を超えるな」

誰も答えなかった。

キッティンジャーは、その数字を見ていた。

表情は、変わらなかった。

ただ、ページをめくる指が、その数字の上で、一度だけ止まった。

それから、次のページをめくった。装備の一覧だった。ヘルメット。与圧服。手袋、右と左。彼はそれを、一行ずつ指でたどっていった。

窓の外には、オハイオの空があった。

春の終わりの、低くも高くもない、いつもの空だった。

その上のどこかに、黒い空がある。

男たちは、また、そこへ向かう準備を始めていた。


(第五話 完)


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