第三話 落下傘
一九五九年十一月下旬〜十二月上旬
オハイオの空は、低かった。
砂漠の空とは違う。灰色の雲が屋根のすぐ上まで降りてきて、そこから動かない。ライト・パターソン基地の滑走路の脇に、乾いた雪が薄く溜まっていた。
計画の根は、ここにあった。気球を作り、傘を設計し、装備を確かめる男たちがいた。ニューメキシコの砂漠では、その仕事の答えが試される。
落下傘の整備室は、長い部屋だった。
窓際から奥の壁まで、一枚の作業台がまっすぐに伸びている。台の上には何もなかった。何も置かないことが、この部屋の決まりだった。布を広げるとき、小さな金具一つ、鉛筆一本が、縫い目に噛みこむ。
フランシス・ボープレは、その台の端に立っていた。
手元に、木の箱が一つあった。ニューメキシコから送り返されてきたものだった。
彼は蓋を開け、中のものを一つずつ台に並べた。
白い予備傘。まだ砂が残っている。
小さな補助傘が二つ。一つは、背中の傘から飛び出し、首に巻きついたもの。もう一つは、胸の予備傘を引き出すためのもの。
それから、紐が数本。
ボープレは、その紐の一本を指でつまみ上げ、明かりにかざした。
紐は、途中で切れていた。
切り口は、刃物で断ったものではなかった。繊維が一本ずつ引きちぎられ、ほつれて、房のように広がっている。
彼は、もう一方の端を箱の中から探した。見つけて、二つの切り口を並べて台に置いた。
それから、長いあいだ、それを見ていた。
この紐は、切れるように作ってあった。
予備傘が開くとき、回る体に絡めば、傘はほどけない。だから、予備傘を引き出す小さな補助傘に、この紐を縫い込んだ。一定の力がかかれば、自分から切れる。切れて、絡んだものを手放す。そうすれば、予備傘が開く道ができる。
誰も使わないことを願って、縫い込んだ紐だった。
それが、砂漠の上空で、切れていた。
ボープレは、二つの切り口を指でそろえ、もう一度並べ直した。そして、二本をまとめて小さな封筒に入れ、封をした。表に日付だけを書いた。
*
彼の手は、海で覚えた手だった。
海軍で、落下傘を畳んでいた。甲板から飛び立つ男たちの背中に載せるものを、来る日も来る日も畳んだ。畳み終えたら、自分の名前を記録に書く。その傘で誰かが降りて、生きて帰ってきても、誰も畳んだ者の名前を思い出しはしない。降りて、帰ってこなかったときだけ、記録が開かれる。
海には、海錨という道具がある。
嵐の中で、船尾から小さな布の袋を海に流す。袋は水を孕み、船を後ろへ引く。たったそれだけで、波に煽られる船の舳先が、まっすぐ風上を向く。
高い空から落ちる人間が、回転に巻き込まれる。
それなら、小さな傘を一つ、後ろに流してやればいい。
基地の誰もが彼を「ボー」と呼んだ。その「ボー」の頭にあった絵は、空の上の絵ではなかった。荒れた海で、小さな袋に引かれて立ち直る船の絵だった。
*
作業台の反対の端では、別の男たちが座席を囲んでいた。
湯たんぽを埋めていた穴は、もう塞がれていた。発泡材を削って詰め、表面をならしてある。湯たんぽは別の場所へ移された。凍っても、膨らんでも、何も挟まない場所へ。
背負い袋の二つのつまみにも、手が入っていた。気圧の仕掛けを動かすつまみと、時計を動かすつまみ。
厚い手袋の指でも、一度で確かに引ける形に。引いたつもりのないときに動くことが、二度と起きない形に。作り直されたつまみが、作業台の上に並んでいた。
手順も、改められた。
技術者の一人が、紐の通り道を指でなぞり、引き、戻した。別の男が、それを紙に書きつける。
誰も急いではいなかった。けれど、誰も手を止めなかった。
再挑戦の日取りは、まだ正式には決まっていなかった。上の承認が下りるかどうかも、分からなかった。
それでも、男たちは直していた。決まってから直すのでは、遅いからだ。
*
ボープレは、補助傘を台の上に広げた。
小さな傘だった。広げても、作業台の幅に収まる。
彼は、吊り紐の一本一本を指に通していった。根元から先まで、ゆっくりと。指の腹で、撚りの具合を確かめる。どこかが擦れていれば、そこだけ撚りが甘くなる。目で見るより先に、指が知る。
途中で、指が止まった。
彼は紐を明かりに近づけ、片目を細めた。何も見えなかった。それでも、彼はその一本を傘から外し、台の脇に置いた。新しい紐を出して、付け替えた。
隣で見ていた若い技術者が、外された紐を手に取った。どこが悪いのか、探すように眺め回している。
見つけられなかったらしい。
屑入れの上まで手を持っていって、彼は止まった。
それから、紐を根元から指に通しはじめた。ボープレがしていたように。ゆっくりと。
ボープレは、それを見ていなかった。もう次の紐に指を通していた。
図面の上では、十六秒だった。
あの日は、二秒だった。
図面は、人間がもがくことを知らない。
ボープレは、傘を畳みはじめた。
布の端と端を合わせる。皺を手のひらで押して伸ばす。折る。また合わせる。一つ折るたびに、彼は手を止め、折り目を確かめた。
その手は、急がなかった。
*
格納庫の扉が開いて、冷たい空気が入ってきた。
キッティンジャーだった。
飛行服の上に外套をはおっている。首元のボタンは、一番上まで留めてあった。
彼は作業台のそばまで来て、立ち止まった。ボープレは顔を上げなかった。畳む手も止めなかった。
キッティンジャーも、声をかけなかった。
彼は、作業台の端の小さな封筒に目をやった。表に日付だけが書いてある。中身を訊きはしなかった。
それから、畳まれていく傘を見ていた。
折る。合わせる。押す。
部屋の中には、布が擦れる音しかなかった。
やがて、ボープレが最後の折り目を押さえた。小さな包みを背負い袋に収め、留め紐を通し、結ぶ。結び目を指で一度引き、もう一度引いた。
それで、ようやく顔を上げた。
二人の目が合った。
ボープレは、背負い袋を両手で持ち上げ、作業台の向こうへ差し出した。
キッティンジャーは外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。背を向ける。
ボープレが、背負い袋を男の背に載せた。
技術者たちが集まってきた。一人が肩の帯を締める。一人が胸の留め具を合わせる。一人が腰の帯を通し、金具を噛ませ、指で引いて確かめる。
ボープレは、男の背の後ろに立ったまま、タイマーにつながる紐の通り道を、最後にもう一度、指でなぞった。
それから、男の肩を、手のひらで一度だけ叩いた。
キッティンジャーが、肩を動かした。
一度だけ。
背負い袋は、体に吸いつくように収まっていた。
ボープレが、男の背中に向かって言った。
低い声だった。
「何もしなくていい」
キッティンジャーは、振り返らなかった。
「落ちるだけでいい。あとは、傘がやる」
窓の外で、オハイオの低い雲が、少しだけ動いた。
(第三話 完)




