第二話 帰還
一九五九年十一月下旬
映写機が回りはじめると、部屋の明かりが落とされた。
白い幕に、吊りかごの内側が映った。
上から見下ろす角度だった。屋根の骨組みに据えた自動カメラが、一定の間隔で撮り続けた画だ。音はない。映写機の歯車が、かたかたと乾いた音を立てているだけだった。
画の中に、白い与圧服の背中があった。
背中は、座席の上で動いていた。肘が上がる。肩がよじれる。手袋が座席の縁を探り、離れ、また探る。
部屋には六、七人の男がいた。誰も口をきかなかった。
キッティンジャーは、壁際の椅子に座って、それを見ていた。
画の中の男が、もう一度体をよじる。立てない。また、よじる。
一人が、腕時計に目を落とした。秒針を追っている。
画の中の男が、ようやく縁に立った。
腕時計の男が、小さく息を吐いた。
「十一秒」
それだけ言って、また黙った。
画の中の男は、縁に立ったまま、胸の前で手を動かしていた。一度。二度。三度。
それから、何の前触れもなく、画面から消えた。
あとには、空になった座席だけが映っていた。
映写機が止まり、明かりがついた。
誰も、すぐには立ち上がらなかった。
*
計器箱の記録は、細長い紙に印字されていた。
机の上に広げると、端が丸まって机から垂れた。軍医のマーヴィン・フェルドスタインが、それを指でたどっていく。心拍。呼吸。体にかかった力。
指が、ある場所で止まった。
ジョン・ポール・スタップ大佐が、身をかがめてそこを覗いた。
スタップは、人間の体がどこまで耐えられるかを、自分の体で量ってきた男だった。ロケットで走る橇に乗り、急停止の衝撃を全身で受けた。その目が、紙の上の数字を読んだ。
毎分百二十回。手足の先で、重力の二十二倍。
スタップは、何も言わなかった。
ただ、その数字の上に人差し指を置き、しばらく動かさなかった。それから、指を離した。
フェルドスタインが、キッティンジャーのほうを見た。
「首を」
キッティンジャーは襟を開けた。
フェルドスタインは身をかがめ、首の横を長いあいだ見た。指で触れはしなかった。やがて、襟を戻すよう手で示した。
キッティンジャーは襟を戻した。ボタンを、一番上まで留めた。
*
吊りかごは、地上まで自分の落下傘で降りてきていた。
格納庫の隅に据えられたそれを、技術者たちが囲んでいた。
座席は、白い発泡材を削って作ったものだった。体を受け止める窪みの下に、いくつか丸い穴がくり抜かれている。そこに湯たんぽを埋め、上昇中の寒さから体を守る。地上で考えた、ささやかな工夫だった。
技術者の一人が、穴から湯たんぽを一つ引き抜いた。
ゴムの袋は、ふくらみの形のまま固まっていた。中の水はとうに溶けている。それでも、袋の形が元に戻っていなかった。
技術者は、それを座席の穴に戻そうとした。
入らなかった。
もう一度押し込もうとして、彼は手を止めた。ふくらんだ袋と、穴の縁と、その横に置かれていたはずの計器箱の位置。それを、指で順になぞった。
キッティンジャーは、その指の動きを見ていた。
二万メートルの上で、自分の体を座席に縛りつけていたもの。それは、寒さから守るために、誰かが善意で入れた湯だった。
技術者が、低い声で何か言った。キッティンジャーには聞き取れなかった。聞き取る必要もなかった。
別の男が、落下傘の背負い袋を作業台に載せた。タイマーにつながる細い引き綱を、手袋を外した指でつまむ。引く。戻す。もう一度、引く。
どれくらいの力で、どの向きに引けば、時計が動くのか。
男は何度もそれを繰り返した。誰も止めなかった。
*
予備傘は、別の台に広げられていた。
白い布の端に、砂がまだ残っていた。
技術者たちは、この傘についてはほとんど議論しなかった。開くべき高さで開いた。気圧計の仕掛けが一万一千フィートで動き、一万フィートで傘は全開した。
地面までは、六千フィート――二千メートルも残っていなかった。
一人が、鉛筆で紙の隅に数字を書いた。落下の速さと、残っていた高さ。書いて、割った。
答えが出たところで、鉛筆が止まった。
キッティンジャーは、その紙を見なかった。見なくても、分かっていた。
*
その日の終わり、スタップが机の上で一枚の書類を揃えていた。
上へ送る報告だった。何が起きたか。何が原因か。何が直ったか。
そして、何が確かめられなかったか。
安定傘は、一度も、正しく働く機会を与えられなかった。早く開きすぎて、首に絡んだ。この計画が証明しようとしたもの――高い空から落ちる人間を、小さな傘が回転から守れるかどうか――は、まだ何一つ証明されていない。
分かったのは、人間が回れば、どうなるかだけだった。
「上は、渋るだろう」
スタップは、書類から目を上げずに言った。
「渋るべきです」
戸口に、フェルドスタインが立っていた。手に、計器箱の細長い記録紙を丸めて持っていた。
「予備傘が、あと少し遅れていたら、私はこの報告書ではなく、別の書類を書いていました」
スタップは答えなかった。
「続けるなら、人形でやってください。人形なら、何度でも落とせる」
「人形は、立ち上がらない」
キッティンジャーだった。
フェルドスタインは、彼のほうを見た。
「人形は、座席でもがかない。引き綱を、三度引いたりもしない」
キッティンジャーは、それ以上言わなかった。
フェルドスタインは、丸めた紙を握り直した。口を開きかけて、閉じた。紙を机の端に置き、部屋を出ていった。
スタップは、書類から目を上げなかった。ペンの先だけが、しばらく止まっていた。
*
基地の事務所には、遠くへつなぐ電話が一台あった。
夜、人のいなくなった事務所で、キッティンジャーは受話器を取った。交換手に、オハイオの番号を告げる。遠くで、何度か回線のつながる音がした。
妻が出た。
「元気だ」
彼は言った。
受話器の向こうで、妻は少し黙った。それから、元気ならいい、と言った。それ以上は、訊かなかった。
小さな足音が近づいてきて、受話器の向こうが騒がしくなった。
「父さん」
息子だった。
「ぼく、百まで数えられるよ」
「そうか」
「数えてあげる。いち、に――」
「待て」
受話器の向こうが、静かになった。
キッティンジャーは、事務所の暗い窓を見た。
「十六まででいい」
「どうして」
「十六まででいいんだ」
息子は、少し考えたらしかった。それから、数えはじめた。
いち。に。さん。
一つずつ、間を置いて。
キッティンジャーは、目を閉じて聞いていた。
じゅうご。じゅうろく。
「おしまい」
「ああ」
彼は、目を開けた。
「上手だ」
受話器を置いたあとも、彼はしばらく、電話の前から動かなかった。
*
夜の格納庫には、明かりが一つしか点いていなかった。
吊りかごの座席から、湯たんぽはすべて抜かれていた。穴だけが、白い発泡材に口を開けている。
キッティンジャーは、その座席に腰を下ろした。
与圧服は着ていない。作業着のままだった。ただ、手には厚い手袋をはめていた。あの日と同じものだった。
膝の上に、ストップウォッチがあった。
彼は親指でそれを押した。
肘をつく。体を起こす。手袋が座席の縁をつかむ。立つ。
親指で、もう一度押した。
数字を見る。
座る。
押す。立つ。押す。
座る。
何度目かのとき、格納庫の扉が開く音がした。足音が近づいて、止まった。
スタップだった。
彼は、何をしているのかとは訊かなかった。座席の横に立ち、黙って、キッティンジャーの手の中のストップウォッチを見た。
キッティンジャーは、それを差し出した。
スタップが受け取った。
キッティンジャーは座り直した。手袋を、座席の縁から離した。
スタップの親指が、ボタンにかかった。
押す。
キッティンジャーが立つ。
押す。
スタップは、数字を見た。長いあいだ、見ていた。
それから、ストップウォッチを持ち主に返さず、自分の上着のポケットに入れた。
キッティンジャーは、立ったまま、吊りかごの縁の向こうを見ていた。格納庫の壁しかなかった。それでも、彼はそこを見ていた。
「今度は」
と、彼は言った。
「十六まで、数えさせてくれ」
スタップは、何も答えなかった。
ただ、ポケットの上から、ストップウォッチを一度だけ押さえた。
(第二話 完)




