第一話 回転
※本作は、実在の空軍将校ジョセフ・キッティンジャーと、アメリカ空軍の高高度落下実験「エクセルシオール計画」を題材にした歴史小説です。
年代、実験の経緯、関係者は可能な限り史料に基づいていますが、会話、心理、日常の場面の一部は物語上の創作です。とりわけ、整備室や家庭の場面、低圧室での試験の経緯、地上の人物の同席や役割分担、装備の受け渡しなどには創作が含まれます。
史料の記述が食い違う点(装置の作動秒数など)については、いずれか一方を採用しています。
本編
一九五九年十一月十六日
空は、まだ青かった。
ただし、地上で見上げる青ではない。絵具を水で薄めすぎたような、底の抜けた青だった。その青の上のほうから、黒が染み出しはじめている。
高度七万六千四百フィート。およそ二万三千三百メートル。
吊りかごに屋根はなかった。四方が開いている。ヘリウムを詰めた気球は頭上はるか高くで膨らみ、陽を受けて白く光っていた。風の音はない。空気が薄すぎて、音を運ぶものがないのだ。
ジョセフ・キッティンジャー大尉は、与圧服の手首を一度だけ握り直した。
服は体に食い込むほど締まっている。この高さでこの服かヘルメットが破れれば、十秒あまりで意識が途切れる。数分で命が尽きる。彼をこの世界につなぎ留めているのは、締めつける布と、ヘルメットの中を流れる酸素だけだった。顔の前の覆いが、吐く息でわずかに曇っては晴れる。
「計器、読み上げる」
座席の下の計器箱に収めた無線機に向かって、彼は数字を一つずつ告げた。高度。気圧。酸素の残量。外気温は氷点下の数十度を示していた。
雑音の向こうで、地上の通信係が復唱する。夜明け前から砂漠でヘリウムを詰め、この気球を送り出した男たちの一人だ。声は落ち着いている。いつも通りだった。
「了解。準備はいいか」
「いい」
それ以上は言わなかった。
手順は体に入っている。何度も繰り返した。
吊りかごの縁に立つ。踏み出す。十六秒、何もせずに落ちる。速度が乗ったところで、背中の仕掛けが小さな傘を弾き出し、その傘が直径二メートル足らずの安定傘を引き出す。安定傘が体を引き、回転を防ぐ。そのまま姿勢を保って降り、低い高度で主傘が開く。
この計画は、そのためにあった。
高い空で機体を失った飛行士が、きりもみにならず、生きて地上まで帰れるか。それを、人間の体で確かめる。
彼は座席から腰を浮かせようとした。
浮かなかった。
与圧服と防寒着を重ねただけで、体の重さは倍近くになる。その上に計器箱と落下傘を負っていた。その計器箱が、座席のどこかに噛みこんでいた。
彼は肘をつき、体をよじった。
もう一度。
厚い手袋が座席の縁を探る。何かを押しのけ、何かを引きずる。箱は、なかなか座席を離れなかった。
十一秒。
それだけかかって、彼はようやく縁に立った。
引き綱に手をかけた。これを引けば、背中の時計が動きだす。
引いた。
紐は、抜けなかった。
厚い手袋の指で、もう一度引いた。まだ抜けない。
三度目で、ようやく手応えがあった。
下を見た。
雲が、地図の上に置き忘れた綿のように散っている。その間に、茶色い大地が平たく伸びていた。ニューメキシコの砂漠だ。どこかに基地があり、迎えの車が走っている。ここからは見えない。
「行く」
彼は、空へ踏み出した。
*
一秒。
体が、何にも支えられなくなる。落ちているという感覚はほとんどなかった。空気が薄く、肌に当たる手応えがない。ただ、腹の底がすっと抜けていく。
二秒。
背中で、何かが弾けた。
早い。
そう思ったときには、もう遅かった。最初に引いたとき、時計はもう動きはじめていたのだ。
速度が足りなかった。薄い空気の中で、傘は膨らまない。ふらりと揺れたまま体の横へ流れ、紐が首のほうへ回り込んだ。
体が、傾く。
左へ、ゆっくりと。
それから、速く。
回転が始まった。
彼は両腕を広げた。訓練で教わった通りに、手足で空気を押し、回転を殺そうとした。だが、押すべき空気がない。腕は空を切るだけだった。首に絡んだ紐が、体をさらに振り回した。
回る。
空と大地が、交互に視界をよぎる。青。茶。青。茶。その切り替わりが、目で追える速さを超えていく。
腕が、勝手に外へ引かれた。指先に血が集まり、重くなる。脚も同じだった。手足の先から、鉛を流し込まれるように重くなっていく。
視界の縁が、暗くなった。
暗さが、内側へ向かって狭まってくる。筒の中を覗くように、見える範囲が小さくなる。その小さな円の中で、まだ空と大地が回っていた。
彼は、腕を体に引き寄せようとした。
腕は、動かなかった。
円が、点になった。
*
地上では、観測員が経緯儀の接眼鏡に目を押し当てていた。
「離れた。落下開始」
声が上がる。時計を持った者が秒を数えはじめる。
三秒目で、観測員の声が変わった。
「――傘が出てる」
誰かが「早すぎる」と言った。
経緯儀の視野の中で、小さな人影がぶれていた。最初は揺れているように見えた。それが揺れではないと分かるまで、数秒かかった。
「回ってる」
観測員は、接眼鏡から目を離さなかった。離せなかった。
「回ってる。止まらない」
通信係が送話器を握った。
「ジョー。ジョー、聞こえるか」
返事はなかった。雑音だけが、規則正しく流れていた。
もう一度呼んだ。それから、送話器を置いた。
地上の男たちには、手を伸ばす方法がなかった。
できることは、全部、地上でやり終えていた。その仕事が正しかったかどうかを、今は空が決めている。
誰も口をきかなかった。時計を持った男だけが、唇の動きで秒を数え続けていた。
一分。二分。
人影は回り続けている。主傘は、開かない。
三分が近づいた。観測員の喉が、小さく鳴った。
そのとき、経緯儀の視野の中で、白いものがもつれた。
回る人影にまとわりつき、ほどけない。観測員の息が止まった。
次の瞬間、もつれがほどけた。白いものが咲いた。
胸に抱えていた予備の落下傘だった。気圧を感じ取り、人の手を借りずに開く仕掛けだった。
白い傘は大きく膨らみ、回転する人影を、ぐい、と引き止めた。
人影は、止まった。
吊られたまま、揺れている。手足は、だらりと垂れていた。
地面までは、あと二千メートルもなかった。
「開いた」
観測員が言った。声が、かすれていた。
誰かが走り出した。それにつられて、何人もが車へ向かった。ジープの扉が乱暴に閉められ、砂を蹴立てて走り出す。
*
揺れていた。
最初に戻ってきたのは、それだった。体が、左右に振られている。回ってはいない。振り子のように、行って、戻る。
目を開けた。
頭上に、白いものが大きく広がっていた。傘だ。丸く膨らんで、陽を透かしている。
足の下に、砂漠があった。近い。灌木の影が一つずつ見分けられる。
彼は、自分が吊られていることを知った。
いつ開いたのかは分からなかった。誰が開いたのでもなかった。地上のどこかの作業台で、誰かが畳み、誰かが仕掛けを組んだ傘が、彼の知らないうちに、彼の代わりに仕事をしていた。
地面が来た。
膝を曲げる間もなく、砂の上へ転がった。
砂は、冷たかった。背中の下に、硬くて冷たいものがある。動かない。回っていない。
エンジンの音が近づいてくる。砂を踏む足音。誰かが彼の名前を呼んでいる。
ヘルメットが外された。乾いた砂漠の空気が、顔に触れた。
男たちの顔が、彼を覗き込んでいた。一人の指が彼の手首を探り、脈を取っている。その指が、わずかに震えていた。
キッティンジャーは、しばらく空を見ていた。
それから、首を横へ向けた。
すぐそばの砂の上に、白い布が広がっていた。予備の落下傘だった。風を失って、地面に伏せるように平たくなっている。ところどころに砂がかかり、紐が乱れて、彼の体へとつながっていた。
彼は、右手を伸ばした。
まだ重い腕だった。指が思うように曲がらない。それでも彼は手を伸ばし、白い布の端をつかんだ。
引き寄せる。
もう一度、引き寄せる。
砂を払い、皺の寄った布を、胸の上へ集めていく。周りの男たちは、手を出さなかった。黙って、それを見ていた。
彼が何を言うのか、皆が待っていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、白い布を胸に抱えたまま、目を閉じた。
砂漠の上には、いつもの青い空があった。
(第一話 完)




