第二話 停車
『――まもなく、終点。きさらぎ、きさらぎです』
それは聞き慣れない駅名だった。
透は反射的に耳を傾ける。
この状況で数少ない情報源なのだから、聞き逃す手はないだろう。
『この電車は、きさらぎが終点となります。ご乗車、ありがとうございました。お忘れ物のないよう、お気をつけてお降りください』
アナウンスはそこで途切れ、車内には再び車輪の走行音だけが残った。
「……きさらぎ?」
復唱してみたところで、やはり聞いたことのない地名だった。
……。
……いや、どこかで耳にしたことがある気もする。
如月。
一般的には二月の異称として知られる言葉だが、それ以外にも、何か別の意味で聞いた覚えがあった。
……しかし、随分と昔のことだったような気がする。
記憶を辿ろうとしたものの、うまく思い出せなかった。
それよりも、もう間もなく終点に到着するらしい。今はそちらの方が重要だろう。
電車は既に速度を落とし始めており、車輪の音も先ほどまでとは変わっている。
「――」
ふと、窓際で眠っている少女に目が向いた。
見れば、彼女は相変わらず窓に頭を預けたまま眠っていた。
……このままでは、降りそびれてしまうのではないだろうか。
透は少し迷った。見知らぬ男に突然声をかけられて、驚かない人間は少ないだろう。まして、こんな時間だ。
……しかし、終点だというのに彼女だけを車内に残して降りるのも、さすがに気が引ける。
結局、透は立ち上がると、少女の座る席へと歩み寄った。
「あの」
とりあえず、少し離れたところから声をかけてみるが、反応はない。
「……あの、すみません。起きてください」
再度、少し近寄ってから声を掛けると、今度は少女の肩が僅かに動いた。
……しかし、それでも目を覚ます気配はなかった。
透は苦笑し、少し声を大きくした。
「もうすぐ終点ですよ。起きないと、電車が戻ってしまうかも」
「……ん、ぅ……」
ようやく声が届いたのか、少女が眠たげな声と共に小さく身じろぎをする。
窓に預けていた頭がゆっくりと起き上がり、固まった両腕を伸ばすように引き上げると、半ば閉じかけた瞼が、何度か瞬きを繰り返した。
そして。そこでようやく、目の前に立つ透の存在を認識したらしい。
「……っ!」
少女は驚いたように身体を引き、膝の上の鞄を抱き締めた。
その反応に、透は思わず一歩下がった。
「あ……驚かせたらすみません。別に怪しい者じゃないです」
そこまで言ってから、自分の言葉に少し後悔した。
怪しい者は大抵そう言うものだ。
いや、怪しくない者も場合によっては言うだろうが……つまるところ、この言葉にはほとんど意味がない。初対面で寝起きの、それも年下の少女を安心させるには不十分だろう。
案の定、少女は先ほどと同様に身を強張らせ、困惑した表情のまま透を見つめていた。
「えっと……電車が、もうすぐ終点みたいで。ずっと眠っていたから多分寝過ごしだろうし、起こした方がいいかなと」
「……終点?」
「はい。まあ、俺も寝過ごしちゃったんですけど」
少女はまだ警戒心の残る目で透を見つめたあと、ゆっくりと周囲を見渡した。
その表情が、次第に変わっていく。
「あれ……?」
向かい側の座席を見て、連結扉へ目を向ける。
最後に窓の外へ視線を移すと、彼女は不思議そうに眉を寄せた。
「……ここ、どこですか?」
答えを少しばかり考えて、透は小さくため息をついた。
それは、この状況ではじめに行き当たる疑問としては妥当だろう。
しかし。今の透にとっては、その疑問に答えられる情報すらない。
「それが、俺にも分からなくて……」
「……え?」
「何か、ずいぶん遠くまで来ちゃったみたいで……俺にも外の景色は見覚えがない。それにさっきから携帯で現在地を調べてるけど、電波も入らないんです」
少女が、慌てて鞄の中を探る。
取り出したスマートフォンの画面を点灯させると……その表情は、みるみる青ざめていった。
「……一時、半?」
「びっくりしますよね。俺も、さっき起きたときは同じ反応しましたし……それに、この電車にこんな深夜の運行があるなんて知らなかったもんだから」
「え、ちょっと待ってください……。そんな、だって、私……」
少女は青ざめた顔のまま、何かを確かめるように画面を操作した。
しかし、途中で指先が止まる。
「……圏外」
「……やっぱり、そっちもですか」
「はい……。え、何で……? 車内で圏外なんて」
少女は再びスマートフォンを操作し始めた。
何度か画面を切り替えたあと、今度はどこかに電話をかけようとしたらしい。耳元へ端末を近づけたものの、すぐに諦めたように下ろしてしまった。
「……どうしよう」
それは先ほどまでよりも、さらにか細い声だった。
この八方塞がりな現状を、現代人が日常的に頼りにしているスマートフォンによって理解させられたのだから、不安になるのも無理もない。
透は少し考えてから、なるべく穏やかな口調で尋ねた。
「誰かに連絡したかったんですか?」
「……おばあちゃんと、二人で暮らしてて。遅くなるって連絡はしてたんですけど、こんな時間になるとは思ってなくて……心配させちゃうかな」
「ああ……それは、心配するでしょうね」
「はい。いつもなら、もうとっくに寝ている時間なので……」
彼女は困り果てたように俯いた。
この状況で自分のことよりも、祖母へかける心配のことを気にしていたというのは少し驚きだった。が、今はそんなことを考えている場合ではない。
透も改めてスマートフォンを確認したが、やはり通信状況は変わっていなかった。
「とりあえず、駅に着いたらそこで場所を確認しましょう。深夜でも終点なら駅員もいるでしょうし、電話くらい借りられると思いますよ」
「……本当ですか?」
「多分、ですけど。少なくとも、ここがどこなのかくらいは分かるはずです」
少女は小さく息を吐いた。
「……そう、ですよね」
「まあ、俺も帰れないと困るので……大学の講義くらいサボってもいいけど、こんなことでバイトを休んだら何を言われるか」
少し冗談めかして言うと、少女はようやく微かな笑みを浮かべた。
「……ふふ。ありがとうございます、起こしてくれて」
「まあ、俺もついさっきまで寝てたんですけどね」
少女がまた小さく笑う。その表情を見て、透も少しだけ安心した。
どうやら、最初ほど警戒されてはいないらしい。
……といっても、終点を出て今夜が終われば、もう会うことはないだろうが。
そんなやり取りをしているうちに、電車は緩やかに速度を落としていた。
窓の外に、ぽつりと橙色の光が現れる。
それがゆっくりと流れていき、続いて別の光が見えた。
透が窓の向こうへ目を向けると、木々しかなかった暗闇の中に、細長いコンクリートの構造物が浮かび上がっていた。
ホームだ。
どうやら、ようやく駅に到着したらしい。
しかし、そこに見えた光景は、透が想像していたものとは随分違っていた。
ホームは驚くほど広く、屋根もほとんどない。
等間隔に設置された古い照明が、くすんだ橙色の光を地面へ落としている。線路の向こうには斜面が迫り、その上には鬱蒼とした木々が生い茂っていた。
そして駅舎らしい建物も、すぐには見当たらなかった。
「……ずいぶんと田舎だな……」
思わず呟くと、隣に立った少女も窓を覗き込んだ。
「……ほんとだ。この電車って、終点になるとこんなところまで走ってるんですね……」
「ええ、俺もさっき知ったところで……驚きました」
そこで二人は、思わず顔を見合わせた。
何とも間の抜けた会話だったが、少なくとも今は、そうして言葉を交わしていた方が気が紛れるのもあるのだろう。
やがて列車が甲高い金属音と共に、低い振動を残して完全に停車した。




