第三話 無人駅(01)
少し遅れて、扉が開く。
車内へ流れ込んできた冷気に、透は思わず身を縮めた。
「……寒っ」
「……あ、ほんとに寒いですね……今はまだ八月なのに」
前に座る少女は、ブレザーの前を押さえながらホームの方を見つめていた。
冷たい風に混じって、どこからか湿った土の匂いが漂ってくる。
透は扉の前に立ち、改めて外を確認した。
……やはり人影はない。
ホームには駅員らしき姿も見えず、遠くの照明が僅かに揺れているばかりだった。
「……降りるんですよね?」
少女が尋ねてくる。その声からは、わずかな躊躇いが感じ取れた。
……たしかに、深夜に見るこの駅の光景は不気味だった。
高校生の少女をこんな場所に一人で残すのは心配だし、透自身も、この状況で一人でなくてよかったと内心思っていた。
「そうですね。ここが終点らしいですから」
「でも、駅員さん……いないですよね。……見た感じ。それに、終電なのに車掌さんとかも来ないし」
言われて、再び窓からホームを見渡す。
やはり、駅員らしき人は見当たらない。
時間のせいなのだろうか。しかし、駅舎すら見当たらないことは、周囲の景観も相まって多少の不安を煽る。
もっとも、考えすぎるのも良くないだろう。辺りには照明も少なく、ホームの全体を見渡せているわけではない。
「……こんな田舎だし、無人駅なのかもしれませんが。まあ、一旦降りて駅員さんを探しましょう」
透はそう答えるのと同時に、ホームへ足を踏み出した。
靴底がコンクリートに触れた瞬間、なぜだか想像以上の冷たさが足元から伝わってきた気がした。
外気は、相当に冷え込んでいるらしい。
吐き出した息が、月明かりの下で薄く白んだ。
少し遅れて、少女も電車から降りてくる。彼女は足元を確かめるように慎重にホームへ降り立つと、改めて周囲を見渡した。
「…………静かですね」
「……はい。こんな時間ですし、これが普通なんでしょうけど」
――透が答えた直後。背後で、発車を知らせる電子音が鳴り始めた。
その音に二人が振り返ると、開いていた扉がゆっくりと閉じていくところだった。
車内には、もう誰もいない。
照明に照らされた緑色の座席が、窓越しに幾つも並んで見えた。
……そういえば結局、車掌が乗客の確認に来ることはなかった。
終点に到着したのだから、普通なら車内に乗客が残っていないかくらいは確認するものではないのだろうか。
現に、透も少女もつい先ほどまで眠っていたのである。もしも目を覚まさずにいたら、一体どうなっていたのだろう。
……もっとも、地方の路線では車掌の乗務していない列車もあるというし、透自身、鉄道の運行事情に詳しいわけではない。
そんなことを考えているうちに、列車がゆっくりと動き始めた。
先ほどまでとは反対方向へ、車両が次第に速度を上げていく。
……あれ?
透はふと、小さな疑問を覚えた。
終電の終点に到着した列車が、こんなにもすぐ折り返すものなのだろうか。
これが最終列車なら、ここで運行を終えるのではないのか。
あるいは、別の場所にある車両基地へ戻るということなのかもしれないが。
考えてみれば、終点に到着した列車がその後どうなるのかなど、普段は気に留めたこともなかった。
透は遠ざかっていく電車を、なんとなく目で追っていた。
車輪が軋む音がホームに響き、最後尾の赤い灯りが線路の先へと遠ざかっていく。
やがて、列車は暗い木立の向こうへ姿を消した。
それからも暫くは走行音が聞こえていたが、その音も徐々に小さくなり、最後には完全に聞こえなくなった。
そして、完全な静寂が訪れた。
透は、無意識に耳を澄ませていた。
電車の中では、車輪の振動や空調の唸りが絶えず聞こえていた。それらが突然なくなったせいか、周囲の静けさが妙に際立って感じられる。
「…………」
あまりにも急に失われた音のせいか、まるで自分たちだけが夜の山中に取り残されてしまったような錯覚を覚える。
……夜の駅とは、こんなにも静かなものだっただろうか。
透は、先ほどまで考えていた列車のことも忘れ、しばらくその場に立ち尽くしていた。
遠くで風が木々を揺らす音がした。
ほかには、何も聞こえない。
「……行っちゃいましたね」
隣から聞こえた声に、透は我に返った。
少女は、じっと列車の消えた方向を見つめていた。
「……そうですね」
「何か……取り残されちゃったみたい」
少女がぽつりと呟いた。
先程まで同じことを考えていた透は、少しだけ笑った。
「まあ、実際取り残されたようなものですからね。終電を寝過ごして、他に乗客もいないわけですし」
「……そう考えると、結構ひどい状況ですよね」
「そうですね。早いところタクシーでも見つけて、お互い無事に帰れるといいですね。まあ、料金はバカにならないでしょうが……」
そう答えると、彼女は少し困ったように笑った。
透も笑みを返し、改めて周囲を見渡す。
ホームは細長く、向かい側には線路が一本延びている。その先は深い闇に沈み、照明の光が届かない場所では地面の様子すらはっきりと分からなかった。
よく見れば、ホームの端には小さな建物らしきものが見えた。
屋根の形状や、壁に設けられた窓からして、恐らく駅舎だろう。
「とりあえず、あそこに行ってみませんか。駅員室があるかもしれません」
透が建物の方を指差すと、少女はそちらを見ることもなく頷いた。
「……はい。あの、私も一緒に行っていいですか?」
「もちろんです。むしろ、一緒に来てもらえないと困るくらいで」
「……困る?」
「こんな場所に一人でいたら、俺もちょっと心細いので」
少女は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「……ふふ、そうなんですね」
「はい。二人とも同じ状況ですし、帰れるまで協力しましょう」
「……はい」
透は少女の歩調に合わせながら、ホームを歩き始めた。
コンクリートの床には細かな亀裂が走っていて、その隙間から雑草が顔を覗かせている。ところどころに雨染みのような黒ずみも見え、随分と長い間、手入れをされていないようだった。
……ただ、それにしては不思議なことに、ホーム全体が極端に荒れているわけでもなかった。
落ち葉は端の方に寄せられ、歩く場所にはそれほど積もっていない。
透は何気なくその光景を眺めたが、特に深く考えることはなかった。
きっと、駅として機能する程度にはしているのだろう。
それよりも、今は駅の場所を確認する方が先決だった。
「……あ」
ホームの中央付近まで進んだところで――二人は古い駅名標を見つけ、足を止めた。
白い長方形の看板が、細い金属製の支柱に取り付けられている。
表面には細かな汚れが付着していたが、中央に書かれた文字は容易に読み取れた。
その下には、小さくアルファベットが並んでいる。
「……きさらぎ」
それを無意識に読み上げて、文字を眺める。
きさらぎ。
やはり、その響きには妙な既視感があった。
駅名としては聞き覚えがないはずなのに、この四文字だけは、以前どこかで目にしたことがあるような気がする。
それも、二月の異称とは確実に別の形で。
かなり印象に残るものだったはずなのだが、なぜだかすぐには思い出せなかった。
「……知ってる駅なんですか?」
隣に立った少女が尋ねてくる。
透は曖昧に首を傾げることしかできなかった。
「いや、知らない……はずなんですけどね」
「……はず?」
「何か、名前だけ聞いたことがある気がするんです。地名なのか何なのか、全然思い出せないんですけど……」
「……きさらぎ……」
少女も看板を見つめる。
「……私は、聞いたことないです。そもそも、どこの県なんでしょう」
「携帯が圏外になっているせいで、それすら分からないんですよね。せめて路線図があればいいんですけど」
透は駅名標へ視線を向けたまま、あることに気付いた。
看板の左右には、通常なら隣接駅の名前が記されているはずだ。
しかし、この駅名標には中央の駅名以外、何も書かれていない。
この看板が立ってからかなりの年月が経っていて、文字が消えてしまったのだろうか。
あるいは、終点だからという理由で省略されているだけかもしれない。
透は看板の端まで目を凝らしたが、それらしい文字の痕跡も見つけられなかった。
「……まあ、駅舎に行けば何か分かると思います。時刻表や路線図くらいはあるでしょうし」
「そうですね。……できれば、駅員さんもいてくれるといいんですけど」
「本当に。こんなところで始発まで待つっていうのは、さすがに勘弁してほしいですからね」
透が苦笑すると、少女もまた困ったように笑った。
二人は再び歩き始め、間もなくホームの端にある建物へと辿り着いた。
近づいてみると、それは随分と古びた木造の駅舎だった。
屋根瓦には所々に苔が生え、板張りの外壁も長年の雨風によって灰色にくすんでいる。窓枠の塗装はほとんど剥がれかけており、ガラスにも薄い汚れが付着していた。
しかし、やはり完全に使われなくなった建物というわけではないらしい。
窓の向こうには、蛍光灯の白い明かりが灯っていた。
「あ! 明かりがついてますね」
少女が少しだけ嬉しそうな声を上げた。
「ですね。もしかしたら、誰かいるかな」
透は建物へ近づき、入口の引き戸に手をかけた。
……どうやら鍵はかかっていないらしい。
ガチャ、と乾いた音を立てて扉が開くと、外よりは幾分か暖かい空気が流れてきた。
「……すみませーん。どなたかいらっしゃいませんか?」
透は入口から中を覗き込み、少し大きな声で呼びかけた。
しかし、返事はなかった。
「……駅員さん?」
もう一度声をかけてみたものの、やはり何の反応もない。
「……いないみたいですね」
「そう、ですね……」
後ろで見ていた少女は、残念そうに肩を落とした。
「……まあ、奥にいて聞こえなかったのかもしれませんし。とりあえず中を見てみましょうか」
「……はい」
透は少女を先に通すと、自分も駅舎へと入った。




