第一話 終点
――列車の揺れ方が変わった。
それまで一定の間隔で繰り返されていた振動が、ふいに大きくなったのである。
車輪が継ぎ目を通過する鈍い音とともに、座席の背凭れが小さく跳ねる。その衝撃に身体を揺さぶられ、雨宮透はゆっくりと意識を浮上させた。
瞼を閉じたまま、遠くで響く走行音に耳を傾ける。
……電車に乗っている。
寝起きの頭は、そんな当たり前の事実を認識するまでに数秒を要した。
それにしても、首筋が痛い。どうやら随分と長い間、不自然な姿勢で眠っていたらしい。透は薄く目を開き、天井から降り注ぐ白い光に顔を顰めながら、凝り固まった首をゆっくりと起こした。
視界に入ったのは、見慣れたようで、どこか古めかしい電車の内装だった。
向かい側には深い緑色の座席が並び、その上には広告の吊り下げられた金属製の枠が続いている。天井には蛍光灯が等間隔に設置されていたが、幾つかは消灯しているらしく、車内の奥まった場所には薄い影が落ちていた。
窓ガラスには座席や吊り革がぼんやりと映り込み、その向こうでは、夜の闇が絶え間なく後方へ流れている。
透は口元を手で覆い、大きく欠伸をした。
「……寝過ごしたか」
誰に聞かせるでもなく呟くと、上着のポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を点灯させた途端、透は思わず眉を寄せた。
午前一時二十七分。
「……一時?」
もう一度確認する。
しかし、見間違いではなかった。
確か、自分が電車に乗ったのは十一時半を少し過ぎた頃だったはずだ。
大学が終わったあと、アルバイトが長引いたせいで随分と帰りが遅くなり、いつもの電車の座席に腰を下ろした途端、猛烈な眠気に襲われたことを覚えている。
そこまでは覚えているのだが。
つまり、それから二時間近く眠っていたことになる。
「……やらかしたな」
最寄り駅など、とっくに通り過ぎているだろう。問題は、現在地がどこなのかということだが。
……そういえば、この路線にはこんな時間まで電車が走っていただろうか。
ふと浮かんだ疑問に、透は首を傾げた。
都心を走る路線ならともかく、普段利用しているこの路線は、お世辞にも都会とは言い難い地域を通っている。日付が変わる頃には駅も閑散としているし、これほど遅い時間まで運行していたという記憶はなかった。
もっとも、終電の時刻を正確に把握しているわけでもない。普段はもう少し早い時間に帰宅しているのだから、知らないだけという可能性も十分にある。
透はそれ以上考えることなく、改めて車内へと目を向けた。
とりあえず次の駅で降りて、帰る方法を考えるしかない。
そう思いながら周囲を見渡したところで――透は初めて車内の静けさに気がついた。
そこには、乗客がいなかった。
向かい側の座席はもちろん、左右に続く長椅子にも人影が見当たらない。透が乗車したときには、仕事帰りらしいスーツ姿の男性や、イヤホンをつけた若い女性など、少なくとも十人以上は乗っていたはずだった。
それが今では、誰一人として見当たらない。
透は少し身を乗り出し、車両の端にある連結扉へと目を向けた。
扉の向こうにも、乗客らしい人影は見えなかった。
もっとも、深夜の電車であれば不自然というほどでもない。恐らく、ほかの乗客は途中の駅で降りてしまったのだろう。
そう考えていたとき。
……よくよく見ると、少し離れた座席に人影があることに気づいた。
窓際に、一人の少女が座っている。
紺色のブレザーに、細かな格子柄のスカート。膝の上には通学鞄らしきものを抱えており、窓ガラスに頭を預けたまま、静かに寝息を立てていた。
制服姿からして、高校生だろうか。
肩にかかる程度の黒髪が頬を覆い、伏せられた睫毛の下には僅かな影が落ちている。随分と気持ちよさそうに眠っているが、窓に押しつけられた頬は少し赤くなっていた。
その姿に、透はなんとなく親近感を覚えた。
こんな時間まで電車で眠りこけているとは、どうやら彼女も相当に疲れているらしい。
もっとも、だからといって寝過ごした事実が変わるわけでもない。
透は再びスマートフォンへと視線を落とすと、地図アプリを起動した。とりあえず、現在地を把握しなくては対処のしようもない。
……しかし。
画面の中央に読み込み中を示す表示が現れたきり、一向に現在地が表示されない。
どうしたものかと画面上部を見れば、案の定というか、通信状況を示す表示は圏外に変わっていた。
「……嘘だろ?」
今度こそ、はっきりと声が漏れた。
電車の中で一時的に通信が途切れることは、まあある。だが、車内で圏外とは。こんな時間に現在地すら分からないのは少々困る。
透はスマートフォンを持ったまま窓に顔を近づけた。
ガラスには自分の顔が薄く映っている。その向こうを凝視してみると、真っ黒な景色の中に、何かが幾重にも連なっているのが見えた。
暗くてかなり分かりづらいが、それは木々だった。
恐らく、線路のすぐ脇に林が広がっているのだろう。枝葉の輪郭が次々と窓の外を流れていく。
しかし、不思議なことに、街灯や住宅の明かりはほとんど見当たらなかった。
地上を走る電車であれば、深夜でも少しくらいは人工的な光が見えるはずである。踏切の警報灯なり、道路沿いの街灯なり、遠くの建物から漏れる光なり、何かしら目に入るものだ。
ところが、窓の向こうには黒い木立が続くばかりだった。
「……随分、遠くまで来たみたいだな。二時間も寝てたなら、それはそうなんだが」
透は独り言のように呟いた。
寝過ごしたにしても、路線の終点がこんな山奥にあるとは思わなかった。途中で何か別の路線へ乗り入れたのだろうか。
考えてみれば、そもそも乗車したときの記憶が少しばかり曖昧だった。
改札を通り、ホームで電車を待っていて、そのあと座席で猛烈な眠気に襲われたことまでは覚えている。だが、その先になると、どうにもはっきりしない。
どの扉から乗り込んだのか。
どの辺りの座席に腰を下ろしたのか。
誰かと隣り合って座っていたような気もするが、確信が持てない。
疲れていたとはいえ、ここまで記憶が曖昧になるものだろうか。
透は眉間を指で揉んだ。
寝起きのせいか、頭が少し重い。
今考えても仕方がない。次の駅に着いたら、駅員に話を聞けばいいだろう。深夜とはいえ、さすがに無人ということはないはずだ。
そう判断して、少し肩の力を緩めた直後だった。
――プツッ。
頭上から、小さな雑音が聞こえた。
透が顔を上げると、天井のスピーカーから、微かな電子音に混じって女性の声が流れ始めた。
『――まもなく、終点。きさらぎ、きさらぎです』




