19 シレーネの時
アスラルの傷は深かった。
死者の山に呼ばれてアスラルが挑み、山頂に巣食う大蛇と戦い、破れたのだという。
カーネルの言葉によれば、その大蛇こそ女王ヴァルメスである。
アスラルは腹部に負傷し、包帯を巻いていた。
縫合はしていなかったが、寒かったためか出血は少なく、アスラルの生命力によるものか、傷口はふさがっていた。
だが、アスラルは動けない。
動く体力はない。
アスラルが動くことができない10日ほどの日々が、シレーネの人生で最良のものとなった。
シレーネは二階の部屋に誰も入れず、思うままアスラルを独り占めした。
体を拭き、食事を与え、傷口を癒す。
シレーネにとっては幸福の絶頂であり、アスラルはただシレーネに感謝した。
数日が経過し、アスラルの回復が順調だと判断したある日、シレーネはアスラルに言った。
「この調子なら、二、三日で全快しそうね。患者様」
「シレーネが言うならそうなのだろう。ようやく、女王を解放できる」
幸せに満たされていたシレーネは、アスラルの一言に凍りついた。
「女王を解放って、どういう意味?」
アスラルの目的は知っていた。女王にまつわる何かをしようとしている。そのために、死者の山に住む、ヴァルメスそのものである大蛇の神に挑んだのだ。
そこに、アスラルの目的がどう関わるのか、シレーネはあえて考えるのを避けていた。
聞きたくない。だが、アスラルは回復すれば目的に向かって邁進する。知っておかなければいけない。
「シレーネには聞こえないかい? 女王が呼ぶ声が聞こえるんだ。死者の山と呼ばれる山の頂きで、女王は大蛇に囚われている。大蛇を倒せば、女王は復活できる」
「アスラル……女王は死んだのよ。もし大蛇に囚われていたとして、あんな雪山で生き続けられるはずがないわ。私には、女王が呼ぶ声なんて聞こえない。どうして拘るの?」
「女王が助けを求めている。臣下として応えるのは当然だろう。シレーネ、手伝ってくれるのではなかったのか?」
アスラルに手を取られた。青い目で見つめられる。目の色素も薄い。青い目の奥に赤い光が灯っているのは、血液の色を反映しているのだ。
「もし、まだ生きていたとして、大蛇を倒せば復活するとして……それが本当なら、女王は人間ではないことになるわ」
「そうだな」
「アスラル、わかっていて魔物を王に据えるの?」
「その魔物に、フォルト王国は頼ってきたんだろう。それを、誰かが邪魔だからと排除した。国を豊かにしてもらって、邪魔だから殺すのかい? 信義に反するのではないのかい?」
シレーネは、まだベッドで寝たままのアスラルに寄り添い、たくましい胸の筋肉に額を寄せた。
「女王を復活させて、また玉座に据えるの? もう、王国にはリバレッカという王がいるのよ」
「そうだな。国が乱れる。だが、一時の乱れは回復できる。リバレッカのことは知っている。王を勤められる男ではない。フォルト王国は徐々に弱っていき、いずれ回復できない傷を追うのだろうな」
「アスラル、あなたが王になれば? 女王になんて、任せなくてもいいのではない? あなたが立つなら、カーネルはあなたに着くわ。私も全力で支える。魔物からも支配されず、フォルト王国はあなたの手で隆盛を迎える」
アスラルの手が、シレーネの肩を抱いた。アスラルの体温を感じ、シレーネは暑くもないのに汗ばんだ。
「シレーネ、ありがとう。信じてくれるのは嬉しい。だが……俺にはそんな力はないよ。戦うことしかできない。それは、誰よりも俺がよくわかっている。その俺が、戦い、負けた。女王は助けたい。それ以上に、大蛇の魔物とはいえ、負けたままではいられないんだ」
シレーネは顔をあげ、アスラルを見た。怪我をすれば、弱気にもなるだろう。思い通りにならない苛立ちもあるかもしれない。
シレーネが看護している間、アスラルは一度も不満を漏らさなかった。
むしろ、ずっと付き従っているシレーネを気遣ってくれた。
「アスラル」
「どうした?」
「あなたが好きなのは誰?」
「シレーネだ」
「あなたが結婚したいのは誰?」
「シレーネだ」
「あなたが私の次に好きな女は誰?」
「そんなのはいない。シレーネだけでいい」
「もし、陛下が誘惑したらどうする?」
「そんなことがあるはずがないだろう」
「誘惑に勝てないかもしれないから、言えないの?」
「考えたこともないが……シレーネがいるのだ。もしそんなことがあっても、誘惑されていることに気づかないんじゃないかな」
アスラルは本音で言っている。本音でしか話すことができない男だと、シレーネは知っている。
シレーネは頷いた。
「陛下が復活して、私を殺そうとしたら、守ってくれる?」
「シレーネの敵は俺の敵だ。たとえそれが女王だとしても、変わることはない」
「……わかったわ。大蛇を倒しましょう。アスラル、あなたを信じるわ」
「ありがとう」
シレーネはただアスラルを信じ、自分が滅ぼした災厄の神を復活させることに、協力すると約束した。
※
数日後、負っていた傷の深さからは信じ難い速度で、アスラルは回復した。
時々サリーと名乗る少女が食事を運んできたが、食料の大部分はアスラルの従者コランソンが森で仕留めてきた獲物だった。
サリーは近くの村の村長の娘で、村長は大貴族の嫡男であるアスラルに、あえて娘を近づけようとしていたようだ。
その目論見はシレーネが完膚なきまでに叩き壊していたことを知らず、アスラルは久しぶりに鎧を身につけた。
「コランソンという従者はわかったけど、あの大男は何? 大熊騎士団ではないわよね」
いよいよ出立するという時になり、シレーネは尋ねた。
「今まで気にしなかったのに、急に気になるのか?」
全身鎧を身に付けるのは時間がかかる。アスラルが、手足の装備を確認しながら言った。
「ええ。ここにいる間は、不審な動きを見せれば殺せばいいだけだもの。でも、これから死者の山に挑むなら、戦力は確認しておかなくちゃね。大熊騎士団は、アスラルを捉えようとしているわよ」
「奴らの役目上、仕方のないことだろう。どれぐらい殺した?」
「大熊騎士団の団員をということなら、殺してはいないわ」
「それはいい。よく我慢したな」
「人のこと、殺人鬼みたいに言わないでよ」
シレーネが言うと、アスラルは笑いながらヘルムを被った。
全身が覆われるまで、陽の光は浴びられない。そのために、装備にかかる時間はよけいに長くなる。
シレーネはすでに自分の装備を終えて、アスラルを手伝っていた。
「コランソンも、一度は別れたんだ。死者の山は過酷すぎる。ただの従者が徒歩でついて来られる場所ではない。だが、俺はコランソンに助けられた。雪山の中で、コランソンがどういう経緯かわからないが、二人の大男を従えて現れたんだ。バリグルとボラグル、二人組の賞金稼ぎだ」
「賞金稼ぎ? アスラルあなた、自分が賞金首だって理解しているわよね?」
「ああ。理解しているよ。二人はコランソンに打ちのめされ、服従したらしい。二人に不審なところがあれば、始末はシレーネに任せる。俺としては、コランソンが大男二人を従えるほど成長していたことが嬉しいんだ」
アスラルのヘルムをきちんと固定し、シレーネはアスラルに触れた。
互いに触れていることはわかる。だが、互いに鋼鉄の鎧を全身にまとっている。
感触はない。
それでも、シレーネには十分だった。
アスラルがいない時に比べて、有り余るほど、幸せだった。
「アスラルが無茶ばかりするから、一緒にいると自然に鍛えられるのかもしれないわね。ドーレルも、並の騎士では歯が立たないでしょうね。私と会ってから、誰かに勝っている姿は見ていないけど」
「それは、相手が悪かったんだろう」
「もちろん」
最初にドーレルを打ち負かしたのは、シレーネである。シレーネは声を立てて笑った。顔も覆っているので、声を出さないと笑っているとはわからないのだ。
「では、行こう。ドーレル、コランソン、バリグル、ボラグル、全員を連れて行く。それでいいかい?」
「私は?」
「ああ……言う必要がないかと思っていた。頼りにしている」
「……もう一度」
「なに?」
「もう一度言って。最後のところだけ」
「シレーネ、頼りにしている」
「ええ。任せてよ」
シレーネは、全身に込み上げてくる歓喜に震えながら、アスラルの胸に肩を寄せた。
納屋の扉が開く。
「アスラル様、シレーネ様、囲まれました。大熊騎士団です」
ドーレルだった。ドーレルも全身を覆う鎧に身を包んでいるが、二人とは違って、全てが金属で覆われて一部の隙もないというわけではない。
部分的に獣の皮を使って関節などは保護している。
「そうか」
「タイミングが悪かったですね。もう少し、早く出ていれば」
ドーレルの言葉に、シレーネとアスラルはヘルムを付き合わせた。
ヘルムがなければ、額が触れあったかもしれない。
「逆よ」
「ああ。最悪のタイミングで襲撃をかけたな。大熊騎士団にとって」
「殺していいの?」
「最低限にな」
「了解」
あっけに取られるドーレルの肩を叩き、シレーネはアスラルと共に堂々と正面から納屋を出た。




