11 王都を抜けて
伯爵令嬢シレーネは、誰にも見咎められることなく王宮を抜け出した。
それほど難しいことではなかった。
カーネルが人払いをしていたのかもしれないが、肉体も精神も限界に達していたシレーネの五感は研ぎ澄まされていた。かすかな足音、話し声を聞き漏らさず、人がいない場所を的確に探し当てた。
全身にシーツを巻きつけた病的に細い体を持ちながら、シレーネの運動能力も落ちていなかったのである。
王宮を抜け出て、自宅である伯爵家に向かってよいものかどうか、シレーネは迷った。
シレーネが戻れば、両親は喜ぶかもしれない。
だが、逆に迷惑もかけてしまうだろう。
ひょっとして、親不孝の娘として追い出されるかもしれない。
それならば、人知れず王都を抜け出した方がいいのではないだろうか。
シレーネが迷っていると、視界の隅で小さな老婆が手招いているのに気がついた。
小柄で、頭髪は白く、簡素だが質の良い服を纏っている。
シレーネは地面を蹴った。
小柄な人物の目の前で立ち止まる。
「ミモレ、私……」
「お嬢様がご無事でようございました。さあ、こちらに。準備はできてございます」
シレーネに何も言わせず、乳母であったミモレは手をとって背を向けた。
なんの準備ができているのだろうか。
仮にミモレが近衛騎士団にシレーネを売り渡そうとも、シレーネは恨まなかっただろう。
シレーネのために、マリカが死んだ。
もし、ミモレがシレーネを売って、対価を手にして満足するのだとしたら、シレーネにとってもはむしろ救われるかもしれない。
だが、ミモレはシレーネを裏切らなかった。
ミモレに手を引かれて街角を曲がると、目の前で巨大な馬が、馬車に繋がれていた。
「これは……カムオウ?」
シレーネには、見慣れていた馬だった。
伯爵家に献上された、体格が大きく激しい気性で知られる品種の馬で、シレーネが騎士団に入ったことを知った出入りの商人が献上したものだ。
馬の中で最も巨大に成長するため、大柄な騎士に重用されるが、騎士としては小柄なシレーネが乗ることで、侮られない効果もある。
「はい。このカムオウ……決してシレーネお嬢様以外には懐きませんでしたのに、今日だけはなぜか自分から厩を出て、私に馬車を繋げと……」
「言ったの?」
「いえ。馬車を繋いでも、抵抗しなかったのです。いつもならあり得ないのですが」
おそらく、カーネルの差し金だとシレーネは感じた。
カーネルが、ミモレにシレーネが今日脱出すると告げたのだろう。
だが、カムオウがシレーネ以外の指示に従わないのは事実だ。
そのカムオウが、小さくはあるが馬車に繋がれている。
本来は二頭以上で引く馬車だが、カムオウが大きくて二頭繋ぐ場所がないため、カムオウ一頭で馬車を引く形になっている。
「ミモレ、私の鎧は?」
「馬車の中に積んであります。それと……旅の支度もすでに整っております」
「そう。ありがとう。助かったわ」
シレーネは御者台に座ろうとした。馬車の中は荷物でいっぱいだろう。だから、カムオウを操縦して街を出ようとした。
だが、体に巻きつけたシーツを引っ張られた。
「お嬢様にそんなことはさせられません。お嬢様がお乗りなのです。カムオウも、この年寄りの操縦に従ってくれます」
「ミモレ、あなたは伯爵家に戻って。私は、これから国を追われるのよ」
「存じております。ですから、せめて出立をお見送りしませんと、旦那様に合わせる顔がございません」
ミモレは引かなかった。最後まで付いてくるとは言わないだろう。
アスラルを追うのであれば、ミモレは足手まといだ。
シレーネは頷き、ミモレを抱えて御者台に座った。
「お嬢様は馬車の中にお入りください。ここはこの年寄りで十分でございます。お体も回復されていないのでしょう」
「ミモレ、あなたと話したいの。駄目かしら?」
シレーネが言うと、ミモレは一瞬惚けたような表情をした後、笑みをこぼした。
「それは、断れませんね。さあ、この年寄りで話せることでしたら、いかようにもお話しいたしますとも。カムオウ、わかっているね。出発しておくれ」
ミモレが手綱を持って声をかけると、巨大な馬は一声嘶き、真っ黒い馬体を揺らし始めた。
※
時間帯が深夜であることもあったのだろう。
街には人影もなく、シレーネはミモレと並んで馬車の御者台に揺られた。
シレーネは巻きつけたシーツの上から、ミモレが用意していたローブを纏った。
顔を見られれば、遠くからでもシレーネだとわかる。
見られてはいけない。
シレーネは死んだことになっているのだ。マリカの死体が、今頃は騎士団に発見されているだろう。
カーネルが裏切らなければ、マリカの死体がシレーネとして葬られるはずだ。
顔を布で覆い、不自然に見られないように、手も足も肌の露出を避けて布で隠した。
「ミモレ、マリカのことだけど……」
シレーネが話したいと言った段階で、察していたのだろう。ミモレは頷いた。
「マリカが自分で決めたことです。お嬢様を生かせるのならば、どうなっても構わないと」
「マリカのお父さんとお母さんは誰なの?」
「私の息子と嫁です」
ミモレの声が震えたことに、シレーネは気づいた。
「マリカの死体を見て、カーネルが言ったわ。マリカは、私の妹か姉なの?」
「そのようなことはございません。あれは、私の孫ですから」
「カーネルはよく嘘をつくけど……間違ったことは言わないわ。カーネルがそう感じたなら、私と同じ血が流れていると確信したのよ」
「お嬢様……マリカは死んだのです。マリカは幸せでした。お嬢様にお仕えできたのですから。それでは、いけませんか」
「そう。教えてはくれないのね」
「お嬢様にとっては、重要なことではないはずでしょう」
「うん。そうかもしれない」
マリカの出自に、シレーネの興味はない。シレーネは、自分が周りの人間たちにいかに配慮していなかったかを、思い知ることになった。
言葉を選んでいるうちに、王都を出るための正門が近づいてきたのを見て取った。
兵士たちがいる。
深夜にしてはその数が多い。
「お嬢様、馬車の中にお入りください。やり過ごします」
「突破した方がよくない?」
「年寄りに無茶をさせないでくださいまし」
「カムオウなら……いいわ。自信があるなら、任せる」
シレーネは言いながら、御者台で立ち上がった。
揺れたためミモレが短く悲鳴を上げたが、シレーネは気にせず背後の馬車に移動した。
走り続ける馬車の上で移動することを、シレーネは簡単にやってのけたが、落ちれば大怪我をする。
ミモレが呆れる声が聞こえたような気がしたが、馬車内に入り、シレーネは自分の愛用している武具一式があることを確認し、用意したミモレに感謝した。
馬車の中で落ち着いたところで、カムオウの足が止まった。
何事かと尋ねるまでもなく、外の会話が聞こえてきた。
『こんな夜更けにどこに行く?』
『街を出るのに許可がいるなんて、聞いたことがありませんよ』
『事情があって、厳戒態勢なのだ』
『そっちの事情を教えないで、私にだけ尋ねるんですか?』
『王命なのだ。それ以上、言う必要はあるまい。この馬……アルテーゼ伯爵家の馬じゃないか?』
『そうですよ。でも、盗んだんじゃありません。ちゃんと許可をもらっていますよ』
『誰が乗っている?』
『開けない方がいいですよ』
シレーネは、じっと会話を聞いていた。
服の中に短剣を隠し、馬車の扉が開けられるのを待った。
扉が開く。シレーネは動かなかった。
知らない兵士だ。
目が合った。見つかった。そう感じた。
それでもシレーネは動かず、剣を握りしめた。ミモレが任せろと言ったのだ。ぎりぎりまで任せるつもりだった。
乱暴に扉が閉められる。
『皮膚病か?』
『触りましたか? なら、あなたにも感染するかも』
冬の国では発生は少ないが、伝染し、死に至る皮膚病が恐れられていた。
触れると伝染すると考えられていたことと、感染すると皮膚が爛れる症状から、患者は皮膚の露出を極端に避け、体に布を巻きつけることが多い。
まるで、現在のシレーネのように。
『まさか。触るものか! では、目的地は死者の谷か?』
『ええ。人目につくのを伯爵様が懸念されたのです』
『当然だ。早く行け。そいつを捨てて来るまで、戻るなよ』
『はいはい』
馬車が動き出す。
街から離れ、シレーネは御者台に戻り、ミモレからの謝罪を受け入れた。




