10 伯爵令嬢、消える
半日が経過した。
シレーネは、じっと動かずにマリカの死体を見つめていた。
背中を預けた壁のすぐそばに、鉄格子と扉がある。
扉の鍵が回り、扉が開けられる。
鉄格子の鍵が周り、押し開けられた。
金属の鎧は、赤く染められていた。
近衛騎士、バラの騎士団だとシレーネは見て取った。
二人の騎士が部屋に入る。
「どうだ? 死んでいるか?」
「待て。確認する」
シレーネは、開け放たれた鉄格子と扉を見た。
通路が見える。誰もいない。
このまま、逃げてしまうこともできるだろう。
シレーネは、通路に足を踏み出そうとした。
「どうだ?」
「ああ。綺麗な死体だ。噂の令嬢だ。死体でも、少しは楽しませてもらおう」
「いいのか? ばれると問題だぞ」
「毒で死んだのは間違いない。陛下が毒殺を命じられたんだ。検視なんかするものか」
「それもそうだな」
通路に向けて伸ばしたシレーネの足が止まった。
振り向いた。
赤い鎧の男たちが、ベッドのシーツを剥ぎ取っていた。
シレーネは、黙って扉と鉄格子を閉ざした。
その物音に、騎士たちが振り向いた。
「貴様! 死んだのではないのか?」
「この死体は……」
騎士は最後まで言わず、喉を切り裂かれて転倒した。
自ら鎧を脱ごうとしていたもう一人の喉に、シレーネはナイフを突き立てた。
二人の騎士が、簡単に絶命した。
騎士の死体を床に投げ、引きずって扉からは見えない位置に転がした。
マリカの死体を辱められたくない。
その思いで体が動いた。
近衛騎士も貴族だ。二人も殺してしまった。体が動き、ためらいなく命を奪っていた。
もはや、言い訳は効かない。
シレーネは、騎士の死体から装備を剥ぎ、剣と盾を手に入れた。それ以外の部位は、シレーネの細い体には合わなかった。
シレーネは、再び壁に背を預けた。
もはや、壁にも鉄格子にも、鍵はかかっていない。
だが、シレーネは逃げなかった。
アスラルが助けに来ることはないだろう。
シレーネは、国に対する裏切り者として処刑されたことになるのだろう。
全てに裏切られたように感じていた。
シレーネはただ壁に背を預けてうずくまり、アスラルの名を呟いて過ごしていた。
時折、眠った。
意識がなくなることがあった。
もともと、一人分にしても少ない食事をマリカと分け合ったのだ。
マリカが死んでから、何も口にしていない。
意識を保つのが難しくなっていった。
だが、時折正気に戻ると、確実に部屋の死体が増えていた。
最初の二人は覚えている。
その後も、何人かのグループが部屋に押し入ってきたと感じた。
そのグループがどうなったのか、シレーネにはわからなかった。
だが、シレーネがグループだと認識した者たちの死体が部屋に転がっている。
ならば、シレーネが殺したのだろう。
マリカが死んでどれだけが経過したのか、すでにわからなくなっていた。
増え続ける死体に、シレーネは自らの正気を疑いだした。
山となった騎士たちの死体を眺めながら、シレーネは再びうずくまったまま、眠りに落ちた。
目が覚めた。
シレーネは、床の上に押さえつけられていた。
鎧は着ていない。
文官の平服に、シレーネの握ったナイフが突き立っていた。
ナイフを握った手ごと、その男は強い力で握りつぶそうとしていた。
「カーネルなの?」
「シレーネ、正気に戻ったか?」
「あなた、何をしているの?」
シレーネが問いただした相手は、床の上にシレーネを押さえつけ、腹部に深々とナイフを突き刺されている。
生暖かい血液が、シレーネの白い手を汚した。
「それはこっちの台詞だ。どうして逃げない? 乳母が手引きしたはずだ」
シレーネはナイフから手を離した。
自らの意思で騎士を殺したのは、最初の二人だけだ。その二人すら、シレーネは殺したいと思ったというより、体が勝手に動いたと感じていた。
「逃げて……どうするの? アスラルは……私より女王をとるのでしょう?」
「だからといって、むざむざ死ぬつもりではないのだろう。これだけ、近衛騎士を殺したのだ」
カーネルが床に転がった。腹部を抑えている。シレーネは立ち上がり、山となった騎士の死体を見つめた。
「私、どうなっていたの? この人たちを殺した記憶がないのよ」
「空腹のために正気を失ったか? そんなことがあるとは驚きだな。だが……誰に申し開きをすることもない。シレーネ、この国にもはやお前の居場所はない。国を出ろ。いや、他国に行く必要はない。王都と騎士団の手の届かない場所に行け」
シレーネは、カーネルの腹の傷にシーツを巻きつけた。並の体はしていない。この男なら、自然に治癒するだろう。
「どうして私を逃がそうとするの? もう、私には利用価値などないでしょう?」
「助けようと思ってきたのではない。騎士団の団長たちに相談されたのだ。何人送り込んでも誰も戻ってこない。もはや、私が調査するしかないと、団長たちに頼まれたのだ。まさか、本当にシレーネが全員を殺しているとは思わなかった」
カーネルは首を振りながら、部屋の中を歩いた。シレーネに刺された傷口は抑えているが、それでも歩き回れる傷ではないはずだ。
その足が止まった。シレーネが最近使わなくなったベッドの傍だった。
現在では、マリカの死体が横たわっている。
カーネルは、マリカの顔に載せておいた銀色の仮面を取った。顔の左側を隠すもので、部屋に入った騎士たちがシレーネの死体だと勘違いするものと期待して、マリカに被せたのだ。
「……似ているな。自分の妹を犠牲にしたのか?」
「なんのこと? マリカは幼馴染よ。自分から毒味役を申し出て……止めたのだけど、どうにもできなかったわ」
「毒殺されようとしている令嬢の毒味役では、死ねと言っているようなものだ」
「わかっているわよ」
「この死体を使う」
カーネルは懐からナイフを取り出し、マリカの左側の顔を削ぎ落とした。仮面はシレーネに投げる。
シレーネは空中で銀色の仮面を掴み取った。
「アスラルに会うのに、仮面もなしというわけにもいかないのだろう? アスラルが気にするとも思わないが」
「アスラルに会えというの? でも、アスラルは女王を……」
「ただの忠誠心だ。それに、私が女王を許せなかったのは、姿が私の妻に瓜二つだったからだ。現在では、大蛇の姿に戻っているだろう。もはや、女王が誰を好こうが構わない。シレーネ、ただの忠誠心が恋心に変わらないうちに、奪ってしまったほうがいいのではないか? 二人とも、まだ異性を知らないのだろう?」
「アスラルはそうでしょうね」
「シレーネは?」
「私は、確実にそうよ」
「ならば、悩むことはあるまい。アルテール伯爵家には報告しておくが、この娘はお前と血を分けている。その死体をシレーネだと言って、否定できる者はいるまい」
カーネルは、マリカの死体を指さしながら言った。
「でも……本当なの? 私は聞いたことがないわ。乳母のミモレの孫で、私と同い年で、平民の幼馴染よ」
「母親は?」
「知らないわ」
「父親は」
「わからない。血縁はミモレだけだったはずよ」
「全ての出自を隠すことが、伯爵家に仕える条件だったのだろう。わざと肉をつけて、シレーネに似ないようにしていたとしか思えない。この部屋では、満足に食べられなかっただろう。余計な肉を落とせば、シレーネと双子でもおかしくはない」
「……そう。マリカは知っていたのかしら」
「私がわかるはずもあるまい」
カーネルは言いながら、まだ使用していないシーツをクローゼットから取り出してシレーネに投げた。
「シレーネは死んだ。そう報告する。お前は、アスラルを探しに行け。ここに死体があるのだ。他の助けはいるまい」
シレーネは、自分の体にシーツを巻きつけ、頭部まで隠した。顔の左側に仮面をつける。
ずっとマリカの死体に乗っていた仮面だ。
ひんやりと、気持ちよかった。
「カーネル、ひとつだけ教えて。あなたには、なんの得もないはずよ。どうして、私を生かそうとするの?」
「リバレッカは、王の器ではない。猜疑心が強く、いつも簒奪に怯えている。今はまだ、私は必要な存在だと思われているが、目障りになるのは時間の問題だろう。その時に、すげ替える頭がひとつもないのでは困る。私は、安心して隠れられる場所を用意しておく習慣がある」
「……そのために、ヴァルメスを再び呼び戻すの?」
「その可能性もあるだろう。だが……それは、シレーネ次第かもしれないぞ」
シレーネは、カーネルの言葉の意味が理解できなかった。
最後に、死体となったマリカの削がれた頬に口づけし、シーツを巻きつけたまま、誰もいない王宮の廊下に飛び出した。




