景品回収
『優勝は……エントリーナンバー241。……いや、この――『缶詰』だ』
司会者の震える声がスピーカーから漏れた瞬間、会場の熱が急速に奪われた。
巨大モニターの中、重鎮たちがなりふり構わず、銀のスプーンでブリキの器を削り、泥のように涙を流しながら「それ」を啜っていた。
数万人の観客は、歓声を上げることも、抗議の声を漏らすことも忘れている。
置き去りにされて、ただ困惑した。
やがて、数万の視線が、針のような殺気となって一斉に上空へと突き刺さる。
「……茶番だな」
男は愉快そうに鼻を鳴らすと、上空を離脱した。
審査員席には、空になった缶詰が転がっている。
数万人の観衆が見守る中、キリアンは魂を抜かれたような顔で、最後の一缶を手に取った。
ふと、額にシールを張り付けた審査員の席に、何かが残っていることに気づいた。
一枚の紙切れ。
それは、どこにでもある「マルシェの領収書」の裏紙だった。
「……なんだ、これは」
キリアンの呟きに、他の審査員たちが吸い寄せられるように集まった。
そこには、ペン先が紙を削るような荒々しい筆致で、短くこう記されていた。
『料理名:241』
・特売品の根菜(適量、三つで銅貨二枚)
・やせ細った猪肉(一切れで銅貨一枚)
・安物のハーブ(適量)
・毒草(適量、雷鳴草)
沈黙が、先ほどよりも深く、重く、会場を支配した。
審査員たちは、自分たちの足元に転がっている「豪華食材」を見た。
高額で取引されるドラゴンの心臓。
王族以外には許されない禁じられた魔鳥の肉。
それらを前にして、彼らは今、領収書の裏紙を手に震えている。
「……ありふれた、食材に、毒草だと?」
一人が、掠れた声で言った。
彼らが「自分こそがスープになった」と錯覚し、人生のすべてを否定されるほどの衝撃を受けた「神の雫」。
その正体は、市場の片隅で投げ売りされていた、ゴミ同然の端材だったのだ。
「私たちは……特売のスジ肉に、平伏していたというのか……」
キリアンは、膝から崩れ落ちた。
その瞳には、狂気の飢えが宿る。
キリアン――狂戦士は嗅覚だけを頼りに、どこかへと歩き始めた。
材料の希少性こそが至高だと信じて疑わなかった彼らの誇りは、この一枚の紙屑によって二度殺された。
『……っ。第23回、料理コンテスト……「雲を食む、天使が残した、春の質感」、その栄えある優勝は、……料理名「241」……です』
司会者の震える声が、魔法の拡声器を通じて広場に虚しく響き渡る。
華やかなポエムに続く、あまりに無機質な数字。
『……優勝者はエントリーナンバー241、……名前は、未記入です。……殿堂入りして、その名は、後世まで、伝わります……ッ』
それは、この歴史ある祭典の歴史に刻まれた、汚点。
会場を包んだのは、万雷の拍手ではない。
全員が「一体、何が起きたんだ?」と顔を見合わせる、気味の悪い沈黙だった。
◇ ◇ ◇
翌日。
男は、モニターに映し出される光景を見て、忌々しく椅子に背を預けた。
王都は「謎の241番」の話題で持ち切りだった。
領収書の裏に書かれた衝撃的なレシピ、そして空から降ってきた「ゴミ袋の襲撃」。
正体不明の料理人を探ろうと、場末の運河沿いには野次馬と記者が溢れ返っている。
男は徹底したステルスを駆使して「家」を風景に溶け込ませていたが、特定は時間の問題だった。
静寂を愛する男にとって、この狂騒は水圧よりも耐え難い状況だった。
――コン、コン、コン!
静寂の湖畔。
男が応募用紙に記載した偽りの住所。
ついに、扉が叩かれた。
「241番! 頼む、出てきてくれ! 審査員団だ! 君を公式に優勝者として認定し、その栄誉を讃えたいんだ!」
男は鋼鉄の扉を開かない。
『景品を渡せ』
男はマイク越しに伝えた。
モニターには、昨日涙を流していた審査員と、山のような契約書を抱えた事務局員たちが、血眼になって立っていた。
「待ってくれ! 君の店を作りたいんだ! 国賓として迎えたい。協業でも、出資でも、君の望む条件をすべて飲む!」
審査員は止まらない。
「君のスープは、この国の美食の歴史を、一晩で数百年分も進めてしまったのだ! 頼む、出てきてくれ!」
「断る」
審査員は、自分の舌を切り落としたい衝動に駆られていた。
これを知ってしまった以上、明日から口にする全ての食事が、味のない砂に変わってしまう。
「……君が置いていったのは、至高のレシピではない。この国の美食を絶滅させる『呪い』だ」
審査員が必死に叫んだ。
「景品を寄こせ」
――拒絶。
事務局員たちは絶句した。
景品に特別な意味は込めていなかった。
ただ、コンテストを成立させるために、話題性のある景品を掲げたに過ぎなかった。
まさか、歴史を覆すような男が、景品のためだけに現れるとは、到底想像もできなかった。
「せめて……せめて、作り方だけは教えてくれ! あの味を、どうやって、どこで生み出したんだ! どんな禁忌の魔法を使えば、あれほどの――錯覚さえ見せられる!」
男は不機嫌を極めた声で吐き捨てた。
「……深海だ。2900メートルで煮込んだ。早く渡せ」
その場にいた全員が、再び絶句した。
深海2900メートル。
そこは魔物が蠢き、人類が未だかつて最奥まで踏み込んだことのない「未踏の絶望」。
光さえもが圧死するその場所に、この男は、ただスープを煮込んでいたというのか。
彼らは理解した。
この狂人は、料理を作っていたのではない。
人知を超えた地獄で、命を削って、狂気を封じて持ち帰って来ただけなのだ。
震える手で、ついに郵便受けに押し込まれたのは、高級な木箱。
男は郵便受けから木箱を奪うように掴むと、背後の喧騒を無視して急ぎ足で作業台に向かった。
木箱を開けると、モノクルを嵌め、即座に鑑定を開始した。
『空詠みの絹糸』。
それは最初の風。
微風のような淡い水色から、荒野を裂く疾風の鋭い翠、そして嵐の奔流を称える深い藍色まで。
相反するはずの無数の気流が、一本一本の極細の繊維となり、奇跡的な調和を保って艶やかな絹の束を成していた。
絹糸が、男の指先で生き物のように波打つ。
それは大気の流れそのものを操作する力を持っている。
例えば、この絹糸で刺繡を施した外套を纏えば、空を飛ぶことなど簡単だろう。
『世界のレプリカ』。
循環の一柱、淀まぬ風として、間違いなく機能する。
男は手際よくその絹糸を小さくすると、コレクション棚の中央、「円卓の台座」へと封じ込めた。
その瞬間。
これまでずっと男の神経を逆撫でし続けていたカタカタと震える床の振動が、ピタリと止まった。
予備動力に依存していた飛行性能を『空詠み』が全て代替した。
室内を満たしていた臭いや、動力炉の不快な排熱さえもが、清涼な風によって一瞬で洗い流される。
モニターには、立ち去ろうとしない審査員団が扉を叩き続けていた。
男は不敵に口角を上げると、ステルス機能を最大出力で固定した。
湖畔に鎮座していたはずのワンルームが、一瞬で風景から消え失せた。
予備動力の不快な騒音も、燃料の残量を気にするストレスも、もう必要なかった。
絹糸から溢れ出す無尽蔵の風が、機体を優しく、かつ力強く空へと押し上げる。
男は、重力を嘲笑うような速度で、大空へと羽ばたいた。
「……自由だ」
突き抜けていく。
人間を、鳥を、雲を超えていく。
高度3,000メートル。
今は淀まぬ風を纏い、軽やかさで滑空している。
男はモニターに映る、どこまでも続く青い地平線を眺めた。
ゴーレムはモニターに映る、屋根にへばり付く狂戦士を指摘する。
『おい、続きを出せ』
男は、風詠みの暴風で引き剥がすと、それは大空を舞って行った。
もはや、誰も彼を追えない。
満足そうに操舵輪を固定した。
鋼鉄のワンルームは、自由の大空へと溶けていった。
探検帽の羽根が、まるで大空を羽ばたくように、揺れていた。




